翻訳|design
〈デザインdesign〉は,〈指示・表示する〉を意味するラテン語の動詞designareに由来する語であるが,今日のように,ある具体性を伴って用いられる〈デザイン〉はアングロ・サクソン系の言葉である。この語を外来語としてそのまま使っているのは日本だけではない。もともとアングロ・サクソン系のデザインという言葉には,意匠と計画という二つの意味があり,この二つの意味を同時に表す言葉が他の言語では見つからなかったからである。たとえばフランス語ではesthétique industrielle(字義どおりには〈産業美学〉)という言葉がよく使われたが,それではインダストリアル・デザインの,とくに意匠について語るにすぎない。また,イタリア語でprogettazioneと呼ばれたこともあるが,この場合では計画に比重がかかってしまう。デザインという語がどの国でもそのまま使われるようになってきたのは,デザインそのものが計画と意匠の二重の操作の結合であるためであった。たとえば第1次大戦から第2次大戦まで,今日〈グラフィック・デザイナー〉と呼ばれている人々は〈コマーシャル・アーティスト〉と呼ばれていた。〈アーティスト〉が〈デザイナー〉に変化したことは,彼らが単なる装飾家でなく,計画的な決定を行う立場に近づいたことを意味しているし,〈コマーシャル〉が〈グラフィック〉に変わったのは,単に企業の商業活動に関与するにとどまらず,その活動がより広範なものとなったことを強調している。
このことはグラフィック・デザイン以外のジャンルにおいても同様である。今日では,インダストリアル・デザイン,テキスタイル・デザイン,ファーニチャー・デザイン,アーバン・デザインなど,デザインという言葉に限定する形容詞をつければ,無数の領域を指し示すことができる。そして,それぞれの領域は,固有の材料,技術,機能による,固有のコード(規則,方法など)をもっている。それは他のジャンルのコードには還元できないものである。しかし,これら固有の領域は同時に,デザインという全体として社会的なコミュニケーションを構成する操作の部分集合にほかならない。もちろん個々の分野の意味が希薄化したわけではなく,デザインという言葉はつねにそれらの実体性を超えて横断するシステムを意味している。また,このような,ある限定を付与されたデザインという言葉が普及し,使用されるようになったのが比較的近年のことであるという事実それ自体にも意味がある。一見したところデザインという言葉が示す道具の制作,図像によるコミュニケーションの形成,住居や環境の構成は,人類が誕生したときから続いている不変の営為であるように見える。しかし,太古から人間の行ってきたこれらの活動をそのままデザインとは呼ばないのである。前産業社会での工芸もデザインではない。もちろん,それぞれの活動の本質は近代のデザインのなかに保持されている。たとえば,機能主義はどんな原始的な道具のなかにも見られる。しかし,デザインという語は,産業社会が成立して大衆が,生産された物の消費者となり,また政治的な平等が少なくとも名目的には原則となった時代の,人間の環境形成にかかわる活動をさして使われるのである。
デザインが成立するには,18世紀の末以来の生産と消費の両面にわたる大きな変化が前提となる。それまで家内工業的職人,あるいはそれよりも進んでマニュファクチュアによって行われてきた生産は,産業革命によって,その場を機械を備えた工場に移行する。同時にこの生産手段の所有者たるブルジョアジーが社会を支配するようになる。他方,消費における著しい変化は,大衆が社会の前面に登場し,商品の消費者になったことである。のちにデザインと呼ばれるようになるものは,このような社会的条件のなかで,生産物についての配慮と非言語的コミュニケーションへの努力という二つの軸に沿った活動から生成してくる。19世紀前半にすでに,新しい技術革新に基づく物の美的性質が,生産者の側において問題になりはじめる。たとえば,家具は長いあいだ一品制作の段階にとどまっていたが,新しい材料,たとえば鉄にどんな形態を与えればよいのか,また機械で生産される織物にどんな図案を与えればよいのかなどが,解決を要する問題であると認識されてくるのである。そして,19世紀前半には工業化の進む諸国で,インダストリアル・デザインに関する団体があいついで結成される。そこで議論されたのは工業製品に対して美術を応用すること,デザイナーの教育には美術館が必要であるということであった。デザインはその時点では〈応用美術〉とみなされていた。
