小説家。東京生まれ。本名長部舜治郎(おさべしゅんじろう)。東京大学経済学部卒業。富士重工業で15年間のサラリーマン生活を送ったあと作家になった。1952年(昭和27)5月1日に起こった血のメーデー事件に遭遇したことが、黒井千次の人生と文学に大きな意味をもった。メーデー事件とは、6年8か月間のアメリカの占領を解かれて独立した日本人が初めて「再軍備反対」「戦争反対」「軍事基地撤廃」「賃上げ獲得」を叫んでデモしたとき、行進するデモ隊に向かって警官隊が発砲し、多くの死傷者を出した事件である。『五月巡歴』(1977)はメーデー事件から20年がたった時点で、あの事件は何だったのか、そしていま、自分はどういう場所にたっているのかを追求した作品であった。『羽根と翼』(2000)では、メーデー事件から40年がたっている。定年を迎えて社会での役割は果たした男たちが、青春期に社会の不正を糾弾して立ち上がった自分たちの理想は間違っていたのか否かを改めて問う。50年代の理想が否定されるべき理由はなく、むしろ「ノン」といわれるべきは現在である。それが戦後を真摯(しんし)に生きた黒井千次の結論ではあるまいか。
『群棲(ぐんせい)』(1984。谷崎潤一郎賞受賞)は都市で群棲する家庭を描いた先駆的な作品である。郊外の駅に近い閑静な住宅地の小路に住む4家族の生態を通して、都市生活者の分解した家族像を微細に描き出している。
黒井千次は、つねに「時間」ということを考えた。そこにとどまり、凝固する時間と、うつろい、流れ去る時間がある。黒井千次には『禁域』(1977)、『春の道標』(1981)、『黄金の樹(き)』(1989)という自伝的な作品があって、自我の目覚めと恋愛の進行が、とどまる時間と、うつろう時間のはざまで漂っている。これらの作品に『五月巡歴』『羽根と翼』、さらに『群棲』を加えると、戦後の良心的な知識人の総合的な歩みが見渡せるようになっている。
[川西政明]
『『禁域』(1977・新潮社)』▽『『黄金の樹』(1989・新潮社)』▽『『羽根と翼』(2000・講談社)』▽『『五月巡歴』『群棲』『時間』(講談社文芸文庫)』▽『『春の道標』(新潮文庫)』▽『古屋健三著『「内向の世代」論』(1998・慶応義塾大学出版会)』
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