フロベニウス(英語表記)Georg Frobenius

改訂新版 世界大百科事典 「フロベニウス」の意味・わかりやすい解説

フロベニウス
Georg Frobenius
生没年:1849-1917

ドイツ数学者。1874年にベルリン大学教授となり,翌年チューリヒ大学から招かれて1902年まで同大学教授を務めたが,この年再びベルリン大学に帰り,その後終生その教授職にあった。数学業績代数学,とくに群論に関するものが多い。その群論は抽象的群論の建設という面と具体的・数学的対象に作用する群の研究との両面にわたっているが,その中で特記すべきことは,群指標導入して有限群行列による表現の理論を建設したことである。他方,代数的整数論において,フロベニウス置換と今日呼ばれるものに着目したが,その重要性は後年E.アルティンらによって明らかにされている。またフックスL.Fuchs(1833-1902)の微分方程式論にも重要な寄与をしている。
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フロベニウス
Leo Frobenius
生没年:1873-1938

ドイツの民族学者で,文化圏説および文化形態学派の創始者。フランクフルト大学教授。早熟の天才で,F.ラッツェルやH.シュルツの影響をうけつつ,19世紀末から文化圏概念を用いてアフリカオセアニアの文化史再構成を試み,アフリカへは1904年から35年まで大小12回におよぶ実地調査を行った。個別文化は一つの有機体で,誕生から死滅にいたるサイクルをもち,各個別文化はそれぞれその核心となるパイデウマPaideuma(文化魂)によって統合されている,という独特の文化理論を提唱したが,そのままの形での賛成者は少なかった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フロベニウス」の意味・わかりやすい解説

フロベニウス
Frobenius, Leo Viktor

[生]1873.6.29. ベルリン
[没]1938.8.9. マジョーレ湖畔
ドイツの民族学者。フランクフルト大学名誉教授,フランクフルト市立民族学博物館長。アフリカで 12回にわたる現地調査を行い,南部アフリカサハラ砂漠,ヨルダン,ノルウェー,スペインなどで先史時代の芸術を研究。 F.ラッツェルの理論を発展させ,文化圏説の概念を提唱して諸民族の文化を歴史的に再構成しようと試みた。また諸民族の神話に関する膨大な資料の収集,その分析による神話世界観の研究も有名。 60冊以上の著書を残したが,主著は『太陽神の時代』 Das Zeitalter des Sonnengottes (1904) ,『アフリカ文化史』 Kulturgeschichte Afrikas (33) のほか,"Der Ursprung der afrikanischen Kulturen" (1898) ,"Geographische Kulturkunde" (1904) 。

フロベニウス
Frobenius, Ferdinand Georg

[生]1849.10.26. ベルリン
[没]1917.8.3. ベルリン
ドイツの数学者。ゲッティンゲン大学,ベルリン大学に学ぶ。ベルリン大学助教授 (1874~75) ,チューリヒのスイス連邦工科大学教授 (75~92) ,1892年からベルリン大学教授となり,終生その職にとどまる。群論,特に抽象群の概念と1次置換の有限群の理論に大きな貢献をする。抽象群論におけるフロベニウスの発見は論文『可換群について』 (79) にまとめられている。1次置換の有限群論は I.シューアとの共同研究によるものが多いが,その結果の多くは『群指標について』 (96) に収められている。彼は斉次な線形微分方程式の解法にも貢献している。

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百科事典マイペディア 「フロベニウス」の意味・わかりやすい解説

フロベニウス

ドイツの民族学者。文化圏説を提唱。ある特定の文化要素は関連する他の文化要素を伴って複合的に伝播することを発見し,相関関係にある一群の文化要素の分布領域を文化圏とした。西アフリカとオセアニアにまたがる文化圏を指摘。著書《アフリカ文化の起源》など。

フロベニウス

ドイツの数学者。1875年チューリヒ,1902年ベルリン各大学教授。群の指標の概念を導入,有限群の表現論をたて,群論の発展に貢献。また代数的整数論でフロベニウス置換を発見。
→関連項目高木貞治

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世界大百科事典(旧版)内のフロベニウスの言及

【イフェ王国】より

… イフェはまたテラコッタおよび青銅の像(特に頭部像)が出土することでも有名である。この芸術を発見したのはドイツの民族学者レオ・フロベニウスで,1910年のことである。アフリカの造形芸術には,身体の部分を強調するものが多いが,イフェのそれは写実にその特徴がある。…

【形態学】より

…また哲学者E.シュプランガーは文化有機体説をそのまま容認はしないが,しかもなお文化形態学的思索の必要性を力説している。一方,民族学者L.フロベニウスはより具体的なレベルでの文化所産(弓,矢じりなど)の形態的特質の比較研究,地理的分布から諸民族の文化史の展開過程を明らかにしようとしたが,これはやがてウィーン学派の文化圏説へと展開されていった。英米の文化人類学者の中にも形態学的研究への関心はかなり強く認められ,たとえば日本文化論《菊と刀》(1946)で有名なR.ベネディクトも《文化の型》(1934)において三つの相異なる未開文化の特性記述を〈アポロン的〉〈ディオニュソス的〉の2型で試みている。…

【文化圏説】より

…文化圏説はその一つの表れであって,文化圏説という名称は,この学派が文化圏の概念を重要な方法論的な装備の一つとしたことによる。文化圏Kulturkreisという用語は,以前から一般的な概念として存在していたが,民族学の専門用語として1898年にL.フロベニウスが初めて導入した。1904年におけるF.グレーブナーの《オセアニアにおける文化圏と文化層》,H.アンカーマンの《アフリカにおける文化圏と文化層》の講演,さらに1911年のグレープナーの《民族学方法論》において,文化圏説は確立し,W.シュミットとW.コッパースは《民族と文化》(1924)において全世界にまたがる文化圏体系を設定した。…

※「フロベニウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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