しかし,このなかからやがて近代デザインの思想に結びつく動きが生じてくる。すなわち,生産物について,それをこれまでの様式概念から引き離し,生産技術のシステムに同化させ,機能的,経済的な合理性に基づいて形成しようとする動向である。よく知られている例を二つあげておこう。建築においては,ロンドンの第1回万国博覧会の会場クリスタル・パレスがJ.パクストンによって,工場生産された部品を組み立てる方式で建設される(1851)。それは生産工程の変化を背景とするものではあるが,これまでの重々しい建築とはまったく異なる軽やかな印象を与え,やがて生産主義,機能主義に立つ美学の源流となった。のちにル・コルビュジエが建築についてのマニフェスト(宣言)を書くときに言及したのが航空機やサイロ,高速客船であったことを思いあわせればよい。第2の例としては,ドイツの家具製作者M.トーネットによる曲木椅子の制作があげられる。彼は1840年代に,工場生産した曲木の部品からボルト・ナットおよびビスで椅子を組み立てる方法を考案した。これは,安価で,しかも実用性と美を損わない同一規格の家具を大量に生産する最初の試みであり,そこには,やがて近代デザインがそなえるべき諸要素がすべて含まれていた。
このような生産技術を中心とした流れのほかに,もう一つの水脈があった。それは19世紀後半イギリスのW.モリスとアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントである。モリスらは機械製品の粗悪な質に対して,かつて手仕事による工芸品がもっていた質の回復を図ろうとする。その背景には,ラッダイト運動や職人の工業プロレタリアート化に対する民衆的社会主義があった。モリスらの運動は複雑な要素を含んではいるが,彼らがアカデミックな美術のなかに生活を離れた芸術の終焉を見,日常の什器,家具,住宅,印刷物,壁紙などのなかに芸術のあるべき姿を見いだそうとしていたことは注目しなければならない。言いかえるなら,産業社会を否定するように見えながら,デザインが産業社会における芸術であることを最初に示唆したのがアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントであった。一方,この産業社会とアカデミックな芸術に対して,デザインとともに純粋芸術が誕生したのも,時代のもう一つの側面であった。
次いで,生産物に対する美学的問題と重なりあっているが,大衆社会が視覚的メディアによる広範な社会的コミュニケーションを広げるようになったことが指摘できる。印刷物ではモリスによるケルムスコット・プレス(1891設立)のタイポグラフィーが大きな影響力をもったが,それが機械生産と結びついて20世紀ドイツで新しい美学的(機能的)水準をひらく。またポスターは石版の発達と結びついて1860-70年代に新しい都市の〈絵画〉を形成しはじめ,世紀末のアール・ヌーボーはポスターの黄金期をつくりだした。これらのグラフィック・デザインが近代デザインの中でもつ意義は,単に視覚表現の固有の領域の開拓という点だけではなかった。すなわち,コミュニケーション,意味作用のレベルにあらゆる生産物を位置づけるうえで(つまり物を記号化するうえで),重要な役割をもっていたのである。
