オリンピック(読み)おりんぴっく(英語表記)Olympic Games

翻訳|Olympic Games

デジタル大辞泉 「オリンピック」の意味・読み・例文・類語

オリンピック(Olympics)

古代ギリシャ人が、オリンピア祭の余興として催した運動・詩・音楽など各種の競技。古代オリンピック。
国際オリンピック委員会(IOC)が主催する、スポーツで最大の国際競技大会。フランス人クーベルタンの提唱により、1896年ギリシャのアテネで第1回大会が催され、以後4年ごとに開かれている。日本の参加は1912年(明治45)の第5回ストックホルム大会からで、1964年(昭和39)には東京で第18回大会が開かれた。近代オリンピック。オリンピアード。五輪。→オリンピック冬季競技大会東京オリンピック
国際的な競技会につける名称。「技能オリンピック
[補説]オリンピック2の開催地
(1)1896:アテネ(ギリシャ)
(2)1900:パリ(フランス)
(3)1904:セントルイス(米国)
(4)1908:ロンドン(英国)
(5)1912:ストックホルム(スウェーデン)
(6)1916:ベルリン(ドイツ)※中止
(7)1920:アントワープ(ベルギー)
(8)1924:パリ(フランス)
(9)1928:アムステルダム(オランダ)
(10)1932:ロサンゼルス(米国)
(11)1936:ベルリン(ドイツ)
(12)1940:東京(日本)※返上→ヘルシンキ(フィンランド)※中止
(13)1944:ロンドン(英国)※中止
(14)1948:ロンドン(英国)
(15)1952:ヘルシンキ(フィンランド)
(16)1956:メルボルン(オーストラリア)・ストックホルム(スウェーデン)
(17)1960:ローマ(イタリア)
(18)1964:東京(日本)
(19)1968:メキシコシティー(メキシコ)
(20)1972:ミュンヘン(西ドイツ)
(21)1976:モントリオール(カナダ)
(22)1980:モスクワ(ソ連)
(23)1984:ロサンゼルス(米国)
(24)1988:ソウル(韓国)
(25)1992:バルセロナ(スペイン)
(26)1996:アトランタ(米国)
(27)2000:シドニー(オーストラリア)
(28)2004:アテネ(ギリシャ)
(29)2008:北京(中国)
(30)2012:ロンドン(英国)
(31)2016:リオデジャネイロ(ブラジル)
(32)2020:東京(日本)※2021年に延期
(33)2024:パリ(フランス)
(34)2028:ロサンゼルス(米国)※予定
(35)2032:ブリスベーン(オーストラリア)※予定

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精選版 日本国語大辞典 「オリンピック」の意味・読み・例文・類語

オリンピック

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] Olympic )
  2. 古代ギリシアのアテナイで、オリンピア祭の折に行なわれた体育や詩、音楽などの競技会。
  3. フランスのクーベルタンの提唱により、一八九六年ギリシアのアテネ大会以来、四年ごとに開かれているスポーツの国際的な競技大会。第八回以降は別に冬季大会も行なわれるようになった。日本は一九一二年の第五回ストックホルム大会から参加。一九六四年の第一八回大会は、アジアでの初の大会として東京で開催された。に対して、特に近代オリンピックともいう。オリンピアード。
  4. 転じて、体育以外の国際競技一般にもいう場合がある。「技能オリンピック」「数学オリンピック」等。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オリンピック」の意味・わかりやすい解説

オリンピック
おりんぴっく
Olympic Games

近代スポーツは19世紀のなかばごろからイギリスで組織され、施設に力を入れたアメリカの選手育成で発展普及してきたが、この各種類のスポーツを総合的に大成させたのがオリンピックであり、古代ギリシアに起源を有するスポーツの祭典を現代に復活させたものである。フランスの貴族クーベルタンはプロイセン・フランス戦争(1870~1871)に敗れた祖国を立て直すために、教育改革を主張しているうち、肉体と精神の調和を目ざす古代ギリシアの体育に魅せられるようになった。1894年IOC(国際オリンピック委員会、International Olympic Committee)を創設し、全世界の青年の平和の祭典としてオリンピックを4年ごとに定期的に開くことに成功した。IOCはすべての国にオリンピックへの参加を呼びかけることとし、また宗教・人種・政治によって差別待遇をすることを厳禁した。それに対し一部の国家からの抗議もあったが、それを克服したことがオリンピックを確固たるものにした。20世紀初頭を中心に各競技もそれぞれIF(国際競技連盟、International Sports Federation)を組織し、国際的に通用する競技規則を規定した。1980年代にはIOCに政治的な問題が持ち込まれ、その伝統が動揺した。1980年のモスクワ大会では、ソ連のアフガニスタン侵攻への抗議から諸大国の不参加という事態を招いた。それに対抗するかのように、1984年のロサンゼルス大会では、ソ連・東欧圏諸国を中心に不参加国が出た。また、各IFや各国NOC(国内オリンピック委員会、National Olympic Committee)の発言力も強くなっている。しかし、そのような状況下においても、IOCが公認する地域大会(アジア競技大会、パン・アメリカン競技大会など)を含め、世界のすべての競技会が、オリンピックを唯一の典型としているのは、その伝統的な実力を示すものである。1988年のソウル大会からは、この種の問題もなく開催されている。

[鈴木良徳]

古代オリンピア祭

一般に古代オリンピックとよばれているが、古代ギリシアの祭典競技であり、定説によればおよそ1200年にわたり定期的に催された。

 紀元前13世紀から始まったインド・ヨーロッパ語族の移動の第二陣がペロポネソス半島に定着したころから、オリンポス山の神々への奉納祭典に変化が生じてきた。トロヤ戦争を経た後に、英雄の葬礼や陣中の慰安のため軍技競技が行われ、これが祭典の行事に加えられるようになった。オリンピアで主神ゼウスを祭ったオリンピア祭は前776年に復活されたといわれるが、その起源は古くドーリス人の間で行われていた祭儀であるとするのが定説である。復活の年については、そのころフェニキアから文字が伝わって優勝者名が記録され始めたのが前776年の大会であり、それを第1回としたという説や、前1580年、前1195年、前884年を各創始年とする諸説がある。その後、デルフォイのアポロン神域で行われたピティアPythia祭(前582)、コリントスの海神ポセイドンを祭るイストミアIsthmia地峡祭(前582)、ゼウスのためのネメアNemea祭(前573)が始まり、これをギリシアの四大祭典競技という。オリンピアは半島の北西部の辺境にあったので内乱や興亡にあまり影響されず、オリンピア祭は紀元393年ローマの属州時代まで続いた。祭典は理由は明確でないが4年ごとに行われ、のちにシチリアのティーマイオス(前356?~前260?)などが、この4年を1オリンピアードOlympiadと名づけた。大会はその第1年に開かれ、記録のあるものとしては293回続いた。ただしJ・トインビーによると、非公式の「かくれオリンピア祭」が9世紀の終わりごろまでタイナロン岬で行われていたとしている。

 他のギリシアの神域がそうであったようにオリンピアも狭かった(約2万5000平方メートル)ので、初めは短距離(1スタディオン、オリンピアでは191.27メートル)1種目で、前724年から、中距離競走、長距離競走、五種競技(幅跳び、円盤投げ、短距離競走、やり投げ、レスリング)、レスリング、ボクシングの順に徐々に加えられ、英雄時代から盛んであった戦車競走や競馬は前7世紀になってからであった。その後パンクラチオン(レスリングとボクシングを合成したような競技)、武装競走、ラッパ手競技、伝令競技が行われたが、戦車競走には二頭立て、四頭立てや駿馬(しゅんめ)、ラバなどの種別があり、競馬にも種別があったので、全大会を通じて行われたのは約19種目。ほかに、ほぼ満18歳以下の少年の競技が前7世紀から始まり、短距離競走、レスリング、五種競技、ボクシング、パンクラチオンの5種目があった。一つの大会で全競技行われたのではなく、全盛期でもだいたい十数競技といわれる。

 祭典の時期は7月から9月(そのころのギリシアの1月から3月)の盛夏に開かれ、22回大会(前692)まで会期は1日のみであったが、前5世紀のなかばペルシアに勝ってギリシアの最盛期を迎え、オリンピア祭の会期も5日間と盛大になった。5日のうちには選手の宣誓式、祭儀、優勝者の招宴などが行われたが、その1日はかならず満月にあたっていた。豪華を極めるようになったオリンピア祭は政治家、軍人、文人の宣伝の場となり、参加各都市はその名誉のためには不正手段を使っても勝つことに熱中し、有望選手の引き抜き、審判(初め1人であったが、最盛期には12人となる)や相手選手を買収するなど、内部的には腐敗しきっていた。

 参加資格は厳重で、純血のギリシア人で市民権を有すること、刑罰を受けたことがないこと、神に不敬の行いのないことのほか、最盛期には、自分の都市で訓練を受け、祭礼の前にはペロポネソス半島のエーリス地方で1か月の強化合宿を受け、その成績によって参加が判定された。市民権のない女子は参加できないばかりか、競技を見物することも厳禁されていた。参加者は戦車や馬の御者以外は全裸で試合をした。競技の規則も定められ、格闘競技で相手を殺すと判定負けとなり罰金が科せられ、目の中に指を突っ込むことや股間(こかん)を蹴(け)り上げることも禁じられていた。優勝者1人が決定され、それ以外の順位は認められなかった。優勝者の特権は、公式的にはオリーブの葉冠と大会の最後の日に神域の祝宴に招待されるだけであったが、実際には、自分の都市に帰ったときには社会的な地位と多額の賞金が贈られ、それが、スカウトされて他の都市に買われていく選手を生んで、大会を汚濁していった。また優勝者の記録の公認などはなかった。なお各都市は祭礼を高く評価していたため、ペルシア戦争に勝ったころまでは、祭典の前後3か月はいっさいの武力闘争を中止するという取り決めが各都市間でよく守られていた。しかしこれも第二次アッティカ海上同盟(前377)ごろから崩れ、会期中でさえオリンピアが兵火にみまわれた(前364)。ギリシア人一般に体育よりも弁説を尊ぶ風潮が出てきたことも見逃せない。アテネの体操場などで若者たちと哲学的会話を楽しんだソクラテスの罪状が、若者を肉体的鍛錬から離れさせ、好ましくない方向に導いたというものであったことは、この風潮が為政者にとって無視しえない影響力があったことを示している。マケドニアのフィリッポス2世が、彼による征服を恐れるギリシア人観衆の不興の視線のなかで競馬に優勝(前356)したのは、非ギリシア人として最初であった。その子アレクサンドロス大王は全ギリシアを統治下に置いたが、彼自身は競技に父ほどの興味を示さなかった。その後、ギリシアはローマに征服され、あるときは成年選手全部がローマに運ばれて、オリンピアでは少年競技だけが行われ(前80)、ネロの参加のために祭典が2年遅れる(後67)こともあり、祭典は名実ともに堕落した。

 肉体を単なる魂の奴隷として軽視した初期キリスト教がローマ帝国内で着実に地歩を占め、紀元380年にテオドシウス帝はキリスト教を国教と定めて異教を弾圧した。最後に開かれた大会の翌年の394年にはオリンピア祭も禁止され、その後まもなく神殿は破壊された。フェイディアス作の金と象牙(ぞうげ)でできたゼウス像は運び去られ、オリンピアはまったくの廃墟(はいきょ)となり、さらに大地震や洪水で長く地中に埋没することとなった。19世紀の初めまでオリンピアの所在が不明であったのは、このあたりの地名が入植した人々の言語であるスラブ語に変わっていたためであった。

 競技者として有名なのは、レオーニダス(競走)、ピロムプロトス(五種競技)、キオーニス(競走)、ヒッポステーネス(レスリング)、ミローン(レスリング)、ティーサンドロス(ボクシング)、ドリエウス(パンクラチオン)、テアゲネス(レスリング)、エウテューメネース(レスリング)、カイローン(レスリング)らがあげられる。彼らのなかには、オリンピア祭典だけでなく、ピティア祭など他の祭典競技で優勝した者もいる。また、数多い観覧者のなかにはピタゴラス、ヘロドトス、トゥキディデス、プラトン、ディオゲネスなどの著名人がいたことが種々の文献に記録されている。

[鈴木良徳]

近代オリンピックの胎動

近代オリンピックの淵源(えんげん)はルネサンスに始まる。ルネサンスにより古代体育は再評価され、啓蒙(けいもう)主義がこれに拍車をかけた。さらに18世紀からの古典主義の思潮は、古代ギリシア・ローマ文化への関心を駆り立てた。その初期の鼓吹者ウィンケルマンは実際にオリンピアの発掘を志したが、中途で倒れた。彼の死の2年前の1766年には、イギリス人チャンドラーRichard Chandler(1738―1810)がオリンピア廃墟をみつけたが、トルコ政府の国外退去命令で発掘を断念しなければならなかった。このギリシアに対するヨーロッパ人の熱い思いは、独立軍に参加したバイロンなどの個人的行動だけでなく、1821~1829年のギリシア独立戦争に対するイギリス、フランスなどの国家的軍事援助の原動力の一つとなっていた。トルコに対する勝利ののち、バイエルンの王子からギリシア国王に迎えられたオットー1世Otto Ⅰ(1815―1867、在位1832~1862)は、フランス隊によるオリンピア発掘(1827~1829)、体育史家クラウゼJ. H. Krauzeの著書『オリンピア』の発刊(1838)、ベルリンにおけるクルティウスErnst Curtius(1814―1896)のペロポネソス半島旅行報告(1852)などに刺激されて、オリンピックの復活を計画し、1859年に第1回大会を開いた。しかし近代的スポーツの知識がなく失敗。第2回は1870年に開かれたが、これまた失敗に終わった。第3回はドイツ皇室が後援したクルティウス指揮のオリンピア発掘隊がギリシアに到着した1875年に開催されたが、参加者わずか24名。競走、幅跳び、三段跳び、やり投げ、円盤投げ、レスリング、棒登りが行われたが、成功とはいえなかった。ついで第4回は1889年、国王ゲオルグ1世の祝賀式典に時をあわせて行われた。この4回でギリシア独立記念復活オリンピックといわれる大会にピリオドが打たれた。

 その後うずもれた古代ギリシアの遺跡発掘で古代オリンピア祭の輪郭がはっきりしてきたこともあり、体育による文教政策を実行しようとしていたクーベルタンは、1892年11月、これを復興させるためオリンピック競技大会を初めて提唱したが、ほとんど反響がなかった。1894年6月アマチュア問題を主要な議題として会場のパリ大学ソルボンヌ講堂に集まった12か国代表の前で、同月23日にクーベルタンはオリンピック競技復活を再度提案した。今回は、会場で、前年の1893年にデルフォイで発見されたアポロン讃歌にメロディをつけて歌手に歌わせるなどのムード作りが効を奏したのか、満場一致で大会の実施を決議、運営にあたるIOCを組織し、委員の選任はクーベルタンに一任された。これらの手順や選考にあたってクーベルタンは、ペリクレス(前495ころ―前429)時代の古代オリンピックの運営を参考にしたといわれる。クーベルタンは世界各国一流の政治家、軍人を推し、13か国15人を選んで推進に拍車をかけた。この6月23日を記念したのが「オリンピック・デー」である。

[鈴木良徳]

近代オリンピック

第1回大会(1896・アテネ)

会期ギリシア暦4月6日(太陽暦3月25日)~15日。参加国14、選手数241。ギリシア国民は、1896年にオリンピック大会をアテネで開催するというクーベルタンらの決定を歓迎した。しかし政府は、破産状態に近い財政などを考慮して冷淡な態度をとった。そのためクーベルタンはコンスタンティン皇太子(1960年ローマ大会ヨット部門の優勝者コンスタンティン皇太子(1940― )の祖父)を通してゲオルグ国王を動かし開催を決定させた。そして皇太子を長とする委員会をつくり、資金面などの対策をとることとなった。結果は、アレクサンドリア在住のギリシア人富豪アベロフGeorge M. Averoff(1815―1899)が92万ドラクマを寄付して主競技場を建設するなど目覚ましいものがあった。この主競技場は、古代競技場跡に大理石の近代造りとし、5万人を収容できる豪華なもので、走路は現在と逆の右回りの急カーブながら、1周400メートルのものであった。室内競技は、ルーマニア在住のE・ザッパスEvangelos Zappas(1800―1865)の遺志に従って従弟(いとこ)のK・ザッパスKonstantinos Zappas(1814―1892)が1887年に寄贈した室内体育館ザッペイオンで行われた。開会式には会場の内外に8万人が押しかけ、国王の開会の宣言のあと、パラマスKostis Palamas(1859―1943)が作詩、サマラスSpiro Samara(1861―1917)の作曲したオリンピック讃歌が歌われた。競技は陸上競技、体操、ウエイトリフティング、フェンシング、ボート、競泳、自転車、レスリング、テニス、射撃の10競技、43種目と発表されたが、ほかに予定していた水球、馬術、クリケットは取りやめ、ボートは荒天で中止となった。これら競技種目の内容については、古代ギリシアよりも、むしろクーベルタンが熱心に研究したイギリスのスポーツの影響が濃かった。本大会では優勝者と2位の者のみが賞を得た。優勝者は賞状、銀メダル、オリーブの冠、2位の者は賞状、ブロンズ(青銅)メダル、月桂樹(げっけいじゅ)の冠がその内容である。ギリシア人が伝統の競技と信じていた円盤投げをはじめ、水・陸競技の優勝はアメリカ人その他の外国勢に占められたので、彼らの落胆は大きかった。しかし古代ギリシアの栄光をたたえて加えられた、マラトンからアテネまでの距離39.909キロメートルのマラソン(フランス人でフランス学士院のブレアルMichel Bréal(1832―1915)の発案による。古代ギリシアではこのような長距離の競走はなかった)で、ギリシア人のスピリドン・ルイスSpyridon Louis(1873―1940)が力走して優勝、ギリシア全土を熱狂させた。アテネは近代オリンピックの出発をみごとに飾ったといってよい。優勝数(1)アメリカ11、(2)ギリシア10、(3)ドイツ7。

