トルコ(読み)とるこ(英語表記)Republic of Turkey 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トルコ」の意味・わかりやすい解説

トルコ
とるこ
Republic of Turkey 英語
Türkiye Cumhuriyeti トルコ語

アジアとヨーロッパにまたがって所在する西アジアの共和国。正式名称はテュルキイェ(トルコ)共和国Türkiye Cumhuriyeti。面積78万3562平方キロメートル、人口7297万4000(2006推計)、7769万5904(2014推計)。人口密度1平方キロメートル当り93人。首都アンカラ。小アジア半島からなるアジア側領域はアナトリア(トルコ名アナドル)、ヨーロッパ側領域はトラキアとよばれるが、面積の97%、人口の90%はアナトリアに属する。アナトリアは東部、南東部でジョージア(グルジア)、アルメニア共和国、イラン、イラク、シリアに接し、トラキアは西端でブルガリア、ギリシアと接する。

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自然

地形

地体構造上、トルコの大部分はアルプス‐ヒマラヤ造山帯に属し、ほぼ東西方向に幾重にも山脈が並走するため、国土は全体に山がちである。

 アジア側のアナトリアでは、北部の黒海沿いにポントゥス山脈(トルコ名でドウ・カラデニズ山脈=東黒海山脈)やイスフェンディヤル山脈が、また南部の地中海沿いにはトロス山脈が横たわり、トロス山脈の東の延長は東トロス山脈や南東トロス山脈(トルコ名でアンティ・トーラス山脈)となって内陸部を走る。これら2000~3000メートル級の主要山脈の間は、山脈が横たわって起伏に富む高原でアナトリア高原とよばれ、東に向かって高度を増し、アルメニア高原へと続く。これらの山地、高原には火山の噴出もみられ、アルメニア高原上のアララト火山(トルコ名でアール・ダー)(5123メートル)がトルコの最高峰である。一方、西部のエーゲ海沿いの地域では、海岸線と直角の東西方向に断層が走り、地塁山地と地溝平野が並走している。

 アナトリア高原には、迂回(うかい)して黒海へ流出するクズル・ウルマク川やサカリヤ川、南流して地中海へ注ぐセイハン川などがあり、アルメニア高原およびアンティ・トーラス山脈からは、ティグリス川(トルコ名でディジュレ川)とユーフラテス川(同じくフラト川)が源を発し、イラク、シリアへと流出する。また、エーゲ海沿岸の平野には、蛇行(だこう)(メアンダー)の語源となったビュユック(大の意)・メンデレス川などが流れる。内陸部にはバン湖やトゥズ湖などの塩湖がみられる。

 ヨーロッパ側のトラキアは、北にウストランジャ山脈、南にガロス山地があるが、ともに高度は1000メートル程度にすぎず、全般に平野が広がり、ギリシアとの国境を流れるメリチ川(マリーツァ川)の支流エルゲネ川が潤している。

 アナトリアとトラキアを隔てるのは、陥没によって生じたマルマラ海と、その北東端にあるボスポラス海峡、および南西端にあるダーダネルス海峡である。これらの海峡はともに細長い侵食谷の沈降したものであり、地中海と黒海を結ぶ連絡水路となっている。

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気候

トルコの気候は、アナトリア高原の中央部やアルメニア高原など一部の地域を除いて、ほとんどの地域で温帯気候を呈し、乾燥気候が卓越する西アジアのなかにあっては恵まれた状況にある。西部のエーゲ海沿岸から南部の地中海沿岸にかけては地中海性気候がみられ、夏は中緯度高圧帯の北上によって高温となり乾燥するが、冬は地中海方面からの移動性低気圧の影響で温暖多雨となり、年降水量は500~1500ミリメートル、所によっては2000ミリメートルにも達する。植生も、オリーブなどの常緑硬葉樹林や、地中海沿岸特有のマキmaquis(フランス語)とよばれる叢林(そうりん)が卓越する。北部の黒海沿岸部は、1年を通じて黒海からの湿気を受け、年間1000~2000ミリメートルまたはそれ以上の降水をみ、湿潤気候を呈し、広葉樹林、針葉樹林が繁茂する。他方、アルメニア高原は冬に零下40℃を記録するほど気温が低く、冷帯湿潤気候を呈する。また、アナトリア高原の内陸部は、ポントゥス山脈やトロス山脈によって海の影響が遮られるため、同じく内陸性の強いイラン、イラク、シリアの国境地帯の低地とともに、年降水量が500ミリメートルを下回って乾燥気候となり、トゥズ湖周辺など極度に乾燥する所では半砂漠景観がみられる。ヨーロッパとアジアの境界ボスポラス海峡をまたぎ、マルマラ海に面したイスタンブールの年平均気温は14.3℃、最低は1月の6℃、最高は7月の23.5℃、年降水量は691.2ミリメートル。中部アナトリア地方の首都アンカラの年平均気温は11.6℃で最低は1月の零下2℃、最高は7月の23.1℃、年降水量は402.5ミリメートルである。

