ポーランド(その他表記)Poland

翻訳|Poland

改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド」の意味・わかりやすい解説

ポーランド
Poland

基本情報
正式名称=ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska/Republic of Poland 
面積=31万2679km2 
人口(2010)=3818万人 
首都=ワルシャワWarszawa(日本との時差=-8時間) 
主要言語=ポーランド語(公用語) 
通貨=ズウォティZłoty

東ヨーロッパの北部にあり,バルト海に臨む共和国。1989年〈ポーランド人民共和国〉から現国名に改称した。国土の面積は九州と四国を除いた日本のそれにほぼ等しい。東と西を強国に挟まれたこの国の歴史は,まさに興亡の繰り返しであったが,ポーランドの人びとはその中でコペルニクス,ミツキエビチ,ショパン,ザメンホフ,ボードゥアン・ド・クルトネ,マリー・キュリー,そして現代のワイダらに至る個性的な文化を創造してきたのであった。

現在のポーランドは東経14度と24度の線,および北緯50度と54度の線に囲まれたほぼ正方形の形をしており,西はオドラ(オーデル)川とその支流ニサ(ナイセ)川,北はバルト海,南はスデーティ山地(ズデーテン山地)とカルパティア(カルパチ)山脈の一部を構成しているベスキドBeskid山脈に取り囲まれている。ポーランドには自然の障壁がなく,それが原因となって悲劇的な歴史を経験することになったと,しばしばいわれるが,本当の意味でポーランドが自然の障壁をもたないのは,東と西の国境線である。いま鉄道が引かれているモスクワ~ワルシャワ~ベルリンの線,およびかつて通商路があったキエフ~ルブフ(現ウクライナ領リボフ)~クラクフの線などがその主要な通路である。

 このように平野を横切る形で東西の通路が存在するのに対して,南北の通路はともにスデーティ山地とカルパティア山脈が接するモラビア山峡に源をもつビスワ川とオドラ川によって形成されている。たとえば,16世紀に盛んになるライ麦の輸出は,この二つの川を使って行われた。ただし海岸線に平行する形でマズーリ地方とポモジェ地方,さらにその東のリトアニアに湖沼の帯が続いており,これが人の移動と定住を妨げてきた。この地方のキリスト教化が遅れたり,開発が遅れた理由はここにある。

 ポーランドの気候は大陸性だが,バルト海のおかげでそれほど厳しいものではない。夏の旱魃,冬の厳寒,春の洪水が常態のロシアの内陸部に比べれば,はるかに農業にとって条件は有利である。ほぼ中心部を占めるワルシャワを例にとれば,1月の平均気温は-3℃,7月の平均気温は19℃である。降水量は年間559mmで,あまり多くないが,そのうちの約半分が5月から7月にかけて降っており,農業を行ううえで問題はない。気温が氷点下になる日も30日から50日と少なく,雪が地上に姿をとどめる日数も60日ほどである。作物の育成に使える日数は180日に及ぶ。冬の気温がそれほど下がらないのは,年間150日に及ぶ冬季の曇天も原因している。シロンスク地方やマウォポルスカ地方のように,ワルシャワより南にある地域ではさらに気象条件は有利であり,また土地もよく肥えている。13~14世紀にドイツ人の植民運動(東方植民)が,まずこの地域に集中したゆえんである。かつてポーランドは森林と野生動物が豊富なところでもあった。中世の一時期,大量の木材や毛皮を西欧に輸出していたこともあったが,現在では特別な保護区が必要になるほどに減少してしまっている。とくに有名なのが,北東部ビヤウィストクに近いビヤウォビエイスカBiałowiejska国立公園で,原生林とヨーロッパ・バイソンが保護されている。

戦間期,すなわち第1次大戦と第2次大戦の間の時期のポーランドには,全人口の3分の1にのぼる数の少数民族が住んでいた。最も多かったのがウクライナ人(全人口の15%),次いでユダヤ人(8.5%),ベラルーシ人(4.7%),ドイツ人(2.2%)である。ところが第2次大戦後,ウクライナ人とベラルーシ人の居住地域はソ連領とされ,ユダヤ人はナチス・ドイツによる〈最終的解決(虐殺)〉と戦後の移住(イスラエル,アメリカなどへの)で約4万人が残っているにすぎない。またドイツ人についても,西部で獲得した旧ドイツ領のドイツ人も含め,約500万人に及ぶドイツ人が戦後ポーランドから追放されてしまった。したがって現在のポーランドには,ほとんどポーランド人しか住んでいないということになる(1990年推計ではポーランド人97.6%,ドイツ人1.3%,ウクライナ人0.6%,ベラルーシ人0.5%)。しかし,このようにポーランドが少数民族を内部に抱え込まなかった時期はポーランド史では初めてのことであり,むしろ戦間期のように,ポーランドは多くの民族によって構成されていた時期のほうが常態であった。

 〈ポーランド王国〉の概念が登場したのはカジミエシュ3世(大王,在位1309-70)の時期とされるが,このとき王国を構成していたのは,必ずしもポーランド人だけではなかった。現在ならウクライナ人,ユダヤ人,ドイツ人とされるような者が数多く臣民として大王の保護を受けており,逆に現在ならポーランド人とされて当然だと思われるような者が,王国には属していなかった。王位そのものも,大王の手からハンガリー国王に譲られ,さらにリトアニア大侯のものになっている。そもそもポーランド人という国民概念が現在のようなものになるのは,19世紀になってからのことであり,それまで〈ポーランド人〉といえば,それは政治的権利をもったシュラフタ(ポーランド貴族)のことを意味したのである。シュラフタの身分を認められた者であれば,何語を母国語としていようが問題なく〈ポーランド人〉とされたのであり(公用語はラテン語),逆に,ポーランド語を母国語としているからといって必ずしも〈ポーランド人〉とされたわけではなかった。この場合とくに問題になるのは農民だが,農民にポーランド人としての意識をもたせるうえで大きく貢献したのが19世紀末から20世紀初めに展開された国民民主党による啓蒙運動であった。またポーランド人であることの条件としてカトリック教徒であることがよく指摘されるが,こうした考え方を初めて提起したのもドモフスキをはじめとする国民民主党のイデオローグたちである。もっとも,実際にカトリック教会がポーランド人の間で大きな権威と影響力をもつようになるのは第2次大戦以後のことであり,戦間期までのカトリック教会は,決してポーランドの国内で現在のような独占的な地位を占めたことはなかったのである。
執筆者:

ポーランドはいわゆる人民民主主義体制をとり,他の人民民主主義国と多くの共通点をもつが,近年の激しい政治変動によって若干の特殊な発展をみせている。国政の形式上の最高機関は一院制の国会である。しかし,その上に設けられている国家評議会(集団的元首)が国会の多くの機能を代行している。三権分立ではなく,三権統一が原則で,国家評議会が閣僚会議(政府),最高裁判事を任命する。国家評議会議長(大統領)は国政の最高職であるが,ポーランドではかつて有力な政治家が担当したことがなく,政治的には閑職である。国会は4年ごとに,選挙民にほとんど選択の余地を許さない単一候補者名簿方式により選挙される。1980年3月の選挙では投票率98.87%,賛成率99.52%。候補者指名権をもつのは,形式的には国民統一戦線という統一労働者党(共産党),統一農民党,民主党,大衆組織,〈進歩的〉カトリック団体の代表から成る組織であるが,実際には統一労働者党の書記局である。地方行政においても同じ原則が貫かれ,各レベルに地方議会に相当する国民評議会があって,国会を頂点とするピラミッド型の位階制秩序を形成している。

 1981年12月13日には〈戦争状態〉(戒厳令)が宣言され,新しい権力構造が創り出された。そもそも〈戦争状態〉の施行自体が,内容的にも手続的にも憲法違反であったが,これに応じて〈救国軍事評議会〉という超憲法的機関が出現した。国会,政府,統一労働者党中央委員会などの旧来の権力機関も並行的に活動を許されたので,支配関係に不透明さが生じたが,政府,党の最高職を兼ねたヤルゼルスキWojciech Jaruzelski(1923- )が軍を背景に実権を握ったものであることは明白である。

 〈戦争状態〉は83年7月に解除された。しかし戒厳令時に成立した権力構造は残っている。たとえば同年中に非常事態法が採択され,非常事態宣言とともに国政の最高権をゆだねられる〈国家防衛委員会〉議長にヤルゼルスキが就任した。しかし,権力関係の変化は法的制度的というよりも,むしろ事実問題として,大量の軍人が国家,党,地方行政,経済,大衆組織などの要職に進出したことに現れている。統一労働者党は1980年7月に330万の党員を擁したが,その後の〈連帯〉運動,戒厳令の衝撃で,とくに青年,労働者層の支持を失い,83年末の公称党員数は219万に後退した。

 国民統一戦線は1983年初めに解散し,代わって同年7月〈国民再生愛国運動〉が発足,憲法の関連規定も改正された。新組織は旧組織と大きくは違わないが,民主党が後退したこと,大衆組織が姿を消したこと(戒厳令時に多くが解散),カトリック団体が進出したこと,思想的に旧国民民主党色が強くなったことが特色である。新組織が代議機関の候補者指名という憲法上の役割を初めて果たしたのは,84年6月の国民評議会(地方議会)選挙である。新しく施行された選挙法は,単一候補者名簿方式を固執しているが,名簿上位者が50%の票をとれなかった場合には,50%以上の票をとった下位者が繰り上がるしくみをとって選挙民の選択の自由を若干拡大した。政府発表によれば投票率74.77%,〈連帯〉労組地下指導部の調査によれば60%弱で,とくに大都市での棄権率が高かった。国会選挙は期日が過ぎているにもかかわらず,85年5月現在まだ公示されていない。

国有制と中央経済計画を骨子とするいわゆる社会主義体制をとっている。1979年以来未曾有の危機に見舞われており,若干の体制変化の兆しがみられる。公式統計によっても,1979-82年に生産国民所得が24.6%,分配国民所得が27.5%下落,1978-83年の消費者物価上昇率は347.9%に達し,実質賃金は1981-82年に24.9%も下落した。1981年からの5ヵ年計画は中止され,2年間は年次計画もない状態が続いたのち,ようやく1983年から安定化三ヵ年計画が発足した。しかし政府の予測によっても,80年代末まで回復の見込みがない。危機の直接の原因は支払能力を超えた外資導入にある。1981年末までに西側に255億ドル,東側に45億ドルの債務が累積しており,西側への返済義務だけでも輸出代金の115%に達して破産状態となっている。このため西側からの輸入が40%もカットされ,多くの工場は設備や原材料の供給途絶によって操業中止に追い込まれた。畜産業は飼料不足で大きな打撃を受けている。

 経済改革の柱はまず市場の均衡回復である。従来,賃金・価格が社会政策的観点から決定されていたため,実際の商品量に裏打ちされない余剰購買力が生じ,市場不均衡の一因となっていた。これに対処するため一方で賃金の上昇を抑え,他方で思いきって物価を引き上げるという荒療治が行われているが,どこまで社会の不満を押さえ込めるかが問題である。もう一つの柱は国営企業の自立化,自主管理化,自己金融化である。1983年6月の企業倒産法によって法的整備は一段落したが,〈創設機関〉(省,地方自治体)が企業の真の自立も倒産も望まず,企業側にも自立の態勢がないため,実際の効果は疑問視されている。この中で一足先に1982年7月外国法人の営業活動を認める法案が成立し,その結果主としてポーランド系の外国人の投資活動が盛んとなっているのは注目される。