[鈴木良徳]

第2回大会(1900・パリ)

5月14日~10月28日。参加国24、選手数997。この年パリで開かれる万国博覧会と共同主催で行うことがクーベルタンの意向であった。しかし、フランス陸上協会との反目、博覧会当局の無理解、オリンピック知識の欠如などから、混乱に始まり混乱に終わった大会であった。IOCは運営費にも事欠き、最後には、ブローニュの森のフランス・レーシング・クラブのグラス・コートを借りて陸上競技のみを行う始末であった。他の競技は万国博の付属競技会の名目で、最高4000フランから15フランの賞金が懸けられた。競技記録にも不明確な点があり、オリンピック大会の真意に沿わぬ大会であった。イギリスのクーパーCharlotte Cooper(1870―1966)が女子テニスのシングルスでオリンピック史上最初の女性優勝者となった。優勝数(1)アメリカ19、(2)フランス13、(3)イギリス11。しかし、この数字は明確とはいえない。

 また、この大会から、初代会長のビケラスDemetrius Vikelas(1835―1908、ギリシア)にかわって、クーベルタンがIOC第2代会長となった。

[鈴木良徳]

第3回大会(1904・セントルイス)

会期7月1日~11月23日。ただし、開会式は陸上競技開始の8月29日に行われた。参加国12、選手数651。前2回の大会で活躍したアメリカに報いるため大会は大西洋を渡った。シカゴとセントルイスが招致を争ったが、新大統領T・ルーズベルトの裁定で後者に決まった。フランスは派遣費の調達ができないという理由で参加しなかった。前大会の失敗にもかかわらず本大会もルイジアナ購入100年記念博覧会の余興的競技会として扱われ、飛行船ツェッペリンや無線電信が人気の的となった。加えて、おりから行われていたアメリカ陸上競技選手権大会に関心が集まった結果、寂しい大会となった。しかしアメリカの進んだスポーツ施設と用具は、ヨーロッパへの大きな刺激となった。競技はまたもアメリカの独壇場となったが、マラソンで珍事件が起こった。アメリカのローツFred Lorz(1884―1914)が炎天下のスタジアムに悠々と到着し歓呼のうちにゴールインした。大統領令嬢との記念撮影も済み、結果が発表されたあと、実はローツは20キロメートル地点で強い暑熱のため落後し伴走の自動車に収容されて元気回復、故障で自動車が止まっている間にまた走り出して「優勝」したことが判明。本物の1着であるアメリカのヒックスTomas Hicks(1875―1963)に金メダルが与えられた。これがいまに残る「きせるマラソン」として有名な珍話である。この大会の会場は主としてワシントン大学で、飛込などはドイツ選手の指導でミシシッピ川を使った。大学の東に接するフォレスト公園が博覧会場で、そこには急造のホテルがつくられた。一部の競技者も宿泊したのでオリンピック村の元祖といわれている。優勝数(1)アメリカ70、(2)キューバ5、(3)ドイツ4。

[鈴木良徳]

アテネ国際競技会(1906・アテネ)

第二次世界大戦前までは、オリンピック中間大会とよばれたもので、戦後は正式大会からは除外されている。第1回大会後、以後の大会もギリシアで開催すべきというギリシア人の熱狂的な雰囲気により、クーベルタンは次期大会開催地を容易には決定できなかった。彼は世論の緩和策として、4年ごとの中間年にアテネで特別大会を開催するという約束をギリシア皇太子と結び、それを受けて開かれたものである。前回の大会がアメリカだったので、多くのヨーロッパ諸国がこぞって参加した。参加国22、選手数883。

[鈴木良徳]

第4回大会(1908・ロンドン)

会期4月27日~10月31日。参加国22、選手数2008。この大会も英仏博覧会と同時開催だったが、博覧会からは資金を借りただけで運営された。競技運営を関係競技団体に任せて行い、競技ルールもかなり整備されるなど、次回のストックホルム大会とともに、以後の大会運営の基礎をつくった大会として評価されている。それまでの自由な参加申込方式を廃し、各国に各競技の国内統轄団体NOCを組織し、そこを通した申込みだけを認めることとした。開会式には各国の国旗を先頭に入場行進が行われた。また、初めてOOC(大会組織委員会、Olympic Organizing Committee)が、大会運営のため組織されることになった。ただこの大会では二大スポーツ国であるイギリス、アメリカの独立戦争以来の感情的軋轢(あつれき)が最高潮に達した時期で、アマチュア資格問題、競技規則問題などで感情を対立させ、多くのトラブルを起こした。これを見かねたセント・ポール寺院のペンシルベニア司教タルボットEthelert Talbot(1848―1928)が日曜のミサに集まった各国選手に「オリンピックで重要なことは勝つことでなく参加することである」と説教した。これに感動したクーベルタンは、のちにこのことばをオリンピックの理想とした。なお、オリンピック・モットーとしての「より速くcitiusより高くaltiusより強くfortius」は、ドミニコ教団のディドン神父Henri Didon(1840―1900)が発案したもので、クーベルタンが1897年から採用したが、IOCで公認されたのは1926年である。マラソンはこの大会で初めて42.195キロメートルコースを走ったが、「ドランドの悲劇」とよばれる事件が起きた。競技場に到着したイタリアのドランドDorando Pietri(1885―1942)が倒れ、役員らに介抱されつつゴールインしたが、そのことが反則とされ、優勝が取り消された。イギリスのアレクサンドラ皇后Alexandra(1884―1925)がこれに同情し、彼に金カップを贈ってその労をねぎらったという。このときのマラソンの距離が第8回大会以後正規の距離となった。冬季競技のフィギュアスケートが初登場したのも一つの話題である。優勝数(1)イギリス56、(2)アメリカ23、(3)スウェーデン7。

[鈴木良徳]

第5回大会(1912・ストックホルム)

会期5月5日~7月27日。参加国28、選手数2407。IOC創設以来協力したスウェーデン王室が先頭にたち、主競技場新設などにも国家や市の協力があり、陸上競技では電気時計での記録計測や、決勝の写真判定器採用などがあり、オリンピックもようやく本格的に運営され始めた。前大会に次いでヨーロッパの皇帝、王室、貴族などから各種の賞品も授与された。また、この大会から陸上競技に五種と十種の混成競技、新しく近代五種競技と馬術、女子種目としての水泳、さらに古代オリンピア祭に倣って絵画コンクールなどの芸術競技が追加された。ボクシングはスウェーデンの国内法の禁止規定により行われなかった。陸上競技の長距離で帝政ロシアの支配下にあったフィンランドのコーレマイネンHannes Kolehmainen(1889―1966)が5000メートル競走、1万メートル競走、8000メートルクロスカントリーの3種目に優勝、注目を浴びた。ハワイ出身のカハナモクDuke Paoa Kahanamoku(1890―1968)が水泳でクロール泳法をみせて100メートルに優勝、またアメリカ先住民出身のジム・ソープJim Thorpe(1888―1953)が混成2種目に優勝、有色人種の活躍が目だち始めたのもこの大会からであった。しかしソープは、かつて野球のプロ行為に関係していたと認定され、翌1913年のIOC総会でアマチュア資格を剥奪(はくだつ)され、金メダルの返還を命ぜられた。メダルを返上させられた第一号であったが、1982年10月になって彼の姉妹やフォード元大統領の復権運動が実り、失格が取り消された。

 1909年にIOC委員に選ばれた嘉納治五郎(かのうじごろう)の努力で、日本はこの第5回大会から参加することになった。当時日本のスポーツ界は学生中心で組織もなかったので、1911年(明治44)に大日本体育協会(国際的には日本オリンピック委員会Japanese Olympic Committee略してJOCという)を創立し、予選会を開いた結果、短距離の三島弥彦(みしまやひこ)(東京帝大)とマラソンの金栗四三(かなくりしそう)(東京高師)を派遣することにした。金栗は予選会で当時の世界記録を破る大記録で走り大いに期待されたが、大会のマラソン走行中に腹痛をおこしレースを棄権、三島も400メートル予選を通過しただけで、第二次予選に出ても勝つ見込みがないとして棄権してしまった。優勝数(1)スウェーデン24、アメリカ24、(3)イギリス10。

[鈴木良徳]

第6回大会(1916・ベルリン)

1914年6月13日からパリでIOC創設20周年記念式典が行われたとき、クーベルタンは「オリンピック旗」を考案した。6月28日にサライエボ事件(サラエボ事件)が突発、第一次世界大戦となり、ついにベルリン大会は中止となった。

 1915年にIOCはスイスのローザンヌに移り恒久的な本部を置いた。

[鈴木良徳]

第7回大会(1920・アントワープ)

会期4月20日~9月12日。参加国29、選手数2626。戦禍を被って荒廃したベルギーの青年たちへ心の糧(かて)として贈られた大会で、準備期間は短かったが、のちにIOC会長となるラトゥールHenri de Baillet-Latour(1876―1942)を組織委員長として3万人収容の主競技場や沼を仕切ったプールの築造、テニスコートには全天候型のアンツーカーを採用するなど最大の努力が払われた。この大会では、戦争責任を問う意味でドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコの参加は許されなかったが、第一次世界大戦の結果独立したバルト三国、チェコスロバキアなどが参加した。フィンランドも完全な独立国として初めて参加した。メーンポールには新創案のオリンピック旗が翻り、古代オリンピア祭に倣う選手宣誓も行われ、以後選手宣誓は世界的流行となった。「飛ぶフィンランド人」といわれたヌルミが、1万メートル競走、1万メートルクロスカントリーで優勝。第5回大会の勇者コーレマイネンがマラソンを制覇したことなどが話題となった。日本は各種競技に15人の選手を送ったが、体育協会は代表団の大部分を米英回りで派遣した。名目は先進国の視察だったが、実は在留邦人から寄付を集めるのが目的だった。この大会ではテニスの熊谷一弥(くまがいいちや)がシングルスで、また柏尾誠一郎(かしわおせいいちろう)(1892―1962)とともにダブルスで銀メダルを獲得し日本初のメダリストとなった。優勝数(1)アメリカ41、(2)スウェーデン17、(3)フィンランド14。

[鈴木良徳]

第8回大会(1924・パリ)

会期5月4日~7月27日。参加国44、選手数3089。パリ郊外コロンブの新設競技場には初めてマイクロホンが設備され、近くにオリンピック村が仮設された。1戸4人収容の木造バラックだったが、少数チームには便利な施設であった。大会に先だち、1月25日から2月5日まで南フランスのシャモニー・モンブランで、この大会の前哨(ぜんしょう)戦ともいえる冬季大会が催された。のちに公認されて第1回冬季大会となった。競技はいずれも熱を帯び、サッカーでウルグアイ、ポロでアルゼンチンが欧米チームを破り、予期しない国の活躍は大会のムードを盛り上げた。しかし、各競技の王座は依然アメリカが確保した。特筆されるのはフィンランドのヌルミで、1500メートル競走で優勝した30分後に5000メートル競走に出場して優勝した。のちに映画俳優となりターザン役で名を売ったアメリカのワイズミューラーJohnny Weissmuller(1904―1984)が水泳競技で活躍したのもこの大会であった。また、この大会からマラソンの距離が42.195キロメートルに一定され、テニスがオリンピック種目から姿を消した。日本は19人の選手を送った。陸上では織田幹雄(おだみきお)が三段跳びで6位に食い込み、水泳では高石勝男(1906―1966)が100メートル自由形で5位、1500メートル自由形で5位、斎藤魏洋(さいとうぎよう)(1902―1944)が100メートル背泳で6位、800メートルリレーは4位であった。レスリングではペンシルベニア大学学生の内藤克俊(1895―1969)がフェザー級のフリー・スタイルで3位入賞など、日本スポーツ界はここに萌芽(ほうが)期を迎えた。優勝数(1)アメリカ45、(2)フランス・フィンランド各14。

 翌1925年、IOCはオリンピック憲章を正式に公布、それを機会にクーベルタンは引退して終身名誉会長となり、ベルギーのラトゥールが第3代会長となった。

[鈴木良徳]

第9回大会(1928・アムステルダム)

会期5月17日~8月12日。参加国46、選手数2883。開催国オランダは準備の途中で、オリンピックが非キリスト教的であるとする反対意見のため、国の補助金支出ができなくなり、資金難で一時開催が危ぶまれたが、インドネシアなど植民地在住のオランダ人の援助が契機となり、施設が完備した。主競技場は全天候型のアンツーカー舗装であったが、会期中は多雨低温に悩まされ、開会式2日前に完成したこともあって軟弱であった。大会は、16年ぶりに敗戦国ドイツ、オーストリアなどが参加し、陸上競技で初めて女子競技も行われることになった。主競技場に建てられたマラソン塔には、会期中オリンピックの火が燃え続けた。本大会から、開会式の行進の先頭にギリシアがたつことになった。またインドがホッケーで初優勝(第16回大会まで優勝を続けることとなる)、サッカーではウルグアイが前回に引き続き優勝した。この大会は日本にとっても初の金メダル獲得者が出る画期的なものとなった。日本は女子1人(人見絹枝(ひとみきぬえ))を含む43人の選手を送ったが、織田幹雄が三段跳びで優勝、南部忠平(なんぶちゅうへい)は4位。走高跳びでは木村一夫が、棒高跳びでは中沢米太郎(1903―1984)がともに6位を占め、マラソンでは山田兼松(1903―1977)が4位、津田晴一郎(1906―1991)が6位となった。初めて出場した人見絹枝は800メートル競走で2位を獲得した。しかし、この種目は女子選手の消耗ぶりがあまりにも激しいとされ、第17回大会まで行われなかった。一方、水泳も鶴田義行(つるたよしゆき)(1903―1986)が200メートル平泳ぎにオリンピック新記録で優勝、高石勝男(1906―1966)が100メートル自由形で3位、入江稔夫(いりえとしお)(1911―1974)が100メートル背泳で4位、800メートルリレーでも2位を獲得した活躍ぶりは、水泳日本を世界に印象づけることとなった。優勝数(1)アメリカ22、(2)ドイツ11、(3)フランス7。

[鈴木良徳]

第10回大会(1932・ロサンゼルス)

開会式7月30日~閉会式8月14日。参加国37、選手数1332。開催が決まってから9年間の準備期間を経て、大会3年前に完成していたオリンピック公園、10万5000人収容の大競技場(1984年の第23回大会もここが主競技場)、プール、それに美術館、オーディトリアムなど付属施設も当時最大のもので、民間の手で豪華な大会を運営した最初の大会ともいえた。またコテージ風のオリンピック村は男子の役員・選手を全員宿泊させるりっぱなものであった。しかしアメリカ大陸に渡るという資金難から、ヨーロッパからの参加国が少なかった。日本は131人(うち女子16)という大量の選手を派遣し、優勝7、メダル獲得数18という成果を収め、初参加から20年で初めてスポーツにおいて国際的な地位を得た。とくに競泳では男子6種目中5種目に優勝し、陸上では三段跳びで南部忠平が優勝。アメリカが優勝を独占していた棒高跳びでは、西田修平がアメリカのミラーWilliam Waring Miller(1912―2008)と一騎打ちを演じて少差で2位であった。また馬術では西竹一(にしたけいち)がウラヌス号に騎乗して、大賞典障害飛越競技の覇者となった。優勝数(1)アメリカ44、(2)イタリア12、(3)フランス11。

[鈴木良徳]

第11回大会(1936・ベルリン)

開会式8月1日~閉会式8月16日。参加国49、選手数3963。ナチス総統である独裁者ヒトラーが国威宣揚を念頭に準備したこの大会は、オリンピック史上初めてすべての面に強い軍の協力があり、第10回大会をしのぐ豪壮な設備を整えた大祭典となった。反面、ナチ党旗のハーケンクロイツを初めてドイツ国旗として使用し、会場の内外に氾濫(はんらん)させるなど政治色の強い大会であった。古代ギリシアをしのぶように優勝者には金メダルのほかオリーブとカシの苗木を与えた。初めてトーチリレーが行われた。ギリシアの神殿跡で太陽の光線からとった火が、青年たちによって会場のベルリンまで運ばれた。本大会では、ドイツ軍参謀本部の兵要地誌調査に悪用されたとはいえ、のちにこのトーチリレーはオリンピックには欠くことのできない象徴的な儀式となった。競技内容も充実し、世界・オリンピック新記録が150以上も生まれ、世界記録の大会とよばれた。多くの英雄が生まれたが、短距離、走幅跳び、400メートルリレーに三つの世界記録を出し四つの金メダルを獲得したアメリカのオーエンスがとくに有名。経費を惜しまずにレニ・リーフェンシュタールが制作したオリンピック記録映画『民族の祭典』と『美の祭典』が知られる。日本も東京大会招致を目ざして179人(うち女子17)の選手が参加し、水陸とも大活躍をした。棒高跳びでは西田修平と大江季雄(おおえすえお)がアメリカのメドウスEarle Elmer Meadows(1913―1992)と延々5時間の熱闘を演じ、2、3位を分けあった。のち両選手は銀と銅のメダルを半分に切って継ぎ合わせ、各自が所持するという「友情のメダル」が生まれた。また、長距離2種目で村社講平(むらこそこうへい)はいずれも4位とはいえ、強豪の北欧選手に伍(ご)しての奮闘は国際的な反響をよんだ。マラソンでは、朝鮮出身の孫基禎(そんきてい/ソンキジョン)が金メダルを獲得した。さらに女子水泳の前畑秀子(のち、兵藤秀子)が200メートル平泳ぎで、ドイツのゲネンゲルMartha Genenger(1911―1995)と大接戦を展開、日本の女子選手として初の金メダルを獲得した。実況放送を担当したNHKアナウンサー河西三省(かさいみつみ)(1898―1970)の「前畑がんばれ」の絶叫は、競技が行われたのが日本時間の深夜であったにもかかわらず、日本国民の興奮をよんだ。優勝数(1)ドイツ38、(2)アメリカ24、(3)ハンガリー10。