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歴史

古代・中世

トルコの国土はアジアとヨーロッパを結ぶ接点にあたるため、11世紀にトルコ民族が到来する以前から、さまざまな民族が居住・交流し、文化の接触も行われ、多くの国家が興亡した。アナトリア中央部のチャタル・ヒュユクには、紀元前6000年の世界最古の農耕集落遺跡がある。銅器を伴ったトロヤ第一期文明は前3500年ごろに栄えている。ついで前2000年ごろには青銅器文化が発達するが、前1650年ごろにはヒッタイト王国が勃興(ぼっこう)し、世界最初の鉄器文化を基礎に栄えた。前1200年にはトロヤがいわゆるトロヤ戦争によってギリシアに滅ぼされ、同じころヒッタイト王国もトラキアから到来したフリギア人によって滅亡へと追い込まれた。前11~前8世紀には、ギリシアからイオニア人、ドーリス人のエーゲ海・黒海沿岸への植民が活発となり、ミレトス、クニドス、シノッペなどの都市が興った。前730年には内陸部にリディア王国が誕生するが、前546年アケメネス朝ペルシアによって滅ぼされ、ギリシアの植民都市も含めて小アジア全域はほどなくペルシアの支配下に入った。

 ついで前334~前333年、小アジアはアレクサンドロス大王によって征服され、大王の死後はペルガモン、カッパドキア、セレウコスなどの王国が分立し、また小アジア北東部にはポントス王国が誕生した。しかしこれらの国は、前2世紀後期から前1世紀前期にかけてローマによって滅ぼされ、以後300年にわたってローマの支配が続くが、紀元後395年のローマ帝国の分裂に際して東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の領土となり、コンスタンティノープル(旧ビザンティウム、現イスタンブール)がその首都に選ばれた。東ローマ帝国は6世紀、ユスティニアヌス帝時代に全盛期を迎えたが、7世紀にはササン朝ペルシア、イスラム帝国(サラセン帝国)に相次いで脅かされた。ついで11世紀には、中央アジアに発したセルジューク・トルコが小アジアに到来し、東ローマ帝国を圧倒してアナトリアの大部分を支配し、イスラム化を基礎づけたが、モンゴルの侵入によって14世紀初頭には滅亡した。

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オスマン帝国時代

かわってアナトリア西部から台頭したのはオスマン・トルコで、14世紀には小アジアのほかバルカン半島にも領土を拡大し、1453年にはコンスタンティノープルを落として東ローマ帝国に終焉(しゅうえん)をもたらした。その後、小アジアに取り残された黒海沿岸のトレビゾンド王国もあわせ、コンスタンティノープルを改称したイスタンブールを首都とし、オスマン帝国はイスラム教の宗主国として西アジア、北アフリカ、東ヨーロッパにまたがる大帝国に発展したが、16世紀のスレイマン大帝の時代に全盛期を迎えたあとは、19世紀にギリシアやエジプトの独立を許すなど、しだいに衰退へと赴いた。さらに1914年、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に際しては、ドイツ、オーストリア側に加担して手痛い敗北を喫した。連合国はセーブル条約によってトルコの分割を策し、ギリシアは失地回復を目ざしてアナトリア西部に侵入した。しかし1922年、ケマル・アタチュルクムスタファ・ケマル)の巧みな外交と戦略によってこれらを打破し、1923年にはローザンヌ条約によって今日の領土を確保した。

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共和国の発足以後

1923年、首都にアンカラが選ばれ、トルコ共和国が発足するとともに、初代大統領のアタチュルクは、政治を世俗化するための政教分離、アラビア文字にかえてのローマ字採用、イスラム暦にかえての太陽暦採用など、さまざまな近代化政策を推し進めた。

 第二次世界大戦では、その末期にドイツ、日本に宣戦布告するまで長く中立を守ったが、戦後は1952年に北大西洋条約機構(NATO(ナトー))に加盟するなど、反共・親西側路線をとってきた。1960年の軍部によるクーデターののち、1961年からは第二共和制へと移行したが、テロが頻発するなどの政情不安が続くなか、1980年9月にはエブレンKenan Evren(1917―2015)軍参謀総長を中心とするクーデターが勃発(ぼっぱつ)し、国家保安評議会が設置され、戒厳令下、治安の回復がもたらされた。

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政治

政治制度・政情

政体は共和国で、元首は大統領。1980年9月のクーデターによって廃止された第二共和制憲法にかわり、1982年11月、新憲法が国民投票の結果承認された。新大統領にはクーデターの主役、国家保安評議会議長エブレンが就任した。議会は旧来の上下二院制が廃止されて一院制となり、1983年11月に総選挙が行われた結果、祖国党が定数の過半を制して大勝し、軍人出身でないオザルTurgut Özal(1927―1993)が首相に就任して3年ぶりに民政に復帰した。さらに1989年10月にはオザルが大統領に就任し、30年ぶりに文民大統領の誕生をみている。また、1993年には、首相デミレルが大統領となり、正道党の党首チルレルTansu Ciller(1946― )がトルコで初の女性首相として登場した。

 1995年、議会の定数を400人から550人とし、選挙権を20歳から18歳に引き下げるなどの選挙法改正があったのちに実施された総選挙で、イスラム原理主義の福祉党が第一党となり、1996年7月には党首エルバカンNecmettin Erbakan(1926―2011)を首相とする政権が発足した。しかし、女性のベール着用の奨励などの宗教重視の姿勢や、イスラム諸国との外交関係強化を打ち出すエルバカン政権の施策には、世俗化を求める軍部を中心とした反対も強く、そのためもあって1997年6月には政権はもろくも瓦解(がかい)し、その後も不安定な政情が続いている。2000年5月に前憲法裁判所長官のセゼルAhmet Necdet Sezer(1941― )が大統領に就任。2002年11月の総選挙で公正発展党(AKP)が議会の過半数議席を獲得し、AKPの単独政権が成立した。2007年の議会における大統領選挙では政教分離・世俗化を求める野党のボイコットがあり投票が成立せず、議会解散・総選挙となった。7月に行われた総選挙で、AKPがふたたび大勝し、同年8月に前外相のギュルAbdullah Gül(1950― )が大統領に就任したが、イスラム色を残すAKP政府と政教分離・世俗化を求める国軍、野党との緊張関係が続いた。また、同年10月に行われた国民投票で大統領の直接選挙制と任期の変更(任期7年で再選禁止から5年で2期までとなる)、ならびに国会議員の任期の変更(5年から4年へ)がなされた。2014年8月には初の直接国民投票による大統領選挙が行われ、首相であったエルドアンが当選し、同月就任した。

