労働条件の改善や維持を求め、労働者が集団的に業務を停止すること。憲法が「団体行動権」として保障する争議行為の一つで、ほとんどは労働組合が実施する。正当なストは刑事、民事上の責任が免除され、参加者の解雇や懲戒処分は不当労働行為となる。厚生労働省の統計では、日本では半日以上のストは1974年の5197件をピークに減少傾向となり、2022年は33件だった。近年では23年、百貨店そごう・西武の米投資ファンドへの売却を巡り、従業員の労働組合が実行した。
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( 1 )[ 一 ]①の日本における最初のものは、明治一八年(一八八五)に起こった、甲府の製糸工場争議と言われている。これ以降、とくに日清戦争後に各地で起こったが、明治三三年制定の治安警察法により禁止された。
( 2 )この語は、明治三二~三八年(一八九九‐一九〇五)頃に大流行した「ストライキ節」により一般化した。
( 3 )[ 一 ]①は「同盟罷業」「同盟罷工」、[ 一 ]②は「同盟休校」などとも訳され、新聞ではこれらの訳語が用いられた。「ストライキ」が広く用いられるのは、第二次世界大戦後のことである。
労働者の争議行為の一つであり、労働者が自分たちの要求を通すために、団結して一時的に労働の提供を拒否することをいう。ストと省略されることも多い。罷業あるいは同盟罷業とも訳される。経済学的には、労働者の行う労働力商品の一時的な売り止め行為を意味する。これに対抗するものとして、使用者の行うのがロックアウト(工場閉鎖)である。ストライキは、集団的に作業を怠るサボタージュ(怠業)とは区別される。また休暇闘争や残業拒否闘争などは、スト類似効果のある争議行為ではあってもストライキではない。
ストライキの種類には、その目的に応じ、経済的な諸要求を通そうとする経済ストと、政治的諸要求のための政治スト、他の労働者のストを支援するための同情ストがある。また、参加労働者の範囲の広狭に応じて、経営スト(全部ストと部分スト)、地域スト、全国スト、国際スト等がある。地域スト、全国ストにはゼネラル・ストライキ(ゼネスト)が含まれる。その他の態様に応じ、組合本部の承認なしに一般組合員が独自に行う非公認ストまたは山猫スト、さらに時限スト、抜き打ちスト、波状ストなどの区別がある。
資本主義社会では、原則として労働者は自らの労働力を商品として売る以外に生活の術(すべ)はない。労働力商品は貯蔵ができず、しかも総体的過剰人口の圧力を受けて、労働者は資本家(経営者)との労働力商品の売買契約=雇用・労働契約の締結に際し、決定的に不利な立場にたつ。経済的弱者としての労働者は、その不利をカバーするために労働組合を結成し、自分たちの要求を通すための武器としてストライキを組織して闘うようになった。
[早川征一郎]
ストライキの歴史は、賃金労働および労働組合の発生の歴史とともに古い。だが、それが社会的存在意義をもつに至ったのは、資本主義的生産関係が確立した産業革命以後である。ストライキは、争議行為における労働者のもっとも重要かつ効果的な武器としての意義をもち、団体交渉権と表裏一体をなし、労働組合運動推進の重要な契機となった。
19世紀の歴史的なストライキとしては、1886年5月1日のアメリカにおける8時間労働ストがあげられる。シカゴの労働者に端を発した8時間労働日を要求するストは各地に波及し、1890年に第1回国際メーデーが開始される直接のきっかけとなった。1889年のロンドンのドック労働者のストライキは、熟練労働者によって組織されるクラフト・ユニオンによるものではなく、不熟練労働者による大ストライキであり、このストライキを契機に不熟練労働者の組織化が進み、一般組合が誕生した。