 なお、この大会後の1937年にクーベルタンがジュネーブで死去した。

[鈴木良徳]

第12回大会(1940・東京―ヘルシンキ)

東京大会は1938年(昭和13)7月15日、日中戦争を理由に返上を閣議決定。ヘルシンキに変更されたが、第二次世界大戦が起こり中止。冬季大会も札幌開催が内定していたが、中止となった。

 IOC会長ラトゥールが1942年死去し、ストックホルム大会で運営に尽力したエドストレームJ. Sigfrid Edström(1870―1964)が副会長のまま実権を握り、1946年正式に第4代IOC会長となった。

[鈴木良徳]

第13回大会(1944・ロンドン)

第二次世界大戦のため中止となる。

[鈴木良徳]

第14回大会(1948・ロンドン)

開会式7月29日~閉会式8月14日。参加国59、選手数4104。ドイツの爆撃で大きな被害を受けたロンドンでの開催は、運営も設備もかなり苦しかったが、各国の協力と新興国の参加でベルリン大会よりはるかに多数が集まった。日本はドイツとともに枢軸国であったという理由で参加できなかったが、いち早く降伏したイタリアは参加した。またトーチリレーはナチスのまねであるとして反対され、さらにオリンピック無用論まで飛び出したが、競技が進むにつれ、この極論は影を潜めた。競技内容は低調だったが、話題をまいたのはオランダのブランカース・クンとチェコスロバキアのザトペックであった。二児の母親クンは100メートル競走、200メートル競走、80メートル障害の3種目に優勝、400メートルリレーのアンカーも務め3人を抜いてゴールイン、4個の金メダルを得た。ザトペックは1万メートルに優勝、5000メートルで2位になった。優勝数(1)アメリカ38、(2)スウェーデン17、(3)フィンランド10。

 1951年のIOC総会でソ連のNOCが承認された。

[鈴木良徳]

第15回大会(1952・ヘルシンキ)

開会式7月19日~閉会式8月3日。参加国69、選手数4955。北ヨーロッパの小国であるフィンランドは、第二次世界大戦でソ連に敗れてカレリア地方などの領土を失い、賠償金を支払いながらも、十数年前からの熱望がかない、オリンピック招致に成功した。長い間準備していた施設を利用し、質実な国民性と相まって、よく組織された大会を開いた。日本とドイツもふたたび大会の招待を受け、日本から72人(うち女子11)の選手が参加した。この大会からソ連がロシア革命以来初めて参加したが、体操をはじめとしてその競技レベルは高く、アメリカの好敵手となった。またIOCに加盟していなかった中華人民共和国の選手1人が好意的に競泳に出場を許された。中国は翌1953年IOCに加盟、1957年に脱退した。戦前のオリンピックで活躍した地元の英雄ヌルミがトーチリレーの最終走者になって大会を盛り上げ、競技ではザトペックが5000メートル、1万メートル、マラソンの3種目で優勝した。

 日本は期待の「フジヤマのトビウオ」古橋広之進が振るわなかったが、レスリングでは石井庄八(いしいしょうはち)(1926―1980)がフリースタイルバンタム級で金メダル、体操も好成績を収めた。芸術競技は、この大会から芸術展示となって、優劣を争うことをやめた。優勝数(1)アメリカ40、(2)ソ連22、(3)ハンガリー16。

 また、この年ブランデージが第5代IOC会長となった。

[鈴木良徳]

第16回大会(1956・メルボルン。馬術のみストックホルム)

開会式11月22日~閉会式12月8日。参加国72、選手数3314。南半球での初の大会であったが、IOCはこの決定のとき重大なミスを犯した。オーストラリアの法律では馬の移輸入に6か月の検疫期間があることに気づかなかったのである。そのため馬術競技だけが29か国チームを集め、6月10日から17日まで、ストックホルムで開かれるという、一都市開催を規定した憲章に違反する変則的な形となってしまった。メルボルンの準備も、一時放棄の段階にきたと思われるほど進捗(しんちょく)しなかった。大会直前スエズとハンガリーに動乱が起こり、大会出場のハンガリー選手のアメリカ亡命事件や、水球におけるハンガリー対ソ連戦での乱闘事件などが起きた。競技はソ連とアメリカの白熱戦に終始したが、水泳で地元オーストラリアが男女13種目中8種目に優勝した。日本は117人(うち女子16)の選手が参加、体操の小野喬(おのたかし)(1931― )が鉄棒で金メダルを獲得するなど、注目を集めた。レスリングでは笹原正三(ささはらしょうぞう)(1929―2023)、池田三男(1935―2002)が優勝。

 ストックホルムでの馬術競技は、ヨーロッパ王室を一堂に集め、中世騎士道華やかな時代を再現した形であった。馬術だけの優勝数は(1)スウェーデン3、(2)ドイツ2、(3)イギリス1であった。優勝数(1)ソ連37、(2)アメリカ32、(3)オーストラリア13。

[鈴木良徳]

第17回大会(1960・ローマ)

開会式8月25日~閉会式9月11日。参加国83、選手数5338。ローマはオリンピックが始まってから第4回大会にも立候補したが、国内事情で辞退、1940年の第12回大会は東京に譲るなど、ヘレニズム世界の中心都市としては恵まれない立場にいた。待望の機会到来に、ローマは施設整備に力を入れた。会場は、戦前のムッソリーニの構想どおり新旧市街に分散、その間にある古代ローマの遺跡カラカラ浴場やローマ市場などを利用して主競技場、近代風建築の円型体育館などを新設。聖火はかつてカエサルの凱旋(がいせん)した石畳のアッピア街道を走り、マラソンコースはカンピドリオ丘にある市庁舎前からアッピア街道を走ってコンスタンティヌス凱旋門をゴールとするなど歴史的舞台装置には事欠かなかった。この大会で水泳を先に、陸上を後にするプログラムの入れ換えが行われたが、大会の花形競技陸上によって最後に盛り上がりをもってくるという開催都市の思惑によるものであった。マラソンではエチオピアの無名の新人アベベが、はだしのまま走って新記録で優勝し、新興アフリカのスポーツ界に大きな刺激を与えた。日本は167人(うち女子20)の選手を送り、金メダル4個を含む18個のメダルを得た。そのおもなものは男子団体総合優勝を初めて獲得した体操競技であった。優勝数(1)ソ連43、(2)アメリカ34、(3)イタリア13。

[鈴木良徳]

第18回大会(1964・東京)

開会式10月10日~閉会式10月24日。参加国93、選手数5151。1940年の第12回大会を返上した東京は、1952年、第17回大会に立候補したが失敗した。1959年、ミュンヘンで開かれた第55回IOC総会に安井誠一郎都知事などの代表を送り、ようやく招致に成功した。アジアで初めて開く、また有色人種の運営する最初の大会となった。東京大会の予算は1兆0800億円といわれる。これは、国費で建造した各種競技施設、国立屋内総合競技場、国立競技場拡張費、東京都が建造した駒沢(こまざわ)オリンピック公園、選手村、競技場と空港を結ぶ高架道路建設費、主要道路改良費、外国人宿泊施設拡充の補助金、東海道新幹線の建設費などだが、大会の直接運営費は98億5800万円で、そのうち国と東京都の補助金がそれぞれ16億8000万円、オリンピック資金財団を主とする寄付金28億5500万円、入場料16億0900万円を含む事業収入が30億5200万円となっている。ほかに選手強化費が約20億円。巨費を投じただけに各施設は高水準に仕上がった。競技の運営も、科学施設やそれまでの用具を改良して採用し、競技の進行と審判の正確さは高く評価された。IOC会長ブランデージは、閉会式を乱雑としつつも、本大会を「単なる成功ではない、記念碑的成功である」と評した。屋内総合競技場の設計者丹下健三(たんげけんぞう)と映画『東京オリンピック』の監督市川崑(いちかわこん)にはオリンピック・ディプロマ(賞状)が贈られ、その功績がたたえられた。なお、このオリンピックの栄章は1972年まで6種類あったが、その後オリンピック・カップと同ディプロマの2種類に制限され、1975年からはオリンピック・オーダー(金・銀・銅)が贈呈されている。

 競技は陸上、ボート、バスケットボール、ボクシング、カヌー、自転車、フェンシング、サッカー、体操、ウエイトリフティング、ホッケー、レスリング、競泳と飛込、近代五種、馬術、射撃、水球、ヨットのほか、新しくバレーボールと柔道が加わって20競技。10月10日の開会式は前日までの雨もやんで快晴、幸運なスタートを切った。オリンピック村は明治神宮外苑(がいえん)の広い森林の中につくられた。参加国のうち、有色人種の参加国が52か国、新参加の16か国は、この年独立したタンザニアを含め全部有色人種国であった。このほかに北朝鮮とインドネシアが来日したが、ガネフォ(新興国競技大会)に出場して国際競技連盟から出場停止を命じられた選手がいたため、両国は開会式の朝までに帰国した。競技内容も充実、世界新記録47、オリンピック新記録111を出し、とくに競泳で十代選手が大活躍したのも特色といえよう。エチオピアのアベベがマラソンで2連覇を遂げ、オーストラリアのドン・フレーザーDawn Fraser(1937― )が水泳女子100メートル自由形でオリンピック3連勝し、女子体操のチェコスロバキアのチャスラフスカVěra Čáslavská(1942―2016)が人気を集めた。日本は355人(うち女子61)の選手が参加し、米ソに次いで16種目に優勝した。その内訳は、体操5、レスリング5、柔道3、ボクシング1、ウエイトリフティング1、女子バレーボール1である。とくにバレーボールで、「東洋の魔女」といわれた女子チームの勝利は本大会のハイライトであった。大会の標語「世界は一つ」のとおり、開会式はシンコム衛星でアメリカとカナダに同時中継され、ただちにヨーロッパへ録画放映された。開会式のテレビ視聴率は87.4%、女子バレーボール決勝戦の日本対ソ連の試合のときは東京電話局の市外通話がぴたりと止まったというエピソードも残されている。優勝数(1)アメリカ36、(2)ソ連30、(3)日本16。

[鈴木良徳]

第19回大会(1968・メキシコ市)

開会式10月12日~閉会式10月27日。参加国112、選手数5516。メキシコ市は海抜2240メートルの高地のため、多くのスポーツ関係医師たちから会場として不適格であるとの反対があったが、IOCは強化合宿制限日数を2週間延ばして6週間に延長する方法をとった。しかし、参加国の準備が万全だったのか陸上競技では20人、競泳では15人が世界新記録を出し、世界タイ記録は19、オリンピック新記録114を数えた。とくに走幅跳びのアメリカのビーモンBob Beamon(1946― )による8メートル90の驚異的な記録が高地の希薄な大気との関係から論議された。一方、アフリカの国々が目覚ましい活躍をして、ケニア、エチオピア、チュニジア、ウガンダ、カメルーンの選手たちが16のメダルを受賞した。前回に引き続き、体操で4個の金メダルを獲得したチェコのチャスラフスカも注目を集めた。

 世界有数の休養地アカプルコのヨット会場からメキシコ市への道を登ると、市内近くにオリンピック村、主競技場(初めての全天候トラック)があり、ボートとカヌー会場はソチミルコ運河を人工的に改築した豪華なものであった。既設のアステカ・サッカー場は、10万人の収容力があり、そこで3位に入賞した日本チームは、翌1969年パリでユネスコのクーベルタン賞を受賞した。一方、大会直前には激しい学生運動とそれに対する軍隊の苛烈(かれつ)な弾圧があった。市内には銃弾の跡も残っており、ものものしい警備ぶりであったが、大会の運営は異常がなかった。また、この大会には人種差別問題で南アフリカ共和国が招待されなかった。北朝鮮その他の正式国名の呼び方などでIOC総会で激しい論議がおこり、陸上競技の表彰式ではアメリカ黒人の入賞者2人が、アメリカの黒人差別に抗議の意を表し、オリンピック村から追放された事件なども起こった。また夏の大会でトーチリレーの最終走者が女子現役選手であったのは初めてである。日本からは183人(うち女子30)が参加した。日本は、体操で6個、レスリングで4個、ウエイトリフティングで1個の金メダルを獲得し、マラソンでは君原健二(1941― )がエチオピアのウォルデMamo Wolde(1932―2002)に次いで2位となった。優勝数(1)アメリカ45、(2)ソ連29、(3)日本11。

[鈴木良徳]

第20回大会(1972・ミュンヘン)

開会式8月26日~閉会式9月11日。参加国121、選手数7134。ナチス治下の第11回大会が国威発揚に利用されたという悪評を和らげるために平和と自由を強調する運営であった。ところが、9月5日の早朝、オリンピック村のイスラエル宿舎で「黒い9月」と称するゲリラ組織によるテロ事件が起こって、11人のイスラエル代表団が犠牲となった。オリンピック史上最大の惨劇であった。大会を続行するか中止するかが論議されたが、1日哀悼の日を置いて競技は再開され、予定より1日後れ11日に閉会された。オリンピックに激しい政治、人種、宗教の問題が加わってきたことを印象づける大会となった。

 日本は、182人(うち女子38)の選手が参加し、体操男子団体総合で4連続優勝という史上初めての偉業を樹立し、また、地元東西ドイツの健闘ぶりが目だった。アメリカは、いままで無敗だったバスケットボールと棒高跳びの優勝を奪われたが、スピッツMark Spitz(1950― )は1人で水泳13種目に参加し、金メダルと世界新記録7という前例のない活躍をした。バルディーという愛称のダックスフントが、オリンピックのマスコットとして初めて登場した。優勝数(1)ソ連50、(2)アメリカ33、(3)東ドイツ20。

 これまでIOC規約に規定され、組織委員会の権限であった2種目のデモンストレーション(番外競技ともいわれ、東京大会では武道と野球が行われた)は、1973年の規約改正によって削除された。ただし、IOCとは関係なく、開催都市の判断でデモンストレーションは行えるが、それは公式的にはオリンピックと無縁である。

[鈴木良徳]

第21回大会(1976・モントリオール)

開会式7月17日~閉会式8月1日。参加国92、選手数6084。第一次オイル・ショックの影響で予算が当初の4倍にも跳ね上がり、政治的問題も絡んで何度か中止の危機に追い込まれつつも開催の運びとなった。ミュンヘンの教訓から警備も厳重であった。開催間近に台湾・南アフリカ問題で混乱状態になり、またもオリンピックの場に政治問題が引き出されるという結果となった。聖火はギリシアから衛星中継によるレーザー光線で点火されてオタワにともり、そこから会場にリレーされるという、時代を反映するものであった。陸上競技にはカリブ諸国の活躍が目だち、またソ連のサネエフViktor Saneev(1945― )が三段跳びでオリンピック3連勝など、アメリカの独壇場からメダルの分散の時代へ移行の観があった。女子体操では「白い妖精(ようせい)」とよばれた、14歳のルーマニアのコマネチNadia Comaneci(1961― )が10点満点を7回も出して話題をさらい、水泳の女子は東ドイツのエンダーKornelia Ender(1958― )のひとり舞台であった。ボクシングではキューバのステベンソンTeófilo Stevenson(1952―2012)がKOの連続でヘビー級史上初の2連勝を果たした。

 日本は213人(うち女子61)の選手が参加。体操男子団体総合で、有力2選手を欠きながら逆転でオリンピック5連勝、女子バレーボールも完全優勝を成し遂げて「東洋の魔女」が復活した。優勝数(1)ソ連47、(2)東ドイツ40、(3)アメリカ34。

[鈴木良徳]

第22回大会(1980・モスクワ)

開会式7月19日~閉会式8月3日。参加国80、選手数5179。社会主義国で初めてのオリンピックは参加国、参加人員ともに史上最高を記録すると予想されたが、1979年暮れのソ連のアフガニスタン侵攻によりアメリカ、西ドイツ、日本などのボイコットがあり期待どおりとはいかなかった反面、新興国の参加が目だつ大会であった。