 全土は81の県(イルil)に分かれ、県の下は郡(イルチェilçe)に分かれる。なお、アンカラ、イスタンブール、イズミルには大都市圏域が設定されている。県知事は政府の任命による。

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外交・防衛

トルコの外交は、ヨーロッパ会議や経済協力開発機構(OECD)、あるいは北大西洋条約機構(NATO(ナトー))に加盟するなど、親西側政策で貫かれてきた。1963年にはヨーロッパ共同体(EC)――現ヨーロッパ連合(EU)の準加盟国となり、さらに1995年にはEUとの間での関税同盟を締結、1999年にはEUの加盟候補国として承認された。エルバカン時代は別として、アメリカとの関係は軍事、経済面を通じて緊密であり、またEU諸国のなかでは、長年多数の出稼ぎ労働者を送り出した先であるドイツとの関係がもっとも強い。隣国ギリシアとは、1974年のキプロス紛争やエーゲ海の領海問題、海底油田問題などをめぐって険悪な関係にあったが、1999年にトルコ大地震が起こった際、ギリシアが救援活動を行ったことをきっかけに両国の関係は改善の方向にある。ソ連とは政治・軍事面で相反する関係にあったが、ソ連解体後はトルコ外交の積極性が目だち、中央アジアの旧ソ連構成共和国ウズベキスタンなど、トルコ系共和国との経済協力関係の強化が図られている。また、イラクとは、クルド人問題をめぐって微妙な関係にあるが、イラク北部からのパイプラインによって石油の供給を受け、またイラク石油の輸出向け分に対してはパイプライン通過料という利潤を得ている。

 NATOに属するトルコ軍は、陸海空の3軍からなり、兵役6~12か月(21~41歳)の徴兵制がとられている。陸軍は兵力40万2000、10個軍団からなり、戦車、ヘリコプター、対戦車ミサイルなどを装備する。海軍は兵力4万6600で、駆逐艦、潜水艦などを有する。空軍は兵力6万、ファントム戦闘機、地対空ミサイルなどを装備する。外国派遣部隊としてキプロス島北部(北キプロス)に3万6000の兵力が駐留。ボスニア・ヘルツェゴビナのヨーロッパ連合軍、コソボ国際治安部隊、アフガニスタン国際治安支援部隊にも兵を派遣している。ほかに軍警察(ジャンダルマjandarma)10万の兵力をもつ。

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経済・産業


 オスマン帝国末期はヨーロッパ列強による経済的植民地の状態に甘んじていた。共和国の発足とともに、国家資本主義の名で知られる国家主導による経済発展策が採用され、国営のシュメル銀行、エティ銀行による企業活動や、外資系企業の国有化などが図られた。第二次世界大戦後は、国営企業を補完する形で民間企業が共存する混合経済体制がとられている。1963年からは経済開発五か年計画が継続的に実施され、立ち後れた工業化も促進された。しかし主として第一次産品の輸出に頼る経済構造は、1973年からの輸入石油価格の高騰によって打撃を受け、外貨不足とインフレは深刻化した。1980年のクーデター後は、先進諸国からの経済援助や工業化の進展によって経済は回復、発展の傾向にあり、さらに市場開放による外資導入や、輸出振興による外貨の収入増などの施策がとられている。2014年の国内総生産(GDP)は8001億ドル、国民1人当りGDPは1万0404ドルである。失業率は10.7%(2014)と高い。

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農林漁業

乾燥気候の卓越する中央内陸部や、山がちで寒さの厳しい高山部を除けば、トルコは夏の高温と冬の温暖、および周年または冬の降水に恵まれ、さらに近年は国営のダムや地下水くみ上げによる灌漑(かんがい)事業も行き渡り、農業は全土にわたって盛んである。国民経済のうえからは、農業はGDPの10.3%(2005)、全雇用の32%強を占め、食糧はほぼ自給可能であり、余剰農産物は重要な輸出品となっている。

 おもな農産物は、主として内陸部でつくられる小麦、大麦、ブドウ、テンサイ、ヒマワリ、地中海沿岸で栽培されるワタ、オリーブ、オレンジ、レモン、バナナ、エーゲ海沿岸のオリーブ、タバコ、ブドウ、イチジク、黒海沿岸のトウモロコシ、ヘイゼルナッツ、茶、タバコなどであり、ヘイゼルナッツ、イチジク、アンズ、干しぶどうの生産量は世界第1位、生鮮野菜、ブドウ生産量は第4位である。近年は地中海東部沿岸で大豆の生産も始められた。また内陸部西部では医薬用にケシも栽培されている。

 国土の約19%を占める牧草地などを利用した牧畜も盛んであり、ヒツジ、ヤギ、ウシなどが飼われる。アンカラ地方で産する毛質のよいアンゴラヤギは有名である。アナトリア南東部やトロス山脈には遊牧民がみられるが、一方、都市近郊では近代的な酪農業や養鶏業が営まれている。

