ドイツの化学者。12月3日オーストリアのウィーンに生まれる。ミュンヘン大学で学位を得た。チューリヒ工業大学教授を経て、1929年以後はハイデルベルクのカイザー・ウィルヘルム医学研究所(現、マックス・プランク研究所)の所長となった。ウィルシュテッターの門下で、この時代のドイツの代表的な有機化学者の一人である。カロチノイドやビタミンの研究が有名であるが、その他の研究も多い。初期には糖の代謝や、それに関与する酵素の反応などを取り扱ったが、1920年代後期から1930年代にかけて、いろいろな有機化合物の構造、合成、立体化学、光化学、反応論などに関する広範な研究業績を残した。また脂肪酸の自動酸化におけるヘミンの触媒作用の研究から、有機物の酸化における鉄や銅などの微量重金属の重要性に着目し、1931年に酸化酵素の一つであるペロキシダーゼの活性基がポルフィリン鉄であることを明らかにした。当時は生体酸化の機構と働きに関する研究が生化学上の重要な課題になっていたが、彼の研究はワールブルクの酸素活性化説における微量重金属触媒の主張を強力に支持することになり、ワールブルクの呼吸酵素、ペロキシダーゼ、カタラーゼなどに含まれている鉄の量と、それぞれの酵素活性との間に量的な平衡関係があることをみいだした。
その後フラビンの研究に入り、牛乳に含まれている黄色色素ラクトフラビン、卵白のオボフラビンなどを単離、結晶化し、分子式を決定した。フラビンはワールブルクの黄色酵素の活性基であり、ビタミンB2作用をもつ。1937年には、以前から行っていたカロチノイドの研究の一環としてビタミンAの合成に成功している。1938年には、カロチノイド類およびビタミン類についての研究業績に対してノーベル化学賞の受賞者として指名されたが、ナチスの圧迫によって受賞できなかった。
[宇佐美正一郎]
アメリカの科学史家。ハーバード大学で物理学を専攻、1949年博士号を受けてのち、科学史に転じた。母校、カリフォルニア大学、プリンストン大学、マサチューセッツ工科大学の教授を歴任。1962年『科学革命の構造』The Structure of Scientific Revolutionsにおいて、パラダイムと通常科学の概念によって科学革命を説明して有名となった。パラダイム概念は、そのあいまいさ、多義性を批判され、彼自身、1969年には撤回を表明したが、それとは関係なく、社会科学や一般思想界で広く用いられ、学問や社会体制を根本的に問い返し、新しい道をみつけようとするときに援用される。著書に『コペルニクス革命』The Copernican Revolution(1957)ほかがある。
[中山 茂]
『中山茂訳『科学革命の構造』(1971・みすず書房)』▽『常石敬一訳『コペルニクス革命』(1976・紀伊國屋書店/講談社学術文庫)』
オランダ東インド会社の第4代および6代東インド(インドネシア)総督。オランダのホールンに生まれる。青年時代ローマのオランダ人商人のもとで働き、1607年初めてインドネシアのバンダ諸島に赴き、1612年ふたたびジャワに赴き、バンタムの商館で勤務した。1618年東インド総督に任命された。彼はインドネシアの各地にオランダ人の植民地をつくることを主張し、1619年にはバタビア(ジャカルタ)を根拠地として建設した。彼はイギリス東インド会社と激しく争い、これが原因となって本社と対立し、1623年には辞職して帰国した。しかし1627年ふたたび総督に任命されてジャワに渡った。1629年バタビアがマタラム王国の包囲を受けた際、防御の指揮をとっていたが、9月20日コレラのために死亡した。
[生田 滋]
ドイツの哲学者。アメリカのエモリー大学、ドイツのエルランゲン大学の教授を経て、1952年からミュンヘン大学教授。ハイデッガーの影響を強く受け、存在喪失の現代において根源的な存在回復の必要性を説く。歴史主義、実証主義を批判するが、ハイデッガーよりも現実の社会に関心をもち、良心、受苦、決断する人格相互の愛の共同体としての社会のあり方を追求した。美学の領域にも功績が大きい。主著に『芸術の文化的機能』2巻(1931)、『虚無との出会い』(1950)、『存在との出会い』(1954)、『国家』(1967)などがある。
[小池英光 2015年2月17日]
『斎藤博・玉井治訳『存在との出会い』(1973・東海大学出版会)』
