南ロシア,ウクライナ,シベリアなどで活躍した騎馬に巧みな戦士集団。ロシア語のカザークkazakは〈放浪者〉〈冒険者〉を意味するトルコ語に由来し,以前は中央アジアのカザフ人もカザークとよばれた。中世末ロシアの南・南東国境の警備にトルコ系カザーク,ついでロシア人が配置されたが(〈町のカザーク〉),15世紀後半から役人や地主の圧制を逃れて国境を越えた逃亡農民などもカザークと称し,この〈自由カザーク〉がドン,テレク,ヤイク(ウラル)などの川岸に集まり,それぞれ16世紀のうちに,全員の集会(クルーク)とアタマンの選挙制をもつ独特の民主的・軍事的な組織をつくった。同じころウクライナにもコサックが生まれ,ドニエプル下流のザポロージエに本営(セーチ)がおかれた。コサックははじめ農耕を行わず,狩り,漁業,養蜂と,平原や河川での略奪をこととし,軽快な小舟を編成して時には黒海,カスピ海の対岸まで遠征した。1569年ウクライナを併せたポーランド政府はコサックの数的規制と不正規軍としての利用をはかったが,ポーランド人地主とカトリック教会の進出に対するウクライナ人農民の反発のなかでコサックも再三反乱をおこし,1654年フメリニツキーがコサックの特権とウクライナの自治を条件にツァーリに臣従した。
ロシア政府のコサック政策も利用と規制の2面をもった。政府はドンなどのコサック集団に穀物や武器・弾薬を供して黒海北岸のトルコ勢力やクリム・ハーン国その他の遊牧民と対抗させ,またシベリア征服にも彼ら(T. エルマーク,V. アトラソフ,S. デジニョフら)を尖兵として利用しながら(シベリア),彼らの独自の動きには警戒を怠らず,これを規制しようとした。コサックはその略奪的遠征でしばしばトルコ政府を刺激し,それに何よりも,自由を求める逃亡民やラスコーリニキ(ロシア正教会の分離派)を受け入れる危険な存在であった。ボロトニコフ,ラージン,ブラービンK.A.Bulavin,プガチョフの乱においても,コサックの“自由”が辺境の民衆をひきつけ,彼らの独立不羈の精神はのちにレフ・トルストイなどによってもたたえられた。
しかしコサック社会にも早くにゴルイチバ(貧民層)が発生しており,これに対するスタルシーナ(長老層)のロシア政府への接近と政府の支配力の辺境への浸透が,とくに18世紀になってコサックの自治を形骸化させ,アタマンも政府が任命するようになった。ウクライナでもマゼパの謀反後コサックによる自治は大幅に制限され,ザポロージエのセーチも1775年に撤去され,一部のコサックはトルコ領のドナウ下流岸に移った。しかしロシア政府は他方では,1750年以降,辺境防備と植民のためカフカス,中央アジア,シベリア・極東に,解体したコサック集団の移駐も含めて次々に新たなコサック軍団を配置した。古くからのドン軍団を含め,20世紀初めには11の軍団が存在し(1916年に兵員数約28万5000。その3分の2はドンとクバンの軍団。同年のコサックの総人口約443万),彼らは日露戦争や第1次世界大戦でもロシア騎兵軍の中核として活躍した。コサック軍の最高司令官には1827年から皇太子がつき,軍団の所在地は民政も含めて陸軍省が管轄し,コサックはロシア帝国の特別な軍事身分とされた。男子コサックは18歳から20年(1909年からは18年)の軍役に服したが,火器以外の武器・装備と軍馬を自給し,土地割当で普通の農民より優遇され,教育程度もやや高かった。おそらくこうしたことから,一般民衆に対する差別意識と皇室に対する強い忠誠心が生まれ,コサック騎兵は1866年から大都市や工場中心地にも駐屯し,ロシア革命まで民衆運動の鎮圧に当たった。革命でコサック社会にも動揺が生まれ,コサック身分も否定されたが,内戦期には多くのコサックが赤軍と戦って戦後に約3万人が亡命し,シベリアでもセミョーノフが活躍した。大祖国戦争には,1936年に再建されたコサック騎兵軍団が参加し,投降兵などからドイツ側にもコサック部隊がつくられた。ゴーゴリの《タラス・ブーリバ》,ショーロホフの《静かなドン》がコサックの生活をえがいている。
なお,1980年代後半のペレストロイカからソ連邦崩壊,各共和国独立にいたる過程で,コサック軍団の再興がみられる。とくに民族紛争の起こっている地域のうち,カフカス地方のチェチェン独立運動や,モルドバ(旧モルダビア)におけるロシア系住民を中心とする〈ドニエストル共和国〉の運動などでは,ドン・コサックやロシア各地のコサックの参加が伝えられているが,コサックがロシア・ナショナリズムと結びついて行動することが少なくない点が注目される。