 西アジアのなかでは山がちで降水量も多く、元来トルコの他は豊かな森林資源に恵まれていたが、古代・中世以来の長年の乱伐と開墾による破壊によって多くの資源を失ってきた。しかし、共和国の発足後、森林は国有化され、アタチュルクの唱導によって植林事業も進められた結果、資源も回復されつつあり、マツ、スギなどの用材の切り出しも各地でみられる。トルコの森林面積は約2070万3122ヘクタールで、国土の約26%を占めている。なおトルコにおいては、製紙原料や用材用となるポプラが、畑作物として農耕地に植え付けられることが多い。

 沿岸各地ではタイ、カツオ、サバ、イワシ、エビなどの漁獲があり、保冷の容易な冬には内陸部のアンカラなどにも魚が流通する。しかし魚価は沿岸部においても肉に比べてかなり高価である。

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資源

トルコは地体構造が複雑なこともあって、石炭、亜炭、石油、鉄鉱、銅鉱、クロム鉱、マンガン鉱、亜鉛鉱、鉛鉱、銀鉱、水銀鉱、アンチモン鉱、硫黄(いおう)、ホウ素、重炭酸ソーダ石(トロナ)、岩塩など、多種類の地下資源に恵まれている。とくにホウ素は世界の埋蔵量の70%以上を占める。また、世界第2位の埋蔵量をもつ重炭酸ソーダ石鉱床もある。鉄鉱、石炭、亜炭、クロム鉱などの埋蔵量も多く、国内資源依存経済を反映して開発は進んでおり、たとえば黒海沿岸のゾングルダク炭田と付近の鉄鉱産地は、カラビュクなどの鉄鋼業の基盤となっている。石油は東部のバトマン付近で産するが量的に乏しい。これにかわってトルコの火力発電を支えているのは、埋蔵量83億トンと見込まれる亜炭で年間5400万トンを産出。亜炭炭田に近接して大型火力発電所の建設も盛んである。一方、クロム鉱は海外市場向けにも開発されている。

 また近年は大理石・自然石産業が急成長している。トルコの大理石埋蔵量は約50億立方メートルと推定されており、鉱物輸出の上位にある。

 水力資源は豊富であるが、近年はユーフラテス川のケバン・ダム、クズル・ウルマク川のヒルファンル・ダムなどが建設され、ダム式発電が本格化し、送電施設の整備と相まって、水力電気への依存が高まりつつある。

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工業・観光業

共和国の発足とともに近代工業の育成に力が入れられ、1930年代にはカラビュク製鉄所をはじめ、繊維、精糖、セメントなどの工場が各地に誕生した。さらに1963年からのたび重なる経済開発五か年計画のもとでは、鉄鋼、金属製錬(アルミニウム、銅、亜鉛など)、食料品、農業機械(トラクター、コンバインなど)、化学肥料、化学繊維、石油精製、自動車、電気機器など、多くの業種で工業化が図られ、各地に大工場が出現している。国内総生産(GDP)のなかで工業が占める割合も、農業を抜いて約25%(2005)に達する。一方、古い伝統をもった陶磁器、じゅうたん、皮革、ガラス細工などの生産も各地にみられる。

 さまざまな民族や国家の存亡の歴史が蓄積しているため多様な史跡に富み、観光産業も外貨獲得のうえから近年重要性を増している。ヒッタイトの首都遺跡ボアズキョイ(ハットウシャシュ)、フリギアの首都遺跡ゴルディオン、ギリシア・ローマ時代の都市遺跡トゥルワ(トロヤ)、エフェス(エフェソス)、ベルガマ(ペルガモン)、ヘレニズム時代の小王国コマゲネ王朝の墳墓のあるネムルット・ダー(ネムルト山)、ビザンティン時代の史跡に富むイスタンブール、イズニック(ニケーア)、トラブゾン(トレビゾンド)、同じくセルジューク時代のコンヤ、シバス、エルズルム、およびオスマン時代のイスタンブール、ブルサ、エディルネなどはとりわけ著名である。また、自然観光資源としては秀峰アララト火山、石灰の結晶した棚田状の景観をもつパムッカレ、凝灰岩の侵食地形と洞窟(どうくつ)住居跡で有名なギョレメ(カッパドキア)などがある。2003年に約1320万ドルであった観光収入は、2005年には1815万ドルに達している。

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貿易

トルコの輸出品は、工業化の進んだ近年、繊維製品、鉄鋼、機械類などの工業製品がその割合を増やしつつある。2014年の輸出額は1577億1000万ドル、輸入額は2422億2000万ドルで、輸入、輸出とも増加傾向にある。

 おもな輸出産品は自動車、機械類、ニット衣類、おもな輸入品目は石油・天然ガス、機械類、鉄鋼である。おもな輸出相手国はドイツ、イラク、イギリス、おもな輸入相手国はロシア、中国、ドイツである。貿易尻(じり)は1960年代以来の輸入超過であり、慢性的な赤字は改まっていない。この赤字は、外国人観光客からの観光収入や西ヨーロッパ諸国への出稼ぎ労働者からの本国送金など、いわゆる貿易外収入によりいくぶん補われている。

