テニス(読み)てにす(英語表記)tennis

翻訳|tennis

精選版 日本国語大辞典 「テニス」の意味・読み・例文・類語

テニス

〘名〙 (tennis) 長方形のコートを二分するネットを張り、ラケットでボールを相手側のコートに打ち込み合う競技。ボールにより硬式と軟式に分かれ、試合形式にはシングルス、ダブルス、混合ダブルスの三種がある。庭球。
※時事新報‐明治三四年(1901)一一月二四日「高等商業学校構内に於て、同校生徒と慶応義塾生との間にテニス試合の催しありたり」

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デジタル大辞泉 「テニス」の意味・読み・例文・類語

テニス(tennis)

長方形のコートの中央にネットを張り、これを挟んで相対し、ラケットでボールを打ち合って得点を争う球技。使用ボールによって硬式と軟式とがある。試合はシングルス・ダブルス・混合ダブルスの3種がある。庭球。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「テニス」の意味・わかりやすい解説

テニス
てにす
tennis

長方形のコートの中央をネットで仕切り、そのネットを挟んで相対した競技者が、ラケットで交互にボールを打ち合う球技の一種。当初、コート面が芝生であったところからローンテニスlawn tennis(日本では庭球または硬式テニス)とよばれていたが、管理上の難点から芝生のコートが極端に減少したこともあって、現在では単にテニスと呼称されるようになった。1978年にはテニスにおける唯一の国際的統括組織も国際テニス連盟(ITF:International Tennis Federation)と改称された。なお、テニスを日本的にアレンジしたものにソフトテニス(軟式テニス)がある。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

歴史

11世紀ごろからイタリア、ギリシアなどの地中海沿岸諸国やペルシア(現、イラン)で、貴族や僧侶(そうりょ)の間で行われた屋内競技の一種が起源といわれているが、その発祥は、明確ではない。競技の方法は、屋内の所定の壁に競技者がボールを打ち、跳ね返ったボールを相手が打ち返して勝敗を争ったと思われる。のちには一度バウンドしたボールを打ち返すルールでも行われ、打者と返球者の間に高いネットが張られた。ボールは髪の毛を巻いて毛皮で覆ったものであったが、ボールの製法が進歩するにつれて競技法も変わってきたといわれる。

 13世紀ごろ、フランスではジュー・ド・ポームjeu de paume(手のひらゲーム)とよばれ、王室、僧侶、貴族の間に流行した。初めは素手や手袋をはめてボールを打っていたが、しだいにラケットが使われるようになった。1789年、フランス革命前夜、第三身分(僧侶と貴族に属さない平民の身分)の代表が議場に隣接した球戯場に集まって団結を誇示した「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」は、フランス語のSerment du Jeu de Paumeを訳したものである。のちにイギリスに紹介され、1873年、W・ウィングフィールドWalter Clopton Wingfield(1833―1912)少佐がこの競技を改良し、クリケット競技場の芝生でプレーするスファイリスティックSphairistike(ギリシア語でプレーの意)と命名した競技を考案した。これが今日のテニスの元祖ともいうべきものである。コートの形は現在の長方形のものと異なり、ネットのところがくびれていて、砂時計のようになっていたが、屋外の芝生(ローン)の上にコートをつくったことから、ローンテニスとよばれるようになり、急速に普及した。

 1875年、ロンドンのオールイングランド・クロッケークラブでは、この競技をクラブにおける正式種目に取り入れた。1877年春には、第1回全英選手権大会(ウィンブルドンテニス大会)が同クラブによって企画され、そのためオールイングランド・クロッケー・アンド・ローンテニスクラブと改称したほどである。このとき新しいルールが制定されたが、シングルスコートの大きさは、今日に至るまで、ネットおよびポストの高さ、ネットからサービスラインまでの距離を除いて、当時のものとまったく変わっていない。第1回のこの大会は、テニス界最初の男子シングルス選手権となったが、記録によると観衆わずか150人にすぎなかったといわれる。今日のこの大会の観衆はおよそ50万人に達し、開催時はロンドン社交界がウィンブルドンに移行するともいわれる盛況ぶりである。その後、このクラブのスポーツ活動は、ローンテニスに限定されてしまったので、一時クラブ名からクロッケーの文字が消えたが、感傷的理由で復活し、1889年以降現在のオールイングランド・ローンテニス・アンド・クロッケークラブとして活動を続けている。このクラブがテニスゲームの発展に果たしてきた役割は、計り知れないものがある。

 1878年、次のトーナメントとして始まったスコットランド選手権で男子ダブルスが、1879年からスタートしたアイルランド選手権で女子シングルス、ダブルス、混合ダブルスが、公式競技における世界最初の正式種目となった。

 テニスをアメリカに紹介したのはM・E・アウターブリッジMary Ewing Outerbridge(1852―1886)であるとされている。1874年初め、バーミューダに行った彼女は、イギリスの守備隊がテニスを楽しんでいるのに興味をもち、ニューヨークに帰る際、その用具一式を持ち帰った。兄エミリアスA. Emilius Outerbridgeの協力を得て、彼のメンバークラブであるスターテン・アイランド・クリケット・アンド・ベースボールクラブのグラウンドの隅にコートをつくることが許され、ここでテニスを披露したのである。一方、1875年には、ボストン郊外のナハントにあるアップルトン邸にコートが建設され、その周辺のニュー・イングランド地方でもこの競技が流行し始めた。1881年アメリカテニス協会(USTA:United States Tennis Association)が設立。同年8月、ロードアイランド州ニューポートのカジノで第1回の全米選手権が開催され、シアーズRichard D. Sears(1861―1943)が最初の優勝をかちとり、続いて1887年まで7連勝を記録した。そして一度も敗戦を経験することなく引退した。一方、最初の女子選手権は、1887年にフィラデルフィア・クリケットクラブで開催され、ハンセルEllen Hansell(1869―1937)が初代チャンピオンに輝いた。

 フランスにおける近代テニスの起源は明確ではないが、1870年代にイギリス人によって逆輸入されたようである。1891年に最初の全仏選手権大会がパリ郊外で開催された。以後、1924年までは参加資格がフランス国民に限定されていたが、1925年に国際的に開放された。その最初のタイトルは、フランスの四銃士と称されたボロトラJean Borotra(1898―1994)、ラコストRené Lacoste(1904―1996)、コシェHenri Cochet(1901―1987)、ブルニヨンJacques Brugnon(1895―1978)の一人、ラコストが獲得した。

 また一方、1900年に、アメリカがイギリスを迎えて始めた試合を皮切りにして、デビスカップ(デ杯とも)が、男子の国別対抗戦として行われるようになった。

 1904年、オーストラリアの各州と、ニュージーランドが合同して、オーストラレーシアテニス協会が設立され、翌1905年、第1回のオーストラレーシアシングルス選手権大会(後の全豪(ぜんごう))がメルボルンで開催された。その後1923年に両国は分離し、それぞれの協会をもった。