このような先駆的現象にもかかわらず,19世紀の文化は全体としてみれば折衷的で,けっして歴史的様式と装飾性を捨てさることはなかった。近代デザインの成立とは,この二つの要素をそれぞれある段階で切り離していく過程としてみることができる。アール・ヌーボーは歴史主義と袂(たもと)を分かつもので,近代社会が,過去をモデルにしえない文化をもとうとする自覚の表れであったといえる。同時にそれは社会・経済的には,資本主義が〈レッセフェール(自由放任主義)〉から制限された方向に向かうことに対応していた。またウィーンのゼツェッシオン(分離派),とくに建築家J.ホフマンらを中心に1903年設立されたウィーン工房は,機能性と直線の合理性を強調し,建築と工芸各分野で近代の新しい造型を目ざしたが,いまだ装飾芸術の範囲にとどまっていた。装飾性を切り捨て,生産主義,機能主義に立つ近代デザインの思想が現れてくるのは,イギリスの住宅の調査から機能主義をひきだした建築家ムテジウスHermann Muthesius(1861-1927)によるドイツ工作連盟Deutscher Werkbundの設立(1907。ミュンヘン),そのころからはじまるP.ベーレンスのAEG電機会社での建築,工業製品,広告などにわたる一貫した活動,さらにアメリカの生き生きした産業社会に触れてヨーロッパの文化的遅滞を痛感したA.ロースの激しい言説(〈装飾は罪である〉。1908)などを経て,第1次大戦後のドイツにバウハウスが設立されたとき,である。
B.タウトら表現主義の影響をうけながらW.グロピウスが1919年ワイマールに設立したバウハウスは,産業革命以来の生産物のみならず視覚的コミュニケーションにおける上記のような先駆的活動を統合するもので,その教育システムに,デザインの思想が表現されていた。そこでは建築,家具,グラフィック,テキスタイル,演劇,写真など,あらゆる分野が結びつけられ,カンディンスキー,クレー,シュレンマー,モホリ・ナギ,イッテンなど多彩な教授陣を擁し,近代デザイン・建築運動のメッカとなった。バウハウス以外にも,ル・コルビュジエ,ロシアの構成主義,デ・ステイル,未来派など,近代デザインを探求する相互に関連した動きが,ほぼ同時期に見られた。最近では,バウハウスをはじめこれら近代デザイン運動は必ずしも機能主義のみには還元しないと解釈されているが,それでもグロピウス,ル・コルビュジエらが機能主義を標榜したという事実は変わらない。バウハウスや近代デザインの担い手たちは1920年代に現実の社会的主題にも取り組むが,とくにバウハウスはドイツの保守層,やがてファシズムとの摩擦という苦難の道を歩く。そのこと自体,機能主義を意識的な論理として掲げることは,既存の伝統的文化を受け入れることではなく,世界のあるべき姿をゼロから描きだす試みであったことを示している。言い換えるなら機能主義は,世界を,機能と形態の結合を意味作用とみなす記号の体系に書き換えることであった。ル・コルビュジエの〈家は住むための機械である〉というアフォリズムは,家を構成するあらゆる部分が機能に従って合理的に結合されるべきことを説いているが,実際にル・コルビュジエの考えに含まれていたのは,デザインとは個々の物や図示表現などにかかわるコードの探究にとどまらず,世界を人工的なシステム(C. アレクサンダーのいう〈ツリー構造〉)として構成することであるとするものであった。それはまた倫理的な要求でもあった。こうした思想の背後に,資本主義社会から無意識に受けとっていた生産主義という視点があったわけである。
このような19世紀後半から20世紀初めにかけての近代デザインの系譜を,ほとんど歴史的必然として描いてきたのが,機能主義・合理主義的な近代デザインの立場に立つ理論家たちである。しかし,バウハウスやル・コルビュジエの思想,あるいは機能主義や合理主義にはあてはまらない現象をも近代は生みだしていた。それは,消費者=大衆が存在することによって生じた文化現象である。現在,デザインが文化にとってもつ意味を考えるうえでは,このもう一つの文化の流れを考慮にいれなければならない。その一つが19世紀後半のキッチュで,これは大衆がその限界のある経済力によって相対的な満足を手にしようとするところから生じた美的な〈まがいもの〉である。バウハウスなどの近代デザインは,決定的に反キッチュとして成立している。2番目には1920年代のアール・デコがある。これはキッチュよりもはるかにデザインの問題に密着している。アール・デコはかつてのキッチュのように過去に遡るのではなく,現在(近代)を直接表現しようとする多様な文化現象で,最初は機能主義的な近代デザインとはっきりとは分離されていなかった。