20世紀に入り、一般組合のほか、機械制大工場における新しい基幹工を中心にした産業別組合が組織化された。ストライキは政治経済的諸状況に対応して、ときに大規模化し、また一国の政治状況全体を左右する政治的ストライキが出現し、ときにゼネラル・ストライキに発展した。1905年および1917年のロシア革命におけるゼネストは、まさに政治的革命的様相を示し、前者は弾圧されたが、後者は武装蜂起(ほうき)に連動して革命政権の樹立に貢献した。1934年のフランスにおけるファシズムに反対するゼネストは、人民戦線政府の成立を導いた。このほか、ともに目的を達しなかったが、1909年のスウェーデンのゼネスト、1926年のイギリス炭鉱労働者を中心としたゼネストなどが特筆される。アメリカでは、1919年に鉄鋼労働者の3か月半のストライキが行われ、敗北に終わったとはいえ12時間労働の廃止を実現した。
第二次世界大戦直後は多くの国でストライキが勃発(ぼっぱつ)したが、戦後体制が相対的安定期に入るとともに、ストライキは減少した。ただし、国により違いが大きい。アメリカでは、戦争直後は賃上げ要求を中心とするストが急増したが、その後は減少した。なお、戦後の新しい特徴として、ホワイトカラー労働者と公務員など公共部門の労働者のストライキが増えたことがあげられる。戦後の大きなストライキとしては、1968年のフランスの5月ストライキ、1968~1969年のイタリアにおける年金問題などを中心とするストライキがあり、ともに政権の行方を左右した。1984~1985年のイギリス炭鉱ストライキは、炭鉱閉鎖に反対して行われ、時のサッチャー保守党政権とまっこうから対決し、1年に及ぶイギリス労働運動史上最長のストライキとなった。ただ、全体として、1980年代以降、スト性向(頻度)は低下傾向にある。もっとも、2010年、財政危機に端を発したギリシアのストライキのように、国により大規模なストライキが発生している事例は数多い。
[早川征一郎]
日本では、明治期、日本資本主義の勃興とともに、ストライキ(同盟罷業)が発生したが、まだ散発的であった。しかも1900年(明治33)、治安警察法が制定されたことにより、社会労働運動自体がことごとく弾圧された。第一次世界大戦後、日本資本主義が発展して重工業化が進むにつれ、鉄鋼、造船など重工業部門でのストライキが続出したが、労働運動への弾圧が厳しく、ほとんどのストが警察の出動を伴い鎮圧された。
第二次世界大戦後、団結権、団体交渉権、争議権といった労働基本権が法的に保障されたため、労働組合が相次いで結成された。そして敗戦後の経済的混乱と生活難のなかで、ストライキが激増した。1947年(昭和22)には、二・一ゼネストが行われる寸前にまで至ったが、アメリカ占領軍の中止命令によって未遂に終わった。1948年以降、アメリカ占領軍の対日政策が変化したことにより、労働運動への抑圧傾向が強まった。この年7月のマッカーサー書簡・政令二〇一号によって、官公労働者の労働基本権は大幅に制限され、団体交渉権、争議権が否認された。このあと、ストライキは激減した。1950年の総評(日本労働組合総評議会)結成のあと、1952年には破防法(破壊活動防止法)反対闘争が展開され、いわゆる労闘スト(政治スト)が行われた。
1955年、高度経済成長の開始とともに、春闘が毎年展開され、賃上げ要求を中心にストライキが行われた。そのなかでも、年金の物価スライド制を要求した1973年の年金ストが特筆される。政治ストとしては、国鉄労働者を中心した1960年の日米安保条約改定反対ストが行われた。1975年には、国鉄・郵政など公務・国営企業の労働者を中心としたスト権回復ストが行われたが、具体的な成果を得られないままで終わった。
1980年代以降、争議行為、とくにストライキは目だって減少した。とりわけ民間大企業労組におけるスト性向(頻度)の低下が顕著である。国際的に比較しても、OECD(経済協力開発機構)諸国のなかで、日本はほとんどストを行わない国のランクに入っている。
[早川征一郎]
労働基本権(団結権、団体交渉権、ストライキ権を中心とする争議権)は、資本主義の発展の初期には、いずれの国においても厳しく制限された。だが、産業革命期以降、労働基本権は歴史的にはしだいに容認される傾向を示した。現在、先進資本主義諸国では、公務員についてはストを禁止し、緊急事態に際してはストを制限する立法をもつ国は少なくないが、その制限は空洞化している国も多い。
