改訂新版 世界大百科事典 「エミリアロマーニャ」の意味・わかりやすい解説
エミリア・ロマーニャ[州]
Emilia-Romagna
イタリア北部の州。面積2万2125km2,人口398万(2001)。州都はボローニャ。南・西部に延びるアペニノ山脈地帯を除き,州の大部分をポー平原が占め,近代的農・畜産業が営まれている。主要農産物は小麦,トウモロコシ,テンサイ,ブドウで,いずれも州別収穫高で1~2位を誇り,乳製品ではパルマのチーズが有名。州の主要都市では鉄道車両,自動車,化繊が生産されている。
この州はエミリア地方とロマーニャ地方から成る。エミリアの名はローマ帝政時代,執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥスにより建設された州を縦断する街道ウィア・アエミリア(リミニ~ピアチェンツァ)に由来する。ラベンナを中心とするロマーニャ地方の名は,東ローマ帝国に征服された土地を意味するRomaniaに由来する。19世紀後半のイタリア王国成立時から,ロマーニャ地方を含めエミリア州の名で行政区を成していたが,1948年のイタリア共和国憲法は現在の州名を採用した。
ローマ帝政時代に,ウィア・アエミリア沿いの都市リミニ,フォルリ,ファエンツァ,ボローニャ,モデナ,パルマはすでに栄えていた。北方から侵入したランゴバルド族と東ローマ帝国との長い領地争奪時代の後,フランク族の王ピピンはボローニャとロマーニャ地方をランゴバルド王国から奪い,755年,教皇に寄進した。フランク族支配下のイタリア王国時代にエミリア地方の多くの都市は司教の勢力下におかれたが,アットニーディ家の領域に属していたモデナ,レッジョ,パルマ,フェラーラは独立を保った。
中世にはこの地方にも多くの自治都市(コムーネ)が誕生し,市民文化を開花させた。特にボローニャは南北を結ぶ交通の要所,商業・学術都市として繁栄した。ルネサンス期に,モデナとレッジョは豪族エステ家,リミニはマラテスタ家に支配された。一方,パルマ,ピアチェンツァは1521年までビスコンティ家のミラノ公国に従属していたが,16世紀中葉,ファルネーゼ家の領地になった。
18世紀にエステ,ファルネーゼ両家の直系継嗣が途絶え,パルマ,ピアチェンツァはスペインのブルボン朝の公領になり,モデナはエステ家と姻戚関係にあったオーストリア王家の支配を受けた。マラテスタ家が没落したリミニや,ラベンナ,ボローニャはすでに16世紀以後,教皇領に編入されていた。ナポレオンの制圧期(1797-1814)後,政治地図は元に戻されたが,イタリア統一運動の気運が高まると,課税が厳しく,さまざまな規制で市民生活が束縛されていた教皇領や,外国の王家に支配されていたパルマ,モデナでも市民が反乱,蜂起し,イタリア国家統一のために戦った。
執筆者:町田 亘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報