イスラムはアラブの預言者ムハンマドが610年に創唱した一神教で,世界宗教として西アジア,アフリカ,インド亜大陸,東南アジアを中心に現在ほぼ6億の信者をもつ。正しくはアラビア語でイスラームといい,〈唯一の神アッラーに絶対的に服従すること〉を意味する。信者をムスリムというが,それは〈絶対的に服従する者〉の意である。イスラムそれ自体が宗教の名であるから,イスラム教と呼ぶ必要はない。かつて欧米ではモハメッド教,マホメット教Mohammedanism,中国で清真教,回回教,回教,日本でも回教と呼ばれたことがあるが,正しい呼称ではないために現在ではほとんど用いられなくなっている。
610年にメッカでムハンマド(日本ではしばしばマホメットと呼ばれる)がイスラムを創唱したとき,その教えを信じてムスリムとなったのは,妻ハディージャ,いとこのアリー,友人アブー・バクルなどわずか数人にすぎなかった。622年のメディナへのヒジュラのとき,同行したムスリムは70人余りであった。当時メディナにも70人余りのムスリムがおり,イスラムはわずか150人ほどの信者をもってその紀元(ヒジュラ暦)元年を迎えたのである。
ムハンマドの没後,新しい指導者としてアブー・バクルをカリフに選び定めたムスリムは,その指導のもとに大規模な征服を開始した。彼らは7世紀の半ばまでにササン朝の全領土を併せ,シリアとエジプトをビザンティン帝国から奪った。ウマイヤ朝の盛期の8世紀初めには,中央アジア,西北インド,北アフリカ,イベリア半島を征服し,その版図は西北インドを除き,そのままアッバース朝によって継承された。
征服者であるアラブは,最初,征服地の住民のイスラムへの改宗に熱意を示さなかった。しかし8世紀初めごろから,征服地住民のイスラムへの改宗が徐々に進み,それはアッバース朝の成立によって一段と促進された。9世紀になるとアッバース朝の支配は緩み,領内各地に事実上の独立王朝が自立して帝国の統一は失われていった。しかしこのころから,東方ではトルコ人,西方ではベルベルの改宗が進み,彼らの新たな征服によってアナトリア,北インド,西スーダンがイスラムの支配に帰し,帝国の分裂にもかかわらず,イスラム世界(ダール・アルイスラーム)は,かえって拡大を続けた。このような征服によるイスラム世界の拡大は,オスマン帝国によるバルカンの征服と,デリー・スルタン朝,ムガル帝国によるインド亜大陸の征服によって頂点に達した。
イスラム世界を拡大させたものは,単に征服だけではなかった。ムスリムの商人たちはイスラム世界を越え,遠い異境に自由に進出した。彼らのコロニーは周囲の異教徒の改宗の拠点となり,それが進むと現地の政権のイスラム化,または自らのイスラム政権の樹立にいたる。ただ単に商人だけではない。教会の組織をもたないイスラムであるが,12世紀には神秘主義教団(タリーカ)が相次いで設立され,13~14世紀には,ハーンカー,ザーウィヤなどと呼ばれた修道場のネットワークが,イスラム世界のいたる所に張り巡らされた。異教徒の教化に最も熱心であったのは,このような神秘主義教団の教団員であり,彼らは殉教を願って異教徒の地に赴き,唯一の神への信仰を情熱をもって説き聞かせた。内陸アフリカ,トルキスタン,バルカン,インド亜大陸,東南アジアの島々のイスラム化は,主として彼らの努力に負うところが多い。
現在の世界のイスラム教徒の数を推計するのはきわめて困難であるが,ほぼ6億とみてよいであろう。それを世界の各地域ごとに挙げれば,(1)アラビア半島,シリア,ヨルダン,イラクなどの西アジアのアラブ諸国に3000万,(2)トルコ,イラン,アフガニスタンなどの西アジアの非アラブ諸国に8000万,(3)エジプト,スーダンなどアラビア語を国語とするアフリカ諸国に7000万,(4)アラビア語を国語としないアフリカ諸国に6000万,(5)インド亜大陸に2億,(6)東南アジアに1億,(7)旧ソビエト連邦,中国に5500万(回族),(8)バルカンに500万となろう。しかしアフリカでは毎年かなりのムスリムの増加が見込まれ,旧ソ連地域,中国のムスリムの数はつかみ難い。610年にわずか数人の信者をもって始められたイスラムは,その後1400年近くを経た現在,西はアフリカの大西洋岸から東は東南アジアの島々にまで広がって6億の信者をもち,その大部分がスンナ派,約1割がシーア派に属する。
ムハンマドは610年のある日,唯一神アッラーの啓示を受け,自ら神の使徒としての自覚を抱き,最後の審判の日に備えるよう人々に警告を発した。神の啓示はムハンマドの死まで彼に下り続け,後にこれを1冊の書物にまとめたものがコーランである。したがって歴史的には,イスラムは610年にムハンマドによって創唱された。しかしコーランに記され,ムスリムが信じる信仰の立場からすれば,イスラムは610年に始まったのではなく,天地創造以前から厳として存在しており,神とともに永遠なイスラムが610年に,神の使徒ムハンマドによって再確認されたのである。
永遠の昔,神は天地を創造し,天には日月星辰を,地には人類をはじめとする生命を創造した。神はただ自然と人類とを創造しただけでなく,自然には天体の運行や四季,風雨,昼夜の変化などの秩序を与え,人類には,来世の天国を保証されるために現世で遵守すべき規範を授けた。神が人類に授けた規範がシャリーアであり,シャリーアに従って生きることがイスラムである。
慈悲深い神は,人類を来世の天国に導くため,多くの預言者を地上に遣わした。アダムもノアもアブラハムも,みなこのような預言者であった。そればかりでなく,神は人類の導きのしるしとして啓示の書をも人類に授けた。モーセに授けられた律法の書(旧約聖書),イエスに授けられた福音の書(新約聖書)がそれである。しかし人々は真のイスラムに目覚めなかった。神から遣わされた預言者に従わず,絶滅させられた人々もある。アードの民,サムードの民などがその例である。ユダヤ教徒とキリスト教徒も,彼らに授けられた啓示の書を歪曲し隠匿した。
アラブの遠い先祖アブラハムは,その子イシュマエルIsmā`īlとともにメッカにカーバを建設し,これを住みかとしてアッラーに献上して,子孫の一人を使徒として遣わすよう祈念した。アブラハムは啓示の書こそ授けられなかったが,モーセよりはるかに古い預言者,ハニーフ,ムスリムであった。ムハンマドが説いたのはアブラハムの宗教の復活であり,彼に授けられた啓示の書コーランは,それに先立つ啓示の書を改訂したものである。なぜ,このようなことが言えるのであろうか。
天の上なる神のかたわらには,1枚の石板が大切に保管されているが,これこそ旧約聖書,新約聖書のいわば原典となった啓典の母体Umm al-Kitābである。神は人類をイスラムに導くため,ムハンマドを最後の預言者としてアラブの民に遣わし,啓典の母体をアラビア語のコーランとして彼に授けた。コーランと,それに先立つ旧約聖書,新約聖書との間に違いがあった場合には,神が啓典の母体に基づいて改訂したのであるから,最後に人類に下された啓示の書コーランが最も正しいということになる。コーランにはこのように記されている。
後のウラマー(学者,宗教指導者)の整理するところによれば,コーランに記されたイスラムの教義はイーマーンīmān(信仰),イバーダート`ibādāt,ムアーマラートmu`āmalātからなる。イーマーンは,後にアッラー,天使,啓典,預言者,来世(アーヒラākhira),予定の六信として定型化された信仰内容で,そのうちとくに重要なものがアッラーと,最後の預言者としてのムハンマドであることは言うまでもない。コーランでアッラーは唯一の神,創造者,慈悲深い方であると同時に,その信者(アブド,奴隷の意)の上に支配者として臨むものとされる。それ自体が被造物である偶像の崇拝は鋭く排撃され,他の罪ならば神の許しもありうるが,多神崇拝(シルク)は絶対に許されない。イバーダートは文字どおりには神への奉仕であり,宗教学でいう儀礼に相当する。後に五柱(ごちゆう)として定型化されたところから信仰告白(シャハーダshahāda)を除いた,礼拝,喜捨(ザカート),断食,巡礼のほか,コーランではジハードがとくに強調されている。ムアーマラートは文字どおりには行動の規範,なかでも信者同士の人間関係であり,これには姦淫をしないこと,孤児の財産をむさぼらないこと,契約を守ること,秤をごまかさないことといった倫理的なおきてのほか,婚姻,離婚,遺産相続,ハッド(犯罪)に関する規定から利子の禁止,孤児の扶養と後見,賭け矢や豚肉を食べることの禁止,日常の礼儀作法の心得までを含む。要するにコーランは,唯一の神とその最後の預言者ムハンマドとを信じ,神に仕え,神のよしとする正しい人間関係を結び,来世は天国に迎え入れられよと教えるのである。