 農業は社会主義国としては例外的に個人農が中心となっており,それが耕地の77%を占めている(農業政策)。国営・集団農場も非能率であるが,個人農も零細であるうえに肥料・機械・信用などの供給面で差別され,後継者がない場合土地没収の恐れがあったため,生産意欲が上がらず,農業不振の一因となっていた。政府は戒厳令後,個人農に対する差別の撤廃と土地所有権の保障を約束した。また教会が中心となって国外から資金を仰ぎ,〈個人農近代化基金〉設置計画が進行中である。このため,農業生産は畜産を除き,比較的好調に推移している。

現在ポーランドと呼ばれているオドラ川とビスワ川に挟まれた地域に,人間が住み始めたことを示す証拠は,約2万年前のものが最初である。もっとも,旧石器時代に属する遺跡はワルシャワ郊外とクラクフ郊外で見つかっているにすぎない。それに対して前4000~前1800年にあたるとされている新石器時代の遺跡はグダンスク郊外,ビドゴシュチ郊外,ブロツワフ郊外,キエルツェ郊外など数ヵ所で見つかっており,特徴的な壺の形に従ってそれぞれ名前がつけられている。青銅器時代の遺跡になるとさらにその数は増え,遺跡が最初に発見された場所の名前を取ってウネティチェ文化(前1800~前1400),トシチニェツTrzciniec文化(前1500~前100),ラウジッツ文化(前1300~前400)などと総称されている。有名なビスクーピンBiskupinの遺跡はラウジッツ文化に属し,湖底で発見された住居跡は,当時の生活のようすをよく伝えている。ほぼ現在のポーランド全域を覆う形で発展を遂げたラウジッツ文化は,前400年ころ突如として消滅するが,これは鉄器をもったスキタイ人に滅ぼされたものと考えられている。

 また青銅器時代から,現在のポーランドの北東部はバルト人,北西部はゲルマン人,中央部から南部にかけてはケルト人が住んでいた。スラブ人は西暦500年ころからポーランド南部に住んでいたことが確認されているにすぎず,この地域にスラブ人が本格的に登場してくるのは,7世紀になってアバール人の帝国が崩壊し,スラブ人の大移動が始まってからである。なおスラブ人は前200年ころからサルマート人の支配も経験しており,その痕跡が〈神〉を意味する言葉や〈天国〉を意味する言葉として各スラブ語の中に残っている(キリスト教の到来とともにこれらの言葉は意味を変えるが,もともと自然崇拝や祖霊信仰と結びついたものであった)。のちに登場してくるシュラフタ(ポーランド貴族)のサルマート起源説は,この事実に由来するものである。

ギリシア・ローマの古典古代世界から遠く隔たっていたポーランドの地が,文書記録に登場してくるのは,10世紀末になってからである。イブラヒム・イブン・ヤクブという名のスペインに住むユダヤ人が,そのころモラビア国に属していたクラクフにやって来て,グニェズノに本拠を置くポラニエ族の長ミエシュコ1世Mieszko Ⅰ(?-992)に関する記録を残している。ポーランドという国名はこの部族名に由来する。995年にレヒフェルトの戦でハンガリー人を破ったオットー1世は,戦勝で確立した権威を背景に,962年ローマ皇帝の地位に就いた。神聖ローマ帝国の成立である。また同じ年スラブ人に対する布教の根拠地としてマクデブルクに大司教座の設置を認められた。その東隣にあったポーランドにとって,帝国の成立と東方進出は大きな圧力であり,これに対抗するため965年,ミエシュコ1世はチェコ侯ボレスラフ1世Boleslav Ⅰ(?-967)と同盟を結んだ。また翌年には一族とともに洗礼を受け,ポラニエ族の国ポーランドはキリスト教世界の一員となった。以後ポーランドは神聖ローマ帝国やチェコ侯国,さらに東隣のキエフ・ロシアと同盟を結んだり戦ったりするなかで,しだいに独立した地位を確立していくことになる。キリスト教の受容時すでに支配していたビエルコポルスカ地方とマゾフシェ地方に加えて,ポモジェ地方とシロンスク地方,およびマウォポルスカ地方を支配下に収めたミエシュコ1世は,ほぼ現在のポーランドに対応する国の形をつくり上げたことになる。990年ころのことであった(ただし,ここでいう支配は城塞に拠った点の支配にすぎず,領域的な支配ではない。隣国と支配圏が複雑に交錯している状態を想定すべきである)。

 ミエシュコ1世後を引き継いだボレスワフ勇敢王Bolesław Chrobry(966ころ-1025)は,その支配地域を異教徒の住むプロイセン地方に広げるため,ボイチェフ(アダルベルト)に布教を依頼し,彼が殉教するとその事実をローマの教皇に伝えるとともにグニェズノ大司教座(マクデブルク大司教座からの独立を意味する),クラクフ司教座(マウォポルスカ地方の布教を担当),ブロツワフ司教座(シロンスク地方の布教を担当),コウォブジェク司教座(ポモジェ地方の布教を担当)を設置する許可を得た。西暦1000年(最後の審判の年だと信じられていた),グニェズノに埋葬された聖人ボイチェフの墓に詣でた神聖ローマ皇帝のオットー3世は,大司教座の設置とともにボレスワフ勇敢王に王冠を授けている(教皇の認可を得るのは1025年)。これをもって一応ポーランドは国家として独立した地位を確立したと考えられるが,その王位は決して安定したものではなかった。

 勇敢王の後を継いで王位に就いたミエシュコ2世Mieszko Ⅱ(990-1034)はキエフ・ロシアと組んだ兄ベスプリムBezprymによる反乱に遭って亡命を余儀なくされ(1031),その翌年に帰国するが,王位はすでにドイツ皇帝に返還されていた。その子カジミエシュ再建侯Kazimierz Odnowiciel(1016-58)がミエシュコ2世の後を継いだ翌年には,キリスト教の強制に反対する民衆の反乱が勃発し(1035-37),再建侯は再び亡命を余儀なくされた。さらに混乱に乗じてチェコ侯ブジェチスラフ1世Břetislav Ⅰ(1012ころ-55)がポーランドに侵入し,グニェズノからボイチェフの遺骨を持ち去るとともに,シロンスク地方を占領してしまった。せっかくつくり上げられた統治機構や教会組織もこれで崩壊してしまい,カジミエシュがその〈再建〉に成功するのは,彼が晩年になってからのことである(このとき従来の従士制度に替えて騎士制度が導入されている)。また荒廃したグニェズノは放棄され,以後ポーランドの君主は,クラクフにその居を定めることになった。

 王位はその子ボレスワフ豪気王Bolesław Szczodry(Śmiały。1042ころ-81)がハインリヒ4世とグレゴリウス7世の叙任権闘争に乗じて回復するが(1076),聖スタニスワフ事件にみられるようにすでに豪族の台頭が著しく,豪気王は弟のブワジスワフ・ヘルマンWładysław Herman(1043ころ-1102)を擁立したシェチェフ(11世紀中ごろ~12世紀初め)によって追放されてしまった(1079)。さらにシェチェフに対抗する勢力が,修道院に押し込められていたヘルマンの長男ズビグニェフZbigniew(?-1112ころ)をかつぎ出してヘルマンの後継者としたが,1102年にヘルマンが死ぬと,こんどはズビグニェフと弟のボレスワフ曲唇侯Bolesław Krzywousty(1085-1138)の間で,侯位をめぐる戦いが始まった。いずれの側にも豪族たちが控えており,曲唇侯の勝利はなんら事態を変えるものではなかった。侯位をめぐる兄弟間の争いを避けるべく曲唇侯は息子たち全員に領地を与えることとし,かつクラクフとその周辺部を得た最年長者が一族を統括することとした。以後ポーランドは〈分裂期〉を迎えることになる。

分裂は発展の結果であった。もはや兄弟間で殺しあって君主を無理に一人に限定しなくても,小さな地域で統治機構を維持していくことが十分に可能になったのである。豪族の台頭も発展の結果であった。分裂が地域間の競争を刺激して発展がますます促進され,それがまた分裂をいっそう促すことになった。こうして曲唇侯の息子たちが順番に担当してきた〈一族を統括する〉役割も,レシェク白髪侯Leszek Biały(1186ころ-1227)の代になると実行が不可能になってしまった。とくに,先進地域であったシロンスク地方で分裂が激しく進行するが,その原動力になったのは,ドイツ人による東方植民であった。なかでもヘンリク髭侯Henryk Brodaty(1163ころ-1238)はその熱心な推進者としてよく知られており,彼の試みが先例となって,植民運動がポーランド中に広がっていくことになる。マゾフシェ侯コンラートの要請で,プロイセンのキリスト教化のためにやってきたドイツ騎士修道会の入植(1226)も,この植民運動の一環と考えるべきである。

 ドイツ人やその方式をまねたポーランド人による農村建設や都市建設によって,領域支配という新しい原理による支配が可能になったポーランドでは,これを使って国家の再統一が実現されることになる。ヘンリク有徳侯Henryk Probus(1257ころ-90。王位を目ざすが実現直前に死亡),プシェミスウ2世Przemysł Ⅱ(1257-96),チェコ国王バーツラフ2世Václav Ⅱ(1271-1305),ブワジスワフ短身王Władysław Łokietek(1260ころ-1333)が,それぞれポーランド王位を手がかりに統一の実現を目ざすが,最終的にこれに成功したのが短身王である(1306)。そして,その子カジミエシュ3世(大王。1310-70)が統一事業をポーランド王国Królestwo Polskieとして完成させた(1333)。なおシロンスク(ドイツ名シュレジエン)地方が1335年に最終的に失われ,ハリチ地方(のちのガリツィア)への進出がその5年後に始まっている。ポーランド王国は東に向かって発展を開始したのである。統一の実現とともに,シュラフタ身分(とくに有力な者をマグナートと呼ぶ)の形成や身分制議会(セイム)の登場がみられた。官吏養成用に,ボローニャ大学に範を求めたクラクフ・アカデミー(ヤギエウォ大学)がつくられたのもこの頃であった。
ピアスト王朝

嫡子に恵まれなかったカジミエシュ大王の後を継いだのは,アンジュー家出身のハンガリー王ルドビク(ラヨシュ大王)Ludwik Węgierski(Lajos。1326-82)であった。ところがルドビクも男子に恵まれず,彼は娘のいずれかにポーランド王位を確保すべく,コシツェでシュラフタに最初の特権を約束した(1374)。ヤドビガJadwiga(1371-99)が国王に選ばれ,ポーランドと同じくドイツ騎士修道会の脅威に直面していたリトアニア大公ヨガイラJogaila(ブワジスワフ・ヤギエウォWładysław Jagiełło)との結婚が決定された(1385)。この時点で,ヨーロッパ最後の異教国リトアニアのキリスト教化も実現することになる。ポーランドとリトアニアの同君連合は,1410年,早速ドイツ騎士修道会に対する勝利として実を結ぶことになった(グルンワルトの戦)。さらにカジミエシュ・ヤギエロンチクKazimierz Jagiellończyk(1427-92)の時代に戦われたドイツ騎士修道会との十三年戦争(1454-66)の結果,グダンスクのある東ポモジェ地方を王領プロイセンとしてその保護下に置いたポーランド王国は,大量のライ麦をビスワ川によってグダンスクまで運び,これをオランダやイギリスの商人に売り渡すことで空前の繁栄期を迎えることになった。その主役を演じたのがシュラフタである。ライ麦輸出で得た経済力を背景に彼らはセイムでその政治的な発言力を強めていった。

