フランスの東洋学者。パリに生まれる。東洋語学校卒業後,インドシナに派遣され,ハノイのフランス極東学院の研究生となって中国出張中,義和団事変に遭遇(1900)。学院に戻って,中国語教授となる(1901)。1906年,中央アジア探検隊を率いてパリを出発。東トルキスタン各地の遺跡を調査し,古文書,古写本,木簡,絵画,彫刻等多数を発見。とくに敦煌の千仏洞では,多くの写本や文書を収集した(敦煌莫高窟)。08年北京で調査旅行を終え,翌年帰国。11年からコレージュ・ド・フランスの教授となる。第1次大戦ではバルカンに出征し,のちに北京の公使館付武官に転じた。21年に学士院会員,35年にアジア学会会長となったほか,さまざまな学会,研究機関で重責を担った。シャバンヌを継いで,《通報T'oung Pao》の編集者となり(1920),コルディエ没(1925)後は,一人でその任にあたった。博学で,中国を中心に東南アジア,中央アジア,モンゴル,チベットなど諸地域の言語,文献,歴史,宗教,美術等に通じ,《敦煌千仏洞》6巻(1920-26)はじめ,おびただしい数の論文・著書を発表して,世界の学界に大きな影響を与えた。死後も遺稿が続々と刊行されている。
執筆者:堀川 徹
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1878~1945
フランスの東洋学者。中国学から出発しながら東南アジア,中央アジア,モンゴル,トルコ,イランの諸学,仏教学,東西交渉史学など広範な分野に画期的で膨大な成果をあげた。なかでも1906~08年の中央アジア踏査では仏教諸遺跡の調査のほか,敦煌(とんこう)出土の諸言語文献を即座に選りすぐって大量に入手した。その研究は実証的で深い学識にもとづき,他の追随を許さないほどであった。著書論文は『敦煌千仏洞』『マルコ・ポーロ注釈』など枚挙に遑(いとま)ない。
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…窟数236(1973現在)。1906年(グリュンウェーデル)と14年(ル・コック)のドイツ隊の調査で注目され,07年にはペリオが,28年には黄文弼が調査した。53,73年には北京大学を中心とする本格的な調査が行われた。…
…南から北へ三つの山峡があり,前2者の山峡には,ドーム天井の方形主堂に後堂をもつ窟や,長い入口通廊にドーム天井をもつ方形主室が続く窟があり,壁画はキジル石窟の後期様式と並行するが,一部に改修がある。1903年に第1回大谷探検隊,06年にグリュンウェーデル,07年にペリオ,28年に黄文弼が調査した。石窟群の主要部は第3峡に群集し,唐の年紀(843年から894年までにわたる)をもつ題記が多数あることから,グリュンウェーデルは〈碑文石窟Inschriften Schlucht〉と名づけた。…
…1900年(光緒26),道士王円籙が第17窟に封蔵されていたおびただしい古写本,古文書,絵画類を発見した。当初はほとんど関心を呼ばなかったが,07年にイギリス探検隊のスタイン,08年にフランスのペリオが,それぞれ大量に買い取って本国へ持ち帰ったことから,世界の学界の注目を集めるようになった。10年に清国政府は残余の漢文文献を北京に運ばせたが,その後に訪れた大谷探検隊,ロシアのオルデンブルグ,第3次探検のスタインは,さらに若干点を取得した。…
※「ペリオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」