とくにドイツ工作連盟のような経験をもたなかったフランスで現代装飾・工業美術国際展(アール・デコの呼称は,この展覧会名にちなむ)が1925年に開かれたときには,ル・コルビュジエのエスプリ・ヌーボー館,メルニコフのソビエト館など近代デザインの記念すべき作品と,大衆社会が生み出したアール・デコのデザインとは,まだ同居していたのである。近代デザインが機能主義,合理主義の体系を明確にするにつれて,やがてそこからの分離が顕著になってくる。アール・デコは体系化できるものではなく,近代都市の消費生活のなかに拡散した,また近代的〈知〉からみれば周縁的な現象であった。同時にそこには時代の浪費的欲望の反映が見られる。つまり,近代デザインとアール・デコは同じ時代から生じながら,前者は生産・流通的,後者は消費・交換的というまったく異なった性格をもっていた。
やがて30年代に入ると,近代デザインのイデオロギーがまだ挫折していないにもかかわらず,現実のデザインは変化しはじめる。それは大恐慌につづく不況を乗り切るアメリカの企業のインダストリアル・デザインのなかから生じた。ローウィRaymond Fernand Loewy(1893-1986)らは,もはや20年代後半のノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)の感性で製品を処理するのではなく,消費者の購買意欲をそそるスタイリング(特定の型に合わせて作ること)を指標にする。典型的なスタイリングの例が流線型であった。この新しいデザインは,その商業主義が企業,ひいては一国の経済にかかわるという意味で,戦略としての側面ももっていた。インダストリアル・デザイン以外の,ニューディールにともなう建設事業,それらとともに発生する視覚的コミュニケーションのすべても同様である。こうした流れのなかで技術的世界観を宇宙論にまでひろげたR.B.フラーの存在は忘れられない。一方ではファシズム,スターリニズムが新古典主義的様式で都市を装飾しつつあった。30年代には,近代デザインの合理主義からみれば混然とした不整合な状況のなかで,デザインは単なる商業主義ではなく,そこから社会的,政治的,文化的な諸分野にわたる活動として形成されていたのである。資本主義の発展は広告を異常に発達させていたが,その手法は,バウハウス出身のH.バイヤーの例に見るように,近代デザインに基づいていた。30~40年代には,広告とともに政治的プロパガンダが重要な役割を演ずる社会体制(ファシズム,スターリニズム),さらに戦争という特殊な状況があり,その結果,広告とプロパガンダにかかわるグラフィック・デザインはより包括的なものへと拡大していく。
33年に閉鎖されたバウハウスはのちにウルム,アメリカのシカゴに引き継がれ,近代デザイン以後の諸動向を整理し,理論的に洗練させる。とくに第2次大戦後のモホリ・ナギやG.ケペシュらの仕事は,心理学,社会学,記号論の成果をとりいれながら,デザインという,環境を構成する創造的な活動と科学を重ねようとするものであった。ル・コルビュジエらが1928年に結成したCIAM(近代建築国際会議)の活動は56年まで続いた。バウハウスや20年代の活動を〈近代デザイン〉と呼んできたが,その後の変容を含め,50年代あたりの活動まで拡張して近代デザインを考えてよいわけである。
資本主義社会が記号を生産し消費する力はすさまじく,またエレクトロニクスを軸とするテクノロジーを,もはやかつての倫理的,禁欲的な近代デザインの枠にはおさまりきらないものへと発展した。その結果,二つの重要な問題がデザインから社会に対して投げかけられた。一つは,現代の文化が近代デザインが構成しようとした世界の枠を超えていることである(その認識がポスト・モダンの認識である)。もう一つは,人間そのものの進化とテクノロジーがもたらすものとの不均衡である。後者はコンピューターと新しい情報システムに人間がどのように対処していくかという,まだはじまったばかりの問題である。デザインはそれに答える一つの知恵にちがいないが,それはまったく今後の課題である。