 1505年には〈ニヒル・ノビ〉と呼ばれる特権がラドムのセイムで決議され,シュラフタが構成するセイムの同意がなければ,国王は何事も決定できないことになった。いわゆるシュラフタ民主制の登場である。1525年からは,マグナートによる官職の独占や王領地の占拠に反対し,過去の理想的な状態の再現を要求する,〈旧法執行運動〉が始まった。この運動は16世紀の末に,目標を達成しないまま下火になっていくが,それは運動の指導者自身が新興のマグナートとして,シュラフタの立場を離れていったからである。

 新興マグナートの台頭は,リトアニアとの結び付きによって白ロシア地方やウクライナ地方に獲得することができた広大な領地のおかげであった。しかし,リトアニアと結び付くことで,ポーランドは新たな対外問題に直面することにもなった。すでに1525年,ルター主義の普及で崩壊の危機に瀕したドイツ騎士修道会を,ジグムント父王Zygmunt Stary(1467-1548)はプロイセン侯国としてその保護下に置いたが,61年にジグムント・アウグストZygmunt August(1520-72)は,同じ危機に直面した刀剣騎士修道会の旧領地の西半分をクールラント侯国としてその保護下に置くとともに,その東半分をポーランドに併合してしまった。この処置にロシアのイワン4世(雷帝)が反対し,以後およそ1世紀も続くことになるリボニア戦争が始まることになった。このロシアからの脅威に対抗するためには,もはや従来のような同君連合では不十分であった。69年にルブリンで開催されたセイムにおいて,ポーランドとリトアニアの統合が決定された(ルブリン合同)。

 ところが〈旧法執行運動〉のよき協力者であり,またルブリン合同の積極的な推進者でもあったジグムント・アウグストが,子どもに恵まれないまま72年に死んだため,ポーランド王国は最初の空位期と最初のシュラフタ全員による国王選挙を経験することになった。73年にワルシャワで最初の国王選出セイムが召集され,バロア家のアンリ(ヘンリク・バレジHenryk Walezyのちのアンリ3世)が国王に選出された。しかしアンリは翌年フランス王位に就くために帰国してしまい,75年にあらためて国王選挙が実施され,トランシルバニア侯ステファン・バトーリStefan Batory(1533-86)が選出された。ジグムント・アウグストの妹アンナ・ヤギエロンカAnna Jagiellonkaとの結婚と,アンリが即位に際して認めた〈ヘンリク条約〉の再確認が即位の条件であった。財政改革と軍制改革(とくに有名なのがフサリアHusariaと呼ばれる重装騎兵軍の創設。また登録したコサックをポーランド軍に編入)によって強力な軍隊をつくり上げたバトーリは,その在位期間のほとんどを費やしたイワン4世との戦争(1576-82)に勝利してリボニアを確保することに成功した。しかし86年にバトーリが死去し,ポーランドは再び空位期を経験することになった。

 次に国王に選ばれたのは,ジグムント・アウグストのもう一人の妹カタジナ・ヤギエロンカの子ジグムント・ワーザZygmunt Waza(1566-1632)であった。ワーザ王朝の始まりである。アンリ以来やつぎばやに変わってきた3人の国王の選出は,いずれもJ.ザモイスキをはじめ絶対主義を恐れる反ハプスブルク的なシュラフタたちの支持のおかげであった。ところがジグムントが目ざしたのは,絶対主義の導入と親ハプスブルク政策であった。しかもワーザ家は元来がスェーデンの王家(スウェーデンでの呼名はバーサ家Vasa)であり,父ヨハン3世(1537-92)が死ぬと,ジグムントはスウェーデン王位も継ぐこととなった。しかし熱心なカトリック教徒であったジグムントは,ルター派のスウェーデン貴族に嫌われ,叔父のカール9世(1550-1611)によってスウェーデン王位を追われてしまった(1599)。ジグムントの不寛容政策は,1573年に信仰の自由を決議したシュラフタにも不人気であった。1606年に起こったゼブジドフスキの反乱(ロコシュ)は,伝統的なシュラフタの特権を無視するジグムントのやり方に対して,シュラフタが起こした抗議行動であった。この反乱は2年後に両者の妥協で終わるが,おかげで国王の権威は大きく傷つくことになった。マグナートの台頭と相まって,ポーランドはしだいに国家としてのまとまりを失っていくことになる(マグナート寡頭制)。

さらにポーランドの国内情勢を混乱させたのは,周辺国の大規模な侵略であった。ジグムントとの対立で自分を支持してくれたスウェーデン貴族に報いるため,カール9世は1601年にリボニアへの侵入を開始した。スウェーデン王位とリボニアをめぐるスウェーデンとの戦争は,60年のオリワの講和でヤン・カジミエシュJan Kazimierz(1648-68)が両者を最終的に諦めるまで断続的に続くことになる。とくに1655年に始まるカール10世グスタフ(1622-60)の侵略はほぼポーランド全土に及んだ。翌年になると,さらにスウェーデンと同盟を結んだプロイセン・ブランデンブルグ侯国(1618年に統合)が北方から攻め入り,また翌々年にはトランシルバニア侯のラーコーツィRákóczi György(1621-60)が南方から攻め入ってきた。そもそもスウェーデンが侵略を開始したのは,1648年にウクライナ地方でフミエルニツキBohdan Chmielnicki(フメリニツキー)を指導者として反乱を起こしたコサックたちをロシアがその保護下に置いてポーランドへの侵入を開始したからであり(1654),こうしてポーランドは外国人の〈大洪水Potop〉に見舞われることになった。

 対外的危機に対応するために王権を強化しようとしたヤン・カジミエシュの試みも,シュラフタが再び起こしたルボミルスキJ.S.Lubomirskiの反乱(ロコシュ)で阻止されてしまった。1655-67年のことである。翌年ヤン・カジミエシュは退位して,フランスに向けポーランドを去っていった。4度目の空位期である。シュラフタはウクライナ地方に広大な領地をもつマグナート,ミハウ・コリブトMichał Korybut Wiśniowiecki(1640-73)とヤン・ソビエスキ(1629-96)をそれぞれ支持する二つのグループに分かれて対立した。

 69年まず国王に選ばれたのはミハウ・コリブトであり,彼はフミエルニツキの反乱を引き起こす原因をつくったイェレミ・ビシニョビェツキJeremi Wiśniowiecki(1612-51)の子であった。しかし,ウクライナ地方へオスマン・トルコが侵入を開始した翌年にミハウ・コリブトが死に(1673),ソビエスキが国王に選ばれた。ソビエスキは83年にウィーンをトルコ軍の攻撃から守ったことで有名だが,トルコ問題への過度の介入はポーランドにとって不利な結果しかもたらさなかった。84年に結成された神聖同盟にポーランドも参加するが,カルロビツ条約でポーランドが得たものは何もなかった。のちにポーランドを分割することになる3国がこの条約によって大国の地位を確立したのに対し,かえってポーランドはオスマン・トルコと並ぶ〈ヨーロッパの病人〉におちぶれていくことになる。かつてシュラフタの政治的な台頭を支えたライ麦の輸出も,17世紀に入るとフランドル地方やイギリスの農業革命によりしだいに不振になっていった。
ヤギエウォ朝

1697年にウェッティン家アウグスト2世(強力王)がポーランド国王に選ばれたのは,ひとえにロシアの支持があればこそであった。また北方戦争(1700-21)の最中にスウェーデン国王カール12世によって廃位されたあと再び復位できたのも,ピョートル大帝のおかげであった。1715年にポーランドでの発言権を強化するために強力王がザクセンから軍隊を導入すると,シュラフタはタルノグルト連合(コンフェデラツィア)を結成して強力王の廃位を要求した。この時もピュートル大帝が〈啞のセイム〉を開催して,シュラフタの特権擁護を条件に強力王を救っている(1717)。〈啞〉の名は〈リベルム・ベト(自由な拒否権)〉の行使によるセイムの機能停止を防ぐため,全議員に発言を禁じたところからきているが,それを強制したのは議場を取り囲んだロシア軍の銃口であった。こうしてロシアは,ポーランドを自らの一方的な影響力のもとに置いていくことになる。1734年にアウグスト3世がウェッティン家出身の2人目のポーランド国王として即位できたのも,ロシア軍のおかげであった。彼にはポーランド国王としての自覚もなく,ポーランド領内をロシア軍が自由に行き来しても,プロイセンが北部地方で勝手に課税したり偽造貨幣を大量に持ち込んだりしても,何の対抗手段もとろうとしなかった。もはやポーランド王国は名目だけの存在になってしまった。

 中央政府が機能を失ったとき,それに代わって機能を果たしたのが,マグナートの支配する地方セイムである。ポーランドはマグナートが各地に割拠するアナーキーな状態に陥っていった。1764年にロシアのエカチェリナ2世の指示に従ってポーランド国王に選ばれたスタニスワフ・アウグストが改革を試みるが,所詮それが可能な範囲は限られていた。H.コウォンタイら下級シュラフタ出身の改革派およびチャルトリスキ一族など一部のマグナート以外には,彼が頼れる勢力はどこにも存在しなかったからである。むしろ,伝統的な特権を守るためには,ロシアの援助を要請することすらいとわないシュラフタの方が多かった。ポーランドは,周辺国がその気になれば,いつでも分割できる状態になっていたのである。早くからポーランド分割に積極的であったプロイセンは,オスマン・トルコとフランスへの対応に迫られたロシアとオーストリアの対立と苦境を利用して,ポーランド分割を実現していった。

ポーランドにとって幸いなことに,ポーランド分割が行われた時期は,フランス革命の時期でもあった。三つの分割国を相手に戦うフランスは,ポーランドの独立運動にとって重要な切札たりえたのである。すでに1794年,T.コシチューシュコは蜂起を前に,フランスに援助を要請している。この時は援助は具体化しなかったが,1797年にはイタリアで,最初のポーランド人部隊がナポレオンの了解のもとにつくられており,その多大な犠牲のおかげで1807年にワルシャワ侯国が実現することになった(ティルジット条約)。しかしワルシャワ侯国はあくまでもナポレオンによってつくられたものであり,ナポレオンの敗北とともに消えていくべきものであった(侯国内の農奴解放を実現したナポレオン法典は残る)。このフランスに頼るという構想に対抗して,ロシアでは皇帝アレクサンドル1世を国王に頂くポーランド王国の再興という構想が,アデム・チャルトリスキによって提案されていた。この構想が15年にウィーン会議において実現することになる(会議王国Kongresówka)。