 施設・運営は社会主義国のリーダーを自認するソ連の威信をかけたもので、資金と人手のかけ方はいままでにないものであった。しかし、モスクワの街中から子どもや学生の姿が消え、大会関係者や旅行者のみが目だつ、市民と選手との交歓があまりみられぬ奇妙なオリンピック風景であった。主要国のボイコットにもかかわらず世界新記録39、オリンピック新記録95という数字は前回に劣らぬものであった。しかし全体としてソ連と東ドイツのメダル競争となった印象は否めない。アメリカの欠けた水泳で、男子1500メートル自由形に史上初の14分台の世界新記録を樹立したソ連のサルニコフVladimir Salnikov(1960― )はこの大会最大のヒーローであった。優勝数(1)ソ連80、(2)東ドイツ47、(3)イタリア・ブルガリア・カナダ・キューバ各8。

[鈴木良徳]

第23回大会(1984・ロサンゼルス)

開会式7月28日~閉会式8月12日。参加国140、選手数6829。ロサンゼルスでの開催は52年ぶり二度目である。直前の5月8日になって、ソ連が選手の安全確保を理由に不参加を表明した。東ドイツ、ポーランドなどの東欧数か国とキューバ、北朝鮮などの14か国も参加を取りやめ、1980年のモスクワ大会に続いていわゆる片肺大会となった。しかし、参加国および参加選手数ではそれまでの最高を記録した。メダルの獲得数は地元アメリカが圧倒的で、ルーマニア、西ドイツを大きく引き離した。実質的には初めて参加した中国が金15を含めメダル合計32個を獲得した。日本からは231人(うち女子53)の選手が参加した。日本は金10、銀8、銅14の成績にとどまった。アメリカのカール・ルイスCarl Lewis(1961― )が、陸上100メートル、200メートル、走幅跳び、400メートルリレーの4種目で金メダルをとった。ローマ大会からモントリオール大会まで日本が不敗を誇った体操男子団体総合はアメリカ、中国に敗れ3位となったが、具志堅幸司(ぐしけんこうじ)(1956― )が個人総合で逆転優勝し、ようやく体操日本の面目を保った。柔道無差別級では、山下泰裕(やましたやすひろ)が足の肉離れにもかかわらず全試合を一本勝ちして優勝した。

 本大会は、税金を使わない「民営大会」として運営され、既存施設の利用、スポンサーの協賛金、ボランティアの大動員による人件費の節約などで黒字決算となった。優勝数(1)アメリカ83、(2)ルーマニア20、(3)西ドイツ17。

[深川長郎]

第24回大会(1988・ソウル)

開会式9月17日~閉会式10月2日。参加国159、選手数8391。東京大会に次いでアジアで2番目、第二次世界大戦後独立した国では初の開催となった。共同開催を主張した北朝鮮や、キューバなどが不参加であったものの、ソ連、東欧諸国が参加し、前回を上回る規模の祭典となった。各競技ではソ連、東欧勢が強さを発揮した。日本は259人(うち女子71)の選手が参加した。日本のメダル獲得は前回から半減した。

 今大会はドーピング(薬物使用)問題で大きな波紋が生じ、男子陸上100メートル優勝のカナダのベン・ジョンソンBen Johnson(1961― )が筋肉増強剤使用で金メダルを剥奪(はくだつ)された。優勝数(1)ソ連55、(2)東ドイツ37、(3)アメリカ36。

 オリンピックは巨大化し、都市や国家の負担の限度を超え始め、その継続のためにはコマーシャリズムの洗礼も受けざるをえない状態になってきた。

[深川長郎]

第25回大会(1992・バルセロナ)

開会式7月25日~閉会式8月9日。参加国169、選手数9356。冷戦終結で政治的対立によるボイコットもなく、旧ソ連は合同チームEUN(Equipe Unie)の略称で参加し、ボスニア・ヘルツェゴビナ、南アフリカ共和国なども加わった。日本は263人(うち女子82)の選手を送り込み、オリンピック競泳史上最年少の14歳で金メダルを獲得した岩崎恭子(1978― )、けがを乗り越えて優勝した柔道の古賀稔彦(こがとしひこ)(1967―2021)、女子マラソン2位の有森裕子(1966― )らが話題を提供した。メダル獲得数の上位3国は、(1)旧ソ連112(うち金は45)、(2)アメリカ108(金は37)、(3)ドイツ82(金は33)。

[深川長郎]

第26回大会(1996・アトランタ)

開会式7月19日~閉会式8月4日。参加国197、選手数1万0318。アメリカ・ジョージア州の州都で、近代オリンピック第1回アテネ大会(1896)以来、100周年大会となった。史上初めて全NOCが参加した。日本からは310人(うち女子150)が参加、金3、銀6、銅5の成績をあげた。アメリカのカール・ルイスが走幅跳びで8メートル50を跳び、35歳にして通算9個目の金メダルを手中にし世界的話題となった。メダル獲得数の上位3国は、(1)アメリカ101(うち金は44)、(2)ドイツ65(金は20)、(3)ロシア63(金は26)。

[深川長郎]

第27回大会(2000・シドニー)

開会式9月15日~閉会式10月1日。参加国199、選手数1万0651。第16回メルボルン大会(1956)以来、2回目のオーストラリアでの開催であった。参加国・地域は前回を更新して199か国・地域に達し、さらに国連統治下の東チモールが個人資格での参加を特別に認められたため、実質的には200を数えた。開会式では、オリンピック史上初めて韓国と北朝鮮の合同入場行進が実現した。また陸上のフリーマンCathy Freeman(1973― )の聖火点火をはじめ、オーストラリアで古い歴史をもつ先住民(アボリジニー)の存在を随所に見せることを意識するなど、民族問題と平和的祭典を強く打ち出した演出が目だった。

 競技種目は大幅に増えて28競技、300種目に及び、オリンピックの肥大化に拍車をかけた感ありの大会となった。競技としては、陸上競技や競泳での世界新記録も多く、プロ選手の参加も著しく増えるなどの話題があった。日本は268人(うち女子110)を送り、金5、銀8、銅5の成績をあげた。なかでも女子マラソンでは、高橋尚子(たかはしなおこ)が日本人女子として初めて陸上競技での金メダルを獲得。また、女子柔道48キログラム以下級では田村亮子(たむらりょうこ)(谷亮子)が優勝、女子競泳、ソフトボールの健闘など、女子選手の活躍が目だった。メダル獲得数の上位3国は、(1)アメリカ97(うち金は40)、(2)ロシア88(金は32)、(3)中国59(金は28)。

 体操女子個人総合優勝のルーマニアのアンドレーア・ラドゥカンAndreea Rǎducan(1983― )が興奮剤使用で金メダルを剥奪(はくだつ)されるなど、近年問題となっているドーピングの発覚が多くみられ、大会の商業化、肥大化などの課題の解決も持ち越された。

[深川長郎]

 なお2007年、アメリカの陸上競技選手ジョーンズMarion Jones(1975― )はドーピングを認め、本大会で獲得した金メダル3個と銅メダル2個を剥奪されている。

[編集部]

第28回大会(2004・アテネ)

開会式8月13日~閉会式8月29日。参加国201、選手数1万0625。近代オリンピック第1回大会(1896)以来のギリシア・アテネで開催された。通常、開会式の入場行進はギリシアを先頭にしてアルファベット順に出場国が続き、最後に開催国の順となっているが、今大会では先頭はギリシア国旗のみで、以下、ギリシア語のアルファベット順に出場国が続き、最後にギリシア選手団が入場した。男子マラソンでは残り7キロメートルほどの地点で先頭を走っていたブラジルのデリマVanderlei de Lima(1969― )が乱入してきた男にコースから押し出されるというアクシデントにみまわれたが、3位でゴール。銅メダルとともに、オリンピック精神をたたえられピエール・ド・クーベルタン・メダルを授与された。

 日本からは312人(うち女子171)が参加。女子マラソンの野口みずき(1978― )、水泳の北島康介らをはじめ体操男子団体総合、レスリング、柔道などで金メダルを16、銀を9、銅を12獲得した。メダル獲得数の上位3国は、(1)アメリカ103(うち金は35)、(2)ロシア92(金は27)、(3)中国63(金は32)。

[編集部]

第29回大会(2008・北京(ペキン))

開会式8月8日~閉会式8月24日。参加国204、選手数1万0942。1964年東京、1988年ソウルに続いて、アジアで開催されるのは3回目である。メダル獲得数の上位3国は、(1)アメリカ110(うち金は36)、(2)中国100(金は51)、(3)ロシア72(金は23)、メダル数ではアメリカに及ばなかったが、中国は金メダルの数で第1位となった。陸上男子100メートルと200メートルにおいて驚異的なタイムで世界新記録を更新したジャマイカのウサイン・ボルトUsain Bolt(1986― )や、男子水泳で8個の金メダルを獲得したアメリカのマイケル・フェルプスMichael Phelps(1985― )などが話題となった。日本は339人(うち女子169)が参加、北島康介が100メートル平泳ぎで世界新記録を出すなど、金9、銀6、銅10の成績をあげた。なお、開催前にチベット問題など中国の人権軽視問題が取り上げられ、欧米諸国で開催反対の動きがみられたが、大会は無事行われた。

[編集部]

第30回大会(2012・ロンドン)

開会式7月27日~閉会式8月12日。参加国・地域204、選手数約1万0500人。1908年、1948年に続く3回目で、同一都市では史上最多の開催となった。競技数は26、ボクシング女子が採用されたことにより、初めて男女とも全競技が実施された。メダル獲得数では、(1)アメリカ104(金は46)、(2)中国88(金は38)、(3)ロシア82(金は24)であるが、金メダルの数では29を獲得したイギリスが3位となった。日本は、レスリングフリースタイル女子55キログラム級の吉田沙保里(さおり)(1982― )と同63キログラム級の伊調馨(いちょうかおり)(1984― )がオリンピック3連覇を達成。さらにサッカー女子の「なでしこジャパン」が銀メダルを獲得するなど女子の活躍があり、金7、銀14、銅17の計38個で過去最多を記録した。しかし金メダルは男子柔道がゼロなど、伸び悩んだ。前回の北京大会に引き続き、陸上男子100メートル、200メートル、400メートルリレーでジャマイカのウサイン・ボルトが金メダルを獲得、また、競泳男子でアメリカのマイケル・フェルプスは4個の金メダルを獲得して、金メダル取得数を18と延ばし、史上最多記録を更新したあとに引退を表明した。なお、本大会では柔道やボクシングでの誤審が大きな問題となり、またバドミントンの女子ダブルスで、対戦の組み合わせを有利にするために、中国、韓国、インドネシアの選手が故意に負けようとしたとして失格になるという騒動があった。そのほか、男子サッカーの日本対韓国の対戦後、韓国の選手が竹島の領有問題に関するプラカードを掲げたため、オリンピックに政治問題を持ち込んだとして問題となった。

[編集部]

第31回大会(2016・リオ・デ・ジャネイロ)

開会式8月5日~閉会式8月21日。参加国・地域205と難民選手団、選手数約1万1000人。難民選手団は、紛争などのため母国から参加できない選手のために新設されたもので、10人が出場した。南米大陸初の開催となった。競技数はゴルフとラグビーフットボール(7人制ラグビー)が加わり28。メダル獲得数では、(1)アメリカ121(金は46)、(2)中国70(金は26)(3)イギリス67(金は27)であるが、金メダルの数では27を獲得したイギリスが2位となった。日本は、体操男子個人総合の内村航平(こうへい)(1989― )が連覇を果たし、レスリングフリースタイル女子で今回は58キログラム級となった伊調馨が個人種目4連覇、陸上男子400メートルリレーで銀メダルを獲得するなどの活躍があり、金12、銀8、銅21の計41個で歴代最多記録を更新した。ジャマイカのウサイン・ボルトは陸上男子100メートル、200メートル、400メートルリレーすべてで3連覇を達成、また、引退を撤回して臨んだ競泳男子、アメリカのマイケル・フェルプスは5個の金メダルを獲得し、金メダル取得数を23として、史上最多記録を更新したあと、ふたたび引退を表明した。なお、大会前にロシアの組織ぐるみのドーピングが発覚し、世界ドーピング防止機構(WADA)はロシア選手団の出場禁止を勧告したが、IOCは各種目の国際競技団体に十分な証拠を提示した選手のみを出場させることとし、当初予定された選手数の3分の2にあたる271人の出場を認めた。また、開会前は施設工事の遅れや治安面が懸念されたが、杞憂(きゆう)に終わった。

[編集部]

冬季オリンピック

冬の競技がオリンピック大会に加えられたのは第4回大会(1908・ロンドン)のフィギュアスケートが最初である。第一次世界大戦後の第7回大会(1920・アントワープ)でフィギュアのほかアイスホッケーが加えられた。翌1921年のIOC会議では本格的な冬季大会を開く提案があったが、北欧諸国は反対した。冬季大会は北欧のような地の利を得た所でなければ成功しないというのが表面上の理由であったが、すでに彼らが行っていた競技会、とくにノルウェーのホルメンコーレンでの大会で十分であるというのが本音であった。結局、テスト的にフランスで開くことになった。

[鈴木良徳]

第1回大会(1924・シャモニー・モンブラン)

開会式1月25日~閉会式2月5日。参加国16、選手数258。アルプス登山の基地であったフランスの辺境シャモニーは当時まだ寒村であったが、村をあげて準備を進め、先進スポーツ都市の調査も行い、すばらしい大会を開いた。日本もスキーに参加を予定していたが、前年の関東大震災のため中止した。自然条件に恵まれ、当初は冬季オリンピック開催に反対した北欧諸国も参加し、冬季競技の先進国ぶりを発揮した。この年国際スキー連盟(FIS:International Ski Federation)が結成された。また、翌1925年のIOC総会で、この大会を第1回オリンピック冬季大会と呼称することになった。優勝数(1)ノルウェー4、フィンランド4、(2)オーストリア2。

[鈴木良徳]

第2回大会(1928・サン・モリッツ)

開会式2月11日~閉会式2月19日。参加国25、選手数464。初参加の日本選手はスキー6人。夏の大会を開いたオランダは、平坦(へいたん)な国土ということもあり、冬季競技場がなかったので、スイスで開いた。会期中25℃が記録されるほど気温が高く、スピードスケートの1万メートルは中止したほどである。これ以後実に第10回大会まで冬季オリンピックは天候に災いされる。北欧諸国の活躍が目覚ましく、優勝数(1)ノルウェー6、(2)アメリカ・フィンランド・スウェーデン各2となった。

[鈴木良徳]

第3回大会(1932・レーク・プラシッド)

開会式2月4日~閉会式2月15日。参加国17、選手数252。日本選手17。会場はニューヨーク州の交通不便な寒村であったが、アメリカは巨費を投じて施設をつくった。ただ50年来の暖冬異変で、スキーのコースなどは、レース前に80キロメートルも離れた場所に変更、カナダから雪を運んだ。スケートはアメリカ規則のオープンレース制で実施したので、ヨーロッパ選手との間に大きなトラブルが起こった。このためスピードスケートはアメリカが大勝したが、スキーは精鋭主義で参加した北欧の天下であった。優勝数(1)アメリカ6、(2)ノルウェー3、(3)フィンランド・スウェーデン・オーストリア・フランス各1。

[鈴木良徳]

第4回大会(1936・ガルミッシュ・パルテンキルヘン)

開会式2月6日~閉会式2月16日。参加国28、選手数646。日本選手34(うち女子1)。この大会も気温に災いされたが、スキー、スケート会場ともナチス・ドイツの力で大きな仮設スタンドがつくられた。会場の周辺にまで反ユダヤスローガンがみられ、IOC会長ラトゥールHenri de Baillet-Lator(1876―1942)がヒトラーに厳重抗議して撤去させる一幕があった。スキーにアルペン競技が加えられたのはこの年が初めてである。女子種目としても初めてアルペン1種目が行われた。フィギュアスケートのソニア・ヘニーSonja Henie(1912―1969)は第1回大会に13歳で初参加し、その後この大会まで3回優勝、銀盤の女王といわれた。優勝数(1)ノルウェー7、(2)ドイツ3、(3)スウェーデン2。

[鈴木良徳]

第5回大会(1948・サン・モリッツ)

開会式1月30日~閉会式2月8日。参加国28、選手数669。第二次世界大戦後の初大会。日本とドイツは招待されなかった。この大会も天候に恵まれなかった。アイスホッケーでアメリカから2チーム参加という珍しい事件が起きた。一つは国際アイスホッケー・リーグに加盟しているアメリカのアマチュア・ホッケー協会推薦のチームであったが、アメリカNOCはこれを認めず、独自のチームを編成した。しかしこのアメリカNOC編成のチームは国際リーグが承認しなかった。入場料目当てに2チームを認めた組織委員会は非難され、国際アイスホッケー・リーグが除名された。すぐリーグ側がIOCに陳謝し、アイスホッケーは正式競技として追認された。優勝数(1)スウェーデン4、ノルウェー4、(2)スイス3。

[鈴木良徳]

第6回大会(1952・オスロ)

開会式2月14日~閉会式2月25日。参加国30、選手数694。日本選手13。ノルウェーの首都オスロの前名クリスティアニアがスキーの技術名称にあるように、初めて冬季競技の発祥地で開かれた。近代スキーの創始者の一人であるノルヘイムSondre Norheim(1825―1897)の生誕地モルゲダールからオスロまで冬季大会の最初のトーチリレーが行われた。首都を開催地としたのは冬季大会では初めてである。スピードスケートが室内リンクを使用したのも初めて。この大会から日本とドイツがふたたび招待された。北欧諸国はその面目にかけて活躍した。優勝数(1)ノルウェー7、(2)アメリカ4、(3)フィンランド・ドイツ各3。

[鈴木良徳]

