翻訳|technocracy
科学的知識や高度の行政・管理能力を有する専門家(テクノクラートあるいはテクノクラットとよばれる)が政策決定過程のなかで重要な位置を占め、事実上権力を行使しているシステムのことをいう。このような考え方は、古代ギリシアのプラトン以来つねに存在してきたといえるが、近代ヨーロッパにおいてはサン・シモンによって主張された。20世紀前半のアメリカにおいてベブレンやウィリアム・H・スミス(『テクノクラシー 国家的産業経営』1919年発表)などによって主張された一種の社会改良主義としてテクノクラシーは登場し、1930年代恐慌が深刻化した時期にもっとも強く主張され、大統領F・D・ルーズベルトのニューディール政策にもある程度の影響を与えたといえる。しかしアメリカにおいてはニューディール政策が成功したため、かえって資本主義の組織化・計画化を説く技術主義的な経済思想としてのテクノクラシーは忘れ去られてしまったといえよう。
第二次世界大戦後このことばは、より広い現代の政治・経済・社会的な政策決定機構の特質としての専門家支配を意味するようになった。J・メイノーは著書『テクノクラシー』(1964)において、高級行政官僚、軍の参謀将校、科学技術などの分野でいわゆるテクノクラートの台頭が著しいと指摘している。科学技術が進歩した今日においては、それらの知識を有し、活用する能力をもつ者が政策決定の中枢に参画しうる可能性はますます増大している。経営専門家、行政官僚、法律家、職業軍人、技師、医師、大学教員、科学者などが専門職として確立した今日、彼らのなかからの統治エリートの出現は目覚ましいものがある。しかも今日では巨大な組織が出現し、行政権が飛躍的に拡大したため、一般国民はそれらの組織や政府の仕組みを理解しにくくなっており、大規模かつ複雑化した政治・経済・財政などに関する計画立案や政策形成にあたる専門家を必要としている。こうした状況の下に、東西を問わず、先進産業社会ではいずれもテクノクラシーへの傾向を強めてきた。たとえばソ連においてさえ、テクノクラートの進出は著しく、事実上ソ連の共産党と政府を支配していたのは、党官僚、政府官僚、高級軍人など、いずれにしても専門職務について徹底的に訓練され、高度の専門知識をもっているはずのテクノクラートであり、彼らがいわゆるノーメンクラツーラなのである。ヨーロッパ諸国のなかでもっともテクノクラシーの色彩が強いのはフランスであり、ドゴールが第五共和政を施行して以来、国立行政学院(ENA)をはじめとするグランゼコールとよばれるエリート養成機関を好成績で卒業し、財務監督官や国務院参事官となったエリート官僚の政界への進出が著しく、ジスカール・デスタンはそのよい例である。しかもこの傾向は政権が左翼に移っても同様であり、ミッテランもテクノクラートを重用した。
[川野秀之]
『ジャン・メイノー著、寿里茂訳、清水幾太郎責任編集『現代思想5 テクノクラシー』(1973・ダイヤモンド社)』▽『梶田孝道著『現代社会学叢書 テクノクラシーと社会運動――対抗的相補性の社会学』(1988・東京大学出版会)』▽『M・S・ヴォスレンスキー著、佐久間穆・船戸満之訳『ノーメンクラツーラ――ソヴィエトの支配階級』新訂・増補(1988・中央公論社)』▽『ニール・ポストマン著、GS研究会訳『技術vs人間――ハイテク社会の危険』(1994・新樹社)』▽『小野清美著『テクノクラートの世界とナチズム――「近代超克」のユートピア』(1996・ミネルヴァ書房)』▽『ブルース・ヌスバウム著、田原総一朗訳『テクノクラシー』(講談社文庫)』▽『大淀昇一著『技術官僚の政治参加――日本の科学技術行政の幕開き』(中公新書)』
国家の政策が,専門家の専門知識にもとづく勧告によって決定されるような政治体制を指す言葉として,今日では使われているが,元来は,1932年から33年にかけてアメリカで爆発的に流行した思想運動のかかげたスローガンである。
