精選版 日本国語大辞典 「黒点」の意味・読み・例文・類語
こく‐てん【黒点】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
黒点は天体の磁場の代表的な現象であるが、太陽の黒点は太陽黒点と表記され、恒星黒点と区別されることが多い。一般に黒点とだけ表記されるときは太陽黒点をさす。この項では太陽黒点について記述する。
太陽の場合、光球が約6000℃の黒体放射の光を出すのに対して、黒点は約4000℃の黒体放射の光を出す。このため光球より暗く見え、黒色と表現される。黒体放射として見た実際の色は褐色あるいは茶色。1908年、太陽黒点に磁場が発見され、地球外での最初の磁場の発見となった。
[吉村宏和]
現在、黒点は内部の磁場を現す磁力線が、狭い管状に集まって形成される磁束管の現象の1つであると考えられている。磁束管は周囲より軽くなって表面に浮かび上がることがある。磁束管が冷却されると、磁束管の太陽表面での切り口の温度が下がって暗く見える。この暗く見える切り口が黒点と考えられている。
表面に現れた磁束管の温度が光球と変わらないと黒点が目立たない。また、温度が高く、輝いて見えていた磁束管の温度が下がって黒点となるときもある。磁束管がどのようなときに加熱され、どのような時に冷却されるかは太陽黒点の理解の基本問題の1つである。
太陽黒点は磁場の現象であるため、黒点にともなうN極とS極の領域が同時に存在する。両方の極の領域が冷却され、黒点となっている場合は2つの黒点がペアになって双極黒点群となる。ペアは東西にならび、先行黒点と後行黒点とよばれる。ペアとなった黒点の一方は小さな黒点の集まりであることが多い。ペアとなった黒点の中央部分から小さな黒点が次々と形成され、ペアの黒点に吸い込まれていく現象も見られている。ペアの一方だけが大きく成長し、片方は小さな黒点の集まり、あるいは、黒点とならずに磁束管で形成される場合があり、これは単極黒点とよばれる。
大きくなった黒点の磁場は中央部から光球の表面に沿って横に広がり、半暗部とよばれる。黒点の中央部の磁力線は光球の表面にほぼ垂直であり、暗部とよばれる。暗部と半暗部の境目、また、半暗部と光球の境目はくっきりとして境界が明確である。
黒点がよく出現する太陽の北緯40度から南緯40度までは黒点帯とよばれる。黒点の数は11年の周期で増減を繰り返し、これを黒点の11年周期という。数が少ない黒点極小期は、緯度30度付近に現れ、数が多い黒点極大期には緯度15度付近に出現するものが多い。
[吉村宏和]
霧や火災の煙、大量の黄砂などによって太陽の強い光が遮られると、肉眼でも黒点が見えることがある。そのため、望遠鏡が天体観測に使われるより昔から黒点の存在は確認されていた。現在、世界の各国で次々と過去の黒点の記述が発見されている。アジアでは日本、中国、韓国などに記録が残っている。ヨーロッパでは、紀元前300年以上前のギリシアのアリステレスの高弟であるテオプラストスが気象現象との関連で記述している。黒点を描いた最古のスケッチは、イギリス中部のウスターのジョンと呼ばれる僧侶が1140年までに書き表した歴史書が知られている。
1609年に望遠鏡による天体観測が始まり、1610年から太陽黒点も観測されるようになった。観測者としてイギリスのトーマス・ハリオットThomas Harriot(1560―1621)とそのグループ、ドイツのファブリキウスとその子のヨハネスJohannes(1587―1615)、南ドイツのシャイナー、イタリアのガリレイ、ルドビコ・チゴリLodovico Cigoli(1559―1613)、ドメニコ・クレスティDomenico Cresti(1559―1638)などが知られている。イギリスのアレキサンダー・ウィルソンAlexander Wilson(1714―1786)は、1769年に太陽周辺で黒点が太陽表面の穴のように凹んでいることを見つけ、黒点の物理的構造の解明のきっかけとなった。
直接、望遠鏡で太陽を観測することは眼に障害をもたらす危険があるので、多くはカメラ・オブスキュラ(暗い部屋の意)という暗い部屋で太陽像を投影して観測された。
[吉村宏和]