60年代以降,現象的には近代デザインに対する批判というかたちをとっているが,具体的に文化(共示的な意味)から人間の環境(流動する膨大な記号の世界)までを再考する多様な傾向が現れてくる。それがまず理論的なかたちをとったのは,建築や都市についてであり,同時に芸術の動向もそれらを示唆した。最初に現れたのは,芸術におけるポップ・アート(それは広告や商品の再記号化であった)と,テクノロジーや情報化した建築や都市のさまざまなイメージであった。次いで,近代デザインが否認した既存の環境の意味の見直しであった。R.ベンチューリ,C.アレクサンダー,K.リンチらの建築論・都市論は,こうした新しい認識を代表している。さらに社会学者たち,たとえばフランスのボードリヤールJean Baudrillard(1929-2007)による物の記号化と消費社会についての分析が,デザインはもはや実体的なものにかかわるのではないという状況をいっそうはっきりと浮かび上がらせた。ボードリヤールの分析は,デザインに希望はない,というに等しい結論をもっている。しかし,人間がみずからの時間と空間を認識し,かつつくりつづけていかねばならない以上,デザインそのものは残るわけである。現実に,社会あるいは都市は記号を生産し消費しつづけており,デザインはこの現象に直接手をかしている。ある場合にはポップ的なイメージを,ある場合にはコンピューター・グラフィックスを,またある場合には歴史主義的なモティーフや近い過去(1920,30年代,50年代など)のリバイバルを氾濫させている。しかし,もしいまデザインに文化を維持するしなやかな力があるとすれば,それは,こうした現象のなかにデザインの両義的な仕掛けがひそんでいるからである。すなわち,いまやデザインは果てしない解体に関与する面と多元的な要素を関係づける面とをもっている。今日〈ポスト・モダニズムPost-modernism〉と呼ばれているデザインの諸現象は,そのような観点から認識し,分析されねばならない。そのとき,近代デザインとはまったく異なる,しかし近代デザインによって不正確ながら最初に明らかにされた文化としてのデザインの特質,すなわち容易にその矛盾を克服しがたいという特質,またそれ自身は死滅することがないという性格が明らかとなろう。
→意匠
執筆者:多木 浩二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
構想、計画、設計、意匠などのさまざまな意味を含み、これらの総合として、またいずれかに力点を置いたものとして用いられる。一品製作にとってかわった近代以降の生産方式においては、ただ単に事物がつくりだされるということ以上に、生産のシステムを整え、あるいは生産物が社会のなかにどのように位置づけられるのかをまえもって考慮するなど、方向づけの段階が重要となった。デザインの語義のなかに含まれる構想や計画とは、近代的な生産方式に欠くことのできない、このような前提の思考をさしている。しかし、実際の段階に入っていっそう具体的に設計され、製品化されるプロセスでは、整合性と相まって美の問題がかかわり、こうした視点からデザインのよしあしが論じられることになる。デザインということばは多義性をはらんだまま、それらを総括する用語として用いられている。
[高見堅志郎]
デザインが近代的な生産方式と結び付くとき、近代デザインの名のもとにある一つの方向が樹立された時代があった。そこでは、用途に適したもの、合法則的なものが第一義に置かれ、効用的な形式こそが美しいという機能主義美学が生まれた。近代デザインを主導したグロピウスが1925年に『国際建築』を著し、個人や民族を包括したインターナショナルな様式の設定を説いたのも同じ機運にのっとったものである。機能主義や国際主義がデザインの有力な基点であることは疑いを入れぬところだが、一方では単一化や形式化への危険もはらんでいて、その後、個別的な表現の見直し、歴史や伝統の再検討などによって、いっそうの充実が図られることになった。近代デザインが絶縁した装飾の問題がふたたび浮上し、現象的にはアール・ヌーボーやアール・デコの流行をみるようになったのもこの路線上で考えられる。なお、近年台頭したポスト・モダニズムの風潮は、近代デザインの総点検をもくろむものである。
