精選版 日本国語大辞典 「ドイツ社会民主党」の意味・読み・例文・類語
ドイツ‐しゃかいみんしゅとう ‥シャクヮイミンシュタウ【ドイツ社会民主党】
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ドイツの有力な政党。略称SPD。この党名は1890年以来のものだが,党としてのその歴史はもっと古い。
1830年代に始まったドイツの社会主義的ないし共産主義的運動と労働運動は,48年革命期に高揚したが,革命の挫折とともに抑圧され,マルクス,エンゲルス,ボルンStephan Bornなどの指導者は亡命を余儀なくされた。50年代末,政治活動が息を吹き返すと,再び各地に労働者教育協会が設立され始めた。その動きのなかから,63年5月,労働者の運動の自立を主張する全ドイツ労働者協会Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein(ADAV)がラサールを会長として創立され,普通選挙の実現を第一の目標に掲げた。勢力の中心はプロイセン王国にあった。これに対抗して,自由主義者の影響下にあったグループが同年6月,ドイツ労働者協会連盟Verband Deutscher Arbeitervereine(VDAV)に結集し,労働者の福祉に取り組んだ。活動の舞台はおもにザクセン,南ドイツであり,そこでは反プロイセンという点で労働者と自由主義者の協力が成り立ったのである。しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。
69年8月,VDAVのベーベル,W.リープクネヒトら労働者派は,ラサールの後継者J.B.vonシュワイツァーと対立してADAVの分派を形成していたブラッケWilhelm Bracke(1842-80)らとともに,アイゼナハで集会を開き,アイゼナハ綱領を採択し社会民主労働者党Sozialdemokratische Arbeiterpartei(SDAP)を創立した。新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。71年,ドイツ帝国が創立されてしまうと,ドイツ統一問題が両派の現実的争点ではなくなったうえ,等しく当局の抑圧を受けたために,徐々に両派の間に歩み寄りが見られ,75年5月,ゴータで合同大会が開かれてドイツ社会主義労働者党Sozialistische Arbeiterpartei Deutschlandsが発足するに至った。これは,ドイツに労働者を構成要素とした単一社会主義政党が誕生したことを意味する。その思想が折衷主義だったことは,新しい綱領(ゴータ綱領)にマルクスが厳しい批判をもっていたことからも知れよう。
同党は1877年の帝国議会選挙で得票率9%強の勢いを示した。これに対してビスマルクは翌78年,社会主義者鎮圧法を制定するとともに,80年代には各種社会保険を導入して労働者を国家に統合しようとしたが,弾圧はかえって労働者の階級意識を育てる結果となった。合法活動の許されていた帝国議会選挙において,90年に同党は得票率では早くも第一党(19.7%)になっている。
同年9月,社会主義者鎮圧法が失効すると,同党は党名をドイツ社会民主党と変え,ベーベル,ジンガーPaul Singer(1844-1911)を中心とする指導部を選び,翌91年には明確にマルクス主義に基づくエルフルト綱領を採択して,新たな合法活動に備えた。その後,さまざまな法的・社会的規制にもかかわらず,同党が大衆政党に成長していったことは,党員数が1905年に38万5000人,13年には108万5000人に伸びたことが示している。05年から始まった中央集権的な組織の整備とともに,12年には397の選挙区のすべてに党組織が存在するに至り,12年の帝国議会選挙では,得票率34.8%,議席397中110を獲得して第一党となった。中央機関紙の《フォアウェルツVorwärts(前進)》(1914年の予約購読者数16万)をはじめ,各地に機関紙があり(1913年には90の日刊紙),理論機関誌《ノイエ・ツァイトDie Neue Zeit(新時代)》(1883年創刊,1917年までカウツキーの編集)は1911年に発行部数1万を超えた。また,1890年に実質的に発足した〈自由労働組合Freie Gewerkschaften〉は,社会民主党と密接な関係を保ちつつ,中央集権的・産業別組織に成長し,1913年には250万人を擁するまでになった。国際的にも,同党は第二インターナショナルの主導的存在として重きをなした。