 1913年3月、オーストラレーシア、オーストリア、ベルギー、イギリス、デンマーク、フランス、ドイツ、オランダ、ロシア、南アフリカ、スウェーデン、スイス、スペインの13か国が賛同し、国際ローンテニス連盟が設立された。1977年にローンが削除され、国際テニス連盟(ITF)に改称された。ITFには2019年時点で210協会が加盟している。ITFはデビスカップ試合(男子)、フェドカップ試合(女子)、ほかにユース、シニア、車いすテニスの公式競技大会を運営し、世界のテニスの普及、発展のために活動している。日本のITFへの加盟は1925年(大正14)である。

 不朽の名選手チルデンに始まり、1938年、四大トーナメント(ウィンブルドン・全仏オープン・全米オープン・全豪オープン選手権大会)優勝というグランドスラムを達成したドン・バッジDon Budge(1915―2000)、第二次世界大戦後の1947年には、クレーマーJack Kramer(1921―2009)、ゴンザレスRichard Gonzales(1928―1995)、セグラFrancisco Olegario Segura-Cano(1921―2017)、セッジマンFrank Sedgman(1927― )、ローズウォールKen Rosewall(1934― )、ホードLew Hoad(1934―1994)、さらには2人目のグランドスラマーとなった(1962)R・レーバーRod Laver(1938― )と一流プレーヤーが相次いでプロに転向した。こうしたなかにあって、当初はアマチュア選手だけに出場を限ったため二流化した大会の立て直しと時代の要請で、1968年に至り、各トーナメントはプロも参加しうるオープン大会へと移行していった。オープン化後、プロの数が飛躍的に増加、1970年代以後は、コナーズJimmy Connors(1952― )、ボルグBjörn Borg(1956― )、マッケンローJohn McEnroe(1959― )、レンドルIvan Lendl(1960― )、アガシAndre Agassi(1970― )、サンプラスPete Sampras(1971― )、そして2000年代に入りフェデラーRoger Federer(1981― )、ナダルRafael Nadal(1986― )、マレーAndy Murray(1987― )、ジョコビッチNovak Djokovic(1987― )等の名選手が輩出している。一方女子も多くの名選手が誕生し、1953年にコノリーMaureen C. Connolly(1934―1969)が女子では初めてのグランドスラムを達成、さらに2人目は1970年コートMargaret S. Court(1942― )が達成した。以後、キングBillie J. King(1943― )、グーラゴングEvonne Goolagong(1951― )、エバートChris Evert(1954― )、ナブラチロワMartina Navratilova(1956― )の時代に入り、1988年にグラフSteffi Graf(1969― )が3人目の年間グランドスラマーとなる。その後セレシュMonica Seles(1973― )、ビーナスVenus Williams(1980― )とセリーナSerena Williams(1981― )のウィリアムズ姉妹、エナンJustine Henin(1982― )、シャラポワMaria Sharapova(1987― )等が輩出している。

 男子の組織は1972年男子プロテニス協会(ATP:Association of Tennis Professionals)が創設された。女子は1970年に女子選手協会が結成され、1973年に女子プロテニス協会(WTA:Women's Tennis Association)が創設された。オープン大会は両組織に組み入れられて運営され、それらのトーナメントツアーの成績をもとに毎週コンピュータ・ランキングが制定される。その順位により大会参加が決定する仕組みになり、男女ともにツアー制度が確立した。

 オリンピックでは、1896年第1回アテネ大会(男子シングルス・ダブルス)、女子は1900年第2回パリ大会から正式種目になった。1924年、国際テニス連盟は、アマチュアとプロの処遇をめぐり休業補償条件によっては待遇改善ができないことを理由に、国際オリンピック委員会(IOC)から脱退。その後、テニスのオープン化の実情をIOCが理解し1981年にテニスの64年ぶりの競技としての復帰を認め、1984年ロサンゼルス大会はデモンストレーションとして開催されることになり、プロ選手の参加を承認した。1988年ソウル大会では正式競技として初の完全なオープン参加が実現、プロテニス選手が出場した。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

日本のテニス

日本に公式にテニスを紹介したのは、1878年(明治11)日本政府の招きで体育伝習所(後の東京高等師範学校)の教師として来日したアメリカ人リーランドGeorge A. Leland(1850―1924)であるというのが定説である。彼はアメリカから持参したラケットやボールで生徒たちにテニスを教えた。この新しい競技は多くの人たちに大きな興味を与えたが、用具の取得は輸入に頼るため、非常に高価なものであった。そこで生徒たちは、通常のテニスボールのかわりに、フランネルで覆われていない玩具(がんぐ)のゴムボールを使い始めた。1890年に至り、東京高等師範学校(現、筑波(つくば)大学)が、三田土(みたつち)ゴム会社(現、昭和ホールディングス)にゴムボールの試作を依頼した。これが現在ソフトテニスで使用されているボールの元祖である。これを契機に、日本独特の軟式テニス(ソフトテニス)が誕生し、日本各地の学校の教師となって赴任した同校の卒業生によって、その任地に紹介され、軟式テニスが全国的に普及した。

 日本に紹介されたテニスはもちろんローンテニスであったが、軟式テニスが普及するにつれ、ローンテニスは、1913年(大正2)春、慶応義塾大学が軟式からの転向を強行するまでは、東京ローンテニスクラブ(1900年創立)や、横浜、神戸その他の外国人の間で、あるいは避暑地の軽井沢や個人のコートなどで、ごく限られた人たちによって行われていたにすぎず、それは競技というよりも、レクリエーションといったほうが適当なものであった。慶応義塾大学がローンテニスを採用したのは、海外留学から帰った後の同大学テニス部長の小泉信三の国際的視野にたった決断による。

