ドイツの社会主義者、ドイツ社会民主党の指導者。ケルンの貧しい陸軍士官の子として生まれる。幼児期、実父および養父に死別し、ウェツラーの慈善学校に通った。13歳で母と死別し、旋盤工の徒弟となった。5年後独立して渡り職人となり、1860年ライプツィヒの工場で待遇改善を求めたストライキに参加。これが労働運動との出会いとなった。1861年労働者教育協会の創立後まもなく加入。1865年W・リープクネヒトと出会い、彼からマルクス主義の影響を強く受け、以後親交を結ぶ。1867年ドイツ労働者協会連盟議長となり、1869年には第一インターナショナルの規約や前文を綱領に取り入れた社会民主労働者党(アイゼナハ派、社会民主党の母体)を創設。他方1867年から北ドイツ同盟会議員、続いて国会議員(1871~1881、1883~1913)として議会活動を展開した。1870年末から半年間ビスマルク誹毀(ひき)のかどで、1872年から約5年間反逆罪および不敬罪で入獄した。この間ラッサール派との合同を果たして社会主義労働者党をつくり、1878年社会主義者鎮圧法が施行されるや、非合法の組織活動を指導した。1890年の同法廃止とともに合法化されて改名された社会民主党で、彼は常務委員会委員長として党組織の拡大、社会政策中心の党活動、選挙運動を指導した。マルクス主義を理念とする大衆政党の建設や軍国主義との闘争に果たした彼の役割は大きい。『婦人論』『わが生涯』などの著作がある。
[大木基子]
『草間平作訳『改訳 婦人論』上下(岩波文庫)』
ドイツ社会民主党の党首。プロイセン下士官の家に生まれたが,早くして両親を失い,ろくろ工として徒弟奉公に入り,1860年,ザクセン王国のライプチヒに落ち着き,4年後独立。同地の労働者教育協会の仕事に励み,63年,ラサールに対抗して創立されたドイツ労働者協会連盟Verband der Deutschen Arbeiter Vereineに参加,普墺戦争後の66年にはW.リープクネヒトらとドイツの民主的統一を目ざすザクセン人民党を創立。翌年,同党から北ドイツ連邦議会議員に当選した(1867-70年。1871-81年,1883-1913年,ドイツ帝国議会議員)。徐々に労働者の立場を明確にしていき,69年の社会民主労働者党創立の過程で主導的役割を演じ,普仏戦争に際してはいち早く反戦の姿勢をとり,議会でパリ・コミューンに対する連帯を表明した。そのため大逆罪と不敬罪に問われ,2年9ヵ月の禁固刑に服した。78-91年の社会主義者鎮圧法のもとでは不屈の闘士として非合法活動に従事する一方,議会でも弁説をふるってビスマルクの政策と対決した。マルクス,とくにエンゲルスとの親交を深めたのもこの時期である。91年,社会民主党が再び合法化され,急速に大衆政党に成長していく段階では,党幹部会議長(1893-1913),議院団議長(1909-13)を務め,党史を体現する押しも押されもしない指導者として党を統率し,大衆に敬愛された。国際的にもジョレスと並んで信望が高かった。修正主義に反対し続けたが,晩年,左派には必ずしも理解を示さなかった。主著《女性と社会主義》(1879。第50版,1910)はマルクス主義女性解放論の古典であり,《自伝》(1910-14)も貴重である。
執筆者:西川 正雄
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1840~1913
ドイツの社会主義者。1866年ドイツの民主的統一を主張してザクセン人民党をつくったが,第1インターナショナル支持でブルジョワ分子と分裂し,69年アイゼナハ(派)に社会民主労働党を創立した。71年帝国議会議員になるとビスマルクの軍国主義を攻撃し禁固刑を受けた。75年ラサール派と合同して社会主義労働者党(のちのドイツ社会民主党)をつくる。以後,党首として党指導に努める。主著『婦人と社会主義』。
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[方向の多様性]
たとえば,慈善事業,奉仕活動が女性の生きがいだとする運動と,職業労働こそが女性の地位向上の要件だとする運動とでは,方向は大きく分かれる。また従来の社会主義では,ベーベルが主張したように,女性運動を階級によってブルジョア的女性運動とプロレタリア的女性運動に分け,権利を要求するブルジョア的女性運動には限界があり,社会主義がめざすプロレタリア的女性運動こそが女性全体の課題を解決するとした。しかし,女性運動におけるより大きなそして長期にわたる対立は,家族をめぐるそれであった。…
…マルクスとともに史的唯物論を樹立したエンゲルスは,ルイス・モーガンの《古代社会》(1877)の人類学的成果をとりいれ,《家族,私有財産,国家の起源》(1884)において,性差別の起源は人類初期の段階で母権制が私有財産に基礎をおく父権制に取って代わられたことにあるとし,私有財産が廃棄される未来社会で女性は解放されると説いた。ドイツのマルクス主義者ベーベルの《婦人論》(初版1879年,第50版1910年)も,ほぼこれを踏襲した。日本の高群逸枝の女性史研究も,エンゲルスの説を土台とした。…
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[労働者文化と農業界]
ビスマルクによって〈帝国の敵〉とされたもう一つの勢力は,形成途上の社会主義労働運動であった。とりわけ,プロイセンの反自由主義に鋭く反発するその指導者ベーベルとW.リープクネヒトが,独仏戦争に際し戦費協賛に保留,次いで反対の態度をとり,さらにパリ・コミューンに共感を表明したことは,ビスマルクに大きな衝撃を与えた。しかし,1878年の社会主義者鎮圧法,また83年に始まる一連の労働者保険も,労働者街とりわけ酒場での仲間づきあいや各種の文化(合唱,演劇など)・スポーツ団体を中心に独自の〈労働者文化〉と相互扶助の世界を形成しつつ発展するこの運動を抑え込むことはできなかった。…
…しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。 69年8月,VDAVのベーベル,W.リープクネヒトら労働者派は,ラサールの後継者J.B.vonシュワイツァーと対立してADAVの分派を形成していたブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)らとともに,アイゼナハで集会を開き,アイゼナハ綱領を採択し社会民主労働者党Sozialdemokratische Arbeiterpartei(SDAP)を創立した。新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。…
※「ベーベル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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