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交通

鉄道はオスマン帝国時代の1856年から、ドイツなどの外国資本によって敷設され始めたが、共和国成立後はすべて国有化され、現在トルコ国有鉄道(TCDD)によって経営されている。路線延長は1万0984キロメートルで西アジア随一であり、主要都市は鉄道で結ばれているが、ほとんどは単線でディーゼル機関車が主力であり、速度、運行本数に限界があって長距離交通機関としての便利さに欠けている。アンカラ、イスタンブールなどの大都市近郊部だけは電化、複線化され通勤電車も通じ、また、地下鉄も開通している。なお、イスタンブールのシルケジ駅は、かつてオリエント急行のターミナルであった。2013年にはボスポラス海峡を横断する「ボスポラス海峡横断鉄道トンネル」が完成した。

 主要な陸上交通機関は自動車で、都市を中心にバス、乗合タクシー(ドルムシュ)、タクシーなどの便がある。しかし都市では自家用車も含めて台数が多すぎ、交通麻痺(まひ)が著しい。一方、都市間交通は鉄道よりも長距離バスに依存する面が強いが、国道、県道の舗装整備が進むとともに、その役割は増加している。なお、1973年、1990年に完成した2本のボスポラス海峡橋は、アジアとヨーロッパにまたがる自動車交通を容易にしている。

 黒海、エーゲ海、地中海によって取り囲まれたトルコの沿岸には、イスタンブール、イズミルの二大港をはじめ、サムスン、メルシン、イスケンデルンなどの港湾があり、主要航路を受け持つトルコ海運公社(TML)などによって海運が営まれている。

 アンカラ、イスタンブール、イズミル、アダナの国際空港のほか、主要都市には空港があり、半官半民のトルコ航空(THY)によって国際線と国内線が運営されており、ほかに民間航空会社がある。また、日本や英米独仏露をはじめ、ヨーロッパ、アジア、アフリカの多数の国々の航空便がイスタンブールなどに乗り入れている。

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社会・文化

住民・言語

住民のほとんどはトルコ人であるが、アナトリア南東部のイラン、イラクとの国境地帯には約300万人のクルド人が住み、アルメニア人、ギリシア人、アラブ人、ユダヤ人なども各地に少数居住する。かつてはより多数のギリシア人、アルメニア人がこの地に居住していたが、ギリシア人の多くは1974年のキプロス紛争に至る長年の険悪なトルコ・ギリシア関係によって本国へ引き揚げ、アルメニア人は第一次世界大戦中のトルコ政府による弾圧の結果、約60万人が命を奪われ、約100万人が追放されたという。いまだにアルメニア人による反トルコのテロ活動が世界各地で起こるのはそのためである。他方、クルド人も、イラン、イラクに住むクルド人と連帯し、独立を求める動きが強く、ときには軍事力を行使してこれに対決するなど、トルコにとってクルド人問題は最大の内政問題である。

 言語はトルコ語が公用語であり、文字は1928年以降、それまでのアラビア文字にかわって、アタチュルクの発案による29文字からなるローマ字が採用されている。なおクルド人はクルド語(ペルシア語系)を慣用するが、クルド地域ではトルコ風(ふう)地名への転換が進んでいる。

 開発途上国の例にならい、トルコの人口は第二次世界大戦後、ほぼ年率20~25‰(パーミル、千分率)程度で増加してきた。2008年末では人口の半分が29歳以下で、人口増加率は1.32%であった。したがって年齢別人口構造も典型的なピラミッド型を呈する。また、農村部から都市への人口流入により、近年は都市人口の増加が著しい。すなわち、1945年に全人口の4分の1であった都市人口は1985年からは2分の1を超え、2000年には約65%に達している。この現象と対応し、イスタンブール、アンカラ、イズミルなどの大都市では、市街地に隣接した丘陵上などに、ゲジェコンドゥ(一夜建て)という名で知られる、突貫工事による非合法急造家屋が急増している。

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教育・宗教

教育制度は八・三制で日本の小・中学校にあたる初等学校が8年、その上に高等学校が3年、さらに大学、職業学校がある。義務教育は初等の8年間(6~13歳)となっている。成人識字率は88.7%、若者(15~24歳)識字率は96.4%(2007)に達する。全国で94の大学(2006)を数えるが、アンカラ大学、中東工科大学(アンカラ)、イスタンブール大学、イスタンブール工科大学、エーゲ大学(イズミル)、アタチュルク大学(エルズルム)などは著名である。

 宗教は、トルコ人のほかクルド人、アラブ人も含め、スンニー派イスラム教が主である。アタチュルクの近代化政策に基づく政教分離策によって、イスラム教は国教ではなくなったが、安息日(金曜日)のモスクでの礼拝や、巡礼、断食などの宗教的行事は依然としてみられる。

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文化

共和国発足後は、政教分離に基づいて宗教的因襲は次々と廃止され、1961年の憲法によって信仰の自由も認められるようになってはいるが、住民のほとんどはイスラム教徒であり、イスラム教の影響は依然としてトルコ文化の基底に横たわっている。オスマン帝国時代の巨大・壮麗なモスク(トルコ名ジャミィ)として観光上も著名なイスタンブールのスルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク)やエディルネのセリミエ・モスクなどは、今日でも信者の祈りの場として機能しており、そのほか、大小さまざまのモスクが都市だけではなく全土の小さな村々にまで建立され、トルコ民衆の宗教生活を支えている。

