目次 自然,住民 歴史 現代史,政治 経済,産業 社会 基本情報 正式名称 =ブータンDruk Yul/Kingdom of Bhutan 面積 =3万8394km2 人口 (2010)=70万人 首都 =ティンプーThimphu(日本との時差=-3時間) 主要言語 =ゾンカ語 通貨 =ニュルタムNgultrum
インド亜大陸北東端,ヒマラヤ山脈中の王国。国名はサンスクリットの〈ボータンタ〉すなわち〈チベットの端〉に由来するといわれる。正式国名のドゥルック・ユルは〈竜の国〉の意である。
自然,住民 九州地方よりも少し大きい国土は東西に延びる北部,中部,南部の3地帯に分かれる。北部地帯は大ヒマラヤ 山脈に属する幅約30kmの高山域で,ブータン・ヒマラヤと呼ばれる。その最高峰はクーラ・カンリ(標高7554m)であるが,同峰は中国のチベットに属するため,その南にそびえるガンカル・プンスムⅠ峰(7541m)がブータンの最高峰である。総じてネパール・ヒマラヤに比べて高度は低く,4000~6000mである。気候は冷涼少雨で,氷雪帯と森林帯との間に高山性草地帯が広がり,夏季のヤク,ヒツジなどの放牧地となる。山脈を南北に横断する諸峠は,1959年の中国によるチベットの社会主義化以前には交通路として利用され,北からは塩,羊毛,ヤク,南からは織布,穀物,香料などが交易された。中部地帯は大ヒマラヤ山脈から南に尾根状に派出する諸山脈とその間に介在する河谷盆地群からなり,幅約60kmと広くなるが標高は1000~3000mに低下する。山地は高所部では針葉樹,低所部では広葉樹の森林に覆われる。河谷盆地は肥沃で水田が広がり,同国の最も重要な農業地帯であるとともに人口の集住地区で,首都ティンプーをはじめパロ,プナカなどの諸都市が位置する。河谷盆地の気候は湿潤温暖で,一部の谷底部ではバナナ,マンゴーも栽培される。南部地帯は幅約50kmで山地が平野に移行していく最低所にあたる。平野部はドゥアールDuar(〈門戸〉の意)地方と呼ばれる。夏の南西モンスーンが直接吹きつけるため最も湿潤かつ暑熱の地で,亜熱帯性の森林に覆われ,トラ,ヒョウなどの大型野生獣が生息する。現在は開拓が進行しつつあるが,かつてはマラリア が蔓延し,またヤマビル の生息する非健康的な土地であった。ブータンが国家として存続しえた理由の一つは,北の大ヒマラヤ山脈とともにこの地が自然障壁の役割を果たしたためである。
以上の東西方向での3地帯が主として高度の差による生態的条件の違いとすれば,国土の中央部を南北に縦断するブラック・マウンテン山脈は水系を区分する境界であると同時に,文化的にも重要な境界をなしている。同山脈以東はトンサ,クルなどマナス川水系の上流域で,とくにその南東部の住民はインドのアッサム地方から北上し定着したチベット・ビルマ語派に属する言語を話す諸民族で,土着宗教と仏教を主要宗教とする。一方,西部はモ,ウォンなどガンガダール水系の上流域からなるが,北西国境のすぐ外側をインドとチベットを結ぶ重要交通路が走っていることもあって,北から南下したチベット系住民を主とする。彼らはラマ教の紅帽派に属し,ブータン人口の約60%を占める。ブータン人とは一般に彼らを指し,男は丸坊主頭でひざまでの短い丹前に似た筒袖の着物に帯をしめ,また女はおかっぱ頭で裾の長い着物の上にブラウスをはおっている。このほか南西部を中心に20世紀になって移住してきたネパール人が居住する。彼らはヒンドゥー教あるいは仏教を奉じ,人口の約30%を占める。公用語は首都付近で使用されるチベット語の南部方言ゾンカDzongkha語であるが,正書法はなくチベット文字を使用する。