執筆者:鳥山 成人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
コザック、カザークともいう。もとの意味は「向こう見ず」とか「自由な人」を意味するチュルク語からきている。最初のコサックは、トルコ人やタタール人の山賊や戦士であったが、ドミトリー・ドンスコイの時代からモスクワ大公に仕える者も現れてきた。その後15世紀から16世紀にかけて、モスクワ公国やポーランド王国の支配の強化を嫌って、辺境のステップ地帯に逃亡する農民の集団をさすようになり、さらに18世紀から20世紀初頭においては、軍役奉仕を義務とする特別の社会層をさすようになった。
ロシアにおける農奴制の強化、飢饉(ききん)、イワン4世(在位1533~1584)の圧政から、モスクワ公国の農民の一部はドン川流域に逃亡し、そこに、税を免れて自由な軍事的共同体をつくった。「ドン・コサック」とよばれるようになるこれらのグループは、動乱時代(スムータ、1606~1613)とくに大きな政治勢力となり、1613年ミハイル・ロマノフが即位するころには「ドンの大軍団」と称されるまでになった。一方ドニエプル川の流域に逃れたコサックは、早瀬の中の島に本拠を置いたところから、「ザポロジエ(早瀬の向こうの意)のコサック」とよばれた。彼らはアタマンとよばれる頭目を選挙で選び、すべて重要事項はラーダという全員集会で決めた。
コサックの生業は狩猟、漁業、養蜂(ようほう)業、牧畜などが主で、ときに略奪をも働いた。農業は、コサックの村に住むイノゴロードニィとよばれる非コサックの農民が主として行った。ポーランドのザポロージエ・コサックに対する圧迫はボグダン・フメリニツキーの乱(1648)を、ロシア政府のドン・コサックに対する支配の強化はステンカ・ラージンの乱(1670~1671)を生んだ。ロシア政府に対するコサックの最後の大規模な反乱はプガチョフの乱(1773~1775)であった。これ以後、コサックは中央政府の管理下に置かれ、1827年には皇太子をもって全コサック軍団のアタマンとするという法令も出た。
コサックは東方にも進出し、16世紀から17世紀にかけてイェルマークやアトラーソフВладимир Васильевич Атласов/Vladimir Vasil'evich Atlasov(?―1711)などのアタマンに率いられて、シベリアから極東まで遠征した。また、18世紀のなかばから19世紀の末までに、ロシア帝国の南部国境沿いに新しいいくつかのコサック軍管区がつくられ、1916年には13軍管区、443万(うち軍人28万5000)の人口を数えるまでになった。彼らは土地を与えられるかわりに軍役奉仕(18歳以上の男子で20年間)を義務づけられた。ロシア政府はこれらのコサックを帝政の支柱として、革命運動や労働運動を弾圧するのに用いた。コサックの生活を描いた文学作品に、ゴーゴリの『タラス・ブーリバ』、L・トルストイの『コサック』、ショーロホフの『静かなドン』などがある。
[外川継男]
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…〈一般的傾向〉を自分の自立性をおびやかすものと考え,それに抵抗することを自分の行動様式とした。 カザン大学を中退し,農地経営に没頭するが,不首尾に終わると一転して,原始的でルソー的理想を実現しているかに見えるコサックのもとで軍人生活を送り,クリミア戦争(1853‐56)に従軍,その戦争記録《セバストポリ物語》(1855‐56)で国家的栄誉を得る。2度西ヨーロッパに旅行するが,文明の〈悪〉を実感,ついでルソー風の,〈自然〉に基づいた農民教育の仕事に力を注ぐ。…
…これにより彼はドミトリー・ドンスコイ(ドン川のドミトリー)と呼ばれた。 その後ドン川の歴史に新しい要素をもたらしたのが,15世紀におけるコサックの登場である。元来はロシアの諸地域からの逃亡農民であったコサックは,16世紀に入ると軍団組織の共同体を形成した。…
※「コサック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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