 中央アジアの遊牧民に起源するトルコ人は勇猛、剛毅(ごうき)な気質をいまにとどめている。歴史的には、十字軍や、オスマン帝国時代に統治、支配されたキリスト教徒によって、不幸にもトルコ人の残虐性が誇張されたほどである。また、トルコ人には、夏ごとにヤイラとよばれる山地の涼しい場所で避暑生活を送る習慣が広く認められるが、これも夏季冷涼な中央アジアに慣れ親しんでいた遊牧生活の名残(なごり)とされている。国土の97%がアジアに属するところから日本にも親近感を示すなど、トルコ人にはアジアの一員としての意識がある反面、他方では、長年にわたるドイツとの親密関係があり、ヨーロッパ連合(EU)への本格加盟を目ざすなど、ヨーロッパの一員としての意識も強いものがある。たとえば「ヨーロッパ随一の交通事故国」といった表現が新聞の見出しに用いられる。トルコ人の好むスポーツはサッカー、レスリングで、とりわけプロ・サッカーの試合には熱狂する。

 新聞は日刊紙だけで40以上を数え、そのなかで『ヒュリイェット(自由)』紙、『ミリイェット(国民性)』紙、『サバフ』紙、『ザマン』紙などは、発行部数30万~数十万でもっとも読まれている。英字紙に『ターキッシュ・デーリー・ニューズ』などがある。放送は国営のトルコ・ラジオ・テレビ放送(TRT)のほか、民放のNTV、Show TV、SKY TURK、CNNトルコなど260以上のテレビ局が放送を行っている。

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日本との関係


 トルコ人はきわめて親日的である。その理由は、同じアジアの国である日本が、明治維新以後に達成した近代化、工業化の成果や、第二次世界大戦後の苦難のなかから成し遂げた経済復興の謎(なぞ)などに対する関心の強さに基づいている。1890年(明治23)和歌山県の大島沖で難破したトルコ軍艦エルトゥルル号乗組員に対する地元民の救難・慰霊活動や、トルコの隣国ロシアを破った日露戦争の戦勝も、いまだにトルコ人に好印象を残している。

 日本とは1925年(大正14)に国交が樹立され、互いに大使館を開設した。産油国でないため両国の経済・貿易関係は活発ではなかったが、経済協力開発機構(OECD)のトルコ援助の議決により、1979年(昭和54)以来、日本からも特別援助が供与され始めた。一方、ダム建設や水産高校の創設に協力し、合弁のトラクター工場も誕生するなど、日本からトルコに対する技術協力、経済投資の事例もその後増加した。1985年には首相オザルが来日し、また第二ボスポラス橋の建設工事を日本企業グループが国際入札で受注するなど、両国関係は一段と緊密になった。1990年(平成2)には海部俊樹(かいふとしき)が日本の首相として初訪問し、さらに大手自動車工業の進出もみられる。対日貿易は例年大幅な輸入超過を示している。日本へは食料品、衣類、一般機械、敷物などを輸出し、日本からはおもに自動車、機械類を輸入する。

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『永田雄三編『西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』(『新版世界各国史9』2002・山川出版社)』『澤江史子著『現代トルコの民主政治とイスラーム』(2005・ナカニシヤ出版)』『内藤正典編著『激動のトルコ――9・11以後のイスラームとヨーロッパ』(2008・明石書店)』『トゥルグット・オザクマン著、鈴木麻矢訳『トルコ狂乱――オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』(2008・三一書房)』『大島直政著『遠くて近い国トルコ』(中公新書)』『松原正毅著『トルコの人びと』(NHKブックス)』


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百科事典マイペディア 「トルコ」の意味・わかりやすい解説