 日本選手の海外遠征は、1912年(明治45)春、東京ローンテニスクラブの会員であった朝吹常吉(あさぶきつねきち)(1878―1955)、山崎健之丞(けんのじょう)(?―1961)らが、マニラのカーニバルトーナメントに招待されて参加したのが最初である。翌1913年(大正2)暮れ、ローンテニスを採用してまもない慶応義塾大学がマニラに遠征したとき、チームの一員に熊谷一弥(くまがいいちや)の名があった。1915年上海(シャンハイ)における第2回極東選手権競技大会に参加した熊谷は、シングルスとダブルス(パートナー柏尾誠一郎(かしおせいいちろう)(1892―1962))で優勝、翌1916年にはマニラにおける東洋選手権に参加してシングルスに優勝し、しだいに国際的プレーヤーとして名を高めていった。さらに、同年の三神八四郎(みかみはちしろう)(1887―1919)と熊谷の渡米が、日本のテニス界への刺激となった。ニューポートの招待トーナメントで、熊谷は全米第1位のジョンストンWilliam M. Johnston(1894―1946)を破って優勝したのである。熊谷はその後三菱(みつびし)銀行員としてニューヨークに赴任したが、勤務のかたわらテニスを本場で鍛え試す絶好の機会となった。とくに1919年には西ニューヨーク選手権で全米第1位のマレーRobert Lindley Murray(1892―1970)と第2位のチルデンを破り優勝、続くニューヨーク選手権にも優勝し、ジョンストン、チルデンに続き、全米第3位にランクされるに至った。翌1920年8月ベルギーで開催の第7回オリンピック・アントワープ大会で、熊谷はシングルスで銀メダル、ダブルスでも柏尾と組み銀メダルを獲得し、史上初めての日本選手メダリストになった。一方、東京高等商業学校(後の東京商科大学)出身の清水善造は1913年以来、インドのカルカッタ(現、コルカタ)の三井物産に勤務のかたわら、1919年までにベンガル選手権にシングルスで5回優勝した。そして翌1920年清水はイギリスに渡り、ウィンブルドンの全英選手権でチルデンと相まみえ、大接戦を演じた。熊谷、清水、柏尾らの海外における活躍は国内に反響し、ローンテニスにすべしの声が自然に高まっていった。そして1920年、早稲田(わせだ)大学、東京商科大学(現、一橋大学)、東京高等師範学校の3校が硬球に転向したのである。さらに、同年11月、大阪朝日新聞社は新しい気運を察して、日本初の第1回全国硬式庭球大会を大阪豊中(とよなか)コートで開催した。しかしこの大会は惜しくも1回限りで終わった。

 1921年、日本はデビスカップに熊谷、清水、柏尾の3選手を派遣し、チャレンジ・ラウンドへ進出したが、アメリカに敗れた。このようにして、内外ともに新気運に向かっていた日本のテニスが、いよいよその基礎を固めるときがきた。すなわち日本庭球協会を創立し、国際テニス連盟に加入することであった。この悲願が朝吹らの献身的努力によって達成され、1922年3月協会設立の運びとなった。初代会長には朝吹が就任した。同年9月、協会事業の一つとして全日本選手権大会が開催され、福田雅之助(ふくだまさのすけ)(1897―1974)が初代チャンピオンとなった。

 日本は1921年以降、ほとんど毎年デビスカップに参加してきたが、第二次世界大戦のため1939~1950年は中断された。1951年(昭和26)に至り、アメリカテニス協会の力添えでテニス界への復帰がかなった。

 1968年、世界のテニス界はオープン(アマチュア、プロ双方の選手に大会参加を認める)時代に入った。日本のスポーツ界は日本体育協会(現、日本スポーツ協会)の傘下にあるためアマチュア規程が足かせとなりプロの登録が認められていなかったが、世界テニス界の流れのなか日本テニス界の強い要望で、1972年日体協はジャパンオープン(アマ、プロ参加)大会の開催を承認した。プロの登録については1978年に導入されるとともに、全日本選手権大会がオープン化され、アマ、プロの交流を図ることになった。

 1975年には沢松和子(1951― )、アン清村(1955― )組が初めてウィンブルドン大会で女子ダブルスを制覇するなどの快挙もあり、テニスが人気スポーツの一つになり、テニス人口の増加に寄与した。日本庭球協会から1980年財団法人日本テニス協会(JTA:The Japan Tennis Association。2012年(平成24)には公益財団法人日本テニス協会に改組)となり、普及、強化の事業も拡大した。その成果もみられ、女子選手の競技レベルは世界の上位に入り、男子選手も停滞気味であったが、世界ランキングをあげている。2016年の第31回オリンピック・リオ・デ・ジャネイロ大会では、錦織圭(にしこりけい)(1989― )が、シングルスで銅メダルを獲得し、1920年の第7回アントワープ大会での熊谷・柏尾組の銀メダル以来96年ぶりの快挙を成し遂げた。

 傑出した選手としては、熊谷一弥、清水善造、福田雅之助、原田武一(はらだたけいち)(1899―1978)、佐藤次郎、布井良助(ぬのいりょうすけ)(1909―1945)、三木龍喜(みきたつよし)(1904―1966)、太田芳郎(1900―1994)、山岸二郎(1912―1997)、第二次世界大戦後では、中野文照(なかのふみてる)(1915―1989)、隈丸次郎(くままるじろう)(1921―2007)、宮城淳(みやぎあつし)(1931―2021)、加茂公成(かもこうせい)(1932―2017)、石黒修(おさむ)(1936―2016)、神和住純(かみわずみじゅん)(1947― )、松岡修造(1967― )、錦織圭。女子では加茂幸子(かもさちこ)(1926―2003)、宮城黎子(みやぎれいこ)(1922―2008)、沢松和子、伊達公子(だてきみこ)、杉山愛、大坂なおみ(1997― )らが輩出し、世界的な名声をあげた。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

施設と用具

コートは芝生が発祥であり、世界的にみて、イギリス、アメリカ東部、オーストラリア、ニュージーランド、インドなどに分布しているが、維持・管理に莫大(ばくだい)な費用を要することから、芝生のコートは減少の傾向にある。ヨーロッパではアンツーカー(焼成土)が中心になっているが、日本ではクレー(土)が多い。アメリカ西部で普及したコンクリート、アスファルトは、当初コート面が固すぎるため、バウンドが早く、プレーに際し疲れやすく、テニストウtennis toeとして知られるテニス病になったりして評判はよくなかった。その不満を解消すべく研究が進み、コンクリート、アスファルトを基礎にコート面を合成樹脂(種類、材質などさまざま)などで塗装したハードコートが作られるようになった。現在全米、全豪など主要な大会などで使われている。日本では手入れが簡単で、多少の雨でもプレーできる砂入り人工芝のコートが普及している。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

コート

コートは長方形で、シングルスコートの大きさは縦23.77メートル、横8.23メートル、ダブルスのコートは縦23.77メートル、横10.97メートルである。さらに、コート周辺に、ベースラインから後ろに6.40メートル、サイドラインから横に3.66メートル以上の空き地が必要とされる。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

ボール

ゴム球にメルトンとよばれる繊維をかぶせてつくる。表面は平滑で縫い目がなく、色は白か黄色に限られている。直径6.54~6.86センチメートル、重さ56.0~59.4グラムで、バウンドは、254センチメートルの高さからコンクリートの床上に落としたとき、135~147センチメートルの範囲内とする。規則にはそのほか変形量について規定されている。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