これまでムハンマドの創唱した宗教をイスラムと書いてきたが,コーランはムハンマドに啓示された宗教をただイスラムとだけ呼んだのではない。コーランはそれを特定の名で呼ぶことなく,呼ぶ必要のある場合には適宜イスラーム,イーマーン,ディーンdīn,ミッラmillaなどの用語を用いた。現在普通に認められているところでは,イスラームは唯一の神アッラーに絶対的に服従すること,イーマーンは心のうちなる信仰,ディーンは宗教一般,または内面的なイーマーンと外に現れたイスラームとを統一したものと解され,ミッラはアブラハムの宗教milla Ibrāhīmという言葉に典型的に示されているように,過去の特定の預言者の説いた教え,ないし,そのウンマ(共同体)への所属を意味すると考えられる。
これらの用語のうち,コーランで最も多く用いられたのはイーマーンであり,同時に,信者を意味する用語として最も多く用いられたのはムーミンmu'minである。イスラム時代の初期,イスラム教徒を意味する用語として普通に用いられていたのは,ムスリムではなくムーミンであった。このことはウマル1世の用いたカリフの称号がムスリムたちのアミール(アミール・アルムスリミーン)でなく,ムーミンたちのアミール(アミール・アルムーミニーン)であったことによく示されている。コーラン49章14節に,〈遊牧民たちは“我々は信じるāmannā”と言っている。言ってやれ,“お前たちは信じていない。ただ我々は服従するaslamnāと言っているにすぎないのだ。お前たちの心の中にまだ信仰は入っていない(後略)”と〉とあることにより,イスラム時代の初期にはイーマーンとイスラームとは別のもの,あるいはイスラームはイーマーンの前段階と考えられていたようである。
イスラムは典型的な世界宗教であるが,コーランがアラビア語で記され,しかもイスラムが征服者アラブの宗教であったため,イスラム時代初期のしばらくの間,イスラムとアラブとの同一視という現象がみられた。この時期には征服地の住民のイスラムへの改宗は,ほとんど進まなかったが,マワーリー問題,ウマル2世の新政策などを契機に改宗者の増加をみた。そこで問題とされたのは,どのような条件を満たせばムスリムとみなしてよいか,ムスリムとしての最低限の義務は何なのかということであった。8世紀前半のスンナ派ウラマーの先駆者たちによる五柱の定型化は,まさにこのような要請にこたえるものであった。コーランのどこにも,そのままの言葉では記されていない信仰告白は,ムスリムたる者の最小限度信じなければならないイーマーンを,言葉によって表明することである。礼拝,喜捨,断食,巡礼は最小限度実践しなければならないイバーダートである。この両者を併せて五柱として定型化することにより,アッラーへの絶対的服従は五柱の実践にあるとされ,9世紀にいたって,ムハンマドによって創唱された宗教を呼ぶ名としてのイスラームが確立された。すなわち信仰一般を指すイスラームislāmは特定の信仰内容をもつ宗教イスラムal-Islāmになったのであり,同時に信者を呼ぶ名としてのムスリムも確立し,その後現在にまでいたっている。
知識を意味するアラビア語にイルム`ilm,フィクフfiqh,マーリファma`rifa,ヒクマḥikmaがある。イルムは元来,努力によって習得される知識を意味し,したがってコーランやハディース(預言者ムハンマドの言行に関する伝承)に関する知識,すなわち神学的知識をイルムといった。フィクフは〈既知のことから未知のことを推し量ること〉〈演繹〉を意味し,その学問の方法的特徴から法学がフィクフと呼ばれた。マーリファは,スーフィーが達人にだけ許されるとする啓示または黙示に基づく神についての神秘的知識,あるいは感性的認識である。ヒクマは一般的に〈知恵〉〈聡明さ〉を意味するが,哲学者はこれをギリシア語ソフィアの訳語として用い,イブン・シーナーはヒクマを,〈人間の霊魂の,学問と行為との範囲内で可能な完成への道程〉と定義する。
のちにイルムは学問一般を意味するようになるが,ムスリム最初の学問は,南イラクの二つの軍営都市(ミスル),バスラとクーファにおけるアラビア語に関する学問であった。それは,部族ごとに異なる方言を話すアラブ遊牧部族民と,労働者として住みついた現地の住民に標準アラビア語を教える必要上,コーランの言語学的研究が始められたからである。やがてそれは文法学の発達,辞典の編纂にいたり,コーランのアラビア語研究の補助手段として,前イスラム時代の古詩の研究も行われ,詩学と韻律学の発達をみた。最初にコーランの言語学的研究が始められたことの意義は大きかった。なぜならそれは,コーランの神学的・法学的研究の前提となったからである。
バスラのモスクの中庭に,車座になって熱心に師の教えに耳を傾ける一団の若者たちがいた。車座の中心にいた師はハサン・アルバスリーで,彼の教えの中心は禁欲主義にあり,自由意志か予定かといった問題の立て方はしなかったが,罪についての人間の責任を重くみて,神に責任を転嫁することを固く戒めた。ハワーリジュ派の提起した罪の問題については,彼は大罪を犯した者をムナーフィクーンmunāfiqūn(偽善者)と呼び,このような者を殺してはならないが,地獄に落ちる可能性がきわめて高いので,正しい道に引き戻してやる必要があると考えた。彼の意図したことは,支配者・被支配者の双方を拘束するイスラムの宗教的・倫理的規範の確立にあり,コーランと,預言者ムハンマドの言葉と行為とによって確立された慣行(スンナ)とを手がかりに,その規範を模索していたのである。このようなものが,イスラム最初の神学であった。
クーファとメディナの学者たちの主たる関心は,国家の法をイスラムの理念に基づいて体系化することにあり,その手がかりはコーランとスンナと個人的見解(ラーイ)であった。ハサン・アルバスリーのスンナが,宗教的・倫理的慣行を意味したのに対して,法学者のそれは法的慣行を意味した。このスンナは伝承の形で表明されたが,もちろん厳密な意味でのハディースではなく,実際にはクーファやメディナの学者たちのラーイra'yの平均値,つまり後世の用語でイジュマーと呼ばれるものであった。このようなものが,イスラム最初の法学である。
ハディース発祥の地は預言者の町メディナで,それは預言者の教えを守り,その人間像を後世に伝えようとするサハーバ(教友)の自然の情に発し,ムハンマドの死の直後から数多く語り継がれ,ズフリーal-Zuhrī(?-742)によって最初に記録された。それは一方で,ムハンマド伝に始まるイスラムの歴史叙述の発達を促したが,他方,神学者,法学者ともハディースによってスンナを定立しようとするに及び,厳密なハディースの研究を志す学者たち,すなわちハディースの徒が生じた。法学者シャーフィイーがイスラム法学の方法論を完成したのは,伝承の過程の記録イスナードをもって預言者にさかのぼる客観的なハディースを,彼の法源論に取り入れたからである。彼のもとに弟子たちが集まってシャーフィイー派が形成されると,それより少し遅れてハナフィー派,マーリク派,ハンバル派が形成され,現在まで続くスンナ派の四法学派ができあがった。
シャリーアについての学問は,狭義のイルム(神学)とフィクフ(法学)であった。シャリーアは,何を信じ,いかに行動すべきかを,神が人類に指示した命令の総体である。イスラム法は国家についての定義を欠き,多数のムスリムが集まって,ただ1人のムスリムの首長を選び定め,その責任のもとにイスラム法(シャリーア)の施行されるところが,すなわちイスラム国家であるとする。したがって,イスラム国家の定義はムスリムの定義に還元され,ムスリムの定義はイスラムの定義を前提とする。シャリーアに従って生きることがイスラムであるから,神学・法学の両面からのアプローチなくして,イスラムの定義は下しえない。神学と法学は相互に補完し合うシャリーアの学問として,ほぼ時を同じくして出発したが,法学がシャーフィイーによって方法論的完成をみたのに対し,神学はヘレニズム思想の洗礼を受けて,初めて方法論的完成にいたった。
10世紀の後半,フワーリズミーal-Khwārizmī, Abū`Abd Allāh Muḥammadは《学問の鍵Mafāfīḥal-`ulūm》という書物を著し,当時行われていたイスラム教徒の学問を分類した。この書によればイスラム教徒の学問は,(1)アラブ起源の学問,(2)異民族起源の学問とからなり,(1)に属するものは,(a)法学,(b)神学,(c)文法学,(d)書記学(行政文書作成法),(e)詩学と韻律学,(f)歴史学であり,(2)に属するものは,(g)哲学,(h)論理学,(i)医学,(j)算術,(k)幾何学,(1)天文学,(m)音楽理論,(n)機械学,(o)錬金術であった。
ハワーリジュ派の過激な一派アズラクAzraq派は,コーランに処罰の規定された罪ハッドを犯す者は,ムスリムとしての資格を失うとした。このことは,罪は人間の責任か,それとも神がなさしめたのかという問題,つまり自由意志説と予定説との論争を起こさせた。この論争で,自由意志説を唱えた者をカダルQadar派,予定説を主張した者をジャブルJabr派というが,前述の六信に予定が挙げられていることからも明らかなように,最終的には予定説が勝利を収めた。