トルコ

◎正式名称−トルコ共和国Republic of Turkey。◎面積−78万3562km2。◎人口−7563万人(2012)。◎首都−アンカラAnkara(442万人,2012)。◎住民−トルコ人90%,ほかにクルド人100万人,アルメニア人など。◎宗教−イスラム(主としてスンナ派)99%。◎言語−トルコ語(公用語)が大部分,ほかにクルド語,アラビア語。◎通貨−トルコ・リラTurkish Lira。◎元首−大統領,エルドアンRecep Tayyip Erdogan(2014年8月就任,任期5年)。◎首相−ダーブトオールAhmet Davutoglu(2014年8月就任)。◎憲法−1982年11月発効。◎国会−一院制(定員550,任期4年)(2011)。◎GDP−7942億ドル(2008)。◎1人当りGNP−9333ドル(2007)。◎農林・漁業就業者比率−44.1%(2003)。◎平均寿命−男71.8歳,女78.7歳(2013)。◎乳児死亡率−12‰(2010)。◎識字率−90.8%(2009)。    *    *アジア西端の小アジアとバルカン半島南東部のトラキア半島からなる共和国。国土の大半を占める小アジアはアナトリアとも呼ばれ,北にポントス山脈,南にトロス山脈が東西に走り,内陸は高原状台地で,東端にアララト山(5123m)がある。地中海,黒海に面し,海岸部は地中海式気候,内陸は大陸性半乾燥気候。主産業は農業で,就業人口の約40%が農業に従事する。穀物,タバコ,綿花,果実,テンサイが主要農作物で,アナトリア高原では羊,ヤギ,牛の飼育が盛ん。鉱産資源も石炭,石油,鉄,クロム,銅と豊富であるが開発途上にある。工業には鉄鋼,繊維,セメント,砂糖等がある。〔歴史〕 古代からヒッタイト,ギリシア,ローマなど支配者の変遷があったが,11世紀にセルジューク朝,14世紀からはオスマン帝国と,トルコ王朝の支配が確立した。ケマル・アタチュルクのもとにオスマン朝を倒し,1923年トルコ共和国を宣言した(トルコ革命)。国民の大部分はイスラム教徒であるが,革命のなかで打ち出された政教分離・世俗化政策の下,近代化がはかられた。第2次大戦後,政情は,政界,宗教界,軍部の排他性,小党分立等により安定せず,1980年には,キプロス出兵による出費のための経済的困難から軍事クーデタが起きた。1982年新憲法が制定され,1983年民政に移管した。1995年の総選挙でイスラム主義政党の福祉党(繁栄党)が第1党に躍進し,1996年から約1年間,同党党首のエルバカンが首相をつとめた。1952年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し,徴兵制をとっている。今日,EU(ヨーロッパ連合)加盟をめざすトルコにとって,積年のクルド(イラン,イラクにもまたがる少数民族)抑圧政策のあり方やキプロス承認,20世紀初頭のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺公認などが問われている。〔エルドアン政権〕 2002年11月総選挙でイスラム系の公正発展党(AKP)が第1党となり,2003年3月同党党首エルドアンが首相に指名された。エルドアン首相はEU加盟を最優先課題として掲げ,2005年秋からEUとの間でトルコの加盟交渉が開始。2007年5月任期満了に伴う大統領選で,親イスラム派のギュルが当選したが,トルコ憲法裁判所は同選挙を無効と判断,国民の直接投票による大統領選実施などの憲法修正案が国民投票で承認された。ギュルは3回目の投票で過半数を得て,同年8月に大統領に就任した。エルドアン,ギュルの属する公正発展党がイスラム復興を掲げる宗教的保守勢力を代表する政党であると見られていることから,世俗的イスラムの多い国民世論の反発を受けたことが混乱の原因とされる。しかしエルドアン政権は,EU加盟に向けて積極的な国内改革と安定的な経済政策を実行,2011年の総選挙でも勝利し3期目に入り,より民主的な新憲法の制定をめざしている。内政の最大の課題クルド問題では,クルド労働党を中心に武装テロ活動が続いており,エルドアン政権はテロへの対決姿勢を維持しつつ〈平和プロセス〉としてクルド系住民の権利拡大に努めるなど硬軟両面の対応をとっている。2013年1月から,クルドの権利を主張してテロ活動を行ってきたクルド労働者党(PKK)指導者で現在刑務所に収容されるオジャランとトルコ政府との間でPKK問題解決に向けた対話が開始され,現在国内和平プロセスが推進されている。また2011年10月以降,1982年に軍政下で制定された現行憲法に代わる民主的新憲法制定プロセスが進行中である。2013年12月現在,草案全177条項中60か条について,起草作業を進める憲法調整委員会において各党が合意したと報じられた。しかし,草案中クルド問題の解決にも関連する〈国民の定義〉,〈母語による教育〉,〈地方自治制度〉等について各党の対立が解消せず,2013年11月憲法調整委員会は解散しており,今後のプロセスは不透明となっている。2013年5月イスタンブールの中心部にあるゲジ公園の再開発計画撤回運動に端を発した抗議活動が各地に拡大した。大規模抗議活動の背景には,政権内部の大規模贈収賄事件やメディアや世論の規制を強めるエルドアン政権のイスラム復興姿勢に対するリベラル派市民の反対がある。しかし2014年3月の地方選ではAKPが得票率約45.5%で勝利。2014年8月に初の国民直接投票による大統領選挙が行われ,エルドアン首相が得票率51.8%で勝利,大統領に就任。これを受けて,ダーヴトオール内閣が成立。また,2015年6月には総選挙が予定されている。国際NGO・国境なき記者団による報道の自由度ランキングで,トルコは179ヵ国中154位で,リベラル派の政権への批判は根強く,内政は安定しているとはいえない。 2014年9月以降,PKKと関わりの深いクルド民主統一党(PYD)とISの間でトルコ国境に近いシリアのコバニをめぐりコバニ包囲戦が闘われた。エルドアン大統領は〈PKKもIS同様のテロ組織〉と言い放ち,PYDへの支援を拒否したため,トルコ政府と和解交渉を行っていたオジャランは〈コバニ陥落はトルコ政府との交渉打ち切りを意味する〉と警告,トルコ南東部では政府治安部隊とクルド人部隊が衝突,50人以上が死亡した。最終的にエルドアンはイラクのクルディスタン地域からクルド人民兵組織ペシュメルガがトルコを経由してコバニに援軍に行くことを認め,2015年1月,PYDはISを撃退し勝利した。
→関連項目アルタイ語系諸族ネムルット・ダー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルコ」の意味・わかりやすい解説