もともとデザインの多極化は、高度大衆消費社会、あるいは情報時代の到来とともに著しくなった。ここではデザインが企業活動に組み込まれ、販売促進のための有力な手段とみなされることになった。すなわち、製品そのものよりもそのイメージをデザインすることが重要になり、広告や宣伝のための商業デザイン(コマーシャル・デザイン)という分野が確立された。他者への伝達のデザインがこれである。ただし、伝達のデザインは広告や宣伝に仕えることには限定されず、公共的な目的のため、あるいは環境形成に一役を担って、大きくその意義は広がった。こうして近年、商業デザインという呼称は広く印刷技術を媒介にした意味でのグラフィック・デザインという用語に変わり、さらに広範囲に視覚にかかわるすべてを含んだビジュアル・デザインの呼称が採用されるようになった。
今日のデザイン領域では、生産面でのインダストリアル・デザイン、プロダクト・デザインに加えて、視覚伝達のためのこれらのデザイン、また環境デザインが大きな場を占めている。また、デザインの社会的役割が増大したことに呼応して、国家レベルあるいは国際的な規模での総合的な追求が必要となった。今日、国際インダストリアルデザイン団体協議会(ICSID、1957設立)、国際グラフィックデザイン団体協議会(ICOGRADA、1964設立)など国際的な団体があり、各分野を横断するような形で世界デザイン会議がしばしば開かれている。
[高見堅志郎]
明治初年、デザインに「図案」の訳語が採用されて以来、模様や図様をさすことが一般的になった。1896年(明治29)に東京美術学校に図案科が設置され、大正末から昭和初期にかけては各種の民間デザイン運動があり、国立工芸指導所も設立されたが、デザイン本来の意味を失ったままに応用美術という考えが根強く残り、デザインを二義的に扱う傾向がみられた。日本のデザイン界は、ヨーロッパにみられるような様式確立や方法論の設定への模索を経過することなく、第二次世界大戦後、いきなり繁栄期のデザインを体験したという特殊な事情があった。戦前にも、分離派、ドイツ工作連盟、バウハウスなどヨーロッパのデザイン運動の理念を受け止めようとする動きが散見されはしたが、本格的な展開をみたのは1950年(昭和25)以降になってからのことである。
日本でデザインという概念の多義性がいっそう混乱しているように思えるのは、おおかたがその歴史の浅さに原因する。しかし、1950年代に入って、グラフィック・デザイナーの中心団体である日本宣伝美術会(日宣美)が結成され(1951~70)、工業デザイナーの職能団体として日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)が設立(1952)されるなどの活発な動きがあった。1978年には、グラフィック・デザイナーの職能団体として、日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)が設立された。以来、今日では欧米の傾向を摂取する段階をすでに終え、世界のデザイン界と共通の課題に取り組み、共通の試練を分け持つに至っている。
[高見堅志郎]
1980年ごろから始まったコンピュータリゼーションcomputerizationやグローバリゼーションglobalizationは、デザインの発展(あるいは停滞)と無縁ではありえなかった。1965年ごろのコンピュータ・アートは、ささやかな芸術的な試みではあったが、85年ごろにはコンピュータはデザインの道具として欠くことのできないものとなった。CADシステム(コンピュータに支援されたデザインの方法)が実用化されたことにより、設計作業が画期的に合理化された。ディスプレー装置の精度も向上し、映像の設計や加工が可能になり、斬新(ざんしん)かつ大胆な映像が人為的に構成されるようになった。その結果、コンピュータ・グラフィクスという新しい領域が確立され、発展しつつある。