ラケット

はじめ規定がなかったが、材質などの技術革新が進み、同時にラケットに仕掛けをつくるなど、テニス競技の本質が損なわれる危険性が出てきたので、1978年に規定がつくられるに至った。ラケットの打球面は平らで、ストリングがフレームに直結し、全体的に均一であり、いわゆる碁盤の目状をなしていなければならない。ラケットの大きさは全長73.7センチメートル以下、幅31.7センチメートル以下とし、ストリング面の大きさは全長39.4センチメートル以下、幅29.2センチメートル以下と定められている。フレームやストリングに、摩耗や振動を防ぐため以外の、またはバランスをとるため以外の目的で付属物や突起物を取り付けてはならない。またラケットの形状を著しく変えられるような装置をつけてはならない。フレームの材質は本来合板であったが、スチールまたはアルミ製が現れ、グラスファイバー製、カーボン、チタン素材を用いたラケットがつくられるようになり、素材の進化、技術の進歩に伴い、新たな形状やサイズが生み出されている。ストリングでは、1979年ごろからナチュラルガットとして天然素材繊維の羊、牛腸製のものが出ていたが、現在は牛腸製のものがおもに使用されている。また技術の進歩により、ナイロン、ポリエステルなど合成繊維のガットが使用されている。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

競技方法

競技は、1人対1人で行うシングルス、2人1組の4人で行うダブルス、男女1組の4人で行う混合ダブルスに区別される。ダブルスは、コートの大きさ、サービス・レシーブの順序以外はシングルスと同じ方法で行われる。試合に関する規定は、国際テニス連盟の定めたテニス規則による。

 試合に先だちトスを行う。その勝者は、試合最初のゲームにおけるコートの選択、サーブ・レシーブの選択をする。サーバーは各ゲームにおいて、第1ポイントを右コートから始め、次のポイントを左から行い、以後1ポイントずつ交互に行う。第1ゲームが終わったらレシーバーがサーバーとなり、ゲームごとに試合終了まで交互に交代する。プレーヤーは各セットの第1、第3というように、そのセットのゲームの合計が奇数のときコートを交代する。

 次のような場合、プレーヤーはポイントを失う。(1)サービスを二つ続けてフォールトしたとき、(2)サービスボールに直接触れたとき、(3)相手の打球を2回バウンドする前に返球できなかったとき、(4)返球が相手のコート内に入らなかったとき、(5)インプレーのボールを故意にラケットで運んだり、止めたりしたとき、(6)インプレー中にプレーヤーがネットに触れたとき、(7)ボールがネットを越す前にボレーしたとき、(8)インプレーのボールがプレーヤーの身体に触れたとき、(9)ラケットを投げてボールを打ったとき、(10)プレー中に故意にラケットの形を変えたとき、(11)インプレーのボールが審判に当たったとき。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

ゲーム

プレーヤーが第1ポイントをとったら15(フィフティーン)、第2ポイントを30(サーティ)、第3ポイントを40(フォーティー)といい、第4のポイントを先取したときそのプレーヤーのゲームとなる。双方が3ポイントをとればスコアはデュースとよばれ、次のポイントをとったとき、そのプレーヤーのアドバンテージとよばれる。同じプレーヤーが次のポイントをとったとき、そのプレーヤーはゲームをとる。相手のプレーヤーが次のポイントをとったら、スコアはふたたびデュースとなる。このようにしてデュース後連続して2ポイントをとったプレーヤーがゲームをとる。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

セット

先に6ゲームをとったプレーヤーが、そのセットをとる。しかし双方が5ゲームをとったときは、以後2ゲームの差がつくまで続けなければならない。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

タイブレーク

ゲームがデュースの繰り返しで試合が長引くのを防ぐため、タイブレーク制度ができた。タイブレークは6ゲームオールになったときに始まり、一方のプレーヤーが2ポイントの差をつけて7ポイントを先取したときにゲームとセットが終わる。6ポイントオールになったときは、2ポイントの差がつくまでゲームは続けられる。この制度はデビスカップ、フェドカップでは最終の5セットだけは用いられなかったが、現在はすべてのセットに採用されている。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

勝敗

一つの試合における最大セット数は5、女子が参加した場合は3で、それぞれ3セット、または2セットを先取したプレーヤーが試合の勝者となる。デビスカップでは5セット試合となっているが、一般的には男女とも3セット試合が多い。

[三町正治・清水伸一 2020年7月21日]

車いすテニス

wheelchair tennis。車いすに乗って行うテニスで、障害者スポーツの一つ。使用するコートの広さ、ネットの高さ、ボールは一般のテニスと変わらない。テニスは相手の打ったボールを追う俊敏な動きが必要だが、車いすテニスは片手でラケットを持ち、車いすを使いながら、コート内を動き回らなければならず、テニスのテクニックに加え、車いすの高度な操作技術が必要である。

〔1〕クラス
男子・女子クラス(下肢に障害がある選手が対象。18歳以下はジュニア・クラス)、クァード・クラス(男女の区別はなく、四肢麻痺(まひ)の重度の障害をもつ選手が対象)があり、各クラスにシングルス、ダブルスがある。クァードは、英語で四肢麻痺を意味する「クァードリプリジアQuadriplegia」の略称。なお、障害者が健常者と組むダブルスはニューミックスとよばれる。

〔2〕歴史
車いすテニスは、1976年にアクロバットスキーの事故で下半身麻痺となった、アメリカ人のブラット・パークスBrad Parks(1957― )によって、リハビリを目的に始められた。パークスは車いすテニスの可能性を研究し、車いすテニスプレーヤーのジェフ・ミネンブレイカーJeff Minnenbrakerと競技用車いすを共同開発した。また、車いすテニスの普及のために、ルール作りを始め、競技スポーツとして成立させ、1977年に初めての車いすテニス大会を開催した。1980年には全米車いすテニス財団(NFWT:National Foundation of Wheelchair Tennis)が設立、1985年にはヨーロッパ車いすテニス連盟(EWTF:European Wheelchair Tennis Federation)が設立され、1986年には初の国別対抗戦が行われた。1987年にはパラリンピックの先駆けとなった国際ストーク・マンデビル車いす競技大会の公式大会に採用され、このころから国際テニス連盟は、車いすテニスの国際組織に協力し、公式ルールとして2バウンドでの返球を採用、新競技として認可した。1988年には、国際統括団体として国際車いすテニス連盟(IWTF:International Wheelchair Tennis Federation)が設立された。この年のパラリンピック・ソウル大会では車いすテニスが公開競技に選ばれ、1992年のバルセロナ大会では正式競技となり、男女のシングルス、ダブルスの競技が行われた。