戦前の日本で、労働者の労働基本権が法的に保障されたことはなかった。労働運動はすべて抑圧と取締りの対象であった。日本で、労働基本権が法的に容認されたのは第二次世界大戦後であった。日本国憲法第28条の「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」という規定が最高の法的根拠となった。こうして、すべての労働者に、ストライキ権を含む労働基本権が保障された。だが、1948年7月のマッカーサー書簡・政令二〇一号を契機に、公務労働者の団体交渉権および争議権は否認され、今日に至っている。それ以後、争議権とりわけストライキ権の回復が課題として今日まで引き続いている。
2002年11月、ILO(国際労働機関)理事会は、連合(日本労働組合総連合会)および全労連(全国労働組合総連合)の提訴を受けるかたちで、日本の公務部門における労働基本権制約は、ILO87号条約および98号条約に違反する旨を指摘し、その改善を促す画期的な勧告を行った。ILOの指摘を受けて、問題は国内検討課題となったが、議論の現状は労働基本権の全面回復にはほど遠いのが実状である。
[早川征一郎]
『大河内一男・松尾洋著『日本労働組合物語』全5巻(1965~1973・筑摩書房)』▽『藤本武著『ストライキの歴史と理論』(1994・新日本出版社)』▽『ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史』全10巻(1997~2000・教育文化協会)』▽『法政大学大原社会問題研究所編『日本の労働組合100年』(1999・旬報社)』▽『財団法人日本ILO協会編・刊『欧米の公務員制度と日本の公務員制度』(2003)』▽『法政大学大原社会問題研究所編『日本労働運動資料集成』全14巻(2005~2007・旬報社)』▽『法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』各年版(旬報社)』
罷業または同盟罷業の意。資本家に圧力をかけて要求を貫徹するため,労働者が同盟して労働の提供を拒絶し,いっせいに作業を停止する行為をいう。単にストとも略され英語で海事用語のstrikeから出たもので,その昔,待遇に不満のある水夫たちが帆桁を〈降ろしてstriking〉船の進行を停止したことから,労働用語として使われるようになったと伝えられる。資本主義のもとでは,みずからの労働力を売って資本家のもとで働く以外に生活手段を得る道がない労働者と,利潤を増大させるために賃金・労働条件を可能な限り下げようとする資本家との闘争が避けられないが,ストライキはこのような闘争にさいし労働者の最も基本的かつ効果的な武器として闘われてきた。しかし,資本主義初期のストライキは,原生的な劣悪な労働条件と無権利状態に対する本能的反発を特徴とする自然発生的なものにとどまっていた。それが真の意義をもつようになったのは,資本制的生産関係が確立し,労働者の恒常的組織として労働組合が組織された産業革命以降のことである。労働組合の発展と表裏一体となり,団体交渉と不可分の争議手段として,組織的かつ大規模に闘われるようになった。
今日,ストライキは多種多様な形態のもとに行われている。職業別組合が熟練工の供給独占を行っていた段階では工場・事業所から退去するウォーク・アウトwalk-outの形をとっていたが,独占資本主義の時代になって半熟練・未熟練労働者の比重が増大すると,ウォーク・アウトを行っても容易にスト破りを導入されるので,工場・事業所内の職場に座り込んで作業をしないシットダウン・ストsit-down strikeが支配的となった。ステイインstay-inはこうしたシットダウン・ストを発展させたもので,シットダウン・ストが契約された就業時間内のものであるのに対し,長時日にわたって職場に籠城するストライキをいう。その他,目的の面からみると経済闘争を目的とする経済スト,政治的目的を掲げる政治スト,他産業や他企業で争議中の労働者を支援する同情ストがあり,スト参加者の範囲からは一経営内の経営スト,一産業・一地方あるいは一国に及ぶゼネラル・ストライキ(ゼネストと略称)がある。