第7回大会(1956・コルティーナ・ダンペッツォ)

開会式1月26日~閉会式2月5日。参加国32、選手数821。日本選手10。イタリア北部の冬季競技の中心地だけに条件は良好であった。ソ連が初参加し、各競技に優れた成績をあげた。オーストリアのアントン(トニー)・ザイラーAnton Sailer(1935―2009)がスキー競技でアルペン三冠王に輝いた。ジャンプ競技では、フィンランド選手が手を腰につけるドロップスタイルで金・銀メダルを独占した。従来は両手を頭の前方に伸ばして飛ぶのが普通であった。日本チームとしては冬季大会初めての銀メダルを猪谷千春(いがやちはる)がスキー回転競技で手にした。優勝数(1)ソ連7、(2)オーストリア4、(3)フィンランド・スイス各3。

[鈴木良徳]

第8回大会(1960・スコー・バレー)

開会式2月18日~閉会式2月28日。参加国30、選手数665。日本選手41(うち女子5)。アメリカの一企業家が、カリフォルニア州の雪崩(なだれ)で有名な「死の谷」の近くに巨費を投じて施設を設け、スケート・リンクはパイピング・リンクを採用するなどして大会を成功させた。競技ではソ連が圧倒的な強さを発揮した。女子スピードスケートが初めて正式種目として登場し、高見沢初枝(長久保初枝)(1935― )が3000メートルで4位となった。優勝数(1)ソ連7、(2)ドイツ4、(3)アメリカ3。

[鈴木良徳]

第9回大会(1964・インスブルック)

開会式1月29日~閉会式2月9日。参加国36、選手数1091。日本選手48(うち女子6)。大会前ひどい雪不足で、練習中の選手2人が事故死したほどであった。ソ連が圧倒的な強さを発揮した。優勝数(1)ソ連11、(2)オーストリア4、(3)フィンランド・スウェーデン・ノルウェー・フランス・ドイツ各3。

[鈴木良徳]

第10回大会(1968・グルノーブル)

開会式2月6日~閉会式2月18日。参加国37、選手数1158。日本選手62(うち女子9)。古い歴史をもち新興工業化に成功したフランスの都市が会場となり、大統領ドゴールの力の入れ方も大きなものであった。開会式が競技場でない大きな仮設スタジアムで行われたり、式典音楽に近代音楽を演奏するなどして、演出の新しさを示した。この大会から、これまで合同して参加していたドイツが東西二つに分かれて参加。また、セックス・チェックとドーピング検査も行われることになった。入賞者がメーカーの商標がはっきりわかるスキーを持って写真を撮ることは禁止された。

 競技ではスキーでフランスのキリーJean-Claude Killy(1943― )が第7回大会のザイラーに次ぐ史上2人目のアルペン三冠王に輝いた。優勝数(1)ノルウェー6、(2)ソ連5、(3)フランス4、イタリア4。

[鈴木良徳]

第11回大会(1972・札幌)

開会式2月3日~閉会式2月13日。参加国35、選手数1006。日本選手90(うち女子20)。1940年(昭和15)に開催が内定していたのを戦争のため返上した札幌が、今度は条件、成績とも良好な成果をあげた。冬季大会でいちばんたいせつなのは自然条件であるが、札幌は比較的天候に恵まれた。また支笏湖(しこつこ)を眼下に見下ろす恵庭岳(えにわだけ)の滑降コースと、冬季大会史上初めての海を望見できる手稲山(ていねやま)の回転コースは好評であった。日本チームとしては、冬では初めて、夏の大会も含めて3回目という同一種目金・銀・銅メダル独占の偉業を、スキーの70メートル級ジャンプで笠谷幸生(かさやゆきお)(1943―2024)、金野昭次(こんのあきつぐ)(1944―2019)、青地清二(あおちせいじ)(1942―2008)が成し遂げた。ほかにもリュージュで大高優子(おおたかゆうこ)(1950― )が5位、同じくリュージュ2人乗りBチームが4位と、国内で普及度の低い競技でも活躍した。冬季大会では初めて、オーストリアのシュランツKarl Schranz(1938― )がアマチュア違反で出場を拒否された。ドーピングで失格した選手も1人を出したが、冬季競技の非アマチュア化はIOCでも問題になった。優勝数(1)ソ連8、(2)東ドイツ・スイス・オランダ各4。

[鈴木良徳]

第12回大会(1976・インスブルック)

開会式2月4日~閉会式2月15日。参加国37、選手数1123。日本選手57(うち女子6)。当初はアメリカのデンバーに決定していたが、環境破壊のおそれがあるとして市民投票で否決され、オーストリアのインスブルックが二度目の大会を引き受けることになった。できるだけ前回の施設を改善利用して、簡素な大会とすることをモットーとした。競技ではソ連が圧倒的な強さをみせて13種目に優勝、ついで東ドイツが7種目制覇と、社会主義国が優勢であった。日本チームの入賞者はゼロ。優勝数(1)ソ連13、(2)東ドイツ7、(3)アメリカ3、ノルウェー3。

[鈴木良徳]

第13回大会(1980・レーク・プラシッド)

開会式2月13日~閉会式2月24日。参加国37、選手数1072。日本選手50(うち女子4)。第3回大会を開催したアメリカのレーク・プラシッドでふたたび開かれた。地元アメリカはハイデンEric Heiden(1958― )がスピードスケートで5個の金メダルをとり、アイスホッケーでソ連を押さえて優勝した。日本はスキーの70メートル級ジャンプで八木弘和(やぎひろかず)(1959― )が銀メダル、秋元正博(1956― )が4位。女子のスピードスケート500メートルで長屋真紀子(1955― )が5位、フィギュアスケートでは渡部絵美(1959― )が6位に入賞した。優勝数(1)ソ連10、(2)東ドイツ9、(3)アメリカ6。

[鈴木良徳]

第14回大会(1984・サラエボ/サライエボ)

開会式2月8日~閉会式2月19日。参加国49、選手数1272。日本選手39(うち女子7)。共産圏国であるユーゴスラビアで初めて開催された。東ドイツはエンケKarin Enke(1961― )らの活躍で、スピードスケートの女子全4種目の金・銀メダルを独占した。フィギュアのペアではソ連が6連勝、アイスホッケーでも前回優勝のアメリカが初戦で敗退、ソ連が優勝。日本の北沢欣浩(きたざわよしひろ)(1962― )はスピードスケート男子500メートルで2位となり、スケート競技では日本初のメダリストとなった。スキーのノルディックではフィンランドのハマライネンMarja-Liisa Hämäläinen(1955― )が女子3種目に完全優勝した。優勝数(1)東ドイツ9、(2)ソ連6、(3)アメリカ・フィンランド・スウェーデン各4。

[鈴木良徳]

第15回大会(1988・カルガリー)

開会式2月13日~閉会式2月28日。参加国57、選手数1423。日本選手48(うち女子11)。開催期間、参加国、選手数ともに前回を上回る大規模な大会となった。金メダル争いでは、ソ連が前回東ドイツに奪われた王座を奪回した。日本は黒岩彰(くろいわあきら)(1961― )(500メートル3位)、橋本聖子(1964― )(全5種目に入賞)らスピードスケート陣が健闘。橋本は同年開催されたソウル大会(夏季)で自転車競技にも出場した。優勝数(1)ソ連11、(2)東ドイツ9、(3)スイス5。

[鈴木良徳]

第16回大会(1992・アルベールビル)

開会式2月8日~閉会式2月23日。参加国64、選手数1801。日本選手63(うち女子21)。冷戦終結後初めての大会で、旧ソ連がCIS(独立国家共同体)で、統一ドイツ、独立したバルト三国も参加した。アルベールビルを中心にフランスのサボア県全域で競技が行われた。日本は、ノルディック複合団体で金メダル、スピードスケートの黒岩敏幸(1969― )が銀メダルを獲得したほか、橋本聖子や、フィギュアスケートの伊藤みどりらの活躍で、7個のメダルを獲得、冬季大会としてはそれまでの最高の成績をあげた。橋本聖子は、この大会で、日本オリンピック委員会(JOC)が設けた報奨金制度の適用第一号となる。メダル獲得数の上位3国は、(1)ドイツ26(うち金は10)、(2)旧ソ連23(金は9)、(3)ノルウェー20(金は9)。

[深川長郎]

第17回大会(1994・リレハンメル)

開会式2月12日~閉会式2月27日。参加国67、選手数1737。日本選手65(うち女子16)。従来の冬季大会と夏季大会の同一年開催を2年ごと交互開催に変更したため、この大会は前大会から2年後、ノルウェーの小都市リレハンメルでの開催となった。イスラエルがパレスチナ解放機構(PLO)と和解合意の成立で初参加し、南アフリカが34年ぶりに復帰した。日本はノルディック複合団体で金メダルを獲得し初の冬季オリンピック2連覇を達成した。同個人でも河野孝典(1969― )が銀メダルを獲得し、ほかの種目ではスキージャンプのラージヒル団体で銀メダル、スピードスケートで男子500メートルの堀井学(1972― )と女子5000メートルの山本宏美(1970― )がともに銅メダルを獲得したが、橋本聖子をはじめとして全体に低調な結果に終わった。メダル獲得数の上位3国は、(1)ノルウェー26(うち金は10)、(2)ドイツ24(金は9)、(3)ロシア23(金は11)。

[深川長郎]

第18回大会(1998・長野)

開会式2月7日~閉会式2月22日。参加国72、選手数2176。日本選手166(うち女子66)。日本は金メダル5、銀メダル1、銅メダル4の成績をあげた。

[深川長郎]

第19回大会(2002・ソルト・レーク・シティ)

開会式2月8日~閉会式2月24日。参加国77、選手数2399。日本選手109(うち女子48)。21世紀最初のオリンピックは、アメリカのロッキー山脈の西に位置するユタ州の州都ソルト・レーク・シティを中心にプロボー、オグデン等での開催となった。2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロ事件後の大会とあって、厳戒態勢のなかで行われた。競技種目は7競技78種目で、日本はスピードスケート・男子500メートルで清水宏保(しみずひろやす)(1974― )が前回の長野大会金メダルに続いて銀メダルを、フリースタイルスキー・女子モーグルで里谷多英(さとやたえ)(1976― )が前回の金メダルに続いて銅メダルを獲得したが、メダルはこの二つにとどまった。しかし、8位以内の入賞数では長野大会の33に次ぐ27を数え、その点では成果をあげたといえる。メダル獲得数の上位3国は、(1)ドイツ35(うち金は12)、(2)アメリカ34(金は10)、(3)ノルウェー24(金は11)である。

 開会式では、聖火の最終点火を、1980年レーク・プラシッド大会で当時無敵のソ連チームを破り金メダルを獲得したアメリカ・男子アイスホッケーチームのメンバーが務めた。また、テロにあった世界貿易センターの廃墟(はいきょ)から回収された星条旗が運び込まれるなど、話題の多い大会となった。

[深川長郎]

第20回大会(2006・トリノ)

開会式2月10日~閉会式2月26日。参加国80、選手数2508。日本選手112(うち女子53)。イタリア北西部、ピエモンテ州の州都トリノを中心に、アルプスのセストリエール等での開催となった。イタリアでの冬季オリンピックは、1956年のコルティーナ・ダンペッツォ大会以来となる。競技種目は7競技84種目で、日本はフィギュアスケート女子シングルの荒川静香(あらかわしずか)が、日本人として史上初の金メダルを獲得。彼女の得意技イナバウアーが2006年の流行語大賞となるなど、広く話題となった。しかし、日本のメダルはこの一つにとどまった。8位以内の入賞数では42を数え、とくにスキーのアルペン回転競技での4位、カーリングの7位は健闘したといえる。メダル獲得数の上位3国は、(1)ドイツ29(うち金は11)、(2)アメリカ25(金は9)、(3)オーストリア23(金は9)である。

 開会式は、仮面喜劇「コメディア・デラルテ」などを織り交ぜた幻想的なスペクタクル構成で、ヨーロッパの歴史をひも解く演目に続き、スカラ座のスターダンサー、イタリアのテクノロジーのシンボルとしてフェラーリF1チームが登場。女優のソフィア・ローレンら女性だけの8名が五輪旗を運んだのは史上初。

[深川長郎]

第21回大会(2010・バンクーバー)

開会式2月12日~閉会式2月28日。参加国・地域82、選手数2566。日本選手94(うち女子45)。カナダ西部、太平洋側の都市バンクーバーで開催、カナダでの冬季オリンピックは1988年のカルガリー大会についで二度目である。競技種目は7競技86種目。開会式はオリンピック史上初となるスタジアム屋内で行われた。天候には恵まれず暖冬となり、ヘリコプターで雪を運び入れた会場もあった。また、リュージュの練習中に選手1名が死亡する事故が起きた。

 日本選手では、スピードスケート男子500メートルの長島圭一郎(1982― )、スピードスケートの女子チームパシュート(団体追い抜き)、フィギュアスケート女子シングルの浅田真央が銀メダル、スピードスケート男子500メートルの加藤条治(かとうじょうじ)(1985― )、フィギュアスケート男子シングルの高橋大輔が銅メダルで、合計5個のメダルを獲得した。メダル獲得上位3国は、(1)アメリカ37(金は9)、(2)ドイツ30(金は10)、(3)カナダ26(金は14)。開催国カナダはメダル獲得数では第3位であったが、金メダルの獲得数は最多となった。

[編集部]

第22回大会(2014・ソチ)

開会式2月7日~閉会式2月23日。参加国・地域88、選手数2780。日本選手113(うち女子65)。ロシア連邦南西部、黒海北東岸に面する保養都市ソチで開催、旧ソ連邦で初の冬季オリンピック開催となった。競技種目は7競技98種目。比較的暖かい気候が続き、雪や氷のコンディションが思わしくないなかで競技が行われた。日本選手では、フィギュアスケート男子シングルの羽生結弦(はにゅうゆづる)(1994― )が金メダル、スキージャンプの男子ラージヒル個人で葛西紀明(1972― )、スキーノルディック複合のノーマルヒル個人で渡部暁斗(わたべあきと)(1988― )、スノーボードの男子ハーフパイプで平野歩夢(あゆむ)(1998― )、スノーボードの女子パラレル大回転で竹内智香(ともか)(1983― )が銀メダルなど、合計8個のメダルを獲得した。メダル獲得上位3国は、(1)ロシア33(金は13)、(2)ノルウェー26(金は11)、(3)カナダ25(金は10)。なお、大会終了後、ロシアの組織ぐるみのドーピングが明らかになり、IOCは金メダリスト2人を含む5選手を失格・オリンピックからの永久追放処分とし、計19人についてドーピングを認定、メダルも剥奪した。

[編集部]

第23回大会(2018・平昌(ピョンチャン))

開会式2月9日~閉会式2月25日。参加国・地域92、選手数2925。日本選手123(うち女子72)。なお、IOCは、前回大会で組織的なドーピング問題を起こしたロシア選手団の出場を認めず、ドーピングを行っていないことを証明できた選手のみ、個人資格、オリンピック旗のもとでの出場を認めた。韓国北東部、江原道(カンウォンド)の平昌で開催、フィギュアスケート、カーリング、アイスホッケーなどの氷上競技は、平昌から約20キロメートル離れ、日本海に面した都市、江陵(カンヌン)で実施された。アジアでの冬季オリンピックは札幌(1972)、長野(1998)に次いで三度目の開催。競技種目は7競技102種目。

 日本選手では、フィギュアスケート男子シングルの羽生結弦が連覇を果たし、スピードスケートの女子チームパシュート、スピードスケート女子500メートルの小平奈緒(1986― )、スピードスケートのマススタートで高木菜那(なな)(1992― )が金メダルなど、金4、銀5、銅4と史上最多の計13個のメダルを獲得した。メダル獲得上位3国は、(1)ノルウェー39(金は14)、(2)ドイツ31(金は14)、(3)カナダ29(金は11)。なお、アイスホッケー女子で史上初めて韓国と北朝鮮の合同チームが結成された。

[編集部]

『鈴木良徳著『オリンピック読本』改訂版(1952・旺文社)』『ピエール・ド・クベルタン著、カール・ディーム編、大島鎌吉訳『オリンピックの回想』(1962/新版・1976・ベースボール・マガジン社)』『M・アンドロニコス他著、成田十次郎他訳『古代オリンピック――その競技と文化』(1981・講談社)』『川本信正監修『オリンピックの事典――平和と青春の祭典』(1984・三省堂)』『日本オリンピック委員会監修『近代オリンピック100年の歩み』(1994・ベースボール・マガジン社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「オリンピック」の意味・わかりやすい解説

オリンピック

オリンピック競技大会Olympic Gamesの略称。日本では〈五輪〉とも表記する。国際オリンピック委員会International Olympic Committee(略称IOC)が主催する国際総合スポーツ大会。各国(地域を含む)のオリンピック委員会National Olympic Committee(略称NOC)が参加し,競技はそれぞれの国際競技連盟International Sport Federation(略称IF)が管理する。1896年ギリシアのアテネで第1回大会が行われ,以後4年に1度開催される。大会開催の年から次の大会の前年までの4年間を,古代オリンピックにちなんでオリンピアードOlympiadと呼ぶ(なお,古代オリンピックについては,後出〈オリンピックの歴史〉を参照されたい)。96年を第1オリンピアードの第1年と定め,オリンピック大会は各オリンピアードの第1年に開く。何らかの事情でその年の開催が不能になっても,そのオリンピアードでは開催を中止し,次期オリンピアードの第1年に譲る(例えば,1916年の第6回,40年の第12回,44年の第13回はいずれも戦争で中止)。1924年2月,シャモニー・モンブラン(フランス)で,第8回オリンピック・パリ大会の一部として,スキーとスケートの競技が行われたが,IOCは25年の総会で,冬季競技を分離独立させることを決定。前年のシャモニー・モンブランの大会を第1回オリンピック冬季大会Olympic Winter Gamesとし,以後,オリンピック大会の開催年に冬季大会を開くことになった。冬季大会の回数はオリンピック大会とは別に数え,中止された大会は回数に加えない。