ルドビコ・チゴリと、それに続く観測者によって、黒点が太陽の表面を移動していくとき、球の上を回転していくかのように見えることを報告されると、黒点の存在は太陽も地球の公転と同じように同じ方向に自転している証拠とされた。1863年にはイギリスのリチャード・キャリントンRichard Carrington(1826―1875)が黒点を指標として自転の速度を計測し、太陽の自転周期あるいは角自転速度が緯度によって異なることから、赤道部分が速く自転していることを発見した(赤道加速)。
[吉村宏和]
1843年のドイツのシュワーベは、水星より太陽に近いところにあると予想されていた内惑星を見つけるため、黒点を記録していたが、その結果、黒点の数が増えたり減ったりすることを発見した。当時、設立されたばかりのチューリヒ天文台のウォルフはこの現象に興味をもち、過去の黒点の記録をさかのぼって、黒点の数は平均11年の周期で変化していることを発見した。同時に、黒点の記録がまったくない時期(マウンダー極小期)があることにも気づいている。
1852年、イギリスのエドワード・サビーンEdward Sabine(1788―1883)は、地球磁気を測定する地上の磁針の触れの大きさの時間変化は、ウォルフが決定した黒点の数の時間変化と酷似することを発表した。ウォルフ、ジャン・アルフレード・ガウチエ、ヨハン・フォン・ラモントJohann von Lamont(1805―1879)も同様なことを発表すると、黒点は太陽表面の黒いしみのような存在にすぎないわけではなく、太陽の物理現象であり、しかも地球磁場の現象と結びついているという認識が広がっていった。
地球磁気との関係は、突然見つかったわけではない。その前年の1851年には、ラモントは磁気嵐には太陽黒点11年周期と似た10年周期が存在することを発見している。また、ラモントの発見の前に、1635年のイギリスのヘンリー・ジェリブランドの地球の磁場の変動の発見、1733年のジャン・ジャック・オルトゥール・ド・ミランの太陽に黒点があるときに、オーロラが出現することの発見、1747年のアンデルス・セルシウスとオロフ・ヒオルテールによるオーロラと地球磁場の変動には関係があることの発見がある。したがってオーロラを通じて黒点と地球磁場変動には相関があるべきという予測がすでにあったことになる。
[吉村宏和]
太陽は磁場をもっているのではないかという予測は長い間あったが、実証は1908年に発表されたウィルソン山天文台のヘールによるものである。磁場のなかの原子が出す光のゼーマン効果を黒点からの光に見たのである。
ヘールはセス・ニコルソンとともに長期間の観測を行い、1925年に双極黒点群の先行黒点と後行黒点の極性は1回の太陽周期のあいだ、北半球ではほぼ同じ関係だが、南半球では逆であること、しかし、次の太陽周期が始まるとこの関係は逆転することを発表した。
この現象は、黒点が太陽全体の磁場の構造と時間変化に支配されているということを示している。また、太陽黒点の平均周期は、極性の反転を考慮すると11年ではなく22年であることを示している。
[吉村宏和]
太陽黒点と地球の関係のさらに深いつながりは、黒点と太陽からの光のエネルギー放射の総量である太陽放射量の変化の関係に見られる。太陽放射量は一定でなく、太陽黒点11年周期と同様に変動すべきであることが1978年の太陽磁場の創成の理論である吉村の非線形ダイナモ理論によって理論的に予測されていた。1978年から系統的に宇宙空間の複数の衛星からの観測データが蓄積されると、太陽放射量も太陽黒点11年周期と同様な変動をしていることが確定的に示されている。太陽黒点11年周期と太陽放射周期は必ずしも同じ時間変化をするとは限らないが、太陽放射変動は地球気候変動の重要な要素であるため、現在、詳細な研究が進められている。
[吉村宏和]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…イエズス会の学校で基礎教育を受け,同会に入会して司祭となった。インゴルシュタットで数学,天文学を研究,G.ガリレイとほとんど同じころ,望遠鏡を作製して,1611年3月に太陽の黒点を見つけた。イエズス会では懐疑的だったので,彼の友人であるウェスラーM.Weslerが匿名で,二度にわたってシャイナーの太陽黒点の確認,それの回転周期などを含んだ論考を発表した。…
※「黒点」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新