しかし,この論争には判断保留という反応もあった。もと〈延期する者〉を意味したムルジア派は,ハッドの罪を犯した者がムスリムとしての資格を失うかどうかは,最後の審判の日における神の審判に待つべきだとした。彼らの多くはクーファの初期法学者と重なり合い,彼らは地獄に落とされる者を1人でも少なくするため,イスラム法の体系化を通じて,現世に生きる行動の指針を人々に与えようとしていた。ムルジア派の判断保留は,単に罪の問題だけでなく,ウマイヤ朝とハワーリジュ派・シーア派との抗争に対する政治的中立をも意味した。これと同じ思想的風土に生じたものにムータジラ派がある。ムータジラと呼ばれた最初の人ワーシル・ブン・アターWāṣil b.`Atā'(699-748)は,信仰(イーマーン)と無信仰(クフル)の問題に関し,そのいずれでもない〈中間の状態〉を唱えたと伝えられる。ムータジラ派はムルジア派と同じ思想的・政治的中立の立場に立ち,ムルジア派が法学に傾斜したのに対して,神学への道を開いたといえよう。最初に彼らの意図したことは,イスラムの根本的な教義であるタウヒード(神の唯一性)を合理的思惟によって弁護することであり,神と被造物との隔絶性を強調して,神の本質における多様性を断固拒否した。これが彼らの〈創造されたコーラン説〉と,神の属性の否定となったのである。やがてヘレニズム的観念での神の正義と,それに裏付けられた人間の意志の自由とが強調され,アリストテレスの論理学が方法論となり,彼らは反対者によって〈カラーム(思弁)の徒〉と呼ばれた。
アッバース朝初期の異端ザンダカ主義の流行に対し,政府は弾圧によって対処しようとしたが,ムータジラ派は合理的な神学の確立によって新改宗者の不満を吸収しようとした。だが彼らの合理的な学説は,イブン・ハンバルをはじめとする保守的なウラマーだけでなく,ムスリム大衆の支持するところとならなかった。カリフ,マームーンによるムータジラ派の教義の公認も,やがてムタワッキルによる取消しの憂き目をみることとなる。この時にあたり,もとムータジラ派に属したアシュアリーは,同派から学んだカラームを方法論としながら,信仰においてイブン・ハンバルの教義を受け入れることを宣言した。このようにして,啓示を理性によって支持するスンナ派の合理的な神学が唱えだされ,この時以後,スンナ派神学はカラームと呼ばれるようになる。
9世紀のバイト・アルヒクマの建設後,アリストテレスの哲学書は相次いでアラビア語に翻訳された。もとムータジラ派に属したキンディーは,アリストテレス哲学の基礎的概念をより正確に理解しようとして,ムスリム最初の哲学者となった。イスラム哲学の出発点には,新プラトン主義思想によって解釈されたアリストテレス哲学があり,その終点には,イブン・ルシュドを集大成者とする膨大なアリストテレス哲学の注釈書があった。キンディーとファーラービーは,ムータジラ派と同じく,啓示と理性の調和を信じて疑わなかったが,イブン・シーナーにいたり,神学と哲学はそれぞれの越えられない限界を悟った。哲学者はいよいよ純粋に自らの理論をたどり,神学者は哲学者を危険視し始めた。しかし,イブン・ルシュドを最後にムスリムのアリストテレス学派の伝統は絶え,その後はイブン・アルアラビーの神智学と,スフラワルディーの照明哲学の結びついた十二イマーム派の神学的哲学が,イラン世界で独自の発展をとげたため,イスラムにあっては,啓示と理性とのぎりぎりの対決は回避された。
イスラム神秘主義の起源については学者によって意見が分かれ,ある者は外来の要素を重視し,他の者は内的発展の立場に立つ。イスラム神秘主義がコーランの教えと無関係でありえないのは当然であるが,イスラムの神秘的要素とイスラム神秘主義とは,決して同じものではない。イスラム神秘主義は9世紀から10世紀にかけて,神への愛,神との合一であるファナー,神についての神秘的知識であるマーリファという三つの要素を統合し,その境地にいたるためのジクル,サマー等の修行の方法を整えて成立したとするのが,現在のところ最も穏当な見解であろう。イスラム神秘主義は,シャリーアの形式主義化に対する反動として生じ,神秘主義者はこのような結果を招いたものとしてウラマーを非難し,両者の関係は緊張していた。アシュアリー派の神学者ガザーリーは,イブン・シーナーの哲学を批判的に摂取するとともに,信者の最高の霊的体験としてのファナーfanā'を高く評価し,人格的な神秘的宗教体験のうえにスンナ派神学を再建した。ガザーリーこそ,神学者の敬虔さと哲学者の厳密な方法論,そして神秘主義者のひたむきな神への情熱を一身に統一し,イスラム思想に完成をもたらした人といえよう。一部の神秘主義者の汎神論的傾向,神秘主義教団の聖者崇拝は,イスラムの信仰にとって危険な要素をはらんでいた。しかし,ガザーリーが神秘主義思想を厳密な哲学的概念で武装し,教団も聖者崇拝を宗教的社会運動の枠内にとどめる努力を惜しまなかったために,全体的にイスラム神秘主義はスンナ派信仰から逸脱するものとならなかった。
スンナ派は,カリフは預言者ムハンマドが併せもった宗教・政治の両権限のうち,政治的権限だけを継承したとして,立法および教義決定にかかわるカリフの宗教的権限を認めない。ただ現実には,ウマイヤ朝のカリフが異端と称せられる者を処刑し,アッバース朝でもマームーンがムータジラ派の教義を公認し,ムタワッキルがこれを取り消すということがあった。しかし,ムハンマドの宗教的権限を継承したものは,理論的にはムスリム全体のイジュマー(合意)であって,実際には,それはウラマー,なかでもムジュタヒドのイジュマーにゆだねられる。今日われわれがスンナ派と呼ぶものは,中世ムスリムの文献では普通〈スンナとジャマーア(全体)の民ahl al-sunna wal-jamā`a〉と書かれていた。この名から明らかなように,スンナ派はまず多数派でなければならず,同時にウラマーが,イジュマーの結果としてスンナ(確立された慣行)と認めるところを,受け入れるものでなければならなかった。このように,ムスリム多数の信仰に立脚するスンナ派は,イスラム学者H.ギブの指摘するとおり,〈意見の相違は信仰の内容を豊かにするもので,むしろ神の恩寵であるとする寛容さ〉を特徴とする。カダル派,ムータジラ派は最終的にはスンナ派に吸収され,哲学は方法論を,神秘主義は人格的な霊的体験を提供し,あげてスンナ派の信仰内容を豊富にすることに奉仕した。〈神は唯一にして,ムハンマドは神の使徒である〉という簡潔なシャハーダ(信仰告白)こそ,スンナ派の寛容さを端的に物語る。
イスラムの国家構成法は,多数のムスリムが集まってイスラム国家をつくり,ただ1人のカリフを選び定め,彼にイスラム法シャリーアの施行の全権限をゆだねるという前提に立つ。イスラム世界に3人のカリフが並び立ち,諸国家,諸王朝が各地に分立し,アッバース朝のカリフがブワイフ朝(932-1062),セルジューク朝(1038-1194)の武家政治のもとに置かれたとき,法学者は法を現実と妥協させるか,それとも神授の法の純粋性を護持するかの深刻な二者択一を迫られた。彼らは後者の道を選び,〈イジュティハードの門は閉ざされた〉と称し,その後のいっさいの新立法の道を固く閉ざした。このことは,単に法学上の問題だけにとどまらず,神秘主義がスンナ派信仰のなかにその場所を得,一般に神秘主義的傾向が強まったことと相まって,スンナ派神学の固定化を招いた。その後イブン・タイミーヤのように,イジュティハードの門の閉鎖に強く反対し,神秘主義者の汎神論と聖者崇拝を鋭く非難する者もあったが,12世紀以降近代にいたるまで,スンナ派イスラム世界に思想の安定化と固定化の時代が訪れる。
前近代のイスラムにあって分派的宗派とみなしうるものは,それぞれの分派を含むハワーリジュ派とシーア派である。ハワーリジュ派の活動は早く衰え,現在ではアルジェリア南部,アラビア半島のオマーン,そこから伝えられた東アフリカのザンジバルに,その一派イバード派の信者がわずか存在するにすぎない。他方シーア派の信者は,全ムスリム人口の10分の1を占めると推定され,イラン,イラク,パキスタン,レバノン南部に多く住み,その大多数は,サファビー朝(1501-1736)によって国教とされた十二イマーム派に属する。