このうち経営ストは,経営内の全労働者による全部ストと特定部門の労働者が行う部分ストに区分され,部分ストにはさらに特定の労働者を指名して行う指名ストがある。また,時間を限定するか否かで時限スト,無期限ストに分かれ,時限ストを断続的に行う場合は波状ストという。その他,歴史上社会の耳目を集めたものには山猫スト,ハンガー・ストライキ(通称ハンスト),納金ストがある。山猫ストとは,一部の組合員・労働者が組合や争議団の内部規律を無視して行うストライキをいい,労働組合の官僚機構化が進んだ第1次大戦以降の現代に特徴的な現象である。また,ハンストは絶食をもって示威するもので,消極的戦術ではあるが,社会にアピールするには有効とされる。これに対し,納金ストは1950年代に日本電気産業労働組合(電産)があみだした形態で,組合員の集金した料金の納金を拒否するものであり,その後タクシー会社の争議でも行われた。このように,労働者は実に多様な形態のストライキをあみだしてきたが,現今では,ストライキという用語自体が一般化し,学生の行う同盟休校等にも用いられている。
しかし,ストライキは,以上のように,単に闘争戦術や形態として評価するのみでは不十分である。ストライキとは一時的にせよ労働者が団結して賃金奴隷であることをやめることであり,このことを通して,労使間の敵対的関係と団結の威力,生産の主人公としての意識と連帯意識を労働者に自覚させずにはおかない。そして,このような自覚が高まれば,ストライキ闘争は経営ストからゼネストへ,そして経済ストから政治ストへと展開し,やがては権力に対する闘争へと発展せざるをえない。ストライキが〈労働者の兵学校〉(レーニン)とされるゆえんである。
→労働運動 →労働争議
執筆者:上井 喜彦
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…24年,F.ラングの《マブゼ博士》(1922)のロシア語版編集の監修に携わり,学生時代からとくにD.W.グリフィス作品を通じて知っていた〈編集〉の効果をさらに深く学ぶ。演劇の限界を自覚して映画に転じ,初めての長編《ストライキ》(1924)で経験豊かなカメラマン,ティッセEdouard Tissé(1897‐1961)と組み,生涯にわたる協力がここから始まった。《ストライキ》はソビエト国内よりも国外で高く評価され,また次に中央委員会から委託されて撮った《戦艦ポチョムキン》(1925)は国の内外の観客大衆に熱狂的な好評で迎えられ,ソビエト映画の存在を世界に示すとともに世界映画史を飾る記念碑的作品となった。…
… 公労協は1956年にはじまった春闘に参加し,60年の安保改定阻止闘争でも大衆動員の主力となり,6月4日,15日には統一ストの中心となった。翌61年春闘でははじめて公式にストライキの用語を使い,64年には半日規模の大規模なスト(四・一七スト)が準備された。その回避をめぐって池田勇人首相と太田薫総評議長との会談が行われ,公労協の賃上げの〈民間準拠〉の原則が確認された。…
…もし使用者がこれを拒否すればいっせいに就業をやめ,労働供給を停止して使用者が譲歩するのを待つ。これがストライキ(同盟罷業)である。その間の収入減に対しては組合基金から補償するのが原則であるが,組合財政の状態によっては補償されないことも多い。…
…権利争議は組合承認,解雇問題など,団体交渉のルールや労働者の身分にかかわる事項に関する争議で,経済的な利害得失を超える問題として取り上げられるため,解決に時日を要する場合が多い。目的別には,通常みられる組合・使用者間の交渉にともなう争議のほかに,組合が他の組合の運動を支援し,労働者の連帯を示威する目的で行われる同情ストライキがある。結果的には労働条件の全体的水準を維持・向上することを意図しているといえるが,社会的圧力を醸成して労働者階級の発言力を高めようとする行動様式であるため,政治的色彩が濃い。…
※「ストライキ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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