 日本では、1983年(昭和58)に、ハワイで行われたホノルル・マラソンに車いすで参加した選手が、現地で車いすテニスの指導を受けたのが普及のきっかけとされている。それまでもルール等を翻訳し、各地で指導されてはいたが、受傷後のリハビリの一環だった。1984年に全国大会が開催され、翌1985年に福岡県飯塚(いいづか)市で第1回飯塚国際車いすテニス大会が開催された。1986年に日本車いすテニス連絡協議会が発足し、翌1987年に日本身体障害者スポーツ協会の種目別団体となる。1988年に日本車いすテニスプレーヤーズ協会に改組し、創設された国際車いすテニス連盟に加盟した。1989年(平成1)に日本車いすテニス協会が発足し、1991年に日本車いすテニスプレーヤーズ協会と一本化され、新たな協会としてスタートした。選手の活躍は、1986年に齋田悟司(さいださとし)(1972― )が、ダブルスの世界ランキングで日本人初の1位に輝くと、2003年(平成15)には、日本男子がワールド・チーム・カップWorld Team Cupで初優勝の快挙を成し遂げた。齋田は、国枝慎吾(くにえだしんご)(1984― )と組んだダブルスで、2004年パラリンピック・アテネ大会で金メダルを獲得。車いすテニスで、日本に初めてメダルをもたらした。国枝は2006年にシングルスで初めて世界ランキング1位の快挙を達成。2008年パラリンピック・北京(ペキン)大会、2012年パラリンピック・ロンドン大会のシングルスで、連続金メダルを獲得した。2016年のリオ・デ・ジャネイロ大会では、齋田・国枝組がダブルスで銅メダルを獲得した。女子も、2014年に上地結衣(かみじゆい)(1994― )がシングルスで世界1位となり、ダブルスでも年間グランドスラムを達成、男子の国枝とともに日本男女が、世界の車いすテニスで、同時に世界1位の座を獲得した。

〔3〕おもな規則
基本的には国際テニス連盟の定める『ITFルール・オブ・テニス』が適用されるが、車いすテニスには、以下のような独自の規則がある。なおこの規則における下肢とは、尻(しり)、臀部(でんぶ)、大腿(だいたい)部、脚、くるぶし、足と定義する。

(1)2バウンドルール
 2バウンド以内の返球が認められている。1バウンド目がコート内に入っていれば、2バウンド目はコートの内でも外でもよい。

(2)車いす
 車いすはプレーヤーの体の一部とみなされ、体に適用される規則はすべて車いすにも適用される。たとえば車いすにボールがあたった場合は失点になる。

(3)サービス
 サーブする直前は、サーバーは静止していなければならないが、ボールを打つ前に車輪を一押しすることは認められる。サービス中は車いすの車輪が、ベースラインの後方でセンターマークとサイドラインの仮想延長線の間以外の区域に触れてはならない。クァード・クラスのプレーヤーに限り、通常の方法でのサーブができない場合、第三者がプレーヤーのために1バウンドさせたボールでアンダーサーブをすることができる。ただし、この方法を採用する場合はすべて同じ方法でサーブしなければならない。

(4)プレーヤー・チームの失点
 ボールが3バウンドするまでに返球できなかった場合、ボールを打つ際に腰(両臀部)を車いすから浮かせた場合は失点となる。また、サービスモーション、返球、あるいは方向転換したり、停止したりする動きを含め、インプレー中に下肢をコートにつけたり、車輪に押しあてたりした場合も失点となる。

(5)車いすの仕様
 車いすテニス規則を適用するすべての競技会で使用する車いすは、下記のような仕様でなければならない。

(a)対戦相手の妨害とならないような、反射しない等の素材でなければならない。

(b)車いすを手で操作するためのリムは各車輪に一つだけつけられる。車いすには、車いす操作が機械的に有利になるようなレバーやギヤなどの機器をつけてはならない。通常のプレーをしている状態で、コートに損傷等を与えるような車輪を装着してはならない。

(c)インプレー中は、車いすの高さは固定され、プレーヤーの臀部は座面に接触していなければならない。座席でプレーヤーの腰や下肢がずれるのを防ぐために、固定ベルトを使用してもよい。

(d)ITFクラシフィケーションマニュアル(ITF Classification Manual)の規則4条5項を満たすプレーヤー(障害の重い選手)は、電動機付きの車いす(電動車いす)を使用することができる。電動車いすは、どの方向へも時速15キロメートル以内で進み、当該プレーヤーによってのみ操作されるものとする。

(e)正当な医科学的理由があれば、車いすの改造を書面で申請することができる。

(6)足で車いすを動かす
 上肢の障害のため、腕や手を使って車いすを動かすことができないプレーヤーは、片足で車輪を操作してもよい。ただし、(a)ラケットとボールが接触したときを含め、打球しようとしてラケットを握っている間、(b)サービスの動作開始からラケットでボールを打つまでの間は、その足のどの部分も地面に触れてはならない。違反したプレーヤー・チームは失点する。

(7)車いすテニスプレーヤー・チームと健常者のテニス
 両者がプレーするときは、敵味方関係なく、また、シングルス、ダブルスに関係なく、車いすプレーヤーには車いす規則が、健常者には通常のテニス規則が適用される。たとえば、車いすプレーヤーには2バウンドの返球が許されるが、健常者は1バウンドで返球しなくてはならない。

[清水伸一 2020年7月21日]

『日本テニス協会編『テニス指導教本 Ⅰ』(2015・大修館書店)』『日本テニス協会編・刊『テニスプレーヤーズガイド 2015年版』(2015)』『日本プロテニス協会『テニス教本――指導者、プレーヤー必携』(2018・日本スポーツ企画出版社)』『日本テニス協会編・刊『JTAテニスルールブック』(2019)』


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改訂新版 世界大百科事典 「テニス」の意味・わかりやすい解説

テニス
tennis

長方形のコートを中央で二分するネットをはさんで相対するプレーヤーが,ラケットでボールを打ち合う球技。テニスを日本的にアレンジしたものにソフトテニス(軟式テニス)があり,東南アジアを中心に国際的に普及しているが,テニスとは一般にローンテニスlawn tennis(硬式テニス)を意味するので,本項でも同様に取り扱う。
軟式テニス