欧米でも日本でも,スンナ派はしばしば正統派と訳され,これに対してハワーリジュ派,シーア派は異端とみなされる傾向にある。しかし両者の関係は,キリスト教における正統と異端とは本質的に異なる。キリスト教における異端は,古代では公会議における神学論争の結果として,中世では確立された教会の権威,公認された教義への不服従として生じた。イスラムには教会がなく,したがって公会議もないのであるから,一方を正統,他方を異端と決めつけることはできない。そればかりでなく,ハワーリジュ派,シーア派の起りは,スンナ派という観念および実体の成立よりはるかに古く,しかもその起源は政治的であった。アシュアリーの《イスラム人の教説Maqālāt al-Islāmiyyīn》が,ムハンマド没後の初代カリフ選出をめぐるムハージルーン(移住者)とアンサール(援助者)との対立が,イスラムにおける意見の不一致の始まりで,それは第1次内乱において決定的になったという趣旨のことを述べているのは,イスラムにおける宗派の起源が政治的なものであったことを正しく指摘するものである。ハワーリジュ派,シーア派の起源が政治的なものである以上,両派は主観的には〈正統〉であり,彼らが敵対したその時々の政治権力こそ,異端の権化にほかならないとみなした。両派が分派にとどまったのは,政治権力との戦いに敗れ,ムスリム全体のなかで少数派に甘んじなければならなかったからである。しかし少数派が多数のなかにあって,自らの抵抗の姿勢を崩さないとき,彼らはその姿勢と主張とを正当化するために理論武装をしなければならない。そしてこの理論武装のゆえに,両派は政治的党派から宗派へと発展したのである。
ハワーリジュ派が自らを武装した理論は,その極端なまでの律法主義,罪は信仰を失わせ,大罪を犯した者はムスリムとしての資格を失うという罪の問題,ムスリムの最高の指導者イマームは,特定の家系・民族にかかわりなく,最も優れたムスリムであるべきだというイマーム論であった。シーア派にあっては,イマームはアリーの血を受けた者でなければならず,彼はムハンマドの併せもった宗教・政治の両権を継承し,しかも無謬であるという独特なイマーム論であった。しかしアリーの子孫も数多く,そのうちだれをイマームと認めるかによってシーア派の分派が生じた。
長い歴史の間に,ハワーリジュ派,シーア派とも極端な行動と主張に走るものがあった。アズラク派は無差別な殺戮で恐れられ,イスマーイール派は,コーランには文字どおりの(ザーヒルẓāhir)解釈のほかに隠された(バーティンbāṭin)奥義的解釈があり,それはムハンマドからアリーを経て代々のイマームに伝授されたと主張し,バーティン派とも呼ばれた。このような主張は,イスラムと無縁な個人崇拝を容認するものとして,スンナ派から厳しく非難されたが,シーア派の一派にはイマームに超人間的な性格を付与し,最も極端な論をなすものは,アリーおよびその子孫のイマームを神の化身とみなすにいたった。
十二イマーム派は第12代イマーム,ムハンマド・アルムンタザルのガイバghayba(隠れ)とルジューウrujū‘(再臨)とを説くが,そのイマーム論は一定の節度を堅持する。彼らはシャハーダ(信仰告白)の後に,〈そしてアリーは神のワリー(友)である〉という一句を付け加え,イスラム法で定める巡礼のほかに預言者やイマームの墓への参詣であるジヤーラを信者に義務づけているが,六信五行そのものは決して否定しない。またムスリム全体のイジュマー(合意)なるものは認めない。ハディースの権威は認めるが,それはイマームの言行録(アフバールakhbār)に拠るべきであるとする。このようにイマーム論を除き,スンナ派と十二イマーム派との間に融和の余地がないわけではなく,歴史上,十二イマーム派をジャーファルJa`far派と呼んで,スンナ派の四法学派と並んで位置づける試みも再三にわたってなされたが,結局さしたる効果をあげることはなかった。
執筆者:嶋田 襄平
ナポレオン軍に占領されたカイロで,歴史家ジャバルティーは,激動のヒジュラ暦1213年(1798・99)最大の事件は,エジプトからのメッカ巡礼がやんで,マムルーク朝時代以来毎年の慣行となっていたキスワ(カーバの覆い)が送れなかったことだったと記した。外からの力の衝撃よりも,内的な力の衰弱が重大視されていた。18世紀を通じてムスリム諸国家の衰退が進み,19世紀には総崩れ的情勢が生じてヨーロッパ支配が拡大した。そのもとでの社会構造の激変,価値観の混乱,文化摩擦,無力感,ことにそこでのイスラム法および伝統的社会組織の解体が,イスラムの危機という意識を強めた。しかも事態の深刻さは,このような変動や危機がむしろムスリムの権力を導入口としてもたらされた(オスマン帝国,ムハンマド・アリーの国家,カージャール朝,ムガル帝国において)ということである。ここから,イスラムの歴史を反省し〈現状〉の変革を要求するイスラム改革運動が起こってくることになる。政治的隷従がイスラムの危機を結果したのではなく,イスラムの危機が政治的隷従を結果したのだというように考えられた。隷従への陥没を,初期イスラムの精神を失って無自覚のまま過ぎてきた自らの社会と思想の主体的弱さの結果だと考え,それを乗り越えるためにこそ主体の真の力量を回復することが迫られており,しかもそれは可能なのだとする確信が,近代のイスラムを特徴づけている。すなわち,堕落し衰弱したイスラムを真に力あるイスラムに変えるエネルギーが,イスラムそれ自体のうちにあるはずだ,とする信念である。ヨーロッパへの従属がもたらす悲惨や屈辱の現実のもとで,抵抗の足場を探り,自らの価値を獲得し直そうとする時--それはナフダnahḍaと呼ばれた--,問題は常にイスラムの原点の回復,原則への復帰ということに戻っていくのである。そこにはしばしば,サラフ(祖先)のイスラムへの回帰(サラフィーヤ)の主張,硬直化したイスラムの徹底的改革,新しい時代に即応したイジュティハードの再開,すなわちイスラム法の創造的適用への要求があった。そしてまた,そこには,批判し抵抗する主体,闘う共同体の意識を,国土や根拠地に根ざして発酵させようとする運動としての強烈なジハードの志向もまたみられた。
第1に挙げなければならないのは,アラビア半島に起こったワッハーブ派の運動である。そこで発揮されたイスラムの復古的純化の思想と共通のものは,インドのシャー・ワリー・ウッラーの立場や,またその影響下で北インドにジハードを展開しようとしたサイイド・アフマド・バレールビーのムジャーヒディーン運動,あるいはベンガルで強力な展開を示したファラーイジー運動などにも,これを見いだすことができる。イスラム神秘主義を再編してタリーカ(教団)の伝統的組織原理を新しい時代に生かしつつ,北アフリカに抵抗線を形成したサヌーシー派や,禁欲と清貧の強調と強烈なメシア主義の上にジハード国家を築いたスーダンのマフディー派も,それぞれに,近代イスラムの上述したような内的動機づけを明確に呈示するものである。西アジア,インド亜大陸,北アフリカにわたる多様な運動の軌跡のなかで,抵抗する民族主体の形成とイスラム改革とを不可分の課題として主張したアフガーニーは,帝国主義の脅威に対してムスリムの自己変革に基づく抵抗の統一・連帯を強力に訴えた。現在にまで及ぶ彼の影響力はとくに注目に値する。アフガーニーの政治的行動主義からは離れたが,イスラム改革の固有の課題に最も本格的に取り組もうとしたのが,ムハンマド・アブドゥフや,またその弟子のラシード・リダーであった。しかし,これらの人々の運動のなかでは,現実からイスラムに問題を投げかけるモダニストの立場と,イスラムに照らして現実を変えていこうとするファンダメンタリストの立場との対立が,顕著に現れてきた。前者は政治的にリベラルであり,国家と宗教との分離を前提とし,信仰を個人の内面の問題としてとらえる世俗主義・世俗化の立場をとる傾向を示すのに対し,後者は政治的・社会的に守旧的であるか,もしくは著しくラディカルであり,イスラム国家という形式で宗教と政治の一致を目指す場合が多い。
1930年代以来,これらの近代イスラムの諸潮流は,たとえばムスリム同胞団やパキスタンのジャマーアテ・イスラーミーの場合のように,広範な大衆の参加する社会運動としても示されるようになっていたが,70年代からはさらに新しい段階を急速に切り開きつつあるようにみられる。ここでは,イラン革命やメッカのカーバ占拠事件などの露頭の基盤として奥深く広がっている大衆の全般的政治化・急進化状況が生じており,そのなかで,イスラムの革新とイスラムによる革新との課題がより全面的に,より根源的に問い直されつつあり,その結果,この問題に関して既存のあらゆる運動や立場の客観的な意味と位置とが鋭く,激しく変換されつつあるからである。しかもイスラムの問題提起こそ,第三世界にとって,さらには普遍的に人類全体にとって,新しい価値と秩序との積極的形成への重大な方向づけを与えるものなのだという主張が,イスラムの名においてますます強く叫ばれるようになってきたからでもある。
イスラムを非西欧的価値体系の一つと措定して,イスラム対ヨーロッパという単純な対立の図式を設定し,ヨーロッパ的原理を批判するイスラム勢力というような見方でイスラムの近代史を割り切るのは正しくない。しかしまた,イスラムも近代世界の大勢に押し流されて変貌と変質をとげていかざるを得ないだろうという見通しで割り切ってしまうわけにもいかない。自らの内面を問い直す危機的意識が強ければ強いだけ,主体的拠点としてのイスラムの原則的立場を強調することに,人間として決然として賭ける大衆が現れてきているからである。