 なおウィーン会議では,さらにクラクフ共和国(ロシア,プロセイン,オーストリアの共同管理下に置かれ,1846年のクラクフ蜂起のあとオーストリア領に併合)とポズナン大侯国(プロセイン王国内の自治領とされるが,1848年の蜂起のあと自治権を否認される)がワルシャワ侯国領からつくられている。チャルトリスキが起草した会議王国の憲法は,たいへん民主的なものであったが,ロシア皇帝はその規定を尊重しようとしなかった。そもそも憲法のすばらしさをたたえる演説をした最初のセイムでアレクサンドル1世は,憲法を無視して政府の予算案を提出しようとしなかったのである(1818)。ニコライ1世にいたっては,デカブリストとの接触ゆえに反逆罪に問われていた愛国者協会Towarzystwo patriotyczneのリーダーが,憲法の規定に従ってセイムで裁かれたとき,判決が軽すぎるとしてこれを無視し,彼らを勝手にシベリアに送ってしまった(1828)。基本的に十一月蜂起は,こうしたロシア皇帝の専制的なやり方に対して特権擁護のためにシュラフタが起こした蜂起であった。

 この蜂起の結果,約1万人のポーランド人が西欧に亡命していった(大亡命)。この知的エリートの大移動により,独立運動の指令部はパリを中心とする西欧の諸都市に移されることになった。その活動の中心になったのがチャルトリスキをリーダーとするオテル・ランベール派(保守派。名はリーダーのチャルトリスキの宿舎にちなむ)と民主派を結集したポーランド民主協会である。保守派がもっぱら西欧列強の介入によって独立の達成を考えていたのに対し,民主派は農奴解放や農地解放によって農民を味方につけることで自ら独立を戦い取るべきだと主張した。

 1846年のクラクフ蜂起は,民主協会の指令で起こされたものだが,当初に予定されていたロシア領とプロセイン領での同時蜂起は,当局の予防逮捕で不発に終わり,またクラクフの蜂起もガリツィア地方でオーストリア当局が扇動した農民暴動に妨げられて成功しなかった。この事件により農民の問題が単に理論にとどまらず,現実性をもつ切実な問題として受け取られることになる。〈諸国民〉が〈春〉を謳歌した1848年,ポーランド人の活発な動きがみられたのはプロセイン領だけであった。2年前に予定されていた蜂起の準備中に逮捕されて死刑の判決を受けていたミエロスワフスキLudwik Mierosławski(1814-78)がドイツ人民衆の熱狂的な歓迎を受ける一方で,すでにドイツの統一運動がポーランドの独立運動と必ずしも利害を共通にするものでないことが,フランクフルト国民議会で明らかになっている(ポズナン大侯国のドイツ併合を要求するドイツ人とこれに反対するポーランド人が対立)。なおプロイセン領とオーストリア領の農奴解放は1848年に実現している。

 十一月蜂起後の弾圧で鳴りをひそめていたロシア領で新たな動きが始まるのは,ニコライ1世の死とクリミア戦争の敗北で,ロシアの支配体制に緩みがみえてきた55年のことである。その3年後には,進歩的な地主貴族を集めた農業協会の設立が許可され,61年にはクローネンベルクの主宰するワルシャワ市委員会の設立が許可された(いずれも一月蜂起のなかで穏健派を構成することになる勢力である。)。さらにワルシャワ中央学校の開設などで貢献するところが大きく,ポジティビズム運動の先駆者ともいうべきビエロポルスキAleksander Wielopolski(1803-77)の民政官就任などがロシア皇帝からの妥協策として示された。しかし,それがかえって過激派を勢いづかせることになって一月蜂起が勃発することになる。一月蜂起は十一月蜂起と違って〈地下組織〉による反乱であり,それだけに敗北後の弾圧策は峻烈をきわめた。

 その反動として出てきたのが蜂起に批判的なポジティビズム運動である。シフィエントホフスキプルスがその代表的な論客であった。ポジティビズム運動が影響力をもったのは70年代であり,80年代になると新しい形の独立運動が登場してきた。R.ドモフスキをリーダーとする国民民主党の展開したナショナリズム運動がそれだが,独立運動はポーランド社会党の重要な課題でもあった。新しい形の独立運動が登場してきた背景には,1871年のドイツ帝国の成立とその結果ドイツ領ポーランドで強まってきたドイツ化政策に対する危機感があった(ビスマルクの文化闘争など)。また新しい形の独立運動に活動の場を提供したのは,オーストリア領であった。1866年の普墺戦争で敗北したオーストリアは,その支配体制を維持するため,翌年ハンガリー人と〈妥協〉を図るとともに,旧ポーランド領のガリツィア地方にも大幅な自治権を認めた。そこでルブフ(リボフ)やクラクフは,かっこうの印刷所や集会場所を提供することになるのである。

 こうした運動にとって大きな転機となったのは,1904-05年の第1次ロシア革命であった。それまで少数の知識人(その大部分はシュラフタの出身)の集まりにすぎなかった名ばかりの政党が,大衆化するのはこの時である。そのために一方で国民民主党のもとから農民組織が自立していくとともに(のちのポーランド農民党=解放派),他方でポーランド社会党を追われたJ.ピウスーツキのグループが彼らの支持を受けてオーストリア領で軍事訓練を展開することになる。なおロシア領におけるこうした農民運動のありかたに対して,自治を認められていたオーストリア領では議会選挙のために農民党が早くから結成され(1895。のちのポーランド農民党=ピアスト派),ドイツ人の経済的な支配力に対抗するために協同組合運動が盛んだったプロイセン領では,農民運動も協同組合運動の形をとっている。それ自身が,形を変えたナショナリズム運動であった。またプロイセン領に独特なものに,カトリシズムを組織の基盤にしたキリスト教民主党の結成がある(1902)。これも形を変えたナショナリズム運動であった。

七年戦争で危機に陥ったプロセインを救ったピョートル3世(1728-62)の即位(1762)以来,ロシアがプロセインと敵対関係に陥ったことは一度もなかった。その両国が第1次世界大戦で,およそ1世紀半ぶりに戦争を始めることになったのである。少なくとも両国の関係が敵対的なものにならない限り,ポーランドにとって独立のチャンスは存在しなかった。果たせるかな1914年8月14日にロシア軍最高司令官のニコライ・ニコラエビチは,漠然とした内容ながら,ポーランド人に独立を約束する声明を発表した。大攻勢を前に,少しでも多くポーランド人の協力を獲得したかったからである。また16年11月5日には,旧ロシア領ポーランドを占領したドイツのイニシアティブで,ドイツとオーストリアの両皇帝による声明が発表された。ポーランド人を同盟軍として動員するためには,形式的にでもポーランド政府をつくる必要があったからである。こうして摂政会議がつくられ,18年11月14日にピウスーツキはこの摂政会議から権限を引き継ぐことになる。

 またロシアで二月革命が起こると,それまでポーランド問題をロシアの内政問題としていた協商国が,対ドイツ戦を有利に展開するために,ポーランドの独立問題に積極的な姿勢を示すようになった。1917年9月にはフランス,さらに10月にはイギリスがドモフスキやパデレフスキらのポーランド国民委員会をポーランドの在外機関として承認した。18年1月にはウィルソン大統領の〈14ヵ条〉が発表され,3月には協商国の独立に対する保障を獲得することができたのである。ただしピウスーツキが摂政会議から権限を引き継いだときのポーランドの状況は,かつての分割国の統治体制がことごとく革命によって崩壊した〈権力の真空状態〉といってよいものであった。本国の状況に関するかぎり,独立は勝ち取られたものではなく,転がり込んできたものであった。
執筆者:

独立後のポーランド(第二共和国Druga Rzeczpospolita)は議会制民主主義の国として出発したが,しだいに権威主義体制へと傾斜した。

(1)1918-26年 混乱を伴いながらも基本的に議会制民主主義が維持された。1921年のいわゆる三月憲法はフランス第三共和政憲法を範として三権分立,二院制(ただし下院の方が強い),普通・直接・秘密・平等・比例選挙制などを定めていた。しかし,その理想主義は国境確定,国際的承認,国内的統合,社会改革といった困難な課題を抱えた新生国家の現実に必ずしもそぐわなかった。

 複雑な地域,社会,民族構造を反映して無数の政党が誕生し,離合集散を繰り返した(最高時には議会に代表を送ったものだけで31党)。そのなかで大きな指導力を発揮したのは,社会党出身で幅広い支持基盤をもったJ.ピウスーツキと国民民主党の領袖R.ドモフスキである。ピウスーツキは宗教的に寛容な多民族連邦国家,反ロシア親ドイツ外交を構想し,ドモフスキはカトリックを国教とする中央集権的単一民族国家,反ドイツ親ロシア外交を唱えた。

 政争において一歩先んじたのは,ポーランド軍指導者としての声望を背景に初代国家主席となったピウスーツキであった。ドモフスキはポーランド国民委員会議長として協商国の承認を得,パリ講和会議で活躍したが,当初国内での足がかりをもたなかった。しかし,選挙での国民民主党の成功によってしだいにその影響力を高めた。パデレフスキ以後の歴代内閣は直接間接に国民民主党の影響下に置かれた。憲法の制定に際しては,ピウスーツキの独裁を恐れた国民民主党の圧力で大統領の権限が削られ,議会の地位が強化された。この結果,政府は不安定な議会多数派に依存することとなり,しばしば行動不能に陥った。1922年初代大統領に選ばれたナルトビチGabriel Narutowicz(1865-1922)はその年の12月に暗殺され,ボイチェホフスキStanisław Wojciechowski(1869-1953)が後を継いだ。

 国境問題は隣接国家との激しい緊張を引き起こした。ピウスーツキはこれを西方では住民投票あるいは住民蜂起によって,東方では戦争によって解決しようとした。ポーランド・ソビエト戦争はこうした背景において起こった。戦争は中途半端な形で終わり,ポーランドは連邦制をとることも単一民族国家となることもできなくなった。うちには小数民族の不満,外には隣国,とくにドイツ,ソビエトの敵意が残った。新生国家は当面親イギリス・フランス外交によってこの危険に対処しようとした。

 それまでロシア,ドイツ,オーストリアの経済に組み込まれ,相互の有機的つながりを欠いていた三つの地域をひとまとめにするのは容易なことではなかった。加えて国土は戦争で荒廃しきっており,独立後深刻なインフレーション,失業問題に見舞われた。ようやく25年の通貨改革によって経済の統合と安定が緒につくかと思われたが,相前後してドイツとの関税戦争が起こり,その効果の多くが失われた。農地改革はとりわけ貧富の差のはなはだしかった東部地方において焦眉の課題であったが,大土地所有者の抵抗によってほとんど実効をあげなかった。

(2)1926-35年 議会制民主主義の外見が維持されながら権威主義体制が定着した。ピウスーツキは26年5月クーデタを敢行し,国政の実権を握った。政府側の抵抗は予想外に強く,鉄道労働者の支持ストがなければクーデタは失敗しただろうといわれる。このためピウスーツキは急激な改革を避け,大統領権限の強化など最小限の憲法修正を行っただけで,もっぱら既存の政府機構を通じて支配しようとした。また自ら大統領にならず,短い期間を除いて,政府責任を負うことも回避した。その支配は正常なものでなく,ピウスーツキの個人的権威に依存していた。

 ピウスーツキは既成政党を嫌い,大統領モシチツキIgnacy Mościcki(1867-1946)や首相バルテルKazimierz Bartelのような専門官僚,首相スワベクWalery Sławekのような軍団以来の側近(いわゆる〈大佐グループ〉)を重用した。議会選挙に対応するため〈政府翼賛無政党ブロック〉という政治組織がつくられたが,〈サナツィヤsanacja(浄化)〉というあいまいな標語とピウスーツキへの個人的忠誠以外に政綱を欠いていた。30年以降体制はしだいに抑圧的となり,選挙干渉が公然となった。反抗的野党政治家はブジェシチBrześć(現,ソ連領ブレスト)の強制収容所に送られた。