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ドイツの有機化学者。ウィーン生れ。ミュンヘン大学でR.ウィルシュテッターに学び,1926年チューリヒ工科大学教授,29年ハイデルベルク大学教授,37年カイザー・ウィルヘルム医学研究所長。天然物化合物,とくに動植物界に広く存在する色素カロチノイド類およびビタミンの研究で成果をあげ,38年ノーベル賞が与えられた。しかし当時のナチスの妨害で受けられず,第2次大戦後になって受賞した。カロチノイドが共役二重結合の長鎖をもつことに着目して,ジフェニルポリエンなど各種のポリエンを合成し,それらの色を比較した。さらにカロチノイドの研究に,ロシアの植物学者ツベートM.S.Tsvet(1872-1919)の開発した吸着クロマトグラフィーを応用して,色素の分離にも成功した。またチューリヒ工科大学のP.カラーと激しくせり合いながら進めたビタミンB2の合成(1935),ビタミンAの合成(1937)などの仕事は有名である。さらにビタミンB6の構造決定,パントテン酸(ビタミンB複合体の一つ),アスコルビン酸(ビタミンC)の合成などの業績もある。そのほか,クラミドモナスの生殖に関する研究なども行い,生物学の分野にも大きな貢献をした。
執筆者:渡辺 健一
オランダ東インド会社の第4代(1619-23)および第6代(1627-29)の総督。オランダのホールンに生まれ,1607-10年東洋航海に参加し,13年には商務員として再び渡航して,モルッカ諸島などでスペイン,ポルトガル勢力の駆逐につとめた。初代総督ピーテル・ボートは彼を諸商館貿易事務総長の要職に任じ,17年には総督に内定していたが,18年から翌年にかけてジャカルタにあったオランダ東インド会社の要塞(のちにバタビア城と呼ばれる)がイギリスと地元バンテン王国との連合軍の包囲を受け,オランダは重大危機に直面した。クーンはモルッカ諸島から艦隊を率いて帰り,この地を守ってオランダ東洋経営の根拠地とした。19年に総督となり,21年には香辛料ニクズクの産地バンダ諸島から競争者イギリスを排除した。23年に総督を辞任して帰国し,アジア地域内貿易の大幅自由化を幹部に説いたが,採用されなかった。その間ジャカルタは中部ジャワの新興国マタラム・イスラムの脅威を受けたため,クーンは総督に再任され,28年,29年の2回にわたる包囲戦に耐えたが,29年9月病死した。
執筆者:永積 昭
アメリカの科学史家。ハーバード大学で物理学の学位をとった後科学史に転じ,カリフォルニア大学(バークリー),プリンストン大学を経てマサチューセッツ工科大学(MIT)教授。彼の名を有名にしたのはパラダイム概念を駆使した1962年の《科学革命の構造》で,そこで彼はパラダイムを〈広く人々に受け入れられている業績で,一定の期間,科学者に,自然に対する問い方と答え方の手本を与えるもの〉と定義した。この言葉は1960年代以降の学問の問い直しが迫られる知的状況のなかで,広く学問論や学術体制論の基本を問うためのキーワードとして受け入れられただけでなく,政治路線や体制を意味するまでに拡張解釈して用いられるようになり,学界,思想界に大きな影響を及ぼした。ほかに《コペルニクス革命》(1957),《本質的緊張》(1977),《異体理論と量子不連続1894-1912》(1978)などの著書がある。
執筆者:中山 茂
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オーストリア生まれのドイツの有機化学者.ウィーン大学で化学を学び,ミュンへン大学でR. Willstätter(ウィルシュテッター)に師事し,1922年学位を取得.ミュンへン大学講師,チューリヒ連邦工科大学教授を経て,1929年カイザー・ウィルヘルム協会医学研究所化学部長,1937年同研究所所長となる.ジフェニルアルカポリエンの合成研究をきっかけに天然物化合物の研究をはじめた.カロテノイドとビタミン(A,B2,B6 など)の研究で大きな業績をあげ,1938年にノーベル化学賞授与と決まったが,ナチス政府の圧力で受賞できず,戦後になって証書とメダルを受けとった.生涯,光学活性の立体化学に関心をもった.戦後,カイザー・ウィルヘルム協会のマックス・プランク協会再編に尽力し,戦後のドイツ科学復興に貢献した.1945年にノーベル物理学賞を受賞したW. Pauliとはウィーンのギムナジウムの同級生で,生涯の友だった.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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キューンをも見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…やがて東インドに来航する船は激増し,各地の航海会社間の競争を解消するために,1602年にオランダ東インド会社が設立された。バンテン王国の藩属国ジャカルタは良港であったため,イギリス,オランダ両国の争奪の的となり,イギリス・バンテン連合軍はオランダの要塞を19年に包囲したが,第4代オランダ東インド総督J.P.クーンはこれを守り通し,正式にこの地をバンテン王から譲り受けてバタビアと改称した。クーンはモルッカ諸島の香辛料貿易にも進出し,バンダ諸島の原住民を殺したり移住させたりしてニクズクの収穫をほとんど独占した。…