フランスの教育学者クーベルタン男爵の〈スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために,古代オリンピックを復興しよう〉という呼びかけに応じ,1894年6月23日,パリ大学(ソルボンヌ)講堂で開催されたフランス・スポーツ連盟主催の国際スポーツ会議で,オリンピックの復興が全会一致で決定し,13ヵ国から選ばれた15人をメンバーとするIOCが創立され,クーベルタンの推薦で,ギリシアのビケラスDemétrios Vikélasが初代会長に就任,近代オリンピアードの第1年を96年とし,第1回大会を古代オリンピックがオリュンピア(ギリシア)で行われていたことを記念して,ギリシアの首都アテネで開催することを決めた。第1回大会終了後,クーベルタンが第2代会長に就任,多くの困難と闘いながら1925年まで在任し,オリンピック運動を軌道に乗せた。オリンピックの理想を追求するオリンピック運動の原則をオリンピズムOlympismと呼ぶ。

IOCのオリンピック憲章Olympic Charterは,第1章の〈根本原則〉で,オリンピック運動の目的を次のように定めている。(1)スポーツの基調となる身体的・道徳的資質の発達を促進する。(2)青少年にスポーツを通じて相互のよりよき理解と友好の精神を教育し,それによって,よりよき,より平和な世界の建設に寄与する。(3)世界にオリンピックの原則を普及し,それによって国際親善を喚起する。(4)世界のアスリート(競技者)を4年に1度の偉大なスポーツ祭典,オリンピック大会に集結させる。

国際オリンピック委員会(IOC)はIOC委員によって構成される。IOC委員はIOC総会で選任される。その特徴は,たとえ各国NOCの推薦した人物であっても,そのNOCの代表ではなく,IOCがみずから選任し,その所属国,地域に対するIOCの代表とみなされる点にある。したがってIOC委員はつねにその自主性を堅持し,その所属国,地域の政府や民間組織からいかなる指示も受けてはならないとされている。IOC委員は原則として1国1地域1人で,オリンピックに貢献のあった国,地域からは2人まで選任されていたが,1992年から会長推薦枠が2名設けられ,その後10名にまで拡大。これにより,イタリアとスイスは97年現在4名の委員を有している。65年以後に就任した委員は72歳を定年としていた点も,85年には75歳に,95年の第104次総会では80歳に引き上げられている。委員数は1894年の創立当時13人だったが,1912年に30人,36年に50人,60年に60人,80年に80人をそれぞれ超え,82年にはフィンランドとベネズエラからそれぞれ1人の女性委員が初めて加わった。その後委員は増え続け,97年の第106次総会現在,会長も含め総数は111名で,内女性は10名である。また,年次総会ごとに1名改選している副会長に初の女性委員も選出された。

 IOC総会は世界の各国を巡回して毎年1回,オリンピックの開催年度には冬と夏の開催都市で各1回開催される。総会は投票で会長1人(任期8年,2期目以降4年),副会長4人(任期4年),理事6人(任期4年)を選出する。理事会および理事会とNOC,理事会と国際競技連盟(IF)の合同会議は随時開催される。

 IOCは,(1)スポーツとスポーツ競技会の組織化と発展を推進し,(2)オリンピックの理想に沿ってスポーツを発展させ,それによって各国スポーツマンの友好を強化し,(3)オリンピック大会の開催を確保し,(4)クーベルタンとその同志によって復興されたオリンピック大会の栄光ある歴史と高潔な理想をいっそう価値あるものにすることを目的とする。

 IOCは国際法に基づく永続的な非営利団体で,国連から非政府機関として認知されており,本部と事務局はローザンヌ(スイス)に常設されている。IOCには理事会の諮問機関として,次の各種専門委員会がある。(1)オリンピック・アカデミー,(2)参加資格,(3)競技者,(4)芸術文化,(5)財務,(6)医事,(7)報道,(8)プログラム,(9)連帯事業,(10)テレビ,(11)表彰。

 IOCは総会とは別に,不定期にオリンピック会議Olympic Congressを開催する。1930年以来中絶していたが,73年バルナ(ブルガリア)で43年ぶりに第10回の会議が開催され,IOC委員のほかNOC,IFの代表も参加し,〈オリンピックの未来像〉をメーンテーマに討議が行われた。81年バーデン・バーデン(西ドイツ)で開催されたオリンピック会議のテーマは,〈オリンピックの未来像〉と〈スポーツによる国際連帯〉だったが,初めて国連とユネスコからも代表が出席し,また初めて選手代表も参加した。13年振りとなった第12回目は,オリンピック100周年を記念して94年パリで開催。四つのテーマに約400名が意見を発表した。

IOCに加盟できるのは,独立国および継続的に行政が施行されている一定の地域に組織された国内オリンピック委員会(NOC)である。NOCとして公認されるためには,その組織内に少なくとも5競技の国際競技連盟(IF)に加盟した国内競技連盟(NF)が存在し,そのうち3競技はオリンピック・プログラムに含まれていなくてはならない。NOCの規定はオリンピック憲章に準拠し,NOCが独立自主団体で,いかなる政治的・経済的圧力にも屈従しないことが明記され,NOCを構成するメンバーに政府関係者を加えてはならない。NOCがオリンピックなどで使用する旗,歌,表章はIOC理事会の承認を受けねばならない。NOCは1960年代のアフリカ植民地独立とともに急増し,スポーツの世界的な広がりを反映して,97年10月現在198の国と地域が加盟。NOCの連絡機構としてNOC協会(ACNO)がある。本部はメキシコ市。

 IOCはオリンピック大会でナショナリズムが過熱するのを防ぐため,憲章でオリンピックの競技は国と国との対抗競技ではなく,したがって成績順位による得点制は認めないことを規定している。メダル獲得数の参加国別順位もIOCとしては作成発表しない。

1961年,IOCが協賛し,ギリシアNOCが管理して,オリンピアに〈オリンピック・アカデミー〉が開設された。毎年夏,各国NOCが推薦する35歳以下のスポーツ指導者,学者,研究者を集めて講習会を開催し,オリンピック運動の理念,古代オリンピック史,スポーツの文化的意義などをテーマに,研究発表,講演,シンポジウムなどを行っている。
オリンピック委員会

IOCはオリンピック大会および冬季大会のプログラムに含まれるスポーツとして,次の32競技の国際連盟を公認している(かっこ内はIFの略称)。陸上競技(IAAF),漕艇(FISA),バスケットボール(FIBA),ボクシング(AIBA),カヌー(ICF),自転車競技(FIAC),馬術(FEI),フェンシング(FIE),サッカー(FIFA),体操(FIG),ウェイトリフティング(IWF),ハンドボール(IHF),ホッケー(FIH),柔道(IJF),レスリング(FILA),水泳(FINA),テニス(ITF),卓球(ITTF),射撃(UIT),アーチェリー(FITA),バレーボール(FIVB),ヨット(IYRU),バドミントン(IBF),野球(AINBA),ソフトボール(ISF),近代五種・バイアスロン(UIPMB),アイスホッケー(IIHF),ボブスレー・トボガニング(FIBT),リュージュ(FIL),スケート(ISU),スキー(FIS),カーリング(ICF)。

 以上のうち,オリンピック大会では15競技以上,冬季大会ではバイアスロン以下の全競技が行われる。IFがIOCに公認され,オリンピック大会のプログラムに加えられるためには,そのスポーツが男子の場合少なくとも3大陸で50ヵ国,女子の場合少なくとも3大陸35ヵ国で行われていなくてはならない。冬季大会では男女とも少なくとも3大陸25ヵ国で行われているスポーツのIFが公認され,大会プログラムに加わることができる。オリンピック大会および冬季大会では,正規のプログラムのほか開催都市の選択する2種類のスポーツをデモンストレーション・スポーツとして行うことができる。また大会の会期中に開催国の文化を紹介する芸術展示会を開催することができる。IOCはその内容として,文学,建築,絵画,彫刻,音楽,写真,スポーツにちなむ郵便切手などのほか,演劇,オペラ,シンフォニー,バレエなどをあげている。

オリンピックの旗は縁取りのない白地に,向かって左から青,黄,黒,緑,赤の5色の輪をW型に組み合わせて描いてある。この五輪(オリンピック・リングス)はオリンピック運動のシンボルマークである。この旗はクーベルタンの創案で,1914年パリで開かれたIOC創立20周年記念式典のとき,来会者に小旗が配布されて初めて公表された。オリンピック大会では,20年の第7回アントワープ大会の会場に初めて掲揚され,そのときベルギー・オリンピック委員会が作製してIOCに寄贈した旗は,オリンピック大会のシンボルとして開催都市に順次引き継がれている。36年ロサンゼルスからベルリンへ渡された旗は,戦後ベルリンのドイツ国立銀行焼け跡の地下室で発見され,48年ロンドンで開催の第14回大会に無事な姿を現した。また冬季大会の旗は,52年にオスロ市が寄贈したものである。

 オリンピックの標語は,ラテン語で〈Citius,Altius,Fortius(より速く,より高く,より強く)〉である。これはクーベルタンと親交のあったフランスの神父ディドンHenri-Martin Didonが,ルアーブルの高等学校で生徒に与えたことばとされている。オリンピックの旗,シンボルマーク,標語は,いずれもIOCの所有に属し,IOCの許可を得ずに使用することはできない。

オリンピック大会と冬季大会の開催都市は,開催年度の7年前にIOC総会で決定する。大会の開催権は1都市に与えられるが,IOCの承認があれば,一部の競技を同一国内の他の都市に分散することもできる。立候補した都市については,IOC理事会で審査し,適格と認めたものを総会に提出する。総会は各都市の説明を聞き,投票で選定する。オリンピック都市Olympic Cityとして指定された都市は,その国のNOCと協議してオリンピック組織委員会(OGOC)を設立し,IOCの代行者として大会の準備運営に当たる。

IOCはオリンピック大会と冬季大会に参加する競技者(アスリート)を,とくに〈オリンピック・コンペティター(オリンピック競技者)〉と呼ぶ。IOC憲章はオリンピック競技者の資格として,(1)IOCとIFのルールを誠実に順守すること,(2)IFのルールに従い,NOCとNFの承認なしに,スポーツに参加することで金銭的報酬を得たことがないことの2条件をあげているが,どのような場合に金銭の取得が許されるのか,その細目はすべてIFのルールにゆだねられている。アマチュアリズムにもっとも厳格とされた国際陸上競技連盟(IAAF)が,1982年そのルールを改正し,IAAFの公認する競技会に限り,選手が出演料や報奨金を受け取り,それを各国陸上競技連盟が設ける競技者基金に寄託することを認可したので,金銭取得の禁止を主眼としたアマチュアリズムは大きく崩れ,その他のIFにも波及して,オリンピック参加資格に画期的な変化をもたらした。なお,後出〈近代オリンピック概史〉の〈第4期〉の記述を参照されたい。

オリンピック大会と冬季大会では,各競技種目の1位から8位までを入賞者とし,1位には金メダルとディプロマ(賞状),2位には銀メダルとディプロマ,3位には銅メダルとディプロマ,4位から8位までにはディプロマが授与される。オリンピック大会のメダルは,1928年の第9回アムステルダム大会以来同一のデザインで,冬季大会のメダルは各回ごとに異なったデザインである。表彰式には3位まで(チームは全員)が出席し,表彰台の中央に1位,その右側(向かって左)に2位,左側(向かって右)に3位が登壇してメダルを受ける。60年の第17回ローマ大会から,メダルには鎖またはリボンをつけ,選手の首から胸にかけることになった。IOCは74年〈オリンピック功労章Olympic Order〉を制定,オリンピック運動の功労者に贈ることになった。金,銀,銅の序列がある。

オリンピック憲章は根本原則の第3条で,〈いかなる国または個人に対しても,人種,宗教または政治的な理由で差別することは許されない〉と規定している。創立以来の鉄則だが,この原則が初めて発動したのは,1936年の第11回オリンピック・ベルリン大会のときであった。IOCは,ヒトラー政府のユダヤ人迫害に抗議し,ベルリンで大会を開催する条件として,オリンピックに参加する選手,役員からユダヤ人を差別しないという誓約をヒトラー政府よりとりつけ,大会期間中,会場の内外で政治的な演説や政治的な標語の掲示を禁止した。62年,ジャカルタ(インドネシア)で,IOC協賛のアジア競技大会が開催されたとき,インドネシアのスカルノ政府は,親中国,親アラブの政治路線に従って,台湾とイスラエル選手団の入国を拒否した。IOCは,これを政治的差別として,インドネシアNOCの資格を63年4月まで停止した。

1956年,第16回オリンピック・メルボルン大会のとき,中国選手団の先着役員がオリンピック村に到着すると,誤って中華民国(台湾)の国旗が掲揚された。中国はこれに抗議して参加を中止し,IOCに対して台湾は中国の領土で,中国を代表するのは北京に本部のある中国NOCだけであることを主張したが,IOCがこれを認めなかったので,58年中国はIOCおよび台湾の加盟している8競技のIFから脱退した。IOCは中国を翻意させる糸口として,〈中華民国〉の呼称を〈台湾〉に改め,中国内の1地域とみなすことを決めたが,中国はなお満足せず,かえって台湾をも刺激し,60年の第17回オリンピック・ローマ大会開会式では,台湾選手団は用意された国名表示のプラカードを用いず,選手団長が胸に〈抗議中〉と大書した布をつけて行進した。こうしてIOCと中国の関係は冷却化したが,73年テヘランで開催された第7回アジア競技大会を前に,アジア競技連盟(AGF)は,中国の主張を受け入れ,台湾を除外して,新たに中国の加盟承認に踏み切った。これを足がかりに中国は75年,あらためて台湾除外を条件にIOCに加盟を申請した。しかし,IOCは逆に台湾除外の条件を台湾NOCに対する政治的差別として却下した。76年,第21回オリンピック・モントリオール大会では,中国と国交のあるカナダ政府が台湾選手団の入国を拒否したが,IOCはこれを不問に付した。そして79年10月,名古屋市で開催されたIOC理事会は,中国オリンピック委員会の加盟を承認し,台湾についてはその残留を認める代わりに,名称を〈中国・台北オリンピック委員会〉と変更し,〈中華民国〉の国旗と国歌を使用させないことを決定した。すでにキラニンIOC会長と事前協議を終えていた中国は直ちに台湾処遇に合意したが,台湾はこれを不満とし,スイスの裁判所に理事会決議無効の訴えを起こしたが,途中で取り下げ,81年3月台湾の代表とサマランチIOC会長がローザンヌのIOC本部で会見,台湾は〈中国・台北〉の呼称を受諾し,新しい旗と歌の制定を約束して,56年以来四半世紀にわたるオリンピックの中国問題は一応の解決を見た。この中国と台湾の共存方式は,〈オリンピック方式〉として国際スポーツ界から歓迎され,陸上競技をはじめ,各スポーツのIFが,次々とこの方式で中国と台湾の交流を実現した。また,この中国問題の副産物として,IOCは憲章で,国旗,国歌とあったのを歌と旗に改めて,その選定はNOCに一任し,IOC理事会の承認を得て使用することを決めた。日本オリンピック委員会(JOC)は,旗は〈日章旗〉,歌は《君が代》を使用することを決定した。

分裂国家のスポーツをオリンピックで統一させる試みが,一時的に成功した例がある。1952年,IOCはドイツ民主共和国(東ドイツ)を加盟させる条件として,オリンピックではドイツ連邦共和国(西ドイツ)と合同チームを編成することを要望した。その結果,56年,コルティナ・ダンペッツォで開催された第7回冬季大会で,東西ドイツは合同チームで参加し,〈政治を克服したスポーツ〉といわれて世界の関心を集めた。合同チームは,国名を〈ドイツ〉とし,国旗の代わりに西ドイツの国旗中央に白く五輪のマークを描いたもの,国歌の代わりにベートーベンの《第九交響曲》のテーマ曲が用いられた。この方式は,同年のオリンピック・メルボルン大会から64年のオリンピック・東京大会まで,冬季大会を含めて継続した。しかし,最初から選手の選出方法,団長,監督,コーチの人選,合同トレーニングの方法などで矛盾を含み,68年,グルノーブル(フランス)の冬季大会とオリンピック・メキシコ大会では,国名と旗と歌はそのままだが,選手団は東西に分け,開・閉会式の入場行進も,東に続いて西と分かれた。そして72年,札幌の冬季大会から,再び東西に分離しての参加がドイツ統一まで続いた。