 経済的にこの期前半はイギリスの炭鉱ストに助けられて石炭の輸出景気を味わったが,後半は世界大恐慌に直撃されて国民所得が1929-33年に25%も下落し,失業率が33-35年に40%に達するなど悲惨な状態となった。農産物価格の下落によって農民の窮乏化がいっそう進んだ。農地改革は農民の土地購買力減退によってむしろ遅滞気味となった。外交政策はピウスーツキの晩年に劇的な転換を遂げた。ポーランドはそれまでの親イギリス・フランス政策を捨て,ナチス・ドイツとの間に1934年1月不可侵条約を結んだ。

(3)1935-39年 権威主義体制が公然となったが,同時にそのほころびも露呈されるに至った。35年のいわゆる四月憲法はピウスーツキ体制を成文化したものであったが,肝心のピウスーツキの死去によって大きな空白を生じた。後継者はもはやその空白を埋めることができなかった。支配グループは専門官僚派,側近派,さらにファッショ的なグループとに分かれて争ったが,彼ら自身の国民からの疎外がしだいに目だち始めた。政府は選挙法を改正して野党候補者の締出しを図ったが,逆に大量の選挙ボイコットを招く始末であった。社会党,農民党などの動きが活発化し,急進化する一方で,労働者,農民のストが各地に頻発した。他方でようやくこの時期に官僚機構が充実し,国家資本主義的方法による不況の克服と急速な工業化が企てられたことは注目に値する。しかし,そうした努力が実を結ぶ前に外交政策が破綻をきたし,39年のドイツ,ソ連の進入,国家の崩壊を招くことになる。

戦争勃発とともに,1939年7月国土はドイツとソ連に折半された(1941年6月,独ソ開戦後はドイツ単独の占領下に置かれた)。国外には亡命政府,軍が形成され,国内にもこれと連絡をとる地下政府,軍の機構がつくられた。

 ソ連占領地域(国土面積の51.7%,総人口の38.4%)はウクライナ人や白ロシア人(ベロルシア人)が多く居住する地方で,形式的な住民投票ののちソ連に併合されてしまう(ビリニュス(ポーランド名はビルノ)地方のみはさしあたりリトアニアへ)。ポーランド系住民中,約150万がソ連の辺境に流刑となり,その半数が悪条件で死亡した。

 ドイツ占領地域は併合地域と〈総督府(植民地)〉とに分かたれた。独ソ開戦後加わった地方はさまざまな植民地行政機関の間で分割された。占領当局は経済的に搾取するだけでなく,知識人を根絶することによってポーランド人の民族性を剝奪しようとした。ナチスの人種イデオロギーはとりわけユダヤ系市民を直撃した。600万にのぼる占領政策の犠牲者のうち半数はユダヤ系であった。

 亡命政府はかつてピウスーツキの政敵だった軍人シコルスキWładysław Sikorski(1881-1943)を首相とし,戦前,野党の立場にあった諸党の協力を得てパリで旗揚げし,のちにロンドンに移った。それは直ちに西側連合国の承認を得,独ソ開戦後ソ連の承認をも得た。国内にはよく機能する地下政府機構と最盛時35万の地下軍(〈国内軍〉),また西部戦線に20万の亡命軍を維持した。しかし,領土問題をめぐってソ連との関係が悪化し,カティン事件を契機として国交が断絶するに及んで,その外交的基盤は弱まり,ワルシャワ蜂起の敗北によって国内的基盤が弱められた。他方ソ連は労働者党(共産党)の党員を中心としてポーランド愛国者同盟,国内国民評議会を発足させ,ソ連軍によって解放された地方にポーランド国民解放委員会を樹立して戦後政権の準備を行った。

戦後ほぼ一貫して人民民主主義の名における共産党の一党支配--単に政治の領域だけでなく,少なくとも支配政党の抱負においては社会生活の全領域にわたる--が維持されている。ただ時期によって共産党の支配の及び方,またあり方に顕著な変化がみられる。

(1)1944-48年 三月憲法の復活から出発したが,初めからソ連軍の存在によって共産党の優越的地位が保障されており,しだいにその独裁へと進んだ。国民解放委員会はやがて臨時政府と名のり,次いでヤルタ協定に基づいて一部亡命政府指導者を加えて挙国一致臨時政府に改組された。政府内では労働者党の党員およびその影響下にある者が治安相のような枢要ポストを掌握した。しかし,政府外では労働者党の力はなお弱く,農民党,社会党のような独立政党や武装抵抗運動(〈森の人ludzi z lasu〉)が存在した。反政府ゲリラの掃討は2年を要した。1947年1月労働者党は合法政党の反対を封じ,衛星政党化するために単一候補者名簿方式の選挙を強行する。これに反対した政党指導者は警察的手段によって排除され,統一リストへの参加を拒んだ元亡命政府の首相ミコワイチクStanisław Mikołajczyk(1901-66)の率いるポーランド農民党は厳しい迫害にさらされた。

 戦争によってポーランドはカーゾン線以東の18万km2を失ったが,西方においてドイツから10万km2を得た(差引20%の領土減)。領土の異動は内政面で少数民族問題の消失のような好結果をもたらした。また獲得した領土は失った領土よりも経済的により豊かで進んでいたので,経済面でもプラスであった。私企業の自由はなお認められていたが,比較的急テンポの国有化がさほどの抵抗に遭うことなく進んだ。急進的な農地改革が実施されたが,集団化への圧力,無理押しはなお存在しなかった。ドイツを犠牲にしての西進はおのずからその永続的敵意を予見させ,ソ連への宿命的な外交的依存を結果した。しかし,戦後第1期にはポーランドはなお一定の外交的自由を有し,西側諸国と経済・文化面で活発に交流している。

(2)1948-56年 共産党の全面的な独裁が確立し,社会・経済体制の改造が急激に進んだ。まず諸政党の強制的画一化が実施された。社会党は1948年12月に労働者党に吸収されて統一労働者党(共産党)となり,ポーランド農民党は共産党の衛星政党であった農民党に吸収されて統一農民党となった。統一労働者党内では民族主義的偏向批判が盛んとなり,書記長ゴムルカ(正しくはゴムウカ)をはじめとして戦争中国内で戦った党活動家の多くが追放された。変わって全権を握ったのは中央委員会議長ビエルトBolesław Bierut(1892-1956)を先頭とするモスクワ亡命派である。52年7月に人民民主主義憲法が採択されたが,内実はソ連の体制の引写しで,イデオロギー的にもほとんど差がなくなっていた。

 1940年代末に自給自足モデルに基づいた重工業中心の野心的な工業化計画が採択された。その強行によって確かに短期間に工業化の基本的課題が達成されたが,国民の消費生活が犠牲となり,国民経済に大きな歪みが生じた。農業集団化政策も採られたが,農民の抵抗が強く,あまり進展しなかった。貿易はマーシャル・プラン拒否(1947)以降,完全に東寄りとなった。軍事的には49年にソ連の軍人が国防相に就任し,55年にワルシャワ条約機構に加盟するなど東側への人的組織的統合が進んだ。

(3)1956-70年 共産党支配がとくにイデオロギー面で弛緩し,若干の外交的自由が回復された。ソ連共産党第20回大会でのスターリン批判ポズナン暴動の衝撃は統一労働者党の支配を大きく揺るがした。56年10月,党第一書記に返り咲いたゴムルカは一連の改革を実施した(〈十月の春〉)。内政面では統一労働者党の指導的役割(独裁権)が堅持されたものの,選挙民に若干の選択の幅が与えられ,カトリック教会や知識人の団体にはかなりの自治が認められた。ソ連との不平等関係は大いに是正され,ラパツキ案(A.ラパツキ)のような独自の外交的イニシアティプが許されるようになった。経済面では消費財生産の重視,農業,小売業,手工業における小経営の振興が図られたが,思いきった経済改革は見送られた。

 ゴムルカの政治指導は晩年しだいに権威主義的,抑圧的となった。いわゆるパルチザン派が台頭し,68年3月学生デモを契機として大規模なユダヤ人排斥運動が起こった(〈三月事件〉)。経済は改革の機を逸し,停滞気味となった。外交面で70年12月に西ドイツとの国交が正常化され,宿年の領土問題が解決されるというプラスがあったものの,同じ月に食糧品値上げに反対するバルト海沿岸都市労働者の暴動が起こり(〈十二月事件〉),その余波でゴムルカ政権は崩壊した。

(4)1970-80年 70年代は対外開放政策と反体制派の活動黙認を特徴とするが,制度の根幹にはなんら手が触れられなかった。ゴムルカの後を襲ったギエレクは次々と競争者を排除し,同郷出身の側近(〈シロンスク・マフィアMafia Śląska〉)で党指導部を固めた。また政治色のないテクノクラート(専門官僚)を好んで登用した。76年に党の指導的役割とソ連との友好をうたった新憲法が採択されたが,戦後30年の現実追認以上の意味をもたなかった。

 ギエレクは経済改革抜きで,大量の外資を導入して高度成長を実現しようとした。これはテクノクラートと大衆から歓迎され,70年代前半のデタント(緊張緩和),余剰オイルダラー,ソ連のエネルギー・原材料低価格政策に助けられて成功するかにみえたが,70年代後半になって矛盾が表面化した。76年6月に再び食糧品値上げに反対する労働者の抗議行動が起こり,それに続いて社会自衛委員会(KOR)をはじめとする知識人の反体制的な運動が活発となった。

(5)1980年以後 自由労組運動の勃興と軍政の出現によって共産党の独裁体制が崩れ始めた。1980年8月労働者の抗議ストが全土を覆い,政府は譲歩を迫られた。スト労働者との間に結ばれたグダンスク協定は国家と社会の二元体制,すなわち一方における党の指導的役割と,他方における労組活動の自由を定めており,以後15ヵ月間擬似憲法的役割を果たした。これに基づき設定された自主独立労働組合〈連帯〉Niezależny i Samorządny Związek Zawodowy“Solidarność”(略称NSZZ “Solidar-ność”)はたちまちのうちに950万の組合員を獲得し(委員長ワレサLech Wałęsa,1943- ),農民組合,学生連合,その他の自立的社会組織の成立を促した。他方,党側も第一書記のカニアStanisław Kania(1927- )を中心として党内自由選挙を実施するなど,体制刷新に努めたが,新しい状況に対応しえなかった。この結果権力の空白状態が生じ,81年12月すでに首相,党第一書記を兼任していた国防相ヤルゼルスキWojciech Jaruzelski(1923- )による戒厳令布告となった。ヤルゼルスキは自立的な社会勢力を厳しく弾圧したが,他方で党,政府の要職に軍出身者を配し,戒厳令解除(1982年12月31日)後も事実上の軍支配を維持している。

 経済は破局的状況にあり,10年間の成長が帳消しとなった。巨額の累積外債のため対外的にも破産状態にある。このためヤルゼルスキ政権は改革を一枚看板にしているものの,社会・経済政策において臆病となりがちである。投資,賃金,価格政策はなかなか自由化されず,かえって統制色が強まっている。官製の社会組織の再建が思うようにはかどらず,カトリック教会の発言権が高まる傾向にある。外交的には一時極度に孤立し,ソ連への依存を深めたが,対西側関係改善の努力が徐々に実を結びつつあるようにみえる。
執筆者:

