日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ファーブル(Jean Henri Fabre)
ふぁーぶる
Jean Henri Fabre
(1823―1915)
フランスの昆虫学者、博物学者。『昆虫記』の著者として知られる。南フランスのサン・レオンに生まれ、生活は貧しかったが、勉学欲に燃え、昆虫に対する関心を抱いた。アビニョンの師範学校を卒業し、小学校教師となったが、その後もモンペリエ大学で物理学、数学の学士の資格をとり、コルシカ島の中学校物理教師、アビニョンの高校教師となった。家族も多く生活は苦しかったが、31歳のときに昆虫学者レオン・デュフールJean Marie Léon Dufour(1780―1865)のカリバチに関する論文を読んで感動し、本格的に昆虫研究を始めた。翌年にはツチスガリについての論文を博物学年報に発表、以後多くの論文を書いた。やがてアビニョンの博物館長に任命され、1868年にはレジオン・ドヌール勲章を受けるなど、やや安定した生活もあった。しかし、正統な教育を受けなかったファーブルは、官学派からの攻撃を受け、教会も彼の科学教育を非難し、その結果公職から退くことを余儀なくされた。それまで彼を支持したJ・S・ミルも死去し、愛息の一人を失うなど、つらい日々が続いた。しかしファーブルは昆虫研究の志を捨てず、1878年にセリニアンのアルマスに転居してからは昆虫観察に専念し、翌1879年から1910年にかけて不朽の名著『昆虫記』全10巻を次々と出版した。1908年ごろからはいっそうの貧窮に悩まされたが、哲学者ベルクソン、文学者F・ミストラルらが中心となって、国際的なファーブル救援の会が開かれ、フランス政府は勲章ならびに年金を贈った。ただしファーブルは、世界中から寄せられた救援金はすべて送り返した。1915年に92歳で没。その自然観察の方法と態度はその後の生物学に多大な影響を与えた。終生C・R・ダーウィンの進化論に反対したが、ダーウィンはファーブルを「たぐいまれな観察者」とよんで称賛した。
[八杉貞雄]
『J・H・ファーブル著、日高敏隆・林瑞枝訳『ファーブル植物記』(1984/2007・上下・平凡社)』▽『山田吉彦・林達夫訳『昆虫記』全20巻(岩波文庫)』▽『ルグロ著、平岡昇他訳『ファーブル伝』(1960・白水社/講談社文庫)』