こうした組織と議席の伸張は,各地域の日常活動に支えられており,革命志向より改良実践の比重を増すことになった。とくに南ドイツでは,農民層の獲得や自由主義政党との協力の必要がフォルマルらによって主張され,自由労働組合も労働者の地位向上に成果をあげるにつれ改良主義に徹していった。1906年には組合が党と対等の発言権をもつに至り,同じころ,エーベルトのような社会主義者鎮圧法後の世代が要職につくとともに党組織の官僚化が進んだ。理論の次元でも,世紀の変り目ごろ,ベルンシュタインが漸進的社会主義を唱えて党是のマルクス主義に修正を加えようとした(修正主義)。彼の主張は,カウツキーやローザ・ルクセンブルクの反批判を招き(修正主義論争),1903年の党大会で否定された。しかし,10年,革命運動の活性化を目ざしてルクセンブルクらが大衆ストライキを提唱すると,カウツキーらは〈中央派〉を形成し,左右両派に対してマルクス主義正統派たることを自認した。社会主義者鎮圧法の下での同党は社会から〈排除〉された存在だったが,その後,その日常活動は広く文化の領域に及び,一つの労働者の世界を作りあげた。しかし,議員内閣制を欠いたドイツ帝国の中で同党は社会的にもなお〈隔離〉された存在だった。しかも他方では国民国家の枠組みの中に統合されていたのであって,そのことは第1次世界大戦勃発という事態に至って明瞭に示された。同党はそれまでの反戦の旗を降ろして,政府支持に転じたのである。しかし,戦争の長期化に伴い生活条件が悪化するに及んで,戦争協力に対する批判が強まり,1917年4月,ハーゼ,カウツキーらの〈中央派〉を中心とする批判勢力は独立社会民主党Unabhängige Sozialdemokratische Partei Deutschlands(USPD)を創立し,多数派=改良主義者とたもとを分かった。ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者に非合法の反戦・革命運動を行っていたスパルタクス・グループもそれに参加した。
多数派社会民主党(MSPD)と自由労働組合は戦争協力を続け,労働者大衆の急進化に対してはもっぱら受動的に対応することによって組織を維持した。1918年11月にドイツ革命が勃発,王制が崩壊し共和国が宣言された際も受け身であり,旧勢力と結んで秩序の回復に努めた。USPDは民主化の徹底を試み,その年末に創立されたドイツ共産党(KPD)は社会主義革命を目ざしたが,MSPDの組織の伝統の力を破ることができないまま,19年1月,共和国初の議会選挙を迎えた。その結果,MSPDは得票率37.9%,421議席中163を占めて,中央党,民主党とともに政権を担当するに至り,初代大統領には同党のエーベルトが選ばれた。こうして体制内存在となった同党は,21年のゲルリッツ綱領で民主共和制と自由の擁護を前面に押し出したのである。翌年,USPD(その左派は20年にKPDと合同していた)の大部分がSPDに復帰し,新たに同党の左派となり,25年のハイデルベルク綱領ではエルフルト綱領のマルクス主義的社会分析が復活したが,改良主義的な党の性格は変わらなかった。その性格は自由労働組合の実質的な発言権の増加によりいっそう強固なものとなっていた。
たしかにワイマール共和国において,SPDは80万~100万の党員,20~30%の国会選挙得票率を維持し,さまざまな関連労働者組織を擁して民主共和制の擁護,労働者の権利の拡張に大きな役割を果たした。中央政府に参加したのは1919-23,28-30年だったが,プロイセン・ラントでは32年まで一貫して与党であった。しかし,組織温存,待機主義が体質となっていた同党は,圧倒的に反民主主義・反共和制的な支配階級に対して守勢の枠にとどまり,とくに青年層の支持を徐々に失っていった。29年の経済恐慌とともに政治危機が始まっても積極的政策を欠き,支持者の一部をKPDに奪われる一方,ナチスの躍進に対して反撃の機会を逸し続けた。