機械による大量生産が前提とされる工業製品は、商品となって全世界で販売される可能性もあり、多くの人々の幸福に貢献することが希求される。そのような状況のもとで、デザインにはむずかしい課題がつきつけられているように思われる。21世紀に入った現在、いくつかの新しいデザイン思潮についての模索が続けられている。
第一の思潮は、地方(あるいは地域)の人々の価値観や生き方をたいせつにしたデザインを、その地方(地域)の人々に提供するべきであるという考えである。全世界的なものであるよりも、特定の地方(地域)の文化をたいせつにした製品をつくり、特定の地方の生活に貢献したいという考え方が基本となっている。
第二は、エコ・デザインに関するものである。製品の材料や工法を吟味する際に、人間の生態や地球の資源などについて十分に考慮すべきであるというデザインの考え方から生まれたものである。製品は、その使用時および廃棄後に環境を汚すものであってはならないし、リサイクルが可能であることが望まれる。
第三は、ユニバーサル・デザインの試みである。これは地球上のあらゆる人における「使いやすさ」や「生きやすさ」を具体化するべきであるというデザインの考え方から生まれたものである。高齢者、妊産婦、幼児、障害者、病人などすべての人々が満足するデザインが希求されている。長身者と短身者、肥満者と痩身(そうしん)者、右利きと左利き、男性と女性など、それぞれがすべて満足するということは容易なことではない。日本語、英語、ドイツ語というような言語能力の区別を超え、知識や経験なども問われることなく、誰でも使い方が簡単にわかるという便利なデザインが目ざされている。
[武井邦彦]
『勝見勝監修『現代デザイン理論のエッセンス』(1961・ぺりかん社)』▽『美術出版社編・刊『現代デザイン事典』(1969)』▽『日本デザイン小史編集同人編『日本デザイン小史』(1970・ダヴィッド社)』▽『V・パパネック著、阿部公正訳『人間のためのデザイン』(1985・晶文社)』▽『ジョン・ヘスケット著、栄久庵祥二・GK研究所訳『インダストリアル・デザインの歴史』(1985・晶文社)』▽『利光功著『バウハウス――歴史と理念』(1988・美術出版社)』▽『出原栄一著『日本のデザイン――インダストリアルデザインの系譜』(1989・ぺりかん社)』▽『武蔵野美術大学出版編集室編・刊『現代デザインの水脈――ウルム造形大学展』(1989)』▽『利光功・宮島久雄・貞包博幸編・訳『バウハウス叢書』全14巻、別巻2巻(1991~99・中央公論美術出版)』▽『A・J・プーロス著、永田喬訳『現代アメリカ・デザイン史』(1991・岩崎美術社)』▽『阿部公正監修『世界デザイン史』(1995・美術出版社)』▽『東京国立博物館編『明治デザイン誕生――調査研究報告書「温知図録」』(1997・国書刊行会)』▽『ヴィクター・パパネック著、大島俊三・村上太佳子・城崎照彦訳『地球のためのデザイン――建築とデザインにおける生態学と倫理学』(1998・鹿島出版会)』▽『日本インテリアデザイナー協会監修『日本の生活デザイン――20世紀のモダニズムを探る』(1999・建築資料研究社)』▽『瀬木慎一・田中一光・佐野寛監修『日宣美の時代――日本のグラフィックデザイン1951―70』(2000・トランスアート)』▽『伊東順二・柏木博編『現代デザイン事典』(2001・平凡社)』▽『デザイン史フォーラム編『国際デザイン史――日本の意匠と東西交流』(2001・思文閣出版)』▽『古瀬敏著『建築とユニバーサルデザイン』(2001・オーム社)』▽『川内美彦著『ユニバーサルデザイン――バリアフリーへの問いかけ』(2001・学芸出版社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…すなわち,あらゆる道具は,人が使うものである限り,すべて認知的な人工物と考えることができる。その意味において,認知工学はよりよい認知的人工物のデザインを追究する研究領域であるといえる。 〈使いやすさ〉の研究はしばしばインターフェースの科学と呼ばれる。…
※「デザイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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