11世紀にフランスの修道院で行われるようになった〈ジュ・ド・ポームjeu de paume〉(以下〈ポーム〉と略記)がテニス型ゲーム形態の原型と考えられている。ポームは〈手のひら〉を意味し,それ以前から行われていた手のひら,握りこぶし,前腕などを用いてボールを打ち合っていたゲームの一つの発展型が今日のテニスとなった。11世紀以後のポームの大きな特色は,手のひらの代りにラケット(木の棒の片面を平らに削った程度の素朴なもの)を用いはじめたこと,修道院の中庭をコートとするコートの固定化・定型化への道を歩みはじめたこと,対陣するコートの境界線の代りにネットを採用したこと,などである。こうしてポームがテニスとしての基本要件を整えると,たちまちのうちに王侯,貴族の新しいボールゲームとして普及していった。ポームはまず12世紀にフランスからスコットランドに伝わり,遅くとも14世紀にはイングランドに伝わった。しかし,〈テニス〉という呼称はまだ成立していない。今日確認されている文献上の初出年は1399年で,詩人J.ガウアーが〈tenetz〉と表記している。これを手がかりにして推測されている説は,フランス語の〈トゥネtenez〉の英語表記であるとするものである。トゥネは相手の注意を促すための間投詞で,〈さあ,いいですか〉という意味であるから,日本の初期のテニスプレーヤーたちが〈ノーティスnotice〉といってプレーを始めた事実とも符合する。ガウアー以後,テニスの表記はいろいろに変化しているが,今日のtennisに落ち着くのは1602年,シェークスピアが《ハムレット》のなかで用いてからであろうといわれている。ちょうどそのころ,テニスは第2の隆盛期を迎え,王侯,貴族から有産市民階級の間にまで広まりつつあった。16世紀初頭から17世紀末にいたる第2隆盛期のテニスの特色は,精巧なラケットの発明・改良とポーム専用の室内コート(球戯館)が都市のあちこちに建設され,テニス人口が爆発的に増大した点にある。なかでも,ガット(羊の腸)を張った長い柄のラケットの登場(16世紀以降)は,ラケット面が受ける空気抵抗をゼロに近づけ,ボールの反発力を増大させ,腕やひじへの衝撃をやわらげるなどの利点を生み,テニスプレーの発展のうえで革命的な役割を果たした。17世紀のフランスではもはや国民的娯楽とまで呼ばれ,最盛期のパリには〈1800ものコートがあり,毎日数千人の人々がラケットを持って,ここで過ごしている〉と報告されている。ただ,ポームには,室内の壁面を利用する〈クルトポームcourte paume〉と屋外で行われる〈ロングポームlongue paume〉の2種類があり,コートやプレーヤーの数のうえではロングポームの方が圧倒的に多かった。このロングポームの蓄積があって初めて1870年代の〈ローンテニス〉の誕生が可能となったわけである。一方,クルトポームの流れをくむテニスは〈リアルテニスreal tennis〉(イギリス)または〈ローヤルテニスroyal tennis〉(オーストラリア),〈コートテニスcourt tennis〉(アメリカ)と呼び,ローンテニスと区別することになった。今日でもリアルテニスは存続しており,世界選手権大会も開かれている。

1873年イギリスのW.ウィングフィールドが,当時流行していたスカッシュファイブズラケットなどの打球戯を参考にしながら,リアルテニスのルールをロングポームにアレンジし,ローンテニス(またはスファイリスティケSphairistiké)として提案したのが契機となり,75年には,リアルテニスとラケットの両競技を統括する〈メリルボン・クリケット・クラブ〉がローンテニスのルール制定委員会を設け,調整ルールを明らかにしたが,実際には何の拘束力ももたなかった。現代のルールの原型を定めたのは,1877年第1回ウィンブルドン・テニス大会用のルールを定めたJ.マーシャル,C.G.ヒースコート(弟),H.ジョーンズの3人である。なかでもマーシャルは,テニス史の研究者としても知られ,翌78年に《テニス年代記》を出版し,このなかで独自のリアルテニスのルールを公にした。現代のリアルテニスのルールもまたこのマーシャルのルールに基づいている。

 近代テニスの隆盛を決定づけた要素の一つに〈ボール革命〉があった。中空のゴムボールの試作は1850年ころから熱心に行われていたが,破れやすく実用に耐えるものではなかった。74年J.M.ヒースコート(兄)がゴムボールにフランネルの布をかぶせて補強することに成功し,今日の硬式用テニスボールの第1歩が始まった。それまで使われていた中芯のあるボールは,重くて芝の上ではほとんど弾まなかった。それに比べ中空のゴムボールは軽く,芝の上でもよく弾み,プレーの楽しさを一段と拡大した。このゴムボールは大量生産されるようになり,テニスの大衆化に大きな役割を果たした。こうして,テニスはそれまでの男性中心のスポーツに対し,女性のスポーツ参加への道を開き,以後,ウィンブルドン大会に代表される〈競技テニス〉と,イギリス上流市民の〈社交テニス〉とを両輪として急速に普及していった。

ウィンブルドン大会が採用したトーナメント・システムによるチャンピオン決定法とその試合を見せるショー・システムは,ローンテニスの人気急上昇の大きな要因となった。近代テニスのルールはウィンブルドン・ルールによって統一されていき,ルールが整備されるとともに,ローンテニスの競技化や組織化も急速に進められた。国際庭球連盟International Lawn Tennis Federation(略称,ILTF)は1911年に結成され,現在は国際テニス連盟International Tennis Federation(略称,ITF)と名称を変更した。1881年には全米選手権が始まり,1900年デビス・カップ戦(国別対抗戦),05年全豪選手権,25年全仏選手権と続く。現在はウィンブルドンと全米,全仏,全豪の三大オープンを合わせて四大トーナメントと呼ばれ,そのシングルスを同一年度に全部制することを,グランドスラム(四冠王)という。オリンピックにも第1回アテネ大会(1896)以来,正式種目として採用された。また,弾丸サービスやサービス・アンド・ラッシュのような新戦術も次々と開発され,ギャラリーを存分に楽しませると同時に名選手も輩出した。男子のティルデンや女子のS.ランラン(1899-1938)のようなスタープレーヤーが登場するに及び,金銭の授受をめぐるアマ・プロ問題が早くももち上がってきた。この問題に十分な対応ができなかったために,ローンテニスは1924年の第8回オリンピック・パリ大会を最後にオリンピック種目から姿を消したが,88年のソウル大会においてテニスは64年ぶりにオリンピック正式種目として復活した。

いわゆるテニス型のゲームは,横浜や神戸の外国人居留地を窓口にして早くから日本にも紹介されていた。しかし,ウィンブルドン・ルールに基づく近代テニスは,1878年横浜山手公園のコートで,〈レディーズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ〉という外国人居留地の夫人たちによって初めて組織的に行われた。同年,体操伝習所の教師として招聘(しようへい)されたアメリカ人G.A.リーランドも海外のスポーツ紹介の一環としてテニスを教えたといわれる(異説あり)。リーランドの通訳坪井玄道は,みずからも熱心にテニスを試み,《戸外遊戯法》(1885)を著して日本に初めてローンテニスを紹介した。しかし,当時は硬式用のボールが入手難であったために,ゴムボールを代用した軟式テニスが日本全国に普及することとなった。1898年東京高等師範学校と東京高等商業学校の対校試合が始まり,さらに早稲田と慶応が加わるなど,軟式テニスの全盛期を迎えた。1913年慶応が硬式テニスを採用すると他校もこれに続き,国際舞台での活躍が始まった。その先鞭をつけたのは熊谷一弥で,19年に全米ランキング第3位となった。翌20年には清水善造がウィンブルドン大会のオールカマーズ(チャンピオンへの挑戦者決定戦)の決勝に進出し注目を集めた。同年開かれた第7回オリンピック・アントワープ大会に熊谷,柏尾誠一郎の2選手が出場し,シングルス(熊谷)とダブルスの2種目に2位となり,日本のオリンピック史上初の銀メダルを獲得した。翌21年にはデビス・カップ戦初参加で決勝に進出し,清水はアメリカのティルデンから2セットを奪う健闘を示した。これらの活躍は,軟式テニスで鍛えられた日本選手のトップスピンが世界に通用するレベルにあったことを証明している。なお,日本庭球協会の創立は1922年のことである。