1933年1月のヒトラーの政権掌握の意味を著しく過小評価した点でSPDも例外でなく,妥協による組織温存を図ったあげく,半年のうちに自由労働組合とともに解散させられた。党指導部がプラハに逃れ国外組織(ゾパーデSopade)を作ったほか,ある者はイギリスなどに亡命し,ある者は国内で非合法活動をなお数年続け,そして多くが強制収容所に送られた。
執筆者:西川 正雄
1945年ナチス・ドイツの敗戦後に,米英仏ソの4占領地区で再建が行われ,ソ連地区のSPDは46年共産党と合併しドイツ社会主義統一党(SED)が結成される。西側占領地区では46年5月第1回党大会が開かれ,シューマッハーKurt Schumacher(1895-1952)が党首,オレンハウアーErich Ollenhauer(1901-63)が副党首に就任。シューマッハーは10年以上をナチスの強制収容所で送った反ナチス闘士であったが,同時に反共の闘士でもあった。49年の第1回総選挙では,SPDは得票率29.2%でキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)に次いで第二党となり,66年まで野党の地位にとどまる。シューマッハー時代のSPDはドイツ再統一など民族主義的な方針を掲げ,アデナウアー政権の西側統合,再軍備政策に反対した。52年シューマッハーの死後,オレンハウアーが後継者となるが,前者の時代が党再建の時代であれば,後者のそれは停滞と模索と転換の時代と特徴づけられる。SPDの低迷を救う転換の基礎となったのは59年のバート・ゴーデスベルク綱領である。これによってSPDは国民政党を指向し,西側統合政策,国防軍を肯定する。政策転換の効果は60年代になって現れた。63年オレンハウアーの死後,翌64年西ベルリン市長のブラントが党首となり,66年にはCDU/CSUと大連立政権を構成する。立役者は後に院内総務として実力をふるったウェーナーHerbert Wehner(1906-90)であった。大連立政権は東方政策をめぐる意見の相違から解消され,69年SPDと自由民主党(FDP)の連立政権が成立し,ブラントは首相となり,72年の総選挙では得票率45.8%を得て,戦後はじめて第一党となった。74年にはシュミットHelmut Schmidt(1918- )が首相の地位を引き継ぎ,1970年代を通じてブラント(党首),シュミット(首相,副党首),ウェーナー(院内総務)のトロイカ時代が定着する。
1960年代末の学生の反乱はSPDの体質変化に大きな影響を及ぼす。60年代の末からAPO(院外反対運動)世代がSPDに大量入党しはじめ,一時マルクス主義の復活がみられた。党青年部に当たるJUSO(ユーゾー)(Jungsozialistenの略)は党の社会主義化を目ざして指導部と対立するが,70年代後半にはその勢力は弱まっていった。SPDの国民政党化への道は非労働者党員の割合を著しく高めるとともに,党の左傾化をうながすという逆現象が生じた。右派が労組系党員を足場にすれば,左派は知識階層,中産階層を基盤とした。しかし70年代後半から党内の左右の規範が変化しはじめたことは注目される。それはかつてのようにマルクス主義をめぐる立場ではなく,エコロジーをめぐるものとなり,エコロジーや反核運動へのアプローチは左派の関心事となった。82年10月シュミットが連邦議会で不信任されたことにより,66年から16年間続いたSPDの与党時代は終わる。同年ウェーナーも引退し,トロイカ指導部で残ったのはブラントのみとなったが,彼の死(1992)後,後任者のフォーゲルHans-Jochen Vogel(1926- )を経て,いわゆるブラントの孫たちの世代により党指導部の若返りが進行した。全党員数は2003年現在約65万人。
執筆者:仲井 斌
