ペリオ(英語表記)Paul Pelliot

デジタル大辞泉 「ペリオ」の意味・読み・例文・類語

ペリオ(Paul Pelliot)

[1878~1945]フランスの東洋学者。1906~1909年、中央アジア踏査敦煌とんこう千仏洞から多数文書遺物発見。著「敦煌千仏洞」。

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精選版 日本国語大辞典 「ペリオ」の意味・読み・例文・類語

ペリオ

  1. ( Paul Pelliot ポール━ ) フランスの東洋学者。中央アジア各地を調査、敦煌(とんこう)の千仏洞から多数の古文献を収集した。著に「敦煌千仏洞」など。(一八七八‐一九四五

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改訂新版 世界大百科事典 「ペリオ」の意味・わかりやすい解説

ペリオ
Paul Pelliot
生没年:1878-1945

フランスの東洋学者。パリに生まれる。東洋語学校卒業後,インドシナに派遣され,ハノイのフランス極東学院の研究生となって中国出張中,義和団事変に遭遇(1900)。学院に戻って,中国語教授となる(1901)。1906年,中央アジア探検隊を率いてパリを出発。東トルキスタン各地の遺跡を調査し,古文書古写本木簡絵画彫刻等多数を発見。とくに敦煌の千仏洞では,多くの写本や文書を収集した(敦煌莫高窟)。08年北京で調査旅行を終え,翌年帰国。11年からコレージュ・ド・フランスの教授となる。第1次大戦ではバルカンに出征し,のちに北京の公使館付武官に転じた。21年に学士院会員,35年にアジア学会会長となったほか,さまざまな学会,研究機関で重責を担った。シャバンヌを継いで,《通報T'oung Pao》の編集者となり(1920),コルディエ没(1925)後は,一人でその任にあたった。博学で,中国を中心に東南アジア,中央アジア,モンゴルチベットなど諸地域の言語,文献,歴史,宗教,美術等に通じ,《敦煌千仏洞》6巻(1920-26)はじめ,おびただしい数の論文・著書を発表して,世界の学界に大きな影響を与えた。死後遺稿が続々と刊行されている。
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百科事典マイペディア 「ペリオ」の意味・わかりやすい解説

ペリオ

フランスの中国学の大家。パリの東洋語学校卒業後,北京留学中に義和団事件に会う。1906年―1908年中央アジアを探検。敦煌で南北朝から宋元代に及ぶ古文書数千点を発見,収集し,中国学に新世紀を開いた。のちコレージュ・ド・フランス教授(1911年―1945年)。1935年アジア学会会長となり,来日。コルディエの没後,雑誌《通報(ツンパオ)》の編集をした。著書《敦煌千仏洞》《蒙古秘史》など。
→関連項目極東学院タリム盆地トゥムシュク敦煌莫高窟

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペリオ」の解説

ペリオ
Paul Pelliot

1878~1945

フランスの東洋学者。中国学から出発しながら東南アジア,中央アジア,モンゴル,トルコ,イランの諸学,仏教学,東西交渉史学など広範な分野に画期的で膨大な成果をあげた。なかでも1906~08年の中央アジア踏査では仏教諸遺跡の調査のほか,敦煌(とんこう)出土の諸言語文献を即座に選りすぐって大量に入手した。その研究は実証的で深い学識にもとづき,他の追随を許さないほどであった。著書論文は『敦煌千仏洞』『マルコ・ポーロ注釈』など枚挙に遑(いとま)ない。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ペリオ」の解説

ペリオ
Paul Pelliot

1878〜1945
フランスの東洋学者
中央アジア探検隊を率い,東トルキスタン・中国西辺を踏査(1906〜08)し,敦煌 (とんこう) の千仏洞 (せんぶつどう) で古写本・絵画・彫刻を多数発見した。

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世界大百科事典(旧版)内のペリオの言及

【キジル石窟】より

…窟数236(1973現在)。1906年(グリュンウェーデル)と14年(ル・コック)のドイツ隊の調査で注目され,07年にはペリオが,28年には黄文弼が調査した。53,73年には北京大学を中心とする本格的な調査が行われた。…

【クムトゥラ石窟】より

…南から北へ三つの山峡があり,前2者の山峡には,ドーム天井の方形主堂に後堂をもつ窟や,長い入口通廊にドーム天井をもつ方形主室が続く窟があり,壁画はキジル石窟の後期様式と並行するが,一部に改修がある。1903年に第1回大谷探検隊,06年にグリュンウェーデル,07年にペリオ,28年に黄文弼が調査した。石窟群の主要部は第3峡に群集し,唐の年紀(843年から894年までにわたる)をもつ題記が多数あることから,グリュンウェーデルは〈碑文石窟Inschriften Schlucht〉と名づけた。…

【敦煌学】より

…1900年(光緒26),道士王円籙が第17窟に封蔵されていたおびただしい古写本,古文書,絵画類を発見した。当初はほとんど関心を呼ばなかったが,07年にイギリス探検隊のスタイン,08年にフランスのペリオが,それぞれ大量に買い取って本国へ持ち帰ったことから,世界の学界の注目を集めるようになった。10年に清国政府は残余の漢文文献を北京に運ばせたが,その後に訪れた大谷探検隊,ロシアのオルデンブルグ,第3次探検のスタインは,さらに若干点を取得した。…

※「ペリオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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