精選版 日本国語大辞典 「バルト」の意味・読み・例文・類語
バルト
バルト
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スイスのプロテスタント神学者。神学者フリッツ・バルトFritz Barthの子として,バーゼルに生まれた。少年時代をベルンで過ごした後,ベルリン,チュービンゲン,マールブルク等の大学神学部で学ぶ。マールブルクでW.ヘルマンの影響を受ける。1909年からジュネーブの教会の副牧師。11年ザーフェンウィル村の教会の牧師。隣村ロイトウィルの教会にトゥルナイゼンがおり,2人は生涯にわたる親交を結ぶ。当時は〈宗教社会主義〉の全盛期であり,2人はその指導者クッターH.Kutterの影響を強く受ける。バルトは村の工場の労働組合の闘争に積極的に関与し,15年には社会民主党に入党する。しかし第1次世界大戦を機として示された近代神学全体の無力さに対する失望とブルムハルト父子の影響下に,彼は聖書の世界にいっそう深く沈潜し,そこに現代に対しても語りかける生きた神の言葉を発見する。彼はしだいに〈宗教社会主義〉の運動から離れ,パウロの《ローマ人への手紙》の講解を19年に発表する。それはさらに根本的に書き改められて,22年に再版されるが,これが大戦後の神学界に強烈な影響を与え,やがて〈弁証法神学〉という名で呼ばれる新しい神学運動の出発点となる。
21年にバルトはゲッティンゲン大学に招かれて,神学教師としての道を歩きはじめるが,22年にトゥルナイゼン,メルツG.Merzと共同編集で雑誌《時の間》を発行。バルトはこれに次々と有力な論文を発表して,その思想を展開していった。しかし31年のアンセルムス論《知解を求める信仰》によって,新しい神学的方法論を確立し,その上に立ってその終生の大著《教会教義学》の執筆にとりかかった。33年ヒトラーのドイツ帝国宰相就任を機として徐々に始まった教会に対するナチス政権の干渉のなかで,バルトはいち早くその危険な兆候を感じ,スイス国籍のまま〈告白教会〉を中心とする〈ドイツ教会闘争〉に参加し,その理論的指導者となる。33年6月に小冊子《今日の神学的実存》を発表。これは教会闘争の起床ラッパの役を果たしたといわれる。34年5月にバルメンで開かれた第1回告白会議では,いわゆる〈バルメン宣言〉を起草。ナチスに反対する〈告白教会〉の基本的姿勢を明確に示した。しかしヒトラーに対する忠誠宣言拒否問題を直接の原因として,35年6月にボン大学教授を罷免され,故国スイスのバーゼル大学に移った。その後は《教会教義学》の完成に主力を注ぎ,和解論の中途まで書きつづけたが,トマス・アクイナスの《神学大全》に比較される約1万ページに及ぶこの大著は,未完成のままに終わった。
彼はルター,カルバン以来最大のプロテスタント神学者といわれ,その影響力は世界の教会に及んでいる。日本の教会はとくに昭和初年から彼の神学の影響を強く受け,その著作の邦訳は英訳に次いで世界で最も多いといわれている。
→弁証法神学
執筆者:井上 良雄
ドイツの地誌家,探検家。ハンブルクで商人を父として生まれ,ベルリン大学でA.vonフンボルト,K.リッターらについて地理学を学んだ。若いころから旅を好み,1年間のイタリア旅行の後,1845-47年,地中海周縁諸地方を旅し,北アフリカの土を踏んだ。50-55年,イギリス政府が企画した中部サハラおよび中部アフリカ探検に3人の探検家の一人として加わり,同行の2人の死後も単独で探検を完了した。この探検で彼はトリポリからサハラを越えてチャド湖に到達し,バギルミ王国,ハウサ諸国に滞在,53-54年にはニジェール川を北西にさかのぼって,トンブクトゥ,ガオなどを訪れた。その後再びチャド湖地方に戻ってカネム・ボルヌー帝国を経てサハラを北上し,トリポリに帰着した。多くの貴重な観察を含むこの旅の記録は,《北部および中部アフリカの旅と発見》3巻(1857)として刊行され,彼が接したアフリカ諸民族の言語についての比較記述も後に出版された。帰国後も,スペイン,バルカン半島,トルコなどへの旅を行い,旅行記を残した。
執筆者:川田 順造
