フランドル楽派の作曲家。ルネサンス最高の音楽家として当時から尊敬を受け,ルターが〈音符を意のままに支配する楽匠〉と賞賛した。青年時代に故郷のフランドル地方からイタリアに行き,1459年から72年末までミラノの大聖堂聖歌隊歌手をつとめた。引き続きミラノ公の宮廷に移り,79-86年にはアスカニオ・スフォルツァに仕えたが,アスカニオが枢機卿になると,86年から教皇礼拝堂聖歌隊歌手として活躍,1501年にはフランスに向かいルイ12世の宮廷に仕えたが,03年すでに密接な関係のあったフェラーラ公エルコレ1世の宮廷礼拝堂楽長に迎えられた。しかし翌年にはコンデ(北東フランス)のノートル・ダム教会主任司祭に就任し,余生を過ごした。多岐にわたる作品は,通模倣と呼ばれる一貫した模倣対位法書法を核にし,充実した和声的な響きをもち,均整のとれた古典的な構築法を示しているが,さらに歌詞の内容に相応した新しい表現方法も認められる。歌詞の素材が聖書(とくに《詩篇》)や祈禱文など広範囲に及ぶモテットでは,きわめて多彩な表現がくふうされ,《アベ・マリア》や《メモール・エスト》は有名である。また,ミサ曲は楽譜印刷を始めたペトルッチOttaviano Petrucci(1466-1539)によって3巻の個人全集としてジョスカンの生前に出版された。とくに《ロム・アルメ》や《パンジェ・リングア》は傑作である。
執筆者:寺本 まり子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…また,イタリアの清澄な和声法,ポリフォニーとホモフォニーの対比効果も重視された。この世代の代表的な作曲家には,イタリアで長く活躍し,楽曲構成法に〈完全な技芸〉を示したジョスカン・デ・プレをはじめとして,イザーク,ピエール・ド・ラ・リューPierre de la Rue(1460ころ‐1518)らがいる。16世紀中ごろまでの第3期はジョスカンの成果の踏襲といえるが,声部数はしだいに増加し,複合唱手法が好まれるようになった。…
※「ジョスカンデプレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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