執筆者:板垣 雄三
メディナに共同体(ウンマ)を建設したムハンマドは,アラビア半島各地の部族集団と盟約を結んで,これらを個別的にウンマに結びつけ,その結果成立した緩やかな政治構成体(ジャマーアjamā`a)をウンマの支配のもとに統合した。ここにイスラム国家の原初形態を認めることができる。ジャマーアはムハンマドの権威を承認する部族民の集合体であったが,やがてカリフの指揮のもとに大征服が行われると,ウンマとジャマーアを構成するアラブの全体が,征服者集団として帝国内の異民族を支配することになった。しかし非アラブの異教徒のなかにも改宗してウンマの一構成員となり,アラブ・ムスリムと同等の権利を主張する者の数がしだいに増大した。これらの新改宗者をマワーリーというが,アラブ優位の体制下において,彼らに対する税の支払義務の点でも,また社会的な身分の点でも明らかに不利な立場におかれていた。イスラムの教えによれば,すべてのムスリムは人種や身分にかかわりなく,ウンマの成員として平等の権利と義務を有するはずであった。しかしアラブ帝国としてのウマイヤ朝(661-750)は,結局,このようなイスラムの理念に合致する政治体制をつくり出すことはできなかったのである。
アッバース朝(750-1258)の成立によってアラブの特権は失われ,帝国内におけるムスリムの平等の原理が確立した。この王朝が一般にイスラム帝国と呼ばれるゆえんである。9世紀ころまでにはイスラム法(シャリーア)の体系化も行われ,ウンマの指導者としてシャリーアの執行にあたるカリフの権限は著しく強化された。しかし一方では,ウンマの統一はすでに失われ,東西に分裂したイスラム世界はカリフあるいは王(マリク,アミール)を主権者に戴く王朝(ダウラdawla)によって支配されるのが実情であった。ダウラは元来〈時の推移〉や〈季節の転換〉を意味するアラビア語であるが,これが〈王朝〉の意味に用いられるのはアッバース朝時代になってからのことである。もちろんダウラは支配権を担うカリフ一族や王家を中心とする概念であって,いわゆる〈国家〉そのものには該当しない。王権の支配領域に着目すれば,マムラカmamlaka(王国)の語もよく用いられ,また政府や統治機関を意味するウィラーヤwilāya(オスマン朝ではフクーマḥukūma)も使用されたが,これらはいずれもイスラム国家の一つの側面を示す用語にすぎなかった。このように国家そのものを表す固有の用語がイスラム世界に存在しなかったのは,ムスリムにとってイスラム国家の本質がカリフの権威を誓約(バイア)によって認める個々のムスリムの集合体,つまりウンマあるいはジャマーアとして意識されていたからにほかならない。その空間的な広がりが〈イスラムの世界(ダール・アルイスラーム)〉であった。したがって独自な権力国家論を展開したイブン・ハルドゥーンを除けば,ムスリム知識人(ウラマー)によるイスラム国家論は,もっぱらウンマの代表としてのカリフ(イマーム)を中心論題として展開され,実質的に国家としての機能を担う王朝(ダウラ)はその視野の外に置かれていたのである。
〈神の使徒の代理〉として初代カリフに就任したアブー・バクルは,ムハンマドの宗教・政治の両権限のうち,政治的権限だけを継承した。しかもその権限は絶対的なものではなく,せいぜいムスリムのまとめ役,つまりウンマの指導者としての性格をもつにすぎなかった。ところが大征服によって国家領域が拡大し,莫大な富がカリフに集中されるようになると,カリフ権力は著しく強大化した。第2代カリフ,ウマル1世は,〈信徒の長〉を意味するアミール・アルムーミニーンamīr al-mu`minīnの称号を用いたが,これは聖戦(ジハード)の指揮官たるカリフにふさわしい称号であったといえよう。これに対してスンナ派のウラマーが用いるイマームは,ムスリムの宗教的な指導者としてのカリフに重きを置く称号であった。またアッバース朝時代には,カリフは〈神の使徒の代理〉から〈神の代理〉とみなされるようになり,法学者もカリフ権は神から直接ゆだねられたとするカリフ権神授説を唱えるにいたった。ただ,このようなカリフの神権化にもかかわらず,その権威が公のものとなるためには,初期の時代と同じく,カリフに対するムスリムのバイアとターアṭā`a(服従)とが必要であった。したがって町やむらの住民がこれらの契約を破棄して,モスクでの説教(フトバ)から主権者の名前を削ることは,その地域のムスリムが公的に反乱の意思表明をしたものと受け取られたのであった。
アッバース朝は軍隊と官僚に基づく中央集権的な国家体制を樹立したが,カリフ権が強大な時代はそう長くは続かなかった。9世紀半ばを過ぎるころから,マムルーク(奴隷軍人)の台頭につれてカリフ権はしだいに弱体化し,936年には軍人総督を大アミール(アミール・アルウマラーamīr al-umarā')に任命して,軍事・財政の両権限を含む帝国の行政権を委譲した。このとき,全国のモスクではカリフと大アミールの名においてフトバを行うことが命ぜられたが,これはカリフがフトバの権限を独占していた時代の終焉を意味した。シーア派を奉ずるブワイフ朝(932-1062)の大アミールもカリフのもつ特権を次々と奪い,カリフにはイマーム(信仰上の指導者)としての名目的な権限だけが残された。しかし,ブワイフ朝やセルジューク朝(1038-1194)の君主がその政権を維持してゆくためには,カリフによるその正当化が必要であったから,ここにカリフは大アミールやスルタンの保護を受ける代りに軍事政権の正当性を保証するという,カリフ権と王権(ムルク)との相互依存の時代が始まった。このような現実の変化に対応して,ウラマーも国家の事実上の支配者である君主の存在を容認せざるを得なかった。たとえばマーワルディーは,支配者がシャリーアに従って政治を行うならば,カリフは王権に合法性を与えるべきであるとし,またガザーリーは,共同体の秩序維持にあたるスルタンを,カリフは無条件で承認すべきであると主張した。のちには妥協と追認のカリフ論を批判するイブン・タイミーヤのような思想家も現れたが,大方のウラマーは現実に対して次々と譲歩を重ね,ついにはイブン・ジャマーアのように暴君の容認にまでいたったのである。
カリフやスルタンによる統治(ウィラーヤ)の実態についてみると,アラブ帝国の時代にはアミールが征服地の農民から租税を徴収し,そのなかからアラブ戦士に俸給(アター)を支給するというシステムがとられた。これをアター体制という。軍営都市(ミスル)を統括するアミールはカリフによって任命され,その体制下で租税徴収の実務を担当したのはササン朝やビザンティン帝国時代以来の村長であった。アッバース朝時代になって官僚機構が整備されると,中央派遣の徴税官(アーミル)が村長に代わって徴税の任務を果たすようになったが,軍隊や官僚に俸給を支払うアター体制はほぼそのままの形で維持されていた。しかし10世紀初めころまでには,軍閥間の抗争や宮廷の乱費,あるいは徴税機構の破綻などによって,国家財政はしだいに困窮の度を加えていった。国庫収入の低下はアター体制の維持を難しくする。10世紀半ばに軍人に対して直接土地の支配と管理をゆだねるイクター制が成立したことは,このような旧体制の完全な崩壊を意味していた。都市に住むイクター保有者(ムクター)は代官を派遣して農民から租税を徴収し,その収入を用いて配下の兵士を養うことを義務づけられていた。このようにイクター制は軍人を媒介として国家と社会を結びつける体制であったから,その後のイスラム諸王朝でも国家の基本制度として広く採用された。サファビー朝のトゥユールやソユールガール,オスマン帝国のティマールなども本質的にこのイクターを継承する制度であった。
カリフやスルタンの権力は軍隊や官僚によって支えられていた。官庁(ディーワーン)はウマイヤ朝時代から現実の必要に応じて次々と増設され,アッバース朝時代になるとイラン人を中心とする宰相(ワジール)や書記(カーティブ)が政治の世界でも重要な役割を演ずるにいたった。一方,軍隊の主力はアッバース朝革命を機にアラブ軍からホラーサーン軍に代わり,9世紀以降はマムルーク軍人が官僚を抑えて国家の実権を掌握した。イクター保有によって農村を支配したマムルークは,その富を基礎に都市の経済を左右するほどの実力を備えていたが,軍人の支配権にはムスリムに対する裁判権は含まれないのが原則であった。シャリーアに基づく裁判は,各都市に派遣されたカーディー(裁判官)によって行われた。しかもこれらのカーディーは,裁判の業務を超えて地方行政に参画することもまれではなかった。一般にカーディーを含むウラマーは,不法な支配者に対するイスラムの正義の守り手であると同時に,異民族の軍事政権を支持して国家と民衆とを結ぶ輪としての役割を果たしたのである。このような傾向は,イラクやエジプトにスンナ派政権が復活するセルジューク朝やアイユーブ朝(1169-1250)あるいはマムルーク朝(1250-1517)の時代にとくに著しい。