フランスの思想家,文学者。南西部の都市バイヨンヌの生れ。コレージュ・ド・フランス教授。制度としての〈言語=文化=社会〉のなかでひそかに人々に働きかけているさまざまの〈擬自然〉の暗黙の意味作用を分析しつづけた。ある種のことばづかいの型すなわちエクリチュール(文章態)が発揮する隠れた作用の解明から出発し,やがて広く文学・社会の諸現象にひそむ記号(意味)作用を分析する構造主義的記号学の開拓者のひとりとなる。しかし,のちには体系的な記号学に疑念を抱くにいたり,文学としての記号学とでもいうべき方向へ転じた。それは,ドクサ(通念)への批判がたちまちドクサになってしまう微妙な言語的思考というものに対する彼独自の反応であり,その繊細な知的姿勢は現代思想に深い影響を与えつづけている。著書《零度のエクリチュール》《モードの体系》《文学の記号学》《恋愛のディスクール・断章》など。
執筆者:佐藤 信夫
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1886~1968
プロテスタント神学者。スイスの生まれ。テュービンゲン大学で学び,ゲッティンゲン大学などの教授となる。反ナチ闘争に参加。歴史主義的神学を批判し,聖書を神の言葉そのものととらえることを主張。主著『教会教義学』は現代神学に大きな影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…また改革派内部でも教会と国家をめぐる新しい問題が生じた。K.バルトは改革派に属するが,キリスト論を神学の一部ではなく全部に及ぶものとした。そこで受肉を三位一体といっしょに啓示論の中におき,預定説ではキリストを選びの客体であるとともに主体でもあるとして,その外部に隠れたものを認めない。…
…神学的な贖罪論は,その具体性と普遍性(終末性)を同時に生かす課題をもっている。この点で,K.バルトが〈和解Versöhnung〉と〈救贖Erlösung〉とを区別し,その間に歴史的実存としての教会を位置づけたことはすぐれた理解であるといえる。罪【泉 治典】 キリスト教におけるがごとき原罪という観念のなかった中国や日本では,贖罪という言葉は金品を出して刑罰を免れることを意味した。…
…聖書神学とともに,教会史,教義史を研究する歴史神学がプロテスタント神学の中で興隆した。しかし第1次世界大戦を契機としてあらわになった近代の危機的状況から,K.バルトを中心に従前の神学に対する激しい否の声がおこった。この弁証法神学はキルケゴールの実存主義の影響を受けているが,宗教改革の精神を新たに生かそうとするプロテスタント神学の努力である。…
…1924‐53年チューリヒ大学の組織神学および実践神学の教授,同大学総長もつとめた(1942‐44)。クッターH.Kutter,ラガーツL.Ragazらの宗教社会主義の影響下に思想形成を始め,やがてシュライエルマハー以来の人間中心,体験重視の近代神学を批判して,K.バルトらとともに神中心の啓示神学を唱導した。のちバルトと決別したが(自然神学論争),その争点は人間に啓示と結びつく能力〈結合点Anknüpfungspunkt〉があるか否かの理解の差異にあった。…
…〈危機神学Theologie der Krisis〉とも呼ばれる。この運動の中心人物であったK.バルトは,ブルムハルト父子の影響をうけたクッターH.Kutter(1863‐1931)とラガーツL.Ragaz(1868‐1945)とともに宗教社会主義運動に加わっていたが,《ローマ人への手紙》(第2版,1922)においてキルケゴールのいう〈神と人間との絶対の質的差異〉をモットーとし,ドストエフスキーやニーチェからも時代の本質的な危機を学んで,19世紀の文化的キリスト教を激しく非難し,キリスト教の終末論的本質と教会の罪とを明らかにした。また当時発見されたルターの《ローマ人への手紙講義》に学び,信仰の矛盾にみちた逆説性と神の言葉の破壊と建設の力を強調したことからして,〈弁証法神学〉の名がこれに帰せられた。…
…カルバンはある者は救いに,ある者は滅びに預定されているとの〈二重預定〉を説いたが,これは神の全知と摂理を語るスコラ神学が自然神学に堕するのを防ぐものであった。しかしK.バルトは,預定の神をたんに隠れた恐るべき神とするこの考えを批判し,キリスト自身選ぶ神であり,選びの原理はその死と復活のうちに現れていると述べる。救い摂理【泉 治典】。…
※「バルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...
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