歴史 8世紀以前の歴史は不明であるが,伝承によれば8世紀中期にインドから仏教が広まったといわれる。当時の原住民は南西方のインドのコーチ・ビハール地方から来住したブーティア・テプー族であった。彼らは9世紀にチベット軍により征服され,両者の混血により現在の中心民族ボーティアが形成されたとされる。以後チベットの影響の下に国家形成が進められていく。1616年にはラマ教紅帽派の高僧ガワン・ナムギャルNgawang Namgyalがチベットから入国し,宗教だけでなく行政制度の整備を行い,国家統一を推し進めた。彼は聖職的支配者たる第1代法王(シャプドゥン・リンポチェ)となった。51年ころからは法王以外に俗権的支配者にあたる執権(デシ)が登場し,この二重構造は以後1907年まで続いた。後者は有力家系から推挙により推戴され,前者は活仏で,有力家系の中から見いだされた前法王の転生者がなった。18世紀にはいると中国およびイギリスの影響が及んでくる。まず1720年の清朝の康煕帝によるチベット征服により,清朝はブータンに駐在官を置き宗主権を行使することになった。72年にインドのコーチ・ビハール王国の王位継承戦に介入したブータンは,ここでベンガル支配を進めてきたイギリスと衝突した。翌73年にはコーチ・ビハール王国はイギリスの保護国となった。1826年にはイギリスはアッサムを領有し,65年にはドゥアール地方をめぐってブータン戦争が勃発した。同年のシンチュラ条約により同地方は英領インドに編入され,ブータン領土は山岳地方に押し込められることとなった。1907年にはトンサの領主ウゲン・ウォンチュックUgyen Wangchukが法王を兼ねる一元的な支配者となって現王朝を創始し,ドゥルック・ギャルポ(国王)と称した。これにより俗権的権力の優位性が確立するとともに,それまでの群雄割拠体制に終止符を打った。10年にはイギリスとの条約により毎年補助金を受ける代わりに,外交面はイギリスにゆだねることになり,イギリスは外国人の立入りを厳しく制限した。この関係はインド独立後のインド・ブータン友好条約(1949)にも継承され,今日に及んでいる。このときインドは1865年に英領インドに編入された領土の一部,デワンギリ地方(83km2 )を返還した。
現代史,政治 1952年に即位した第3代国王ジグメ・ドルジ・ウォンチュック王Jigme Dorji Wangchuk(在位1952-72)は,59年のチベット動乱を契機にインドとの結びつきを強め,近代化を進めた。60年代を通じて農奴の解放,1人当り30エーカー以下への耕地所有の制限,ヒンディー語による近代教育の導入,国民議会,最高裁判所の設立,郵便制度の創始などがなされた。また61年以降数次にわたって五ヵ年計画をインドの援助の下に実施し,自動車道路の建設,森林開発,鉱産資源探査,ジャルダーカ川の水力発電計画などが推進された。かつては徒歩と馬によりインド国境からパロまで6日を要していたのが,自動車によりわずか6時間で行けるようになった。64年には近代化の推進者であったジグメ・ドルジ首相(国王の義兄)が暗殺され,彼の弟が首相に就任したものの,国王と対立してネパールへ逃亡,このとき以来国王が全権を掌握している。同国王の政策は72年(戴冠式は1974年)に即位した第4代国王ジグメ・シンギ・ウォンチュック王Jigme Singye Wangchuk(在位1972-)により継承されている。
立法機関としては一院制の国民議会(1953設置)があり,任期3年の150人の議員から成るが,議会の決定は国王の同意を得て初めて有効となる。また,成文憲法はない。1969年の改革で,国王は3年ごとに国民議会の信任を問うことになったが,不信任で退位した場合でも,後継者は王位継承順位に従ってウォンチュック家から選ばれる。国王の下に閣僚会議と諮問機関の王室顧問会議(定員10名)があり,前者が行政にあたる。地方行政の中心はラマ教寺院と政庁が合体したゾンdzong(〈城塞〉の意)で,行政,治安,徴税などの機能をもつ。1949年のインドとの条約締結以来,外交・軍事面でインドの指導を仰いでいるが,主権国家としての自立はブータンの悲願であり,71年の国際連合加盟もそのための動きであった。78年には,在インド,ブータン使節団の大使館への昇格,第三国に余剰物資を輸出する権利をインドが認め,ブータンの自主権が拡大した。1973年に加盟した非同盟諸国会議の第6回会議(1979)では,カンボジア問題で中国の立場に賛成してポル・ポト政権を支持し,インドと異なる選択を行った。80年にはバングラデシュのダッカに大使館を開設,翌年ユネスコおよびアジア開発銀行に加盟し,ネパールとの外交関係も83年に開かれた。
