日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
アルノルフォ・ディ・カンビオ
あるのるふぉでぃかんびお
Arnolfo di Cambio
(1245ころ―1301/1302)
イタリアの建築家、彫刻家。美術家としてのデビューは、1265年にシエナ大聖堂の有名な説教壇を制作したニコラ・ピサーノの助手としてであった。さらに1266~1267年にボローニャのサン・ドメニコ聖堂で聖ドミニクスの墓碑の制作に師匠と協力、その後ニコラの工房から独立してローマに出たという。1276年には枢機卿(すうききょう)アンバルディの墓碑(ローマ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)と教皇ハドリアヌス5世の墓碑(ビテルボ、サン・フランチェスコ聖堂)を相次いで制作している。1281年にはペルージアに招かれて、いわゆる『渇者の噴水盤』(フォンターナ・デリ・アッセターティ)の制作にあたったが、その後取り壊され、現在ではその断片が同市の国立ウンブリア美術館に所蔵されているのみである。1282年には枢機卿デ・ブライエの墓碑をオルビエトのサン・ドメニコ聖堂に制作。その後ローマのサンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ(1285)とサンタ・チェチリア(1293)の両聖堂に天蓋(てんがい)付き祭壇を完成した。1296年にフィレンツェに帰り、パラッツォ・ベッキオの起工に関与するとともに、大聖堂造営の初期段階においてその監督にあたった。
[濱谷勝也]