知恵蔵 「エルピーダメモリ」の解説
エルピーダメモリ
情報機器の普及に伴い、DRAMは高密度化や大容量化が容易で、かつ低コストな半導体メモリーとして急速に需要が拡大。1980年代には、製造技術に勝る日本が国際間競争で優位とされた。高度成長期の鉄鋼に代わる「産業のコメ」として、米国メーカーを駆逐して世界シェアの8割を日本メーカーが占める花形産業となった。しかし、汎用(はんよう)化が進み製造技術上の優位を失って、90年代後半には韓国などの後発企業の猛追を受ける。激しい価格競争や短い製品サイクルと価格変動に窮し、多くの日本企業は製造からの撤退を余儀なくされた。エルピーダメモリはこのような中で、99年に日立製作所と日本電気のDRAM事業の整理統合により生まれた。当初の社名は「NEC日立メモリ」だが、翌年にはギリシャ語で「希望」を意味する言葉(Elpis)を元に、両社のダイナミック(Dynamic)な事業統合(Association)により設立したとの趣旨から名を「エルピーダ」とした。
設立当初からDRAM価格の下落で業績低迷に苦しむ同社に、2002年に外部から招かれた坂本幸雄社長は、資金調達や生産ライン増設に強気の経営で取り組みシェアを伸ばした。国際的な価格回復もあり、03年には三菱電機のDRAM事業を譲り受け、04年には東京証券取引所市場第一部に株式上場。例年計上していた数百億円の赤字を返上し、黒字をもたらした。同氏は「再生請負人」として、大いにメディアにもてはやされた。一方、DRAM事業は投資負担が重く、世界市場の過半を独占する韓国2社と同社との競争力格差は09年の公的資金導入後も広がっていた。財務体質が改善しないまま、半導体市況の低迷や円高に見舞われ、同社の業績は悪化の一途をたどる。韓国2社に対抗して、業界4位の米国マイクロン・テクノロジー社や5位の台湾の南亜科技との資本・業務提携の模索は難航し、産活法の延長適用が見送られた。このため、自主再建の道は閉ざされ、12年2月には会社更生法の適用を申請した。負債は約4500億円で、製造業の倒産では過去最大という。利益の出にくくなった事業を水平統合して集約する動きは液晶パネル業界などでも見られる。しかし、そのような再編や、公的資金を注入する手法は見直しを迫られている。
(金谷俊秀 ライター / 2012年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報