日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゴーリキー(年譜)」の意味・わかりやすい解説 ゴーリキー(年譜)ごーりきーねんぷ 1868 3月28日、ニジニー・ノブゴロドで出生1871 アストラハンへ一家移住。7月 父没。母と生地の祖父の家に戻る1876 母再婚。祖父の染物工場倒産1877 貧困のため初等学校を退学1878 7月 母没。11歳から靴屋に奉公、ついで請負師の徒弟となる1881 ボルガ川の船の皿洗い、聖像画房の助手など職を転々とする1884 製パン工場で働き、独学1887 3月12日、カザンで自殺未遂1888 鉄道警備員となり、人民派グループに参加。『共産党宣言』を読む1889 鉄道を辞め、友人の革命運動に連座し逮捕。まもなく釈放1890 弁護士の書生となる1891 大飢饉の年。流浪の旅に出てチフリスに至り、鉄道工場で働く1892 処女作『マカール・チュドラ』脱稿、地方紙に発表1895 サマーラ新聞記者となる。校正係ボルジナと知り合い、翌年結婚1896 ニジェゴロド新聞に移る1898 『記録と短編』2巻を相ついで出版(~1899年)、一躍流行作家となる1899 ヤルタでチェーホフと交友1900 初めてトルストイと知り合う1901 散文詩『海燕の歌』発表、広く青年に愛誦される。4月17日逮捕、文化人たちの抗議で釈放、自宅監禁となる。持病の結核悪化、クリミアで療養1902 戯曲『小市民』『どん底』初演。科学アカデミー名誉会員に選出されるが、皇帝の命令で取り消される1905 「血の日曜日」事件に関与し逮捕、保釈金1万ルーブルで釈放1906 内妻の女優アンドレーエワと渡米、非難を受ける。カプリに住み著作1907 『母』を発表。4月 ロンドンでレーニンに会う1913 『幼年時代』発表、後年の『人々の中で』『私の大学』とともに三部作1917 十月革命の行き過ぎを批判1925 『クリム・サムギンの生涯』を書き始める1928 病気療養のためイタリアのソレントとソ連の間を往復(5年間)1934 ソビエト作家同盟結成に尽力1936 6月18日、モスクワ郊外ゴールキで永眠 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例