トルコ
Turkey

正式名称 トルコ共和国 Türkiye Cumhuriyeti。
面積 76万9604km2
人口 8402万(2021推計)。
首都 アンカラ

アジア大陸西端のアナトリア(小アジア半島)とヨーロッパ大陸南東部の東トラキア(→トラキア)からなる共和国。北部の黒海地方,西部のエーゲ海地方,南西部の地中海沿岸地方,中央部のアナトリア高原地方(中央高原),東部のアルメニア高原地方に大別され,国土の大半は山地と高原である。東部は高い山岳地帯であり,北東部から南西にアンティトロス山脈が走り,中央高原の南を西に走るトロス山脈に続く。小アジア半島の北側は黒海沿岸をポンティク山脈が東西に走り,西ポンティク山脈に続いて中央高原の北を縁どっている。山岳の最高点はアララト山(5165m)で,2000~3000m級の山も多い。古生代の岩石層からなる山岳はトラキアのイストランジア山脈に続き,ダーダネルス海峡ボスポラス海峡は,この山岳中の谷が沈水したものである。東部山岳地帯よりチグリス川ユーフラテス川が源を発し,それぞれイラク,シリア国境を越えて南流し,トロス山脈に源をもつジェイハン川が南西流し,中央高原からクズル川サカルヤ川が北流して黒海に注ぐ。高原地帯は大陸性気候,地中海側は温帯冬雨気候(地中海式気候)であるが,一般に夏は特に乾燥が激しい。唯一の例外は黒海沿岸地方で,ポンティク山脈の影響で夏冬とも降雨があり,植生が豊かである。年降水量は内陸部で 300~400mm。
東西交通のかなめで,古代からいくつかの支配の変遷があり,13世紀からはオスマン帝国領であったが,1923年10月29日,ケマル・アタチュルクによって共和国が宣言された。公用語はトルコ語で,人口の約 65%がトルコ人。ほかにクルド人クリミア・タタール人アラブ人などの少数民族がいる。住民の 97%がイスラム教徒(→イスラム教)であるが,世俗主義を国是とする。労働人口の約 21%が農業,18%が流通・観光業,16%が製造業,15%がサービス業に従事する。国土の約 3分の2が農地で,うち約 3分の1が放牧地である。コムギ,オオムギ,トウモロコシなどの穀物と,サトウダイコン,トマト,ジャガイモ,ブドウなどを産し,ヒツジ,ウシ,ヤギなどの牧畜を行なう。また鉱物資源としては,マグネサイト,石炭,クロム,大理石,銀などがある。工業は繊維工業の比重が大きく,食品,金属,輸送機器などがこれに続く。首都以外の主要都市はイスタンブールイズミルブルサアダナガジーアンテップなど。北大西洋条約機構 NATO加盟国。(→トルコ史

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改訂新版 世界大百科事典 「トルコ」の意味・わかりやすい解説

トルコ
Türk
Türkiye

元来は,中央アジアから西アジア,バルカンに広がるチュルク諸語を用いる民族(トルコ族Türk)の総称であったが,現在は,第1次大戦後にアナトリアを中心に建国されたトルコ共和国Türkiyeを指して用いられることが多い。〈丁零〉以来の民族としての歴史については,〈トルコ族〉の項目で,現在の国家については〈トルコ共和国〉の項目で詳述する。また,その文化については,上記2項目のほか〈トルコ音楽〉〈トルコ文学〉などの項目を参照されたい。
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旺文社世界史事典 三訂版 「トルコ」の解説

トルコ
Türkiye

小アジアからバルカン半島東端にまたがる国。首都アンカラ
古来,小アジアは東西文化のかけ橋としてヒッタイト・リディアが興亡し,アレクサンドロス大王の遠征路にもなった。大王の死後は,ペルガモン・ポントス諸国に分立し,ローマ・ビザンツ帝国の一部となったが,11世紀以後,セルジューク朝の進出で,トルコ族の居住地となった。13世紀末オスマン帝国がここに建国し,ビザンツ帝国に代わってイスラームの大帝国に成長し,スレイマン1世(在位1520〜66)時代に全盛期を迎えた。しかし,18世紀以後は衰退に向かい,ギリシア・バルカン・エジプトに独立運動が相つぎ,ヨーロッパ列強の圧迫を伴った東方問題を発生させてつぎつぎに領土を失い,「瀕死 (ひんし) の病人」と称されるに至った。1908年青年トルコの革命で立憲政に移行したが,第一次世界大戦でドイツ側について敗れ,オスマン帝国は解体した。ムスタファ=ケマルは共和政を樹立し,ギリシアの侵入を退け,内にはパン−トルコ主義などの保守的策動を排して近代化を進め,政教分離を実現した。第二次世界大戦で中立を守り,戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加盟し,中東での反共拠点となった。

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世界大百科事典(旧版)内のトルコの言及

【トルコ族】より

…チュルク諸語のいずれかを使用する民族を指す呼称で,現在,東方のヤクート族から西方のトルコ,ガガウズ,カライムの諸族に至るまで,ユーラシア大陸の諸地域に,広く分散して居住している。しかし彼らは,必ずしも古くからこれらの諸地域に居住していたのではなく,たとえば,現在トルコ族の住むアナトリアは,もともとヒッタイト人やギリシア人の住地であり,また現在ウズベク族,ウイグル族などの居住する中央アジアのオアシス定住地帯は,ソグド人,トハラ人などアーリヤ系諸民族の住地であった。…

【サラセン】より

…このようなヨーロッパのキリスト教徒の嫌悪と軽蔑にみちたサラセン認識は,十字軍を準備する土壌であったが,十字軍の敗北とこれを通じてのイスラム教徒との接触は,すぐれたイスラムの文化やサラディン(サラーフ・アッディーン)をはじめとするイスラムの〈騎士〉像をヨーロッパに伝えるところとなった。 15世紀以降,イベリア半島のイスラム教徒がレコンキスタ(国土回復戦争)によって駆逐されると,ヨーロッパのキリスト教徒の主要な敵はオスマン・トルコとなり,トルコTurkがサラセンにかわってイスラム教徒の代名詞となっていく。またアラブ地域への旅行者がふえるにつれてアラブという呼称が一般化し,とくに遊牧のベドウィンをさすようになった。…

※「トルコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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