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…参加者は各国各地域の運動体験について報告を聞き,労働者保護立法,労働組合の組織,ストライキ,農業問題,教育問題,そして軍国主義,戦争に反対する社会主義者の態度などについて議論を行った。しかし,この時期,最大の焦点となったのは,社会主義の実現のために〈立法・議会行動を必須の一手段〉と考えるドイツ社会民主党をはじめとする人びとと,反議会主義的でゼネストを重視するオランダのドメラ・ニーウェンハイスDomela Nieuwenhuis(1846‐1919)のような,いわゆる〈アナーキスト〉との対立であり,この問題は,ロンドン大会で〈アナーキスト〉の排除決議が採択されてようやく決着がついた。それは,1890年の帝国議会選挙に際し得票率では早くも第一党になり,同年〈社会主義者鎮圧法〉が失効してから急速に党勢を伸ばしたドイツ社会民主党が,国際的な場で主導権を取っていく過程でもあった。…
… ドイツでは,ラサールを指導者として労働者階級に基盤をおいた全ドイツ労働者協会が1863年に結成されていたが,69年にはマルクスの影響を受けたベーベルやリープクネヒトが社会民主労働党を設立した。この党は,宰相ビスマルクの社会主義者鎮圧法と社会主義を懐柔しようとした社会福祉政策にもかかわらず発展をつづけ,社会主義者鎮圧法が廃止された後の1890年には,さらに党名をドイツ社会民主党と改め,翌91年にはラサール主義を排して〈階級支配と階級そのものの廃絶〉を目標にしたマルクス主義的なエルフルト綱領を採択した。この党は第1次大戦前の最後の選挙となった1912年の選挙では,425万票,全投票数の3分の1以上を獲得して,ドイツ帝国議会で最強の政党となった。…
…この名称は1848年の伝統を継受すると同時に,政治的民主主義ばかりでなく社会問題をも重視するという彼らの立場を表すものであった。同様にドイツにおけるマルクス派の組織は最初社会民主労働者党と名のり,ラサール派との合同を経て1890年にはドイツ社会民主党と改名するに至っている。1889年に結成された第二インターナショナル(インターナショナル)に加盟した各国の組織の多くも社会民主主義の名称を採用していた。…
…この過程で,ユンカーの支配する東エルベの農村からの農業労働者の離脱とルールやベルリンなど工業地帯への労働力の集中が進んだ。それとともに労働者も階級的な結集を強め,89年の炭鉱ストライキ,90年の総選挙におけるドイツ社会民主党の躍進をかちとった。同年のビスマルクの失脚と新宰相カプリービの〈新航路〉政策(社会主義者鎮圧法の撤廃と労働者保護立法,また輸出拡大に向けた通商条約政策)は,こうした労働運動の発展やドイツの穀物関税引上げに起因する独露関係の悪化に対するドイツ第二帝制のいわば前向きの対応であり,それを通して労働者の体制への再統合をはかるものであった。…
…
[大戦中の大衆行動と反戦諸派]
1914年8月,第1次大戦が勃発すると,ドイツでは,戒厳状態が布告される一方,〈防衛戦争〉遂行のための一致協力の体制として〈城内平和Burgfriede〉が成立した。それまで第二帝制と敵対関係にあったドイツ社会民主党も,戦争予算に協賛し戦争体制の一翼を構成した。その重要な推進力となったのは,戦時のストライキ中止を打ち出したレギーンら労働組合指導部であった。…
…しかし帝国議会は,帝国の諸政治機関のうちいちばん社会や世論の動向を敏感に反映する場であり,帝国政府もしだいにその意向を無視できなくなった。そのうえ,19世紀の末以降,帝国議会へのドイツ社会民主党のめざましい進出は,ドイツ帝国の保守的な支配体制を根底から揺るがすこととなった。
[ビスマルク時代]
このような支配体制の上にドイツ帝国の政治は幾度か流れを変えた。…
…おもな政党としては,キリスト教民主同盟(CDU),キリスト教社会同盟(CSU。バイエルン州のみ),ドイツ社会民主党(SPD),自由民主党(FDP),環境政党として出発した緑の党,極右の共和党などで,共和党は連邦議会に議席を有しない。FDPは,右派政党,中道政党としての性格を交互に示している。…
…元ドイツ社会民主党機関紙。100年余にわたり週刊紙としてドイツの社会主義運動と変遷をともにしてきたが,1982年2月に財政難のため廃刊された。…
※「ドイツ社会民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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