…16世紀のバンダ諸島の人口は1万5000人と推定される。99年にオランダ船が初めて訪れ,同じころイギリス船も現れて勢力争いが始まり,1621年2月,みずから艦隊を率いてバンダ諸島に赴いたオランダ東インド総督クーンは島を次々に占領し,住民を強制移住または全滅させた後,オランダ人を入植させてニクズクを栽培させた。そして収穫を一定価格で会社が買い取る制度が1864年まで続いた。…
… 以上の意味での科学革命は英語では大文字でScientific Revolutionと書かれる固有名詞であって,歴史上起こった1回限りの現象である。それに対してT.クーンは,その《科学革命の構造》(1962)において,小文字・複数の科学革命,つまり一般名詞に定義しなおした。彼によれば,科学者たちはあるパラダイムのもとに通常科学の伝統を開き,その伝統の中で変則性が多く認められるようになると危機が生じ,やがて別のパラダイムによってとって代わられて科学革命が起こる,とする。…
…ハンソンは,科学を支える客観的データの神話を壊すとともに,これまで自明とされてきた他の知識体系に対して科学のもつ独自的特権性という考え方そのものにもくさびを打ち込んだ。それを受け継いだのがT.クーンでありP.K.ファイヤアーベントであった。クーンは《科学革命の構造》(1962)によって,科学の連続的な進歩の前提を覆し,科学それ自体のなかに内包される自律的発展機構の存在を否定することによって,〈内部史〉と〈外部史〉の区別を乗り越えるとともに,歴史記述法historiographyの問題にも重要な衝撃を与えた。…
…すなわち,われわれにとって純粋で中立的な観察というものは元来ありえず,すべてはすでに現に存在している理論や解釈によって汚染されているのであり,したがって,科学革命というものも,新しい観察の出現によってなされるというよりは,むしろその時代の理論的パラダイムの転換によってなされると考えるべきであるということになる。この話題ではT.クーン,ハンソンR.Hanson,ファイヤアーベントなどの業績が大きい。(3)決定論と自由の問題も一つの重要テーマである。…
…最後に歴史学は,人文学と社会科学にまたがる広大な学問で,社会科学に属する部門は経済史,政治史,社会史,法制史などとして,それぞれの個別社会科学の歴史部門を構成する。 社会科学はこれまで,科学史家のT.S.クーンが自然科学に関して考えたような〈パラダイム〉,すなわち競合しあう諸学説をしりぞけて当該分野のすべての研究者の支持を集め,かつ当該分野のあらゆる問題を解決することのできるほどの包括性をもった学説というものを有してはこなかった。その理由は社会科学の未成熟に求められてきたけれども,一つの事象にアプローチする際の根底をなす人間観,社会観,歴史観さらには学問観といったものが,社会科学の発生以来今日まで終始統一されず,複数個のものが併存しつづけてきたというのが実情であって,これを未成熟というならば社会科学は今後ともずっと未成熟の状態から離脱することは困難なのではないかと思われる。…
…近代英語の用法では,とくにラテン語などの名詞や動詞の語型変化を記憶する際の〈代表例〉――例えば定形動詞の変化として“愛する”のamoを用いて,amo,amas,ama,……という人称変化や時制変化,モード変化を記憶する――の意味で用いられることが多かった。しかし1962年,T.S.クーンの《科学革命の構造》が発刊され,そのなかで,クーンはこの言葉に新しい特定の意味を与えて使い,この用法が非常な普及を見せたため,それ以降〈パラダイム〉は,欧米でも日本でも(ときに〈範型〉〈範例〉と訳されるが,通常はこの片仮名書きが多用されている),クーンの意味によることになった。 クーンの〈パラダイム〉は,科学の歴史や構造を説明するために持ち込まれた概念で,ある科学領域の専門的科学者の共同体scientific communityを支配し,その成員たちの間に共有される,(1)ものの見方,(2)問題の立て方,(3)問題の解き方,の総体であると定義できよう。…
※「クーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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