ピョートル1世(大帝)(読み)ピョートルいっせい[たいてい](英語表記)Pëtr I, Velikii

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピョートル1世(大帝)」の意味・わかりやすい解説

ピョートル1世(大帝)
ピョートルいっせい[たいてい]
Pëtr I, Velikii

[生]1672.6.9. モスクワ
[没]1725.2.8. ペテルブルグ
ロシアの皇帝 (在位 1682~1725) 。アレクセイ1世とその2番目の妻ナタリヤ・ナルイシキナとの間に生れた唯一の男子。 1682年フョードル3世の没後,年上の異母兄イワン5世が病弱であったためピョートルが後継者に迎えられたが,イワンの姉ソフィヤ・アレクセーブナはストレリツィ (銃兵隊) の反乱を利用してイワンを正帝に据え,みずから摂政として実権を握った。ピョートルは副帝として名目のみのツァーリとなり,遠ざけられた。 89年クリミア遠征の失敗など,失政にあせったソフィヤがピョートルを完全に取除こうとしてクーデターを起したが失敗。権力はピョートル一人の手に帰した。 95~96年トルコ要塞アゾフへの遠征を企て,黒海への出口を獲得。遅れたロシア軍の近代化の必要性を痛感し,97~98年大使節団とともに西ヨーロッパの技術,制度を視察。オランダ,イギリスなどで工場,学校,病院を見学,造船,砲術などを学び,多くの技術者を連れて帰国,軍の近代化に着手した。やがてそれはロシアの政治,経済,社会,文化の全分野にわたる急激な改革事業へと発展した。 99年デンマーク,ポーランドと同盟を結んだあと,1700年トルコとも講和し,即座北方の雄スウェーデン宣戦 (→北方戦争 ) 。ナルバの戦い (1700) で惨敗するなど苦戦を強いられたが,ついに勝ってバルト海に進出。元老院から大帝と呼ばれ,インペラートル (皇帝) の称号を受けた (21) 。さらに 1722~23年サファビー朝イランと戦い,カスピ海沿岸を獲得。内政面では,新都ペテルブルグの建設 (03) ,人頭税の導入 (24) ,官等表の制定 (22) ,県制導入をはじめとする大規模な行政改革,総主教制の廃止と宗務院 (シノド) の設置などが行われ,軍需工場を中心とする官営マニュファクチュアの建設,民間企業の育成も行われた。しかし戦争遂行を目的とする急激な改革は増税となって国民を圧迫,アストラハン暴動 (05~06) ,ブラービンの乱 (07~09) ,バシキール人の暴動などが相次いだ。 19世紀中頃のスラブ派 (→スラブ主義 ) と西欧派の論争に代表されるように,ピョートルの改革の評価をめぐっては見解が大きく分れている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ピョートル1世(大帝)」の解説

ピョートル1世(大帝)(ピョートルいっせい(たいてい))
Pyotr Ⅰ (Velikii)[ロシア],Peter Ⅰ[英]

1672~1725(在位1682~1725)

ロシア皇帝。初め兄のイヴァン5世と併立し,姉ソフィアが摂政であったが,1689年から親政。96年イヴァン5世が没して彼の単独治世が始まる。ロシアの近代化を強く志向し,97~98年西ヨーロッパ諸国への視察旅行にみずからも参加,見聞を広め,各種技術者,職人を多数雇い入れた。海への関心が強く,95~96年トルコと戦ってアゾフを獲得し,スウェーデンと北方戦争を戦ってバルト海沿岸地方を併合し,新都市ペテルブルクを築いた。この間必要に迫られて軍制を改革し,海軍を創出し,その財源捻出のため財政制度を改めて人頭税を設けたり,商工業を奨励したりした。また行政機構や社会制度を整備して,ロシアの国際的地位を高めた。1721年以降イムペラトル(皇帝)と称した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報