テニスプレーヤーのプロ化現象は一段と進み,いわゆるアマ・プロ問題をめぐるトラブルは後を絶たなかった。またアマチュア大会の優勝者は次々にプロに転向し,観衆の目はプロ選手の試合に移っていった。こうした問題を克服するための方途が模索され,アマとプロの区別をなくす〈オープン化〉の問題が1960年国際庭球連盟の総会で検討されたが,僅差で否決された。しかし,68年イギリスは単独で〈オープン化〉に踏み切り,国際テニス連盟が黙認したこともあって各国がこれに続いた。こうして,新しく誕生した多くのトーナメントにもスポンサーがつき,優勝選手には巨額な賞金が支払われることになった。72年にはプロテニス協会Association of Tennis Professionals(略称,ATP)が組織され,すべてのテニスプレーヤーの利益を守り,プロトーナメントの運営や規律にプレーヤーが参画することをめざした。今日行われている大きなトーナメントの大半はATPの組織下にあり,グランプリサーキットのなかに組み込まれている。最近では,単独のスペシャルイベントやエキジビションマッチが盛んに行われるようになってきている。73年には女子国際テニス協会Women’s International Tennis Association(略称,WITA。90年WTAと変更)が組織され,女子プロテニスのツアーが始まった。
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競技は,1対1で行うシングルス,2人が1組となって他の1組と行うダブルス,男女が1組となって他の男女の1組と行うミックス・ダブルスの三つがある。

まずトス(ラケットまたはコインを用い表裏を当てて決める)に勝った者が,サービスもしくはいずれかの側のコートを選ぶ。シングルスの場合,第1ゲームのサービスを行う者は,自己のコートの右側のベースラインの後ろで,センターマークとサイドラインの間に立って相手のコートの対角線上にあるサービスコートに向かってサービスする。サービスは2球打つことができる。サービスした球がネットに触れた後相手のサービスコートに入ったときは,レットletといってやり直しとなる。サービスを受ける相手は,サービスに限りいったんバウンドさせてから打たねばならない。次のポイントは左側から同様に行いこれを繰り返す。終了したゲームの総数が奇数となったときはコートのサイドを交替する。次のセットに移った場合は新しいセットのゲームの総数が奇数となったときに交替する。ダブルスの場合はパートナーは交互にサービスを行う。ただし新しいセットの開始時には順序を変えることができる。相互に打ち合っている間にコートの所定ラインの外にボールを打ち出したとき,ネットにかけたとき,さらに相手の打った球が2回バウンドするまでに返球できなかったとき,またサービスを2回続けて失敗したときは相手の得点となる。

 ポイントの数え方はテニス独特のもので,0をラブloveといい,最初のポイントを15(フィフティーン),次のポイントを30(サーティ),第3のポイントを40(フォーティ)という。またポイントをコールするときはサーバーを先にする。3ポイント対となったときはデュースdeuceといい,次のポイントを取った者にアドバンテージadvantageが与えられる。テニスのスコアはポイント,ゲーム,セットの3段階で構成され,4ポイントを先取(3ポイント対となったときは以後2ポイント連取)して1ゲームを得たものとし,6ゲームを先取(5ゲーム対となったときは以後2ゲーム連取)して1セットを得たものとする。3セット試合の場合は2セット先取したものが,5セット試合の場合は3セット先取したものが勝者となる。

試合が極度に長引くのを防ぐために考えられた方式で,5ゲームオールあるいは6ゲームオールとなった際,次のゲームを7ポイント先取(6ポイント対となったときは以後2ポイント連取),あるいは5ポイント先取した方がそのセットを取る方式である。〈ノーアドバンテージ〉も試合進行を早めるためのもので,デュースとなったとき次の1ポイントでゲームの勝敗を決めるものである。

紳士淑女のスポーツといわれたテニスも近年に至ってコートマナーが乱れる傾向にあり,競技規則とは別にこの二つの規定が生まれた。倫理規定は基本的には精神規定で,その基本は〈疑わしい判定はつねに相手に有利に決定する〉というもので,これを実際にコート上で起きる種々のケースに当てはめ,そのときプレーヤーのとるべき態度を規定したもの。ポイント・ペナルティ規定の前提ともいえるものである。ポイント・ペナルティ規定は,倫理規定に違反したプレーヤーに課す罰則を定めたもので,アマチュアプレーヤーに対しては第1回目は警告,次は1ポイント,次は1ゲーム,第4回目は失格のペナルティが課せられ,プロに対してはすべて罰金のペナルティで,最も重いものは一定期間の出場停止処分である。

ラケット

ラケットracketの語源は,手のひらを意味するアラビア語のrāhatからきたといわれる。19世紀末ころより木製のほぼ楕円形の枠(フレーム)に取っ手(ハンドル)を付け,枠の内側に球をよくはじく素材でつくったガットを縦・横に張ったものが使われるようになった。現在ではその形状,大きさ,デザインは多様になったが,規則に定められたサイズの最大限はフレームとハンドルをあわせて全長で73.66cm,全幅で31.75cmである。ストリング面は全長で39.37cm,全幅で29.21cmを超えてはならない。

 木製のみ使われていた時代には規則はなかったが,木材の比重と強度からある程度以上大きいラケットを使用することは無理であったのに比べて,大きなラケットの製造が可能になった。これはフレームやハンドルの素材として開発された軽量,強靭,高弾性などの特性を有するアルミ,チタン,炭素繊維などが用いられた結果である。このような用具の改善は,テニス技術の多様化,スピード化に大きな役割を果たすとともに,高齢者などにも安全にプレーを楽しむことが可能となった。

テニスの発祥時に,羊の腸gutをひも状により合わせ乾燥したものが使用されたところから,ラケットに使用される紐をガットと称するようになった。近年はナイロンが素材として用いられ,耐久性の増大(実質数十倍),価格の低廉化が実現して,テニスが普及する一因となった。

発祥時は布または毛糸を固く丸めたものが使われた。その後ゴム球の外側にひょうたん形の2枚のフェルトを張り合わせて現在のボールが完成した。さらに合成ゴムとナイロンと羊毛の混紡フェルトが用いられ,その耐久力が倍加している。現在の国際標準規格は直径6.35cm以上6.668cm以下,重量56.7g以上58.5g以下,254cmの高さからコンクリート上に落としたときのバウンドの高さが134.62cm以上147.32cm以下でなければならない。色は白または黄色と規定されている。