 IOCは東西ドイツ合同チームの方式を,朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国にも適用しようとして,1963年,ローザンヌで両国代表の会談を仲介し,原則的な合意が成立して,国名は朝鮮Korea,旗は白地中央に五輪のマーク,その下に〈Korea〉と書いたもの,歌は《アリランの歌》と決めた。しかし,細目の協議に移る第2回会談は大韓民国政府の反対で実現せず,合同チームの編成は失敗に終わった。72年から独自に参加している朝鮮民主主義人民共和国は,84年のロサンゼルス,88年のソウルの夏季大会は不参加であったものの,冬季大会は76年を除き毎回参加している。それゆえ分裂国家に関しては,80年のレーク・プラシッド,84年のサラエボ大会は米ソそれぞれが夏季大会をボイコット,不参加表明していたが,このとき二つの中国,東西ドイツ,南北朝鮮が一堂に会した。

オリンピックで初めて〈人種〉に関心がもたれたのは,1904年,セント・ルイスの第3回大会である。アメリカ体育協会(AAU)書記長ジェームズ・サリバンの発案で,会期中の8月12,13両日,陸上競技場で〈人類学競技Anthropological Games〉が行われ,アフリカ黒人,アメリカ・インディアン,南アメリカのパタゴニア族,フィリピンのモロ族,メキシコのココバ族,日本のアイヌなどを集め,100ヤード競走,走幅跳び,砲丸投げ,やり投げなどの競技を試みた。アメリカ・インディアンがもっとも優秀な体力を発揮したが,サリバンの意図は一部で批判されたような〈見世物趣味〉ではなく,多くの民族のスポーツ能力をテストしながら,それらの民族の間にスポーツへの理解と関心をもたせることにあったといわれる。この実験を契機に,アメリカのスポーツ界は有色人種排除の〈カラーライン〉が撤去される方向に進み,やがて各スポーツに黒人やインディアンが進出することになる。第2次世界大戦後,アメリカのスポーツ界では黒人選手の活躍が目覚ましく,オリンピック選手団の中でも,陸上競技やボクシングでは黒人選手が主力となった。60年,オリンピック・ローマ大会では,十種競技の黒人選手ジョンソンが,初めてアメリカ選手団の旗手に起用された。しかし,それはアメリカで黒人問題が解決したことを意味するのではなかった。キング牧師の暗殺などで,黒人運動が高潮した時期に開催された68年のオリンピック・メキシコ大会では,陸上競技200mの表彰台上で,1位スミスと3位カルロスの2人の黒人選手が,アメリカ国旗に向かって黒い手袋で包んだこぶしを振り上げ,差別への怒りを表した。72年のオリンピック・ミュンヘン大会でも,数人のアメリカ黒人選手が表彰台上で国旗に背を向けた。同じミュンヘン大会で,パレスティナ・ゲリラが選手村に侵入し,イスラエル選手11人を殺害する惨事が起こった。1970年,IOCは南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)政策に抗議して,南アフリカ共和国NOCを除名した。さらに75年,ローデシア政府の人種差別に抗議してローデシアNOCを除名したが,81年4月,白人政権が倒れてジンバブウェ共和国が成立すると同時に,IOCはそのNOCを承認し,ジンバブウェはオリンピック・モスクワ大会に参加し,女子ホッケーでは黒人と白人の混成チームが優勝した。1976年,オリンピック・モントリオール大会に際し,アフリカ・スポーツ最高評議会(SCSA)は,ニュージーランドのラグビーチームが南アフリカ共和国に遠征したことに抗議して,アフリカ諸国のオリンピック・ボイコットを決議した。キラニンIOC会長は,ラグビーがオリンピックに無関係であるとして説得を試みたが聞き入れず,すでに現地に到着していた選手団を含め,23ヵ国が不参加を決行し,このため参加国は12年前のオリンピック・東京大会と同じ94ヵ国に減った。南アフリカ問題は,91年6月のアパルトヘイト全廃により,翌7月,32年振りにIOC復帰が認められ解決する。

古代オリンピックは,ギリシアのオリュンピア(オリンピア)で,古代ギリシアの主神ゼウスにささげる祭典競技であった。古代ギリシアでは四大祭典として,このほかデルフォイのアポロン神域で催されたピュティアPythia祭,コリントスの海神ポセイドンを主神とするイストミアIsthmia祭,ゼウスを主神とするネメアNemea祭(前573)があったが,もっとも盛大で歴史も長かったのがオリュンピアの祭典である。古代ギリシアにおける競技の歴史は,神話時代にさかのぼって古く,オリュンピア祭典競技の起源に定説はないが,記録に残る最初のオリュンピア競技は前776年に行われ,その後4年に1度ずつ開かれて,393年の第293回まで1169年の長期にわたって続けられた。のちにローマの歴史学者が4年紀を1オリュンピアードと名づけたのも,この大会の影響力の大きさを物語っている。場所はゼウス神殿のあった聖域の東側に隣接した競技場で,その南側には競馬や戦車競走の行われる競馬場があった。聖域の遺跡は,ドイツの考古学者E.クルティウスによって1875年から81年にかけて本格的に発掘され,さらに1936年から42年にかけてドイツ発掘隊が再発掘した。戦争で中断したが,競技場の遺跡は,西ドイツ発掘隊が52年に着手し,60年に完了して全貌が明らかになった。競技場は長さ約200m,幅約40mの長方形で,走路の長さは192.27mであった。この長さをスタディオンstadionと呼び,古代ギリシアの尺度の単位とされ,スタディアムstadium(競技場)の語源になった。1スタディオンが最短の競走で,それ以上の競走は走路を往復して行われた。オリュンピア競技は,8月から9月にかけての満月の日を中心に開催され,初期は1日だったが,前472年以後の最盛期には5日間にわたって行われた。参加できるのは自由市民の男子に限り,奴隷と女性は参加を禁じられた。女性の入場は未婚女性に限られ,既婚女性は女性祭司1人しか許されなかった。前750年以後,ギリシア本土以外の地中海沿岸や黒海沿岸の各地にギリシアの植民市が建設されるとともに,それらの都市からの参加者も増えた。祭典の数ヵ月前から,オリュンピアのあるエリス地方の使者が,馬に乗ってギリシア全土にオリンピック休戦(エケケイリア)を触れ回った。オリュンピア祭典の成功と各地からの参拝者の旅行の安全を図るためで,必ずしもこの期間にギリシアが完全に平和だったわけではないが,27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかった。すべての競技で競技者は全裸で競技した。優勝者には,ゼウスの神木オリーブの枝で編んだ葉冠が与えられ,その彫像が聖域内に建てられた。前2世紀以後,ローマの勢力が伸張するに従って,オリュンピア競技からもギリシア精神が失われ,競技に賞金がかけられたり,これを目当てとする職業競技者が横行したりして競技も衰退期に入り,ローマ帝国時代になると,皇帝ネロが聖域内に別荘を建て,みずから競技に参加するため,その日程の都合で,65年に行われるべき第211回の祭典をかってに67年に延期して伝統を乱すような末期的現象を呈するようになった。313年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を公認し,392年にはテオドシウス1世が異教禁止令を出したので,オリュンピアの祭典も競技も翌393年の第293回を限りに消滅した。エリスで継承された年代記では,すでに369年の第287回が最後の記録で,それもボクシング優勝者だけが記録されているのは退廃した競技の状況を物語っている。オリュンピアの競技はすべて個人競技で,ボールを使う競技や水泳競技はなかった。初期には1スタディオンを走る短距離競走だけで,前776年の第1回優勝者はエリスのコロイボスであった。第14回(前724)から走路1往復の競走,第18回(前708)からレスリングと五種競技(走幅跳び,やり投げ,短距離競走,円盤投げ,レスリング)としだいに競技種目が増え,会期が5日間になった最盛期には13種目になった。オリュンピア競技で行われた競技は,短距離,中距離(1往復),長距離(3~12往復)の各競走,五種競技,レスリング,ボクシング,パンクラティオン(ボクシングとレスリングを兼ねた格闘競技),武装競走,らっぱ手競走,伝令競走,競馬,4頭立戦車競走,2頭立戦車競走,駿馬4頭立戦車競走,駿馬2頭立戦車競走,2頭立ラバ戦車競走,牝馬競馬,牝駿馬競走,駿馬10頭立戦車競走の19種目。第37回(前632)から少年競技として,競走,レスリング,ボクシング,パンクラティオン,五種競技が行われた。後に芸術競技,音楽競技なども加わった。

1896年,アテネ(ギリシア)で近代オリンピアードの幕を開けたオリンピックの歴史は,第1期(1896-1912),第2期(1920-36),第3期(1948-64),第4期(1968-80),第5期(1984- )に分けることができる。

オリンピック運動が草創の苦難を乗り越えて,未来への展望を開く時期である。アテネの第1回大会はアレクサンドリアの富豪アベロフG.Averoffの寄付金とギリシア王室の援助で開催にこぎつけ,ギリシアの故事をしのんで初めて行ったマラソンの劇的効果で成功を収めたが,終了後第2代会長に就任した創始者クーベルタンは,1900年の第2回パリ大会で,たちまち苦難に遭遇した。クーベルタンの母国とはいえ,フランスでは官民ともにオリンピックへの理解が乏しく,クーベルタンの希望したオリンピック大会は,たまたまフランス政府主催で開催された万国博覧会のアトラクションとして行われ,オリンピックの独自性を発揮できなかった。陸上競技はブーローニュの森の乗馬クラブの馬場で行われ,プログラムには〈オリンピック〉の文字もなく,観衆もまばらだった。水泳はセーヌ川の上流で行われたが,どの競技にもメダルの用意がなく,IOCの要請で,あとから郵送されるという始末であった。04年,セント・ルイス(アメリカ)で行われた第3回大会も,同時に開かれたルイジアナ解放100年記念博覧会の余興のように扱われ,アメリカ以外の参加国はわずかに11ヵ国,それもカナダ以外はほとんどアメリカに居住する外国人で,選手総数は600人をわずかに超える程度だった。14競技が7月から10月にかけて散漫に行われ,アメリカ選手の活躍だけが目だった。オリンピックがまたしても博覧会のプログラムに編入されたことに失望したクーベルタンは,セント・ルイスに姿を見せず,オリンピック運動を活性化するため,〈オリンピックは永遠にギリシアで〉と熱望するギリシアの世論にもこたえて,06年4月,再びアテネで特別オリンピック大会を開催した。のちにIOCが,オリンピックの開催と並行して他の国際行事の開催を禁止する規定を設けたのは,パリとセント・ルイスの2回にわたる博覧会の苦い経験によるものであった。第1回以来,大会に参加する資格は個人にもクラブにも与えられていたが,08年の第4回ロンドン大会から,参加する主体をNOCに限定し,個々の選手にイギリスで定めたアマチュア規定を適用することになり,ロンドン大会の開会式では,初めて各国の選手団がそれぞれ国名標識と国旗を先頭に入場行進を行った。そのためか,参加国のナショナリズムが早くもこの大会で激発し,イギリスとアメリカの選手団が互いに挑発してトラブルが絶えなかった。そのため,会期中にセント・ポール寺院で行われた選手,役員のための特別ミサで,ペンシルベニア主教は〈このオリンピックでは,勝つことよりも参加したことに意義がある〉と戒めた。このことばをクーベルタンが修飾し,〈オリンピックで重要なことは勝つことではなく参加することである〉というオリンピックの格言になった。12年,第5回大会がストックホルムで開かれた。すでにスウェーデンには独自のスポーツ風土が形成されており,オリンピックは幸運に恵まれた。組織委員会長でスウェーデン陸上競技連盟会長のS.エドストレムは,スウェーデンの有名な電気工学者で,その発案により,陸上競技の着順判定に世界で初めて写真判定装置が試用された。この大会まで漕艇,サッカー,体操などを除いて,国際的組織をもたないスポーツが多く,したがって競技のルールも統一を欠いていたが,IOCは各スポーツに国際組織の結成とルールの整備を呼びかけ,13年になると陸上競技をはじめ国際競技連盟(IF)が次々に創立され,スポーツの国際的発展に新時代を開いた。日本が初めてオリンピックに参加したのもこのストックホルム大会である。この大会で,陸上競技の五種競技と十種競技に優勝したアメリカ・インディアンのJ.ソープは,その前年セミ・プロ野球に加わって報酬を得ていたことが判明,アメリカ体育協会(AAU)がそのアマチュア資格を否認し,IOCは金メダルを没収した。オリンピックで起こった最初のアマチュア規則違反事件であった。のちに75年,AAUは,すでに故人となっていたソープの復権を決定し,IOCも82年10月の理事会で復権を承認,83年1月サマランチ会長が遺族に金メダルを贈った。

第1次大戦で,1916年ベルリンに予定されていた第6回大会を中止したあとを受け,20年アントワープ(ベルギー)で平和回復を祝った第7回大会を起点とし,オリンピック運動が軌道に乗り,大会が〈4年に1度の偉大なスポーツ祭典〉にふさわしく,その内容外観を整備充実した時期である。アントワープの会場には初めて五輪の旗が翻り,ベルギー選手によって初めて〈選手宣誓〉が行われた。テニスでは日本の熊谷一弥,柏尾誠一郎がシングルスとダブルスで2位となり,日本人初のメダリストになった。24年2月,シャモニー・モンブラン(フランス)で,パリで開催される第8回大会の一部としてスキーとスケートの競技が行われたが,IOCは翌年の総会でこれを第1回とするオリンピック冬季競技大会を創設した。パリ大会には陸上のP.J.ヌルミ(フィンランド),水泳にJ.ワイズミュラー(アメリカ)と,スポーツ史上不朽の名を残す名選手が出現した。とくにヌルミは前回1500mに優勝し,さらにこの大会から28年のアムステルダム大会にかけて,9個の金メダルを獲得する偉業を遂げた。1925年,オリンピック運動が軌道に乗ったことを見届けたクーベルタンは,IOC会長を辞任し,バイエ・ラトゥール伯爵(ベルギー)が第3代会長に就任した。59年のノーベル平和賞受賞者,P.J.ノエル・ベーカーは,クーベルタンをしのんで〈狂信的愛国主義,人種主義,政治権力,商業主義と戦い抜いた偉人〉と賞賛した。1928年,アムステルダム(オランダ)の第9回大会から初めて女子の陸上競技が登場した。女子水泳はすでにストックホルム大会から行われていたが,女子陸上競技が採用されたことで,女子スポーツの将来に新しい展望が開かれた。この大会で日本の織田幹雄が三段跳び,鶴田義行が200m平泳ぎでそれぞれ優勝して日本で初めての金メダリストになり,また女子陸上800mでは人見絹枝が2位に入賞した。32年,ロサンゼルス(アメリカ)で開かれた第10回大会では,オリンピック史上初めて10万人収容の大競技場が建設され,36年の第11回大会に提供されたベルリン競技場の施設とともに,大会施設の巨大化に端を開いた。最初のオリンピック村(選手村)は,第8回大会の時に男子選手用が登場したが,ロサンゼルスでは本格的なオリンピック村が開設され,IOCはこれが参加選手の友好に寄与したことを評価し,その後の大会開催都市にオリンピック村の造成を義務づけた。日本選手は水泳の競泳6種目のうち5種目で金メダルを獲得するなど,各競技で優秀な成績を収めた。陸上競技でアメリカの黒人選手が活躍するようになったのもこの大会からである。36年,ヒトラー政権下のベルリンで開かれた第11回大会で,ナチ政府は競技場に〈ハーケンクロイツ(かぎ十字)〉の党旗を初めて公式の国旗として掲げるなど政治色が濃かったが,IOCはオリンピック大会の主催権がIOCにあることを主張して,ユダヤ人排斥の宣伝物を会場周辺から撤去させるなど,極力政治的干渉に抵抗し,オリンピック運動の独自性確保に成功した。聖火リレー,聖火台(1936),3段の表彰台(1932)など,のちにIOCで規定される式典様式はこの大会で創始されたものが多く,オリンピック大会の規模と形式は,ロサンゼルスとベルリンの両大会から決定的な影響を受けた。IOCが記録映画をつくるようになったのもベルリン大会からであり,L.リーフェンシュタールの《民族の祭典》と《美の祭典》(ともに1938)はベネチア映画祭で金賞を受賞。ベルリン大会に先立って開催されたIOC総会は,40年の第12回大会を東京で開催することを決定した。しかし,日中戦争の激化で,1938年7月,日本政府は東京大会組織委員会に対し東京大会の中止返上を命じた。IOCは代替都市としてヘルシンキを,さらに44年の開催都市としてロンドンを指定したが,第2次大戦のためいずれも中止となった。IOCのラトゥール会長は1942年飛行機事故で死去し,IOC会長は46年,エドストレム(スウェーデン)が就任するまで空位となった。