テクノクラシーという言葉を考案したのは,アメリカの発明家スミスWilliam Smithであるとされているが,このように命名される思想自体は,20世紀初頭のアメリカの時代思潮であるといえる。その興隆は,技術者の専門職としての自己意識が高揚し,F.W.テーラーの〈科学的管理法〉をはじめ,技術者の自負心を高める成果が積み重ねられていったことを背景としていた。テクノクラートtechnocrat(テクノクラシーの唱道者)たちは,技術進歩によって増大した生産力を,社会全体の利益のために役立て,物質的なユートピアを人々が享受できるよう,社会体制を改革せねばならないと考えた。能率と公正がその基本理念であった。
テクノクラシーの思想をはじめて体系的なかたちで述べたのは,アメリカの社会学者T.ベブレンである。ベブレンは1921年,《技術者と価格制度》という小冊子を発表し,産業全体の運営権を,利己的な目先の金もうけにしか関心がない実業家の手から,能率的・合理的思考を身につけ,勤勉で,全体の利益を重んずる技術者の手へと,移すべきであると述べた。ベブレンは,社会改革において真に革命的たりうるのは,労働者階級ではなく,技術者であると主張し,〈階級意識〉をもった技術者が団結し,〈技術者ソビエト〉をつくり,権力を奪取すべきであるとした。しかし,テクノクラシーが流行思想となるには,29年に始まる大恐慌をまたねばならなかった。大恐慌は社会秩序が技術進歩に適応できなかったために起きたのだとするテクノクラートたちの主張は,〈技術的失業〉というキーワードとともに,アメリカ社会に大きな反響をまき起こした。
テクノクラシー運動の中心人物となったのは,スコットHoward Scottである。スコットは,コロンビア大学の〈テクノクラシーに関する委員会〉(1932結成)のスポークスマンとして活躍したが,この委員会が1933年に分裂したのち,〈テクノクラシー社〉を設立し,この思想の普及に努めた。スコットが最も精力的に批判したのは〈価格制度〉(資本主義という言葉は使わなかった)である。価格制度を廃止し,その代りに物品の生産に費やすエネルギー量を基準とする科学的貨幣制度を設けることを提案したスコットは,それが物理科学に基礎づけられた公正な貨幣制度で,また当面の経済的混乱を解決する唯一の選択であると説いた。しかし1930年代半ばまでに,テクノクラシー運動は急速に衰退した。その原因としては,運動内部の結束の弱さとリーダーシップの不在,ニューディールの成功による大恐慌の沈静化,政治理論をもたなかったため行動目標を提示できなかったこと,などが挙げられる。
今日では,国家の政策形成において,専門家が重要な役割を果たすようになっている。その意味ではテクノクラシーは制度化されたと考えることもできる。しかし,物理科学に基礎づけられた技術者のリーダーシップによる社会改革,というテクノクラシーの最も根幹にあった理想主義的な考えは,痕跡をとどめていない。それは社会改革のイデオロギーではなくなり,官僚と学者との癒着による非専門家を排除した反民主主義的な密室政治の代名詞として,非難の意味を込めて用いられることが多くなっている。興味深いことに,エコロジー思潮は現代的な意味でのテクノクラシーを批判するが,自然法則にのっとった社会秩序を建設するという基本的関心を,かつてのテクノクラシー運動と共有している。エントロピーを価格尺度とみなそうとする思考態度はその一例にすぎない。
執筆者:吉岡 斉
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…国家の政策が,専門家の専門知識にもとづく勧告によって決定されるような政治体制を指す言葉として,今日では使われているが,元来は,1932年から33年にかけてアメリカで爆発的に流行した思想運動のかかげたスローガンである。 テクノクラシーという言葉を考案したのは,アメリカの発明家スミスWilliam Smithであるとされているが,このように命名される思想自体は,20世紀初頭のアメリカの時代思潮であるといえる。その興隆は,技術者の専門職としての自己意識が高揚し,F.W.テーラーの〈科学的管理法〉をはじめ,技術者の自負心を高める成果が積み重ねられていったことを背景としていた。…
※「テクノクラシー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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