市場経済の導入によって急速に貧富の差が拡大し,深刻な問題が生じている。これには社会政策の充実によって対応すべきであるが,制度の不備が目立っている。社会主義時代の社会保障制度は十分とはいえず,個人農にその恩恵が及んだのはようやく70年代に入ってからであった。また国家予算によって担保されたもので,市場経済には適合しなかった。体制移行後,どの基金も財政困難に陥り,失業保険,医療保険,生活保護などの給付は低水準にとどまっている。年金制度だけは政府の努力によって維持されているが,これが財政赤字の主因となっている。

 活発な社会団体の活動がある。社会主義時代には〈大衆組織〉と位置づけられた官許の社会団体とカトリック教会や〈連帯〉労組のような独立の団体とが並存していた。変動後,後者が活気づくかと思われたが,意外にも前者が健闘している。たとえば,かつての官許労組,全国労組協議会(OPZZ)は今日470万の組合員を誇るのに対し,〈連帯〉労組はわずかに150万を擁しているに過ぎない。これはヤルゼルスキ時代に官許組織が成員の利害を代表する自由を与えられたのに対し,反政府的な団体が政治運動に走ったためである。同じことはカトリック教会にも妥当し,変動後,カトリック教会の影響力が目だって衰えている。とはいえ,どの団体も変動後の政治に小さからぬ影響を及ぼしている。

 深刻な社会問題が国外移民を促している。このため移民を通じての国際的なつながりが強い。19世紀半ばから1920年代までに何百万という移民をアメリカ,ドイツ,フランス,ベルギー,オーストラリアなどに送り出した。その波は第2次大戦前後を除きしばらく途絶えていたが,70年代に出国規制が緩和されると再び国外移住熱が高まり,以後毎年平均2万数千人を送り出している。それは89年の変動後も大きく変わっていない。移住者に教育程度の高い層が多いのが近年の特徴である。

 社会主義時代に経済成長が優先された結果,環境条件が極度に悪化した。とくに石炭・鉄鋼産業が集中している高地シロンスク,マウォポルスカ地方では,煤塵公害で癌を含む呼吸器障害患者が著増した。ドイツとの国境沿いでは酸性雨で枯死する森林が目だった。河川汚染が全国に広がり,しばしば飲料水さえ汚染された。変動後,工業生産が後退し,そのぶん公害も目だたなくなっている。他方,政府はEU加盟に備えて環境基準を西欧並みに高めようと努力している。

 平均余命は先進国に比べて低く,近年になっても格差は縮まっていない。男は75-76年に67.3歳,女は75.0歳に達したが,その後低迷を続けた。ようやく変動後しばらくしてから再び伸びはじめ,95年に男67.6歳,女76.4歳に達したがなお高いとはいえない。この間,乳幼児死亡率は低下しているので,成人死亡率の高まりが低迷の主原因と思われる。

 住宅の平均面積は88年末に59.1m2,1人当り17.1m2。改善されてきてはいるがなお苦しい。住宅建設は共産党時代,国家の責任だったが,変動後私人の責任となった。住宅価格が高騰し,庶民には入手しづらくなっている。

教育は社会主義時代すべて無償であったが,変動後は義務教育が無償,それ以外は有償となっている。初等8,中等4,高等5年制をとっており,義務的なのは初等教育。中等教育はフランスのリセにならった4年制普通科学校と5年制職業学校とに分かれている。変動後,初等,中等学校における宗教教育が全面的に復活した。90年に小学校で宗教の授業を受けている生徒は95.8%,中等学校(日本の高校)で90.1%に達した。公教育へのカトリック教会の行き過ぎた介入には反省が起きている。一般に70年代半ばをピークとして中等学校以上の就学者が減る傾向にあった。1975年に同年齢人口のうちの普通科中等学校(高校)生の割合は24.5%,大学生の割合は13.5%であったが,1985年にそれぞれ19.0%,10.6%に落ちた(人口1000人当りの普通科中等学校生(高校生)は1975年の18.2人から1985年の10.3人へ,また大学生は1976年の14.2人から1985年の9.1人へ)。しかし,この傾向は変動後に歯止めがかかり,高校生,大学生の数が微増している。ただし,中等教育以上における労働者農民の子弟の減少傾向は社会主義時代から依然として続いている。

マスコミは変動後大きく変貌した。新聞雑誌は政党系,〈大衆組織〉系のものが激減し,代わって情報,娯楽,趣味中心のものが増えた。紙の質や印刷技術が向上し,レイアウトも西側諸国とほとんど変わらなくなった。購読料が高騰し,定期購読者の数が激減した。広告収入への依存度が高まり,大衆紙では3行広告が紙面の半分以上を占めるようになった。外資の進出がめざましく,世論が外資によってコントロールされる恐れが出てきた。テレビやラジオにも同様の傾向が現れている。テレビはユーロビジョンとの接続によって事実上EU加盟を先取りしている。
執筆者:

古くは,フビライ・ハーンが北条時宗にあてた国書の中にポーランド征服について触れた個所があったという記録があり,またポーランド人宣教師メンチンスキ(1598-1643)が長崎で殉教している。さらに18世紀後半にバール連合(ポーランド王スタニスワフ・アウグストとロシア皇帝の支配に反対する貴族たちの同盟)に参加してカムチャツカ半島に流され,そこから船を奪って逃れる途中,長崎のオランダ商館あてにロシアの南下を警告する書簡を送ったというベニョフスキの記録などが知られている。しかし,これらはいずれもエピソードの域を出ず,日本とポーランドの関係という点からみれば,ほとんど意味をもたない。

 日本人にとって,ポーランドが意味をもつ国として登場してくるのは,明治維新以後のことである。何よりもまずポーランドは他山の石とすべき悲劇の国と考えられた。コシチューシュコが登場する東海散士の《佳人之奇遇》(1885)や福島安正中佐のユーラシア大陸単独横断をたたえて落合直文が作った長編詩《騎馬旅行》(1893)の一部〈波蘭懐古〉(のちに軍歌として愛唱される)にそれをうかがうことができる。

 またこの国は,ノーベル物理学賞(1903)と化学賞(1911)の受賞者キュリー夫人,ノーベル文学賞(1905)の受賞者シェンキエビチの国としても知られている。この面では,ポーランドは,日本が模範とすべきヨーロッパ文化の一端を担う国としてとらえられているわけであるが,このイメージをつくり上げるうえで大きく貢献している人物として,ほかにコペルニクスショパンがいる。もっとも,この2人に関しては,ポーランド人であるかどうかの判断がむずかしい。そもそもコペルニクスは民族への帰属が問題になる以前の時代を生きた人物であり(ドイツではコペルニクスはドイツ人だとされている),またショパンもどこまで自分をポーランド人だと考えていたか疑問だからである。

 日本とポーランドの政治的な関係は,第1次世界大戦後にポーランドが独立してから初めて公式なものになるが,すでに日露戦争のときに日本の援助を求めるJ.ピウスーツキと,これに反対するドモフスキが日本を訪れている。彼らが戦間期のポーランドで果たした大きな役割から,この2人の訪日がポーランド人の対日イメージ(ロシアに対する戦勝国)を定着させるうえで貢献するところは大きかった。また同じころ,ユゼフの兄B.ピウスーツキB.シェロシェフスキがアイヌ研究のためにサハリン,北海道を訪れているが,このアイヌ研究を通じてつくり上げられたポーランド人の対日イメージ(文明の光をあまり浴びていない極東の一国)も見のがせない。そして現在ポーランド人の間で見られる対日イメージは,日露戦争まで西欧を通じてつくり上げられていた極東のエキゾティックな国というイメージ(その具体的な成果がクラクフの国立博物館に現在も残っている浮世絵,刀の鍔(つば),根付などのヤシェンスキ・コレクション。〈ポーランド美術〉の項目参照)と,さらに最近やはり西欧を通じてつくり上げられた先進工業国というイメージに,すでに述べた〈戦勝国〉イメージと〈非文明〉イメージを積み重ねたものと考えればよい。

 なお公式の政治的な関係はつぎのような経過をたどっている。1921年公使館の相互設置(1937年に大使館に昇格)に始まる。つづいて翌22年通商航海条約の締結を経て,39年在ワルシャワ日本大使館は閉鎖された(在日ポーランド大使館の閉鎖は1941年。なお同年にポーランドは日本に宣戦布告)。第2次大戦後は57年に国交回復と大使館の相互設置が行われた。経済面では60年代から日本の商社の進出がなされているが,概して両国の関係は活気に乏しい。文化面では,60年代末ころからポーランド文学の日本への紹介が本格化し,現代作家の作品の翻訳も増えている。また,ポーランド映画は日本でも根強いファンを獲得しており,演劇などの交流も盛んである。さらに近年は,政治,経済,歴史,言語などの分野でも日本のポーランド研究は大きく前進している。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポーランド」の意味・わかりやすい解説

ポーランド
ぽーらんど
Republic of Poland 英語
Rzeczpospolita Polska ポーランド語

ヨーロッパ中央部にある共和国。北はバルト海とロシア(カリーニングラード州)に臨み、西はドイツ、南はチェコとスロバキア、東はリトアニア、ウクライナ、ベラルーシに囲まれる。ポーランド語ではポルスカといい、「ポーランド」Polandは英語名。正称ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska。「ポーランド」(ポルスカ)とは、本来、畑または森の中の草地の意であり、国名は「平原の国」を意味する。面積31万2685平方キロメートル、人口3823万0080(2002年センサス)、3813万2000(2006年推計)。首都はワルシャワ(人口167万1700、2002)。

 第二次世界大戦後は人民民主主義を経て社会主義政権が確立し、ソ連を中心とする社会主義陣営の一翼を担ってきたが、1989年、限定的自由選挙の結果、社会主義圏で初の非共産党勢力の政権が誕生し、その後の自由主義政治体制への道を開いた。古くからロシア民族とドイツ民族の中間の地に国家を建設してきた歴史をもち、その地政学的位置から、建国以来、複雑な係争と独立の舞台となってきた。西スラブ民族に属するポーランド人が国民の97%を占めており、キリスト教受容の歴史も古く、文化的には西ヨーロッパとの結び付きが強いキリスト教文化圏にある。

 国旗は白と赤の2色からなり、1919年に公式に制定された。国歌「ドンブロフスキのマズルカ」は、『軍隊の歌』ともよばれ18世紀末から歌われていたが、1926年に国会で正式に制定された。

[山本 茂]

自然

地形・地質

国土は、大きくみると広大なヨーロッパ大陸の北縁にあたる低平な卓状地の一部である。この卓状地は中生代や古生代の地層からなり、新生代第四紀の氷河期まではスカンジナビア半島から張り出してきた大陸氷河に覆われていた。氷河は、最盛期には南部のカルパティア山脈やスデティ山脈の山麓(さんろく)に及んでいた。国土の90%以上が平野で、標高200メートル以下の低地が75%にも及ぶ。山地は南部にあり、スデティ山脈が南西部国境を形づくり、カルパティア山脈が南部および南東部の国境となっている。最高峰はカルパティア山脈を構成するタトラ山脈中のリシRysy山(2499メートル)で、スロバキアとの国境上にある。チェコとの国境にあるスデティ山脈はヘルシニア期の複雑な地殻運動を経験し、南東部のカルパティア山脈はアルプス造山運動の一部を担う。これらの輻輳(ふくそう)する地質変動の結果、ポーランドは石炭、褐炭、天然ガス、鉄鉱石、銅、鉛・亜鉛、岩塩などの鉱産資源に恵まれることとなった。

