ゲルマン人の部族名。また中世ドイツの歴史的地域名。ゲルマン人の一部族としてのフランケン(フランク族。ラテン語ではフランキFranciで〈自由な人〉〈勇敢な人〉の意)はライン川とウェーザー川の中間地域のゲルマン諸族(カマウィ,ブルクテリなど)の呼称として3世紀中ごろから使用された。民族大移動期に定住地域は北ブラバントから西はフランドル,北海沿岸まで,南はモーゼル・ライン川地方まで広がり,多数の小王国をつくった。5世紀末クロービスによって統一されてメロビング朝フランク王国となり,6世紀ごろキリスト教に改宗した。カロリング朝のころ定住地域はマイン川流域に拡大し,ザクセン族,チューリンガー族,アラマン族,バイエルン族と融合した。中世の東方植民にも深く関与している。定住地域が南東へ広がるにつれて部族の呼称としてのフランケンは東フランクにのみ用いられ,ライン川下流域の故地ではラインラント人,ロートリンゲン人,フラマン人などの呼称が用いられた。
歴史的地域としてのフランケンは,このころから定住地域となったマイン川中流・上流域のバーデン・ビュルテンベルク州とバイエルン州にまたがる地域である。この地域では6世紀ごろまでチューリンゲン族とアラマン族が勢力を競っていたが,フランク王国に編入され,9世紀の分割で東フランク(ドイツ)に属した。在地豪族の力が伸び,911年カロリング家が断絶するとフランク部族大公コンラート1世が国王に選ばれたが,オットー1世の封建的臣従の要求に従わなかったため部族大公領は国王の直轄に編入された。11世紀にザリエル家のシュパイヤー伯コンラートはフランケン公を称し,ザクセン朝のハインリヒ2世の死後の1024年,ドイツ国王コンラート2世となり,フランケン朝(ザリエル朝)を興した。ドイツ国王,神聖ローマ皇帝の王家としてのザリエル家は,1125年ザクセン公ロタール2世に倒されるまで,ハインリヒ3世,4世,5世と4代続いた。中世ドイツ帝国の最盛期から叙任権闘争に続く100年である。
中世後期になるとビュルツブルク,バンベルクなどの司教領,ニュルンベルク城伯領(後のアンスバハ,バイロイト公領),ヘンネベルク,ホーエンローエ,カステルなどの伯領,ニュルンベルク,ローテンブルク,シュワインフルトなどの帝国都市,その他多くの帝国直属騎士領や村落に分裂し,フランケンには有力な領邦国家が成立しなかった。1500年帝国地方(ライヒスクライス)の一つとしてフランケン・クライスが設けられ,地域としての文化的・社会経済的統一が保たれた。19世紀初めにフランケンの大部分はバイエルンに,一部分はバーデンとビュルテンベルクに編入されたが,1837年以来バイエルンの行政地区として上(オーバー),中(ミッテル),下(ウンター)フランケンの名称が用いられている。北東部のフィヒテル山地,フランケンの森,オーバーファルツの森に対して,マイン川流域は集約農耕地帯で,穀作,サトウダイコン,ブドウ栽培が盛んで,集村型定住と一子相続が支配的である。ニュルンベルク,ホーフに工業,各地に家内工業,山地で製陶業も行われている。
執筆者:諸田 實
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ドイツ中部の地方名。マイン川中・上流域の地方をさし、東はチェコ国境、西はライン川に達する。民族移動期には、チューリンゲン人とアラマン(アレマンネン)人の抗争の地であったが、6世紀ごろ西方からフランク人が進出・定着して、720年ごろフランク王国に編入された。8世紀以来、東フランクFrancia Orientalisの呼称が用いられている。カロリング王朝断絶(911)ののち、ここにフランケン公国がつくられ、コンラディナー家が公位を得たが、一時的なもので、オットー1世は939年これを解体し、東フランケンとライン・フランケンに分けた。
前者ではウュルツブルク司教が大部の領地を領有して圧倒的優勢を誇り、1168年皇帝フリードリヒ1世は同司教にフランケン公の称号を贈った(1802年まで存続)。後者ライン・フランケン地方を領有したザリエル家は、1024年コンラート2世のとき国王となり、ザリエル朝(またはフランコニア朝)は1世紀間存続した。しかし、その断絶後、家領は四分五裂し、中小貴族の台頭を促した。すなわち、アンスバッハ、バイロイト各辺境伯、カステル、ヘンネベルク、ホーエンローエ、ライネック、ウェルトハイム各伯領をはじめとして、無数の帝国騎士、帝国直属村落が乱立し、これにウュルツブルク、バンベルク、アイヒシュテット各司教、フルダ修道院、ニュルンベルク市、ローテンブルク市などが加わる。
1500年皇帝マクシミリアン1世は、帝国改革の一環として全国土を10地区に編成したとき、前記の諸領主をフランケン地区として包括し、ここに文化的・社会的共通意識が醸成されることになった。1815年のウィーン条約の結果、フランケンの大部分はバイエルン公国に帰し、今日、バイエルン州の北部部分をなしている。農耕、家畜飼育が盛んで、とくに美味なぶどう酒を産出する。工業では織布、製陶が目だつ程度。多くの文化財に恵まれ、清澄な自然環境と相まって、有数の観光地域となっている。
[瀬原義生]
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中世初期,東フランクの公領の一つで,マイン川流域が中心。東フランクの中核であったが,内部分裂から939年公領は消滅し,1124年ザリエル家がこの公を称してザリエル朝を開いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…やがて民族大移動期に展開する東ゲルマン諸部族のあの活発かつ遠距離への迅速な移動の可能性は,一つにはこうした歴史的背景があったせいである。逆にいうならば,その歴史的環境からみて,ゲルマンの故地からきわめて漸次かつ長期にわたって南西方へ移動した西ゲルマン諸族(フランクFranken,ザクセンSaxen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなど)には,ローマ文明との融合現象があり,北ゲルマン諸族(デーネンDänen,スウェーデンSchweden,ノルウェーNorwegerなど)には,古いゲルマン的伝統を保持する可能性が強かったということになる。民族大移動【増田 四郎】。…
…その一つは,移動前,ゲルマニアの東部にいた東ゲルマン諸族,次はその西部にいた西ゲルマン諸族,そしていま一つは北方スカンジナビア半島やユトランド半島にいた北ゲルマン諸族である。東ゲルマンに属する部族としては,東ゴート,西ゴート,バンダルWandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobardenなどが数えられ,西ゲルマンでは,フランクFranken,ザクセンSachsen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなどが,また北ゲルマンでは,デーンDänen,スウェーデンSchweden(スベアSvear),ノルウェーNorwegerなどが挙げられる。このうち北ゲルマン諸族は,前2者よりやや遅れ,8世紀から11世紀にかけ,ノルマン人の名でイングランド,アイルランド,ノルマンディー,アイスランドならびに東方遠くキエフ・ロシアにまで移動し,それぞれの地に建国したため,通常これを第2の民族移動と称する。…
※「フランケン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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