マムルーク朝を倒してメッカ,メディナの宗主権を握り,イスラム国家としての本質を明らかにしたオスマン帝国は,アラブ以外にバルカンのキリスト教徒などを擁する多民族国家の様相を呈するが,国家の性格や構造についてみると,それ以前のイスラム諸王朝とほとんど変りがなかった。最盛時のスルタンは同時にカリフを称する必要がないほど強大であったが,その政治はシャリーアに従って行われ,それを補うために前代のシヤーサ(行政法)に相当するカーヌーンが発布された。またスルタン権力を支えていたのは軍隊と官僚であり,軍隊はキリスト教徒の子弟を奴隷として徴募したイエニチェリ軍団とティマールを授与されたシパーヒー(騎士)軍団とからなっていた。一方,官僚は,中央官庁以外に州,県,郡,郷,村という整備された行政機構のなかに組織されたが,シャリーアの有効な施行のために,ウラマーとしての裁判官もこれらの地方行政組織と結びついて階層的に任命されたことがオスマン帝国の特徴といえよう。
執筆者:佐藤 次高
19世紀を通じてしだいに決定的なものとしてあらわになってきた政治的・経済的・社会的変動のもとで,〈イスラム世界〉という観念も,〈イスラム国家〉のイデオロギーも,ともに解体し崩壊していった。近代のイスラムにおける危機感の主要な内容は,イスラム国家の喪失感(制度・思想の両面における)であったといえる。それは,シャー・ワリー・ウッラーの子アブド・アルアジーズ`Abd al-`Azīz(1746-1824)が,イギリス人支配下のインドは,もはやイスラム世界の範囲外にあるダール・アルハルブ(戦争の家)であると宣言したファトワー(1803)に始まって,トルコ革命下でのカリフ制廃止(1924)にまでいたる過程のなかで,しだいにまったく癒しがたいものとなっていった。伝統的支配イデオロギーの構造は,イスラム法(シャリーア)とイスラム神秘主義の複合として示され,ウラマーと教団(タリーカ)とが政治的・社会的統合のチャンネルとして機能してきたが,このような伝統的システムは急速に弱体化し分解していった。ヨーロッパの法体系が実質的な力をもち始め,法の二重過程が生じたことは,神授の法としてのイスラム法の絶対性・自己完結性のイデオロギーが手痛く破壊されたということを意味した。ヨーロッパ商品の圧力によるギルド的同業同職組合の解体と地主制経営の拡大による〈むら〉社会の変質とは,教団組織を掘り崩し,イスラム神秘主義の形骸化をもたらした。ウラマーに代わって,技師,軍人,法律家,官吏など新しい型の知識層がエリートとして登場した。世界資本主義的編成の深化とともに,いろいろの地域で,もろもろのエスニック・グループ(民族集団)が大衆的レベルで移動し混ざり合う過程がはげしく展開した。平和と安全の体系であったはずのオスマン帝国のミッレト制は,東方問題のなかで紛争の要因へと転化させられた。シオニズムを利用してのパレスティナ問題の設定は,イスラム国家喪失感の増幅による焦燥とジハード論的対応とを鋭く刺激した。
こうして,イスラム国家論は現代イスラムの中心的争点となっている。そこでまず顕著に認められる第1の立場は,現状維持派的・国際政治論的イスラム国家論である。それは,20世紀に生み出された諸国家システムを前提として,多数のイスラム教徒を擁する諸国をただちにイスラム諸国とみなす立場であり,イスラム諸国会議Organization of the Islamic Conference(略称OIC。1971年に正式発足,加盟国55)はそれに拠っている。これに対立的な第2の立場は,現状打破的・宗教社会運動論的イスラム国家論である。それは,1930年代以降,ムスリム同胞団に代表されるような大衆的社会運動のなかで,公正と正義に基づくイスラム国家の再建・獲得の要求として展開したが,その後大衆の政治的急進化のもとで,70年代末のイラン革命論についてみられるように,この立場の革命的性格が著しく強められた。パキスタン国家がいかなる意味でイスラム国家であるかという論議は,第1と第2の立場の間を揺れ動くものであった。また70年代になると,第2の立場の発展に伴い,それに対していわば対抗的に,第1の立場のなかでも〈イスラム経済〉論が生み出され,資源主権や銀行改革やパートナーシップに基づく経済開発やザカートの制度化が広く論議されるようになった。
これら現代のイスラム国家論の諸潮流のために,実際には常に世俗化・世俗主義的行動の傾向を示すような諸国政府も,憲法におけるイスラムの国教規定をめぐる問題や,シャリーアの実行(たとえばハッドのようにコーランに規定された刑罰)をめぐる問題に関して動揺せざるを得なくなっている。これに対して,パレスティナ人の運動の間では,明確な脱宗教の非宗派主義の立場がイスラム国家論を積極的に克服し止揚するものとして打ち出されるようにもなってきた。
執筆者:板垣 雄三
ジャーヒリーヤと呼ばれるイスラム以前のアラビア半島では,メッカやメディナなど一部の定住地域を除けば,概してベドウィンによる遊牧生活が支配的であった。彼らは小さな家族集団ごとに一定の水場を移動してラクダ,ヤギ,羊などの家畜を飼養し,戦争や飢饉が起こればより大きな血縁集団を組織して非常事態に対処した。古くから偶像崇拝の中心地であったメッカは,6世紀半ば以後,イエメンとシリアを結ぶ南アラビア貿易を独占して繁栄したが,商業活動に従う者はまだクライシュ族の一部の商人に限られていた。通商の範囲と規模は,イスラムの理念に基づくアラブの大征服によって一挙に拡大する。各地に建設されたミスル(軍営都市)は,ここにアラブ戦士とその家族が定住し,また近隣から商工業者が集まることによって,やがて生産と消費の中心的な機能を果たすようになった。これらのミスルを結ぶ広大な国内経済圏の形成は貨幣需要の増大をもたらし,これに呼応して7世紀末にはアラブ貨幣の鋳造が開始された。またミスルへのアラブの移住はやがて原住民のアラブ化を促し,アラビア語を共通語とする一大文化圏を成立させたという点できわめて大きな意義をもつものといえよう。
アッバース朝時代(750-1258)になると,バグダードをはじめとする都市の商工業活動はさらに活発となった。モスクに隣接する市(いち)(スーク)は交易の場であると同時に生産の場でもあって,そこで生産された各種の織物やガラス製品,紙,セッケンなどの特産物は各地の都市へ向けて盛んに輸出された。都市の商人には,外国貿易に従う大商人(タージル)から市場の小商人(スーカ)まであったが,アッバース朝時代になってとくに有力な階層を形成したのは,前者の大商人であった。彼らは,中国の絹や陶磁器,インドのコショウ,木材,鉄,ロシアの毛皮と奴隷,ビザンティンの工芸品,それにアフリカの金や奴隷などを購入して,カリフや高級官僚,あるいは軍人などの有力者に販売した。そして9世紀以降になると,その経済力を基盤にして政治の世界に進出し,なかには国家の宰相(ワジール)にまでのし上がる商人も現れた。またその財力を学問の分野に活用し,自ら各地を回って預言者の伝承を収集して歩く商人も多数存在した。政府による財産没収(ムサーダラ)が頻繁に行われたために,何代にもわたって豪商が存続するという例はまれであったが,軍事政権の成立にいたるまで,経済と政治と文化の面で商人のこのような活躍がみられたことは,イスラム社会の著しい特徴であったといわなければならない。
遊牧民であったアラブの征服軍は支配下の農村社会や農業には興味を示さず,そこから租税を徴収することだけを目的にしていた。従来どおりの土地保有を認められた耕作農民(ムザーリウーンmuzāri`ūn,ファッラーフーンfallāḥūn)には人頭税のほかに土地税が課せられ,しかもこの土地税だけで収穫の約半分に達したと推定されている。免税特権をもつアラブ・ムスリムと原住民との税制上の不平等が解消されるのは,イスラムの租税制度が整い,土地の耕作者はすべて地代としての地租(ハラージュ)を支払うという原則が確立する8世紀半ば以降のことであった。また村長も従来と同じ私有地の所有を認められ,租税を一括して政府に納める村(むら)の責任者としての地位を保持していた。しかし8世紀ころからアラブが地主となってむらに住みつき,また官僚的な徴税機構が整うようになると,これらの村長は地方名士としての地位を喪失し,代わってシャイフと呼ばれるアラブの村長がむら社会をとりしきるようになっていった。都市ではすでにアッバース朝時代の初めから住民の多数がムスリムとなっていたが,このような変化に対応して,むらでもイスラムに改宗する農民の数がしだいに増大していったものと思われる。