 北部のバルト海沿岸の海岸平野では、海岸は砂浜で、砂丘や砂州、ラグーン(潟湖(せきこ))などが発達している。海岸平野の背後には、ときには標高200~300メートルにも及ぶ氷河性のモレーン(堆石(たいせき))丘陵が、東西方向にいくつもの層をなして並走しており、その間に大小無数の湖沼群が散在する。とりわけ、北西部のポメラニア地方や北東部のマズーリ地方を中心に、国全体で9000を超える湖沼群があり、氷河性の凹地を埋めている。後氷期の典型的な自然景観である。最大の湖沼はバルミニスコ・マズーリ県にあるシュニアルドビー湖とマムリ湖である。中部の広大な地域を占めるのは、北ヨーロッパ平野の一部をなすポーランド平野である。その大部分は平坦(へいたん)な構造平野で、その表土はおもに完新世(沖積世)の氷河堆積物で覆われている。ビスワ川(1047キロメートル)、オドラ川(オーデル川)(742キロメートル)、バルタ川(808キロメートル)、ブク川(587キロメートル)などの河川(括弧(かっこ)内の数字はポーランド国内の長さ)とその支流がビエルコポルスカ、マゾビエツカ、ポドラジェなどの平野を北流し、末端モレーン丘を横断してバルト海に注いでいる。

[山本 茂]

気候

比較的温和で湿潤な海洋性気候と、寒暖の較差の大きな大陸性気候との漸移地帯にあり、東方に進むにつれてより大陸性の気候が濃厚となる。1月の平均気温は、バルト海沿岸や西部地域で零下1℃、中部地域で零下3℃、山地で零下6℃である。ポーランド平野を南に行くにしたがって気温は徐々に低下する。夏にはこれとは逆に、バルト海沿岸やポメラニア、マズーリのモレーン地域でもっとも低い。7月の平均気温は、前記各地域の順に16~17℃、18~19℃、10~14℃である。年降水量は平野部で500~600ミリメートル程度、丘陵地で600~700ミリメートル、高地では800~1200ミリメートルになる。タトラ山脈では1800ミリメートルにも達する。

[山本 茂]

生物相

農用地が国土面積の約60%を占め、森林面積は29.7%を占めている(2000)。北部や東部には針葉樹林が多く、もっとも著名な大森林地域はビアウォビエジャとアウグストフの森林である。山岳地帯にはマツやモミなどの球果類が多くみられる。しかし国土の大部分、とりわけ西部・南部や中央部には広葉樹と針葉樹の混交林が多く、ブナ、カシ、マツ、スギ、モミなどがみられる。西方のドイツからポーランドにかけての林相は、おおむね連続的である。動物相も林相の連続性に対応してほぼ連続的である。

[山本 茂]

地誌

ポーランドでは、ビエルコポルスカ地方、シロンスク(シュレージエン)地方、ポモジェ(ポメラニア)地方、マズーリ地方などの、長い歴史の検証を経た慣用的な地方名が用いられている。以下、これらの地方単位を踏まえた八つの地域区分(大経済地域という)に従って解説する。

 また、ポーランドは行政区画として、1975年以降全国を49の県に分けていた。しかし、1996~1997年の中央省庁再編・行政機構改革に伴い地方行政改革が行われ、1999年(法律可決は1998年)から全国を16県(ウージ県、オポーレ県、クヤフスコ・ポモジェ県、ザホドニオポモジェ県、シフィエントクジ県、シロンスク県、ドルノシロンスク県、バルミニスコ・マズーリ県、ビエルコポルスカ県、ポドカルパティ県、ポドラジェ県、ポモジェ県、マウォポルスカ県、マゾフシェ県、ルブスコ県、ルブリン県)に改編し、地方自治を拡大する方向となった。

[山本 茂]

中央地域

マゾフシェ県、ウージ県が中心。ポーランドの政治、経済、社会、文化の中心地ワルシャワと総合繊維工業都市ウージを中核としている。ワルシャワはポーランド最大の総合機械工業地で、自動車、電気機械、印刷、化学工業がある。

[山本 茂]

中西部地域

ビエルコポルスカ県、クヤフスコ・ポモジェ県が中心。ビエルコポルスカ平野の集約的な農業が特徴的で、歴史的にも早くから豊かな農業地帯であった。比較的規模の大きい富裕な個人経営が中心で、ポズナニ、トルニ、ビドゴシュチ、カリシュなどの地方都市は農産物の集散地として発展した。ポズナニには古くからの総合機械工業のコンビナートがあり、発電(コニン)、化学(イノブロツワフ、ビドゴシュチ、トルニ)、ゴム、食品加工などの工業が全域に広く分布している。

[山本 茂]

南部地域

シロンスク県、オポーレ県が中心。ポーランド最大の重化学工業の中心は、カトビーツェ、ザブジェ、グリビーツェ、ソスノビエツなどの工業都市群が集中する上シロンスク工業地帯である。この地域には、豊富な石炭や鉛・亜鉛など、恵まれた鉱産資源を基礎に金属・各種機械工業、化学工業が発達している。地域経済の発展ももっとも高い水準にある。

[山本 茂]

南西部地域

ドルノシロンスク県、ルブスコ県が中心。この地域は、第二次世界大戦後にドイツから得たいわゆる「回復したポーランド領」で、高い工業発展とともに集約的な農業が行われている。オーデル川左岸の肥沃(ひよく)な土壌、温暖な気候、長い作物生育期間に恵まれている。住民の多くは、戦後広く全国から、また東方のソ連に割譲した地域から移住した。多くは農業改革によって土地を得て農民となり、国営農場の比重も他の地域より高かったが、1989年の東欧革命以降は個人農の育成が進められている。また、石炭、褐炭、銅鉱石、ニッケルを産し、機械、化学、銅などの工業のほか、食品加工、繊維工業などの伝統工業が盛んである。スデティ山脈は保養地として知られる。

[山本 茂]

北部地域

ポモジェ県、ザホドニオポモジェ県が中心。北部の「回復したポーランド領」で、グダニスク、グディニア、シュチェチンはポーランドを代表する海港都市である。造船業の中心であるほか、バルト海に沿って多くの保養地がある。農業は市場指向的な国営農場が卓越していたが、1989年以降は個人農中心の農業に移行しつつある。

[山本 茂]

南東部地域

マウォポルスカ県、ポドカルパティ県が中心。クラクフは長くポーランドの首都が置かれた、古い文化と学術・芸術の中心地である。南東部は農業地域で、第二次世界大戦後、天然ガスや硫黄(いおう)の採掘が進み、化学肥料、セメント、機械などの新しい工業が発展した。南部国境のカルパティア山脈は年間を通した保養地で、ザコパネなどの観光都市が発展している。

[山本 茂]

中東部地域

ルブリン県が中心。一般にビスワ川以東の地は工業発展の遅れた低開発地域で、農業地域である。なかでもルブリンを中心とする中東部はその典型である。

[山本 茂]

北東部地域

ポドラジェ県が中心。経済発展水準が相対的に低い農業地域で、深刻な戦禍、工業の欠如、厳しい自然条件(不毛な土壌、寒冷多湿な気候)のため、農家の経営基盤は弱く、農業の集約化が求められている。繊維工業、製材業が盛んである。

[山本 茂]

略史

9~10世紀にドイツ人の東方進出に触発されて国家形成を行ったポーランドは、絶えず西欧文明の影響を受け、15~16世紀にはヤギェウォ朝のもとで社会的・文化的繁栄の時代を迎え、ヨーロッパの国際政治において重要な地位を占めるに至った。しかし、17世紀中ごろより国家は弱体化し始め、18世紀末には隣接諸国家による領土分割によって独立国としての地位を失った。その後、シュラフタを中心とするポーランド人たちは民族解放運動に献身し、19世紀中ごろまでにたびたび敢行された独立蜂起(ほうき)はすべて敗北に帰したが、強烈な民族意識を保持し続け、第一次世界大戦後にようやく独立を回復した。とはいえ、強国のはざまに置かれて第二次世界大戦中はふたたび国家の独立を失い、数々の悲劇的なできごとを体験した。戦後は、ソ連の後押しによってポーランド人民共和国が誕生し、社会主義国としての道を歩んでいたが、党・政府と一般民衆との対立から、その歩みは困難を極めていた。1989年に体制転換を実現したが、政治的な混乱が続いている。

[安部一郎]

経済・産業

概況

ポーランドは第二次世界大戦後、ソ連型の社会主義体制をモデルに、政治制度については一党支配体制を、経済制度については中央集権型の計画経済制度を移植した。工場、設備機械、土地などの主要な生産手段は国家所有に置き換えられ、生産、分配、投資、さらには貿易、流通、消費まで、国民経済の根幹にかかわる領域を国家が一元的に管理する経済体制を敷いた。計画経済制度のもとで、重工業中心の工業化が推し進められた。

 1989年後半、ポーランドは社会主義体制を放棄し、政治経済の制度改革を開始。体制転換後の1990年代は、中央計画経済を支えてきた制度を取り除き、市場経済を機能させるための新制度を導入、定着させる移行期であった。

 ポーランドでは1970年代前半、東西関係の緊張緩和を背景にして西側諸国から借款を受け、積極的な投資政策が打ち出された。産業基盤の近代化のための再工業化路線がとられ、石油精製、製鉄、自動車、造船などの基幹産業分野で、西側の先進技術、生産設備が導入された。1970年代前半の成長率は年平均9.8%を記録。だが後半に入ると、原材料、エネルギーの供給の隘路(あいろ)にあい、しだいに高度成長政策のひずみが露呈していった。借款の返済に加えて、新規に導入した生産設備への原材料の購入、向上した国民の消費生活への対応のため、西側諸国からの輸入が増大し、対西側債務は急増した。経済戦略の見直しが行われ、輸入が控えられるなかで成長率は鈍化し、1970年代末にはマイナス2%にまで落ち込んだ。

 1980年7月、基礎食料品値上げの政府発表を引き金に、全国で抗議運動が沸き起こり、全国規模の「連帯」として組織された。「連帯」は政府との直接交渉に臨み、値上げを撤回させるとともに、経済制度の改革、職場の待遇改善、自主管理の労働組合の設立などのさまざまな要求を行った。「連帯」の攻勢に対抗するため、1981年12月、党と政府は戒厳令を布告。戒厳令施行に対して、アメリカを中心に西側諸国は禁輸、新規融資の凍結、債務繰り延べ交渉の中止などの経済制裁を課した。西側諸国との経済関係が正常化したのは1980年代後半に入ってからであった。戒厳令の下でも国営企業の自律機能を高める目的で経済改革に着手したが、経済の回復にはつながらず、1980年代を通して、ポーランドの経済は停滞していた。