第2次大戦後,オリンピック運動が復興して1948年ロンドンで12年ぶりに第14回大会を開催し,その後アメリカとソ連の対抗を中心に展開される国際スポーツ界の新しい状況に適応する道を探りながら,〈史上空前の偉大な祭典〉と評価された東京大会に至るまでの期間である。52年ヘルシンキで開催された第15回オリンピック大会にソ連選手団が初めて参加した。ヘルシンキではソ連選手のために別の選手村を用意するなど,異様な空気が漂ったが,ソ連選手の勢力はアメリカに迫り,世界のスポーツはいやおうもなく冷戦体制に組み込まれた。1946年IOC会長に就任したエドストレムは高齢のため52年辞任し,A.ブランデージ(アメリカ)が第5代会長に就任した。以後IOCは72年まで20年にわたってスポーツの純粋性を主張する理想主義者ブランデージ会長の統率下に置かれ,激発するナショナリズムや横行する商業主義と苦闘を重ねることになる。IOCは政治的な東西対立を超克する試みとして,1956年東西ドイツの統一チーム編成に成功したが,これも64年までしか続かなかった。1956年の第16回大会は,初めて南半球に移ってメルボルン(オーストラリア)で開催されたが,馬術競技だけはメルボルンの馬に対する検疫制度がきびしいため,切り離してストックホルムで行われた。この年2月,コルティナ・ダンペッツォ(イタリア)で開催された第7回冬季大会で,日本の猪谷千春(のちのIOC委員)は,スキー回転で2位に入り,日本人初の冬季大会メダリストとなった。メルボルン大会に先立って,選手村の国旗の誤りから中国選手団が参加を拒否し,IOCに台湾の除籍を求めていれられなかったのに抗議して,58年,中国はIOCから脱退し,以後20年にわたって中国問題がIOCの困難な課題となった。60年ローマ(イタリア)で開催された第17回大会は,古都にふさわしくカラカラ浴場の跡を体操会場に,コンスタンティヌス凱旋門をマラソンのゴールに使うなど,歴史的な趣向をこらし,異色のオリンピックとしてみごとに成功した。64年の第18回オリンピック・東京大会は〈造型と科学のオリンピック〉といわれ,国立競技場をはじめとする競技施設が造形美を誇り,競技の計時・記録・報道の装置に初めて電子機器が使用された。一方,この大会を目ざして東海道新幹線が開通し,東京都内には高速道路網が建設されるなど,まさに日本経済の高度成長を象徴するオリンピックであった。
東京オリンピック大会

アフリカの植民地解放が続出して,IOCの加盟国が増加し,オリンピック運動が5大陸に拡大されたことに特徴がある。同時にスポーツの科学的研究が進展し,スポーツの技術,スポーツの施設,用具などが急速に改良され,スポーツの技能水準が飛躍的に向上した。1968年,第19回オリンピック大会が開催されたメキシコ市は標高2240mの高地だったので,陸上競技の成績に影響し,中・長距離の競走では,ケニアなどの高地民族が生気を得て活躍し,走幅跳びではアメリカのR.ビーモンが8m90を跳んで〈21世紀の記録〉と驚嘆された。1960年代の世界に広がった学生の反体制運動はメキシコも例外ではなく,オリンピック大会の直前に激しい学生運動が起こり,大会の会場は警護の戦車で包囲され,また陸上競技ではアメリカの黒人選手が人種差別への抗議行動を行った。フランスやオーストリアのスキー選手とスキー用品メーカーとの結託が表面化し,72年,札幌の冬季大会(札幌冬季オリンピック大会)では,IOCはオーストリアのスキー選手カール・シュランツがスキー・メーカーの宣伝に利用されたとして,選手村から追放される事件が起こった。同じ年,ミュンヘンで開かれた第20回大会は,初めて21競技を行い,これが以後の大会の基準となって,大会巨大化は避けがたい傾向になった。この大会は〈コンピューター・オリンピック〉といわれたように,大会の運営,審判,記録測定,情報伝達に電子機器が全面的に利用され,水泳では1000分の2秒差で着順が判定される例があった。ミュンヘンの選手村にパレスティナ・ゲリラが侵入し,イスラエル選手団を襲って11人を殺害する事件が発生し,選手村を平和の聖域としたオリンピック運動に大きな衝撃を与えた。76年の冬季大会開催都市に予定されていたデンバー(アメリカ)では,オリンピック開催による環境破壊に反対するコロラド州の住民運動が起こり,1973年2月,住民投票の結果,反対派が圧勝してデンバー市は開催権を返上,開催都市はインスブルック(オーストリア)に移された。しだいに規模を拡大するオリンピック大会の開催は,環境との関係が避けられなくなった。73年9月,IOCはバルナ(ブルガリア)で1930年以来43年ぶりで〈オリンピック会議〉を開催,関係者約4000人が出席,〈オリンピックの未来像〉をメーンテーマに討議を重ねた。その結論を踏まえ,74年ウィーン(オーストリア)で開催された第75回IOC総会は,オリンピック憲章に画期的な改正を断行し,全文から〈アマチュア〉の語を削除して〈アスリート〉または〈コンペティター〉にかえ,一定の条件で選手が金銭的収入を得ることを認め,アマチュアリズムは事実上消滅するに至った。76年,モントリオール(カナダ)で開催された第21回大会は,中国と国交を開いたカナダ政府が台湾選手団の国旗使用を拒否したため,台湾選手団が引き揚げ,またニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ共和国遠征に抗議したアフリカ各国選手団のボイコットという政治的トラブルに巻き込まれた。中国のIOC加盟は,79年,台湾NOCの呼称を〈中国・台北オリンピック委員会〉とすることで解決した。80年,モスクワで開催された第22回大会は,1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻に対する制裁措置として,アメリカのカーター大統領が西側同盟国にボイコットを呼びかけたため,日本,西ドイツ,カナダ,韓国などの各国政府とNOCがこれに同調し,オリンピック史上例のない政治干渉が平和運動としてのオリンピック運動に打撃を与えた。イギリス,オーストラリア,フランスなどのNOCは政府の勧告を退け自主的に参加したが,参加国は前回より13ヵ国減少し,81ヵ国であった。81年10月,IOCはバーデン・バーデン(西ドイツ)でオリンピック会議と総会を開催,総会では88年の大会開催候補都市に対する投票が行われたが,市民の強い反対を押し切って立候補した名古屋市は,52対27でソウルに惨敗し,また冬季大会はカルガリー(カナダ)に決定した。オリンピック会議には選手代表も招かれたが,IOCも専門委員会にアスリート(競技者)委員会を設け,創立以来初めて選手に発言の場が与えられることになった。またこの総会で初めて2人の女性委員が選出され,82年の総会から出席することが決まった。

1984年の第23回ロサンゼルス大会は,ソ連がアメリカ政府のソ連選手団受入れ対策をオリンピック憲章違反と非難して不参加を決定,社会主義国16ヵ国が同調して,前回モスクワ大会に続き東西両陣営の政治的駆引きの場となった。また,経済的にも破綻し,引き受け手のない状態であった。オリンピックが政治的にも経済的も行き詰まり,転換を余儀なくされたのが,ロサンゼルス大会以降20世紀末のこの時期である。この転換は,アマチュアリズムの放棄と連動して,ビジネス五輪といわれるような,徹底した商業主義によってもたらされ,80年に就任した第7代IOC会長A.サマランチによってリードされた。政治的問題は,89年のベルリンの壁崩壊に続く90年のドイツ統一,91年のソ連邦の消滅という戦後史を塗り替えた出来事によって,以後,経済原則に従属する形となる。だが,これによってもたらされたものは,オリンピックそのものの存在意義を問う。それらは,ドーピング(禁止薬物使用)等競技モラルの危機や商業主義に左右される競技の方法や内容,環境問題などであり,21世紀の大会に託された課題といえよう。〈オリンピックは,世界のトップレベルの選手が参加する最高の競技会であるべきだ〉とするサマランチ会長の方針は,プロ選手参加の道を開くなど,参加資格のオープン化を加速させた。女子マラソン,新体操,シンクロナイズドスイミング,自転車ロード種目など,女子種目の増大も顕著であった。84年の第14回サラエボ冬季大会は,会期が12日間で行われた最後の大会となった。80年大会同様,中国,朝鮮,ドイツの分裂国家が一堂に会した。

 88年ソウル(韓国)で開催された第24回大会は,一時,朝鮮民主主義人民共和国との共同・分裂開催も検討されたが,実現しなかった。テニスと卓球が新たに加わり,テニス,サッカーにはプロの参加も認められた。アンチ・ドーピングの必要性を世界に最も強くアピールしたのは,皮肉にも陸上100mで9秒79の驚異的な記録を出したB.ジョンソン(カナダ)の薬物汚染であった。この出来事は,競技の極限状況やドーピングの深刻な現状を世界に知らしめることにもなった。88年の第15回カルガリー(カナダ)冬季大会から,会期は夏季大会同様,週末を3回含む16日間となった。

 92年の第25回バルセロナ(スペイン)大会と第16回アルベールビル(フランス)冬季大会は,最後の夏季・冬季同年開催の大会となった。89年から92年にかけて起こった戦後世界の体制の変化や民族紛争は,統一ドイツ,独立国家共同体,仮加盟のボスニア・ヘルツェゴビナなど,参加国を大きく様変わりさせた。バルセロナでは,全米プロバスケットボール協会の編成した〈ドリームチーム〉の登場や,テレビ映りを意識した1対1のトーナメント方式導入のアーチェリーなど,ビジネス五輪はさらに前進したといえよう。89年,日本体育協会から離れ,別法人格を取得した日本オリンピック委員会(JOC)は,アルベールビルへ初めて選手団を編成。オリンピック特別賞が新設され,メダリストに報奨金が用意された。この大会で日本選手団は,28年の第2回サン・モリッツ(スイス)大会から第15回カルガリー大会までの総メダル獲得数と同じ7個のメダルを獲得。2年後にめぐってきた第17回冬季大会はリレハンメル(ノルウェー)で開催され,環境に配慮し,自然と共存する〈グリーン・オリンピック〉を提唱。ボブスレーとリュージュの兼用コースや,岩山をくりぬき地下にアイスホッケー場を造るなどすべての面で〈環境五輪〉を強調した。

 96年アトランタ大会を放映するアメリカ三大テレビネットワークのNBCは,95年にIOCとの間で2000年シドニー(オーストラリア)夏季大会,2002年のソルト・レーク・シティ(アメリカ)冬季大会のアメリカ国内独占放送権契約を結んだ。さらに年末には,開催地未定の時点にもかかわらずインフレ率を見込んで,2004年夏季,2006年冬季,2008年夏季の3大会の契約をも獲得。長期的な経済的安定を求めたIOCとの合意によったものである。100周年を記念する大会となったアトランタ大会は,197のIOC全加盟国・地域から1万624人の選手が参加。うち3600人を超えた女性選手は過去最高で,〈女性の五輪〉ともいわれている。

 20世紀最後の冬季大会である第18回長野大会は日本で3回目のオリンピックとなり,愛と参加,自然との共存の理念を掲げた。92年のアルベールビル大会からオリンピック開催地での開催となった障害者のオリンピック,〈パラリンピック〉冬季競技大会は,98年の長野で7回目を迎えた。オリンピックの全体像も変わりつつあるといえよう。
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百科事典マイペディア 「オリンピック」の意味・わかりやすい解説

オリンピック

〈オリンピック競技大会Olympic Games〉の略称。五輪とも。国際オリンピック委員会(IOC)の主催で4年ごとに開催される国際スポーツ競技大会。古代オリンピックをモデルに,クーベルタンが主唱して近代オリンピックとして復興。夏または秋の大会と冬季大会とに分けられ,前者は1896年アテネで,後者は1924年シャモニーで第1回大会を開催した。日本は1912年のストックホルムオリンピック(第5回大会),冬季大会は1928年サン・モリッツオリンピック(第2回冬季大会)から参加した。1916年,1940年,1944年は戦争で中止。1994年より,2年ごとに夏大会,冬大会を交互に開催する方式となった。オリンピックの巨大化にともない,さまざまな難題が露呈しつつある。全体主義や冷戦時代には大国の指導者による政治的利用もなされ,また1984年のロサンゼルスオリンピックからは開催にかかる巨大な費用のために商業主義が話題となった。全世界にネットワーク化されたTV網で観客数は膨大なものとなり,開催地となった都市は国家の威信をかけて整備され,開会式・閉会式はショー化されて,ナショナリズムや国家主義の絶好のプロパガンダの機会ともなっている。しかし,世界のアスリートが競うオリンピックが人類の生み出した共有財産であることは間違いない。なお,2000年のシドニーオリンピックからIOCと国際パラリンピック委員会(IPC)との間で正式な協定が結ばれ,オリンピックの開催都市は引き続きパラリンピックを開催することとなった。その後両者の関係はさらに強化され,IOCはパラリンピックの運営と財政についてIPCを支援することになり,パラリンピックの組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合されることになった。東京は2020年の第32回夏季オリンピック・パラリンピック大会の開催地に選ばれている。オリンピック旗オリンピック憲章聖火リレー
→関連項目アジア競技大会アテネオリンピック(1896年)アテネオリンピック(2004年)アトランタオリンピック(1996年)アムステルダムオリンピック(1928年)アルベールビルオリンピック(1992年)アントワープオリンピック(1920年)インスブルックオリンピック(1964年)インスブルックオリンピック(1976年)オスロオリンピック(1952年)カルガリーオリンピック(1988年)ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック(1936年)競泳グルノーブルオリンピック(1968年)五種競技コルチナ・ダンペッツオオリンピック(1956年)札幌オリンピック(1972年)サマランチサラエボオリンピック(1984年)サン・モリッツオリンピック(1948年)シャモニー・モンブランオリンピック(1924年)障害飛越新興国競技大会スコーバレーオリンピック(1960年)セントルイスオリンピック(1904年)ソウルオリンピック(1988年)ソチオリンピック(2014年)ソルトレークシティオリンピック(2002年)トラック競技トリノオリンピック(2006年)長野オリンピック(1998年)日本オリンピック委員会パリオリンピック(1900年)パリオリンピック(1924年)バルセロナオリンピック(1992年)バンクーバーオリンピック(2010年)フィールド競技北京オリンピック(2008年)ヘルシンキオリンピック(1952年)ベルリンオリンピック(1936年)ペロプスミュンヘンオリンピック(1972年)メキシコシティーオリンピック(1968年)メルボルンオリンピック(1956年)モスクワオリンピック(1980年)モントリオールオリンピック(1976年)ユニバーシアードヨットハーバーリレハンメルオリンピック(1994年)レークプラシッドオリンピック(1932年)レークプラシッドオリンピック(1980年)ロサンゼルスオリンピック(1932年)ローマオリンピック(1960年)ロンドンオリンピック(1908年)ロンドンオリンピック(1948年)ロンドンオリンピック(2012年)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オリンピック」の解説

オリンピック

国際オリンピック委員会(IOC)主催による国際総合スポーツ大会。フランスのクーベルタンが古代オリンピックの復興を提唱し,1894年同委員会が結成され,96年近代オリンピックの第1回大会がアテネで開催された。以後4年ごとに開かれ,第5回大会(1912年,ストックホルム)から日本も参加した。冬季オリンピックは1924年のシャモニー大会からで,日本は第2回(28年,サン・モリッツ)から参加。40年(昭和15)の第12回大会は東京(冬季大会は札幌)で行われる予定であったが,日中戦争下の経済情勢悪化のため中止された。日本は第2次大戦後の第15回大会(52年,ヘルシンキ)から復帰し,64年には第18回東京大会,72年には第11回札幌冬季大会,98年には第18回長野冬季大会が開催された。2020年には再び東京が開催地となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「オリンピック」の解説

オリンピック
Olympic

国際オリンピック委員会(IOC)の主催によって開かれる国際スポーツ競技大会
フランスのクーベルタン男爵の主唱で,古代ギリシアのオリンピア競技が国際的規模で復活された。1896年アテネで第1回大会が開かれ,その後2度の大戦中を除き,4年ごとに開催地を変えて行われている。日本では,1964年に東京で第18回大会が開かれた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「オリンピック」の解説

オリンピック

株式会社Olympicグループが展開するスーパーマーケットのチェーン。主な出店地域は関東地方。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オリンピック」の意味・わかりやすい解説

オリンピック

「オリンピック競技大会」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のオリンピックの言及

【アマチュアリズム】より

…イギリス陸上競技連盟は80年に労働者除外規定を廃止したが,ヘンレー・レガッタでは1935年まで残されていた。1894年創立のIOC(国際オリンピック委員会)は,イギリスのアマチュアリズムをそのまま継承し,オリンピック大会は世界のアマチュアのスポーツ祭典と規定された。1912年第5回オリンピック大会(ストックホルム)で,陸上競技の五種競技と十種競技で優勝したアメリカのジム・ソープは,以前にセミプロ野球で報酬を得ていたことが暴露され,金メダルを没収される事件があった(IOCは1982年ソープの復権を承認,83年遺族に金メダルを贈った)。…

【スポーツ】より

…イギリスの古い〈スポーツ辞典・事典〉をみてみると,〈狩猟〉が後退して〈近代スポーツ〉が半分以上を占めるようになるのは19世紀末のことである。 スポーツの語義が,まさに〈競技スポーツ〉に定着するようになるのは近代オリンピック・ムーブメントをとおしてであった。それでも初期の近代オリンピック競技会はまだまだ素朴な競技施設で行われており,一応の競技施設が整うのは1924年のオリンピック・パリ大会以後のことである。…

【聖火リレー】より

オリンピック大会の開会式典を飾る儀式の一つ。古代オリュンピア祭の〈たいまつ競走〉の故事にならい,聖火は聖地オリュンピア(ギリシア)で,古代ギリシアの巫女(みこ)に扮した女性により採火される。…

【裸】より

…ギリシア語ギュムノスgymnosは〈裸の〉という形容詞で,英語のgymnosperm(裸子植物)などに今も残っている。オリュンピア競技(オリンピック)を目ざす古代ギリシアの青年たちは,体育館(ギュムナシオンgymnasion)で一糸もまとわず体育訓練(ギュムナスティケgymnastikē)に励んだ。オリュンピアの観衆は競われる技と併せて出場する若者の裸体を楽しんだし,観ることを禁じられていた女性たちも像に残された優勝者の裸体美を楽しむことができた。…

※「オリンピック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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