最近の国内問題で重要なのは90年のネパール系住民の争乱で,軍隊が出動し鎮圧した。その背後には,ブータン化政策を進める政府に対する南部のネパール系住民の反発がある。中国との国境交渉は1984年以来続けられているが,なお最終的合意に至ってない。
日本との関係では,日本人で初めてブータンに入ったのはチベット学者多田等観 である。チベットのラサを目ざした彼は,1913年,インドから北上しブータンを通過した。日本ブータン友好協会の設立は81年であるが,日本との国交の樹立は86年になってからである。88年には青年海外協力隊員の派遣が始まり,日本はインドを除く二国間援助額の30%以上を占める第1の援助国となっている。このような両国関係発展の背後には,1964年以来滞在し92年に死去するまで農業指導に従事し〈ダショー(爵位)〉を授与された西岡京治などの尽力があった。
経済,産業 産業は農業が中心で,中部地帯の河谷盆地を主要地帯とし,その低地部は米,ソバ,雑穀,高地部は小麦,大麦を産する。牧畜も高所のヤクのほか,羊,ヤギがいずれも移牧形式で飼養される。在来の小型馬は山地での輸送用役畜として多用されている。工業は松を原料とする製紙やセメント工業などを除くと,竹細工,皮革加工,織布,シンチュウ製品などの伝統工業に限られている。鉱産資源は南東部の石炭のほか鉛などの埋蔵が確認されている。貿易の70%以上はインドとの間で行われており,インドへの主要な輸出品目は,電力,カーバイド,セメントとなっている。電力は,インド援助のもとに建設され,1987年に本格稼働を始めたチュカ水力発電所などから供給されている。
1974年以来,外国人観光客の受入れが重視されており,94年には約4000人となった。航空便は,パロとインドのカルカッタ(現,コルカタ)との間を国営〈ドゥルック・エア〉が1983年に就航し,88年からは約70人乗りのジェット旅客機を導入して,翌89年までにダッカ,カトマンズ,バンコクへも乗り入れ,インド以外の第三国と直接結ばれることになった。
社会 ラマ教は,今日も国教の地位にあり,国家および民衆の間に大きな力をもちつづけている。数あるラマ教の諸分派のなかで国教の地位にあるのは,カギュパのドゥルック分派である。同分派はブータンに13世紀に入国した高僧パジョ・ドゥゴン・シッポによって広められた教派であり,紅帽派に属する。とりわけ17世紀初めに同教派の有力者の支持のもとに国家統一を推進したガワン・ナムギャルによって,同教派は国教の地位に押し上げられた。彼は各河谷平野に城塞兼寺院のゾンや守護寺を建立した。これらの寺々の内面にはラマ教の諸説話を描いたタンカ (仏画)が描かれ,また大きな寺院には仏教の宇宙観を示す曼荼羅 (まんだら)が描かれ,ともにブータン芸術の精髄をなしている。
立憲君主制をとっている現王政下でも,僧侶は重要な地位を占め,最高の身分を示す鮮黄色のスカーフの着用を許されるのは俗界の長ともいうべき国王と,聖界の長ともいうべき僧侶会議の代表者(ジェー・ケンポ)に限られている。また同会議は国民議会議員に10名,また王室顧問会議に2名の代表者を送っている。このような政治面だけでなく,各家には仏間があってそこには仏壇が置かれている。また所々に建つチョルテン(仏塔)と経文旗は,ラマ教国ブータンを強く感じさせる。
教育面では1961年に始まる第1次開発計画以来,従来の僧院での宗教教育に代わる公教育の確立に重点が置かれている。10年制の教育制を取り入れ,94年現在およそ6万9000人の生徒が学んでいる。教育はすべて国庫でまかなわれ,伝統的な工芸,彫刻,絵画の伝習を目ざす美術センターも設けられている。教育は上級になるほど英語でなされているが,公用語のゾンカ語は必須とされている。大学教育は主としてインドの諸大学への留学によりなされていたが,1985年にタシガンにカレッジ(予科2年,本科3年)が設置され,高校(2年制)に続く高等教育の途が開かれた。 執筆者:応地 利明