コートの規格,および名称は図のとおり。発祥時には芝生の庭園で紳士淑女が優雅に楽しんだもので,その伝統の下に近年まで芝生を正式なコートとした。しかし,降雨時に使用不能な点,表面が完全な平面でないために技術が高度に発達した現在のプレーに不適であるなどの要因から,近年は全天候型の人工コートが急速に発達し,各種の合成素材を使用したコートが開発されている。一方,とくに足首,手首などへの衝撃,ボールのバウンドの早さの調整,表面反射光の除去など改善の余地も多い。このほかクレーコートclay court,フランスで開発された水はけの良いアンツーカコートen-tout-cas courtも世界各地で広く使われている。
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百科事典マイペディア 「テニス」の意味・わかりやすい解説

テニス

庭球。正式にはローンテニスlawn tennis。中央にネットを張ったコートの両側に競技者が相対し,ラケットでボールを打ち合う球技。使用球により硬式テニス(ゴム球にフェルトをかぶせた球を使用)と日本独自のソフトテニス(軟式)があり,国際的には前者をさす。現在のテニスは1874年英国のW.ウィングフィールドが考案。日本には1878年に伝来。国際試合に全英(ウィンブルドン・テニス大会),全米,全仏,全豪の四大大会,デビス・カップ戦などがある。テニスにおいては早くからアマ・プロ問題がもちあがり,1924年以来オリンピック種目からも除外された。1968年以降アマとプロの区別をなくす〈オープン化〉が進み,現在は主要な大会はすべてオープンである。オリンピックでも1988年ソウルオリンピックから正式種目として復活,プロ選手の参加も認められるが,大会期間中のプロ活動は禁止されている。全英,全米,全仏,全豪の4大大会を1年間ですべて優勝することを年間グランドスラムといい,さらにオリンピック開催年の1年に4大会すべてとオリンピックで金メダルを獲得するとゴールデンスラムという。ゴールデンスラムの達成者は1988年のソウルオリンピック女子テニスシングルスで金メダリストとなったシュティフィ・グラフ(旧西ドイツ,当時19歳)だけである。競技はシングルス,ダブルス,ミックスダブルス(男女混合)の3種。男子は5セット行い3セット先取,女子とミックスダブルスは3セット行い,2セット先取をもって勝ちとする。ただし各セットは6ゲーム先取した側のものとなり(5対5の場合はデュースdeuceとし,2ゲーム差がつくまで行う。あるいは促進ルールとしてタイブレーク方式をとり,6対6後の第13ゲームは7ポイント先取,6ポイント・オールの時は2ポイント連取を勝ちとする),各ゲームは4ポイント先取した側がとる(3対3の場合はデュースとして2ポイント差がつくまで行う)。
→関連項目アントワープオリンピック(1920年)グラフペロタ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テニス」の意味・わかりやすい解説

テニス
tennis

コートの中央に張られたネットを挟んで相対する競技者が,ラケットでボールを打ち合う球技。もともとの名称はローンテニス。日本では硬式テニスともいい,庭球とも表記される。 12~13世紀頃からフランス,イタリアなどの貴族や僧侶の間で行なわれていたジュ・ド・ポームという屋内ゲームが起源とされる。 16世紀頃に現在のラケットの原型が登場し,それまでの素手や手袋使用に取って代わった。その後イギリスに紹介され,1874年ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐がテニス用具やコート,ルールを考案して特許を申請。芝生 (ローン) の上にコートが設置され,ローンテニスと呼ばれて急速に普及した。 1877年ロンドン郊外のウィンブルドンで選手権大会が開かれ (→ウィンブルドン選手権大会 ) ,このときコートの寸法,ボールの規定,試合のルールなどが定められた。アメリカ合衆国ではニューヨークのスタテン島に初のテニスコートがつくられたのち普及,1881年全米ローンテニス協会が設立された。 1912年には国際ローンテニス連盟 (国際テニス連盟 ) の設立をみた。日本にテニスを紹介したのは 1878年に来日したアメリカ人教師ジョージ・アダムズ・リーランドという説が有力。当時はボールの入手が困難であったため,1890年頃に日本独自の軟式ボールが生まれ,軟式テニス (ソフトテニス ) が普及した。 1922年日本庭球協会が設立され,1980年日本テニス協会に改称した。試合は,競技者のいずれかが正しく返球できなかった場合,あるいはサービスを2本とも失敗した場合などに相手側にポイントが与えられる。1セット6ゲームからなり,最初のポイントを「15 (フィフティーン) 」,2ポイント目を「30 (サーティ) 」,3ポイント目を「40 (フォーティ) 」と呼ぶ。4ポイント目を先取した側がゲームを取得し,さらに6ゲームを先にとったほうがセットの勝者となる。ゲームでポイントが 40対 40と並んだ場合,ジュースとなり,2ポイントを先にとったほうが勝つ。また,セットでゲーム数が6対6で並んだ場合,タイブレークを行ない,2ポイント以上の差をつけて7ポイントを先に奪ったほうが勝つ。主要大会では,男子は5セット,女子は3セットで試合が行なわれ,それぞれ3セット,2セットを先取した側が勝者となる。男女の各シングルス,男女の各ダブルス,混合ダブルスがある。

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デジタル大辞泉プラス 「テニス」の解説

テニス〔筆記具〕

イタリア、スティピュラ社の万年筆の商品名。「アカデミア」シリーズ。テニスをしている人がモチーフ。

テニス〔ゲーム〕

任天堂が発売するゲームソフト。スポーツゲーム。1984年1月発売。ファミリーコンピュータ用。

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世界大百科事典(旧版)内のテニスの言及

【ドロー】より

…こんにちでは,ドローン・ゲームdrawn game,すなわち〈引分け〉〈無勝負〉の試合の意味で用いられており,略称して〈ドロー〉と呼んでいる。このほかには,テニスの組合せを決めるくじ引き,ゴルフの打法(まっすぐに飛んだボールがわずかに左に切れる球すじ)にも用いられている。 ドローということばには,じつは,きわめて興味深い歴史が秘められている。…

【ネット】より

…一つは,スポーツ用具としてのネット,もう一つは,ルール用語としてのネットである。スポーツ用具としては,テニスやバレーボールのようなネット型球技で相手陣営との境界線を明確にするためのもの,野球やゴルフのように打球の行方を制限するためのもの,の2種がある。ルール用語としては,ネット型球技でボールがネットに遮られたり触れたときのコール,ゴルフのハンディキャップ付きゲームで総合スコアからハンディ分を差し引いたスコアの2種がある。…

※「テニス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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