ところで,征服地の土地と農民は,アラブ戦士には分配されないのが最初の原則であった。しかしウマイヤ朝(661-750)の初めごろからカリフは一族や寵臣に対して私有地であるカティーアqaṭī`aを授与するようになり,また荒蕪地の開墾や土地の囲込みによって,より大規模な私領地(ダイアḍay`a)も次々と成立した。こうして8世紀から9世紀へかけて,カティーアやダイアを基礎に,軍人や官僚あるいは商人による大土地所有が著しく発達した。彼らは代理人(ワキール)を用いて水路の開削や塩害を被った土地の改良に努め,とくにティグリス・ユーフラテス川流域のダイアでは,小麦や大麦以外に,商品作物である稲やサトウキビの栽培が盛んになった。商工業活動の進展と相まって,ここにイスラム社会繁栄の経済的基盤がほぼ確立されたとみてよいであろう。
以上のようにイスラム社会の生活の基礎は,商工業と農業と牧畜に置かれていたが,このことは近代にいたるまで基本的にはほとんど変わっていない。しかもこれらの要素は商品流通と人間の移動を通じて,相互に密接な関連を保っていたのである。
シャリーア(イスラム法)に基づく政治の原理が確立し,またムスリム商人の広範な活躍と農民の改宗が徐々に進むことによって,9世紀初めころまでには,イスラム社会はその名にふさわしい内実を備えるにいたった。しかしイスラム社会がこのように充実する一方では,特権的な大土地所有の発達やアッバース朝の常備軍であるホラーサーン軍の解体は,新しい歴史的展開を促す重要な契機となった。変革はトルコ人を中心とするマムルーク(奴隷軍人)の台頭に始まる。中央アジアのトルコ人は,すでに8世紀の初めころから,ある者は戦争捕虜として,またある者は購入奴隷としてイスラム社会にもたらされるようになっていた。イランのダイラム人がもっぱら歩兵として用いられたのに対して,これらのトルコ人は騎馬戦士として優れた才能を発揮した。カリフ,ムータシム(在位833-842)は約7000騎のトルコ人マムルークを購入して親衛隊を組織したが,これ以後マムルークはホラーサーン軍に代わって国家の実権を掌握し,やがてカリフの廃立をも左右するにいたった。そして10世紀半ば以降も有利なイクター保有によって農村を支配し,12世紀末までには黒人奴隷兵の勢力を駆逐してアミールや地方総督の位を独占した。もちろん自由身分の非マムルーク騎士も多数存在したが,マムルーク朝(1250-1517)はもちろんのこと,その後のオスマン帝国(1299-1922)やサファビー朝(1501-1736)でも奴隷軍団優位の体制に変りはなかった。
異民族で,しかも奴隷出身のマムルークによる支配がこのように長く続いたのは,マムルークとウラマー(宗教指導者,学者)との緊密な提携によるところが少なくない。シーア派の諸勢力に対してスンナ派イデオロギーを普及するためのマドラサ(学院)の建設は,すでにセルジューク朝時代(1038-1194)から始まっていたが,この政策を踏襲したアイユーブ朝からマムルーク朝へかけて,ウラマーの社会的役割はますます増大していった。マムルークはモスクやマドラサを盛んに建設してイスラム文化を保護し,ムスリムの日常生活と密接なかかわりをもつウラマーの支持をとりつけようとしたのである。むろんこのようなマムルーク体制に反発がなかったわけではない。アラブ遊牧民は異民族の奴隷による支配に異を唱えてしばしば反乱を起こしたし,都市の若者集団であるアイヤール`ayyār(俠客)も軍人の暴力からハーラ(街区)を守ることに自らの存在価値を見いだしていた。遊牧民やアイヤールは政府に協力して軍隊の補助軍を構成する場合もあったが,10~12世紀のシリアやジャジーラでは,たとえ一時的であったにせよ,商人やアフダース(アイヤール)の支持を得て都市にウラマーの連合政権が樹立されたことは注目すべきであろう。ところでマムルークが台頭し,イクター制が成立した後も,都市を中心とする商業活動は活発に行われた。アッバース朝時代のように政治家として活躍するような商人はもはや現れなかったが,スルタンの保護のもとに香料貿易や奴隷貿易に従事する商人のなかには,政府に資金を貸し付けたり,外交使節として遠く中央アジアやロシアにまで赴く者もあったのである。
マムルークの台頭に伴う政情の混乱は,イランやイラクの農村社会に大きな打撃を与えた。軍閥相互の戦闘によって水利機構は破壊され,ブワイフ朝(932-1062)の成立後も軍人による恣意的な収奪が続けられた。セルジューク朝は軍人のイクター保有を厳しく監督することによって農村社会にある程度の安定をもたらしたが,それでもかつての農業生産力を完全に回復するまでにはいたらなかった。一方,西方のエジプト・シリアでは,比較的安定した農業生産が維持され,アイユーブ朝からマムルーク朝へかけて都市と農村の人口は確実に増加していったと推定されている。むら社会を構成する主要な階層は自小作の農民(ファッラーフーン)であったが,イクター制が成立すると彼らはしだいに軍人への隷属度を強め,やがてイクター保有者の農奴的な状態へと転落していった。またイクター制の成立と並んで,イスラム神秘主義教団(タリーカ)の結成も農村社会に大きな変化をもたらす要因であった。12世紀以降,各地の都市に成立したタリーカは,その組織の輪を農村にも広げることによって,都市と農村を結ぶ強力なネットワークがつくられていった。手工業者や農民はこれらのタリーカに加わることによって,初めてイスラムの信仰を身近なものとして体得することができたといっても過言ではない。
伝統的なイスラム社会が形成される過程は以上のようであるが,社会を構成する諸要素の結合原理について考えてみるならば,ほとんどどの時代のイスラム社会にも共通するものがあった。都市は織物をはじめとする手工業製品や東西貿易による香料・奴隷などが取引される場であると同時に,政府官吏や軍人による農村支配の拠点でもあった。一方,周辺村落の農民の立場からみれば,都市は経済的にも,また社会的にもいわゆる交通の中心地としての機能を果たしていた。むらは自給自足的な共同体ではなく,すでにイスラム時代の初期から織物の原料や各種の果物などの特産物が,近くの都市へ向けて出荷された。また,むらのクッターブ(寺小屋)でコーランの暗誦を終えた少年は都市に出てマドラサに学び,さらにバグダードやカイロなどで勉学を続けるのが,有力なウラマーとなるための必須のコースであった。むらには農民以外に,耕地の管理人や見回り人,大工,説教師なども存在したが,それらのうちとくに見回り役は遊牧民(ウルバーン)によって請け負われることがしばしばであった。一般に機動力と武力をもつ遊牧民は戦闘集団としての性格も備えていたから,彼らは契約によってむらの見回り役を務めるばかりでなく,政府に補助軍を提供したり,一定地域に保護権(ヒマーヤ)を行使して,旅人や巡礼への安全保障の見返りに保護料を徴収した。しかしこれらの遊牧民は,農村社会と共存し,国家体制に協力する反面,中央権力が弱まれば,ただちに農村やメッカ巡礼の略奪者に転ずる危険性も常に備えていたのである。
社会階層は,カリフやスルタンの一族,軍人,大商人,高級官吏などからなる支配層(ハーッサkhāṣṣa)と,中小の商人や職人,あるいは農民などからなる民衆(アーンマ`āmma)とに分かれていた。その中間にムスリム知識人(ウラマー)が存在していたが,都市にマドラサが建設され始める11世紀以後は,徐々にこの中間層が厚くなる傾向にあった。もっともハーッサとアーンマおよびそれぞれの職業は決して固定的な身分であったわけではなく,農民の子弟が官吏になる場合もあったし,商人や職人の子どもが親の職業を継がないことも往々にしてあったといわれる。ただ,アッバース朝中期以後の軍事はトルコ人やモンゴル人などの異民族によって独占され,都市民や農民出身の軍人がほとんど皆無であったことは,イスラム社会に固有な特徴といえるであろう。このほか自由人(フッルḥurr)と奴隷(ラキークraqīq)の区分も存在したが,軍人奴隷であれ家内奴隷であれ,解放後の経歴に奴隷であったことが大きな障害とはならなかった。マンスールやハールーン・アッラシードをはじめとして,アッバース朝の歴代カリフに奴隷女の子どもが多かった事実が,このことを如実に物語っている。
イスラム社会は,このような身分・職業の流動性に加えて,人間の移動がきわめて活発に行われてきた社会である。アラブ帝国の成立以後,トルコ人やモンゴル人は征服によって西方への移住を実現し,ペルシア人マワーリーやマムルークは有力者の隷属民としてイスラム社会に組み込まれた。またたとえばイラク,シリア,エジプトを結ぶ交互の移住は,政情の不安や飢饉を契機にして断続的に行われていたし,農民や遊牧民の都市への流入も日常的な現象であった。さらに学問の修得方法についてみても,マドラサの学生は自らの選択に従って法学や伝承学を学び,やがて十分な知識を得れば先生から免許(イジャーザijāza)をもらい受けて,また別の町のマドラサに新しい先生を求めて旅立つのがならわしであった。また東西を結ぶ活発な商業活動や年に1度のメッカ巡礼も,このような人間の移動をさらに促進する要因であったに違いない。ワクフ(寄進財産)によるキャラバンサライの建設に加えて,有力者が一定期間旅人の生活と安全を保障するジワールjiwār(隣人保護)の慣行も生きていたから,旅人が異郷での生活に大きな不便を感じることはなかった。民族や地域の伝統が複雑に入り組んでいたにもかかわらず,イスラム社会がおおむね均質の文化水準を維持することができたのは,人間の移動によって新しい技術や学問の情報が遠隔の地へ迅速に伝えられたからであろう。
ムスリムの生活は,複数の暦をもとにして営まれた。イードと呼ばれるイスラムの二大祭(断食明けの祭と犠牲祭),あるいは預言者の生誕祭(マウリド)などはヒジュラ暦に従って催されたが,農事や地租の徴収は各地に固有な太陽暦によって行われた。たとえばエジプトではナイルが増水する8月末を年初とするコプト暦が使われ,またシリアでは秋を年初とするシリア暦が,イラクやイランでは春分(ノウルーズ)を年初とするペルシア暦が用いられた。近代以降はさらにグレゴリオ暦が加わり,多くの地域で3暦併用の状態が現在まで続いている。
民族や宗教も決して単一ではなかったことが特徴である。歴史上重要な役割を演じたアラブ,ペルシア人(イラン人),トルコ人,モンゴル人,ベルベル以外に,クルド,アルメニア人,ヌビア,スラブ人,グルジア人,ダイラムなどの,いわゆる〈少数民族〉も数多く存在した。宗教別にみれば,イスラム教徒のほかに,人頭税(ジズヤ)の支払を条件に〈啓典の民〉として信仰の自由を保障されたキリスト教徒やユダヤ教徒,あるいはゾロアスター教徒などがおり,しかもイスラム教徒自体がスンナ派,シーア派,アラウィー派,ドルーズ派などの諸分派に分かれていた。これらの民族や宗派は,たとえばペルシア人は書記・文人として,トルコ人は軍人として,ユダヤ教徒は商人・金融業者としてとくに目だった働きをしたように,それぞれ固有な技術や才能を生かしてイスラム社会に独自な地位を占める場合が多かった。民族や宗教がこのように多様であったことに対応して,言語もまた複雑であった。もちろんコーランの言語であるアラビア語は長い間イスラム世界の公用語として用いられ,学問や文学活動もアラビア語によって行われた。しかし10世紀以後になるとイランでは近世ペルシア語が復活し,またトルコ民族の西進につれてトルコ語の使用地域も漸次拡大していった。しかもクルドやアルメニア人,あるいはグルジア人などの間では,それぞれの民族言語が現代にいたるまで絶えることなく使用され続けてきたのである。
ところで,主たる生業が都市の商工業であるにしろ,田舎の農業や牧畜であるにしろ,生活の基礎となる単位はやはり家族(家)であった。父系の血縁グループの集合体である家族は,その集合の度合に応じて大小さまざまであったが,現実の生活は比較的小規模の家族によって営まれた。家族の成員は父親の権威に従い,必要があれば遠い血縁の者にまで援助の手を差し伸べることが求められた。個人主義的な行動の原理が強く生きている社会にあって,家族や一族の緊密な結びつきは,都市やむらの共同体とともに,個人の自由な行動に対する規制力として働いていたといえよう。またイスラム社会には,現実の小家族とは別に,共通の祖先によって結ばれた〈家〉の意識も存在した。たとえばイラクのバルマク家やエジプトのマンマーティーMammātī家は官僚の名家として長い伝統を誇り,マムルーク朝やオスマン朝のアミールはマムルークと擬制的な血縁関係を結ぶことによって一つの家を構成した。
しかし19世紀以降,このような家族や家の観念は大きく揺らぎ始める。産業構造の変化に伴う都市化の進行とむら共同体の崩壊,あるいは西欧市民社会のイデオロギーの流入は,血縁による絆をしだいに弱めずにはおかなかった。また社会変動の波は,人々の行動の規範となっていたイスラムそのものにも及んだ。混合裁判所の設置によってシャリーアが適用される範囲は大幅に制限され,その担い手であるウラマーの役割もしだいに低下していった。イスラム社会の展開以後,ほとんど唯一の社会組織として機能していたタリーカも,19世紀以降は急速に解体化の方向をたどった。近代化を促進するために旧勢力のマムルークは一掃され,農村でもイクター制の施行以後初めての本格的な土地改革が実施されようとしていた。10世紀以降のイスラム社会は,マムルークによる支配とそれを支えるウラマーの社会的役割,イクター制の成立と発展,タリーカによる社会統合などによって特徴づけられる。西アジア,北アフリカの近代諸国家は,非イスラム化の方向をたどるにせよ,イスラム再生の道を選ぶにせよ,これらのすべてを改革の対象に取り上げ,新しい社会とそれにふさわしい価値意識とを模索し始めたのである。
執筆者:佐藤 次高
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(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)
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…アラビア語を用いて創造された文学をさすが,その担い手はアラブ人に限定されず,イスラムとアラビア語の拡大によってイランからイベリア半島まで多くの地域に広がり,その文化的伝統も継承された。アラビア文学とも呼ばれる。…
…西はトバカカール山脈,北はカラコルム,ヒマラヤ両山脈,東はアラカン山脈によって画され,南はインド洋に大きく逆三角形状に突出する一大半島部は,アジア大陸の一部ではあるが,亜大陸とよぶにふさわしい規模と相対的独立性とをもち,インド亜大陸とよばれる。そこは南アジアともよばれ,インド(バーラト),パキスタン・イスラム共和国,バングラデシュ人民共和国,ネパール王国,ブータン,スリランカ民主社会主義共和国およびインド洋上のモルジブ共和国の7ヵ国からなる(現代の各国についてはそれぞれの項を参照)。その総面積は449万km2で,旧ソ連邦を除くヨーロッパ大陸の494万km2にほぼ匹敵する。…
…イスラムに対する中国の称呼。日本でも用いられた。…
…それにもかかわらず信仰が信仰として独立するに至らなかったのは,ギリシアの宗教が多神教で,しかも政治と倫理を媒介することが少なかったためといえる。イスラムでは唯一の人格神による創造と審判が説かれ,神はムハンマドを通して人間にあわれみを伝え,啓示の書たるコーランをもって共同体の規範としたと説かれる。この場合,信仰は人格的対象をもち,かつ現実の生の困難にたえて神への要請にこたえる行為とされるのであるが,信仰があまりにも一点に集中しているため,〈信仰の自由〉や〈信仰と文化〉の問題が起こることはほとんどないのである。…
…近東あるいは中近東と中東とがおのおの指示する範囲において大きなずれが見られるのは,中近東には含まれたバルカンが中東には含まれないで,中近東には含まれなかったマグリブとアラビア半島(ヒジャーズを除く)とが中東に含まれることである。
[中東の構成要素]
〈乾燥地域〉とか〈イスラム圏〉といった概括が,中東の風土や伝統の特徴を言いあてている面のあることは否定できないが,しかし面積において日本の40倍もの空間を占め,北海道からマレーシアまでの広がりに相当する南北の緯度差をもつ中東は,また世界の屋根パミール高原から標高-400mの死海の谷(ヨルダン地溝帯)にまで至る自然環境の多様性を呈しており,また社会や文化もイスラムという宗教によってだけ割り切れるような単純なものではない。確かにイスラムという宗教を生み出し,メッカとメディナ,すなわちハラマイン(二聖都)をもつ中東は,東南アジア,中国,中央アジア,インド亜大陸,アフリカ大陸,さらにバルカンの一部にまで広がるイスラム世界の中心ではあるが,そこには後述するように,ユダヤ教,キリスト教,さらにゾロアスター教など他の宗教に属する諸集団も存在している。…
…【大林 太良】
【社会】
東南アジアでは,たび重なる民族移動,複雑な地形条件から,言語,種族ともにモザイク状に分布している。インドと中国という大文明の中間地帯にあって,さまざまな土着の信仰体系の上に重層した仏教,イスラム,キリスト教が国教ないしはそれに準じた扱いを受け,ポルトガル,スペイン,イギリス,オランダ,フランスとそれぞれ宗主国の異なる旧植民地国の遺産も受け継いでいる。西欧資本主義との遭遇によって生じた社会経済的な亀裂は,二重経済,複合社会,コミュナリズムと名づけられて,現在に至るまでその社会を特色づけている。…
※「イスラム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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