 1980年代後半、ソ連でゴルバチョフ改革が進行するにつれ、ポーランドでも改革の気運が醸成されていった。ソ連は過去の東欧の改革の障害であったが、ソ連首脳自らが改革を推進していることから、ソ連はもはや東欧諸国の改革を抑制する意志がないものと理解されたからであった。1988年夏、南部の炭坑でストが頻発した。事態の収拾にあたり、党・政府は戒厳令下で非合法化した「連帯」を交渉相手に選んだ。1989年2月、党、政府、「連帯」の代表が一堂に会して、円卓会議が開かれた。大統領制の導入、自由選挙の実施などの政治制度の改革とあわせて、経済関係では賃金の物価上昇分の補填(ほてん)、農産物の価格の自由化などの実施を決定した。

 円卓会議の合意に基づき、1989年6月、部分的ながら自由選挙が実施され、「連帯」側が圧勝した。9月マゾビエツキ連立内閣が成立し、バルツェロビッチ大蔵大臣が経済政策の担当になると、10月、経済改革案(俗称バルツェロビッチ・プログラム)が発表され、10月から12月末にかけて、財政法、価格法、関税法、外為法など20に上る経済改革の関連法案、修正案が採択された。そして、1990年1月1日を期して、市場経済に向けて経済改革が開始された。一部の公共料金を除いて大半の品目の価格の決定が市場に委(ゆだ)ねられ、通貨は交換性を回復し、国家が独占してきた貿易は自由化された。この時期、円卓会議の決定に従い農産物価格が自由化され賃金の物価スライド制が導入されたことから、年率600%のインフレが進行していた。インフレ抑制のための安定化政策は、バルツェロビッチ・プログラムの重要な柱であった。それと並ぶ重要な政策課題は、市場経済の構築に向けて競争を促す制度政策にあった。

 制度の急激な変化により、ポーランド経済は打撃を受け、生産国民所得は1990年11.6%減、1991年7.6%減と大幅に低下した。大量の失業者が発生し、失業率は15%を超えた。1992年ごろより経済は回復の兆しをみせ、マイナス成長からプラスに転じた。国内総生産の動向も順調に推移し、1993~1999年の平均成長率は約5%であった。1999~2000年はロシアの金融危機の影響を受けたが成長率は4.1%を維持した。2001年中央銀行がインフレ率を抑制するために実施した金利引上げにより経済が停滞し成長率は1.2%と低下した。しかし継続的な金利引下げにより設備投資、個人消費などが回復、2003年には3.7%、2004年には5.3%と好調に推移している。一方、失業率は1998年に10.4%に低下したものの、2001年16.2%、2004年19.4%と上昇傾向にあり厳しい雇用情勢が続いている。

 1996年9月ポーランドはOECD(経済協力開発機構)の加盟国となり、さらに2004年にはEUに加盟している。

[渡辺博史]

財政・金融

バルツェロビッチ・プログラムにおいて、財政金融は安定化政策のための重要な政策手段とされた。緊縮的な財政政策がとられ、金利を大幅に引き上げるとともに、通貨の切下げが行われた。市場経済への移行に対応するため、財政制度についても抜本的な改革が行われた。形骸(けいがい)化していた国会の予算審議権が強化される一方、中央銀行は事後的に財政赤字を補填することが禁じられた。企業の経済活動への補助金の多くが撤廃あるいは大幅に削減された。移行期の国家財政の傾向としては、歳出項目については、各種の補助金にかわって経常支出に続いて大きいのは社会保障費への支出であり、ついで国内公的債務の返済となっている。歳入については国営企業、協同組合などの法人を財源としていた構造から、個人からの所得税、間接税へと財源が移された。1993年より導入された付加価値税が歳入の大きな柱を担うようになってきている。

 地方自治体(市町村単位)による地方分権への流れを受けて、地方の財政基盤を強化する目的で、中央予算と地方予算とが明確に分離された。旧来の交付制度を変更し、県レベルの中間的な段階を排除し、中央予算から地方自治体の予算へ直接交付される。

 社会主義のもとで整えられていた銀行制度の改革も、政治体制の転換に伴って進められている。1989年の銀行法、国立銀行法に基づき、ポーランド国立銀行の九つの支店、ポーランド国立銀行の傘下にあった五つの特殊銀行が本部から切り離された。ポーランド国立銀行は、中央銀行の本来の機能である通貨価値の維持に専念することになった。1990年代中ごろより分離した国営銀行の民営化が進められ、シロンスク銀行、商工業銀行、グダニスク銀行、ビエルコポルスカ銀行、ポモジェ銀行など9行が商業銀行となった。さらに2004年にはポーランドの最大手であるPKO-BP(Powszechna Kasa Oszczednosci-Bank Panstwowy)銀行が民営化された。

 1991年7月ワルシャワ証券取引所が50年ぶりに正式に再開され、資本市場の整備が開始された。ワルシャワ証券取引所は近年急成長しており、2006年4月末現在上場企業数は266となっている。

[渡辺博史]

民営化

市場経済への移行期にあって、国営企業の民営化は重要な政策課題となっている。経済の自由化に伴い、私企業の数は飛躍的に増加した。2000年末の時点で、ポーランド国内で38万を超える事業所が経済活動を営んでいる。企業数では98%以上を私企業が占めるに至った。だが国民経済に占める比重では国営企業の存在は依然として大きい。

 1990年の時点でポーランドには約8700社の国営企業が存在していた。1990年から1991年にかけて、独占禁止法が導入されたことにより、国営企業300社が1000社に分割された。1999年末では国営企業のうち、民営化の手続を開始したのは約6400社で、うち約42%が民営化を完了した。約26%の企業は手つかずのまま国営企業として活動している。

 ポーランドでは国営企業民営化法(1990)などに沿って民営化が進められており、その方法には清算による民営化、資本民営化などがある。清算による民営化はおもに経営状態の悪い小規模の国営企業の民営化に採用される。国営企業の既存の債権・債務を清算したうえで民間へ売却する手法と、国営企業をいったん国有株式会社に転換してから競売・公募を行う手法がある。資本民営化は大規模な国営企業の民営化に採用されることが多い。国営企業を国庫が全株を保有する株式会社とし、各投資家に株式を売却するという手法である。国民投資基金による民営化も資本民営化に含まれる。1993年4月「国民投資ファンドと民営化」法が採択され、「大規模民営化プログラム」が発表された。プログラムに従い、15の国民投資基金が設置され、それぞれの基金を運営するファンドマネージャーが国内外の証券会社、コンサルティング会社のなかから入札により選ばれた。1995年9月512社の国営企業がプログラムに参加することになり、1995年11月から国民に「一般証券証書」が配布された。1997年6月15日、国民投資基金が同時にワルシャワ証券取引所に上場され、「一般証券証書」と国民投資基金の証券との交換が1998年末まで行われた。

 国営企業民営化による政府の歳入は年々増加し260億ズロチ(2000)に達したが、主要な国営企業の売却は大半が終了し民営化収入はしだいに減少してきている(2004年の歳入は102億ズロチ)。一方、民営化により大規模な人員削減を行う企業は多く、失業者数は増大し深刻な地域格差も生み出されている。また多くの企業が2004年のEU加盟による国際競争激化のなか、民営化後の経営体質の改善、生産性向上、設備の近代化などの改革を迫られており課題は多い。

[渡辺博史]

対外経済関係

社会主義時代のポーランドの対外経済関係の主要な枠組みであったコメコン(経済相互援助会議)が1991年に解体した。体制移行の過程で、EU(ヨーロッパ連合)への21世紀初めの加盟を目ざす一方(2004年EU加盟)、近隣の中・東欧諸国との経済関係の再構築に努めた。この間、ECとの連合関係を定めたヨーロッパ協定(1994年2月1日より発効、貿易に関する暫定協定は1992年3月1日より発効)、中欧自由貿易協定(CEFTA)(1993年3月1日より発効)、EFTA(エフタ)諸国との自由貿易協定(1993年11月15日より発効)が締結された。国際経済機関への参加については、体制転換の時機を挟んで、IMF、世界銀行に復帰したのをはじめとして、1995年7月にはWTO(世界貿易機関)へ、1996年9月にはOECD(経済協力開発機構)への加盟を果たしている。対西側債務は社会主義時代ポーランド経済の大きな負担となっていたが、西側諸国はポーランドの体制移行を支援するため、パリ・クラブ(主要債権国会議)で会合を重ね、1991年3月ポーランドの公的債務の削減に応じ、1994年4月返済繰延べについてポーランドと合意した。

 移行期にあって、ポーランドの経済に占める貿易の比重は増加している。貿易依存率は、1990年の19%から1995年には22%、2004年には31%に上昇した。同時に貿易相手地域が大きく変化した。EU諸国との貿易が急速に拡大する一方で、旧ソ連諸国、中・東欧諸国との貿易は大幅に縮小してきている。1988年のポーランドのEC諸国との貿易のシェアは、輸出で26%、輸入で25%であったのに対し、1995年には対EU諸国輸出は全輸出の70%、輸入では65%に、2005年には全輸出の79%、輸入では67%に達している。一方、旧東側諸国との経済関係は1990年初頭、大幅に縮小した。体制転換以前にはポーランドの最大の貿易相手国であったロシアのシェアは、輸出では4%台に、輸入では8%台(2005)に縮小している。商品別では、輸出では、原燃料のシェアが低下する一方で、半製品、その他工業品のシェアが拡大している。輸入については、加工用の工業半製品のシェアが拡大している。しだいに、中進工業国としての貿易構造の姿をとりつつある。

[渡辺博史]

産業基盤・鉱工業

ポーランドに埋蔵する鉱物資源は、銅、銀、亜鉛、鉛などの非鉄金属資源、石炭、褐炭などのエネルギー資源である。銅、銀の鉱山は戦後開発され、2001年現在銅鉱石の確認埋蔵量は3900万トン(世界第5位)、生産量53万3000トンである。銀とともにポーランドの主要な輸出品目に育ってきている。ポーランドに埋蔵するエネルギー資源のなかで経済的に意味をもつのは、石炭、褐炭である。その他、バルチック海沿岸に油田、南東部に天然ガス田が点在するが、いずれも採掘量は少量にとどまっている。石炭の確認可採埋蔵量は140億トン、生産量は7140万トン(2004)であり、ポーランドはヨーロッパ屈指の石炭の産出国、輸出国となっている。

 豊富な石炭を背景として、ポーランドのエネルギー源は石炭に大きく依存してきている。電力の97%が石炭、褐炭による火力発電によって生産される。1980年代、電力の需給バランスが逼迫(ひっぱく)したことから、褐炭の採掘田の開発とそれに隣接する火力発電の建設が進められ、電力生産の増産が図られた。だが、1990年代に入ると、市場経済への移行に併行して産業構造の転換が進むに伴い、電力の需給バランスは大幅に緩んできている。

 ポーランドの鉱工業の主力は、時代とともに変化してきている。1950年代には鉄鋼産業、繊維産業が、1960年代前半には石炭産業が、後半には化学産業が重点産業とされ、計画経済のもとでこれらの産業に優先的に資材が投入された。1970年代に入り、デタントによる国際情勢の変化のもとで西側諸国からの借款を受け、再工業化路線がとられた。西側技術が導入され、鉄鋼、自動車、石油化学、電子機器、工作機械など産業の近代化が図られた。だが、1970年代後半になると、対西側債務が急増したことから、既存の工業化戦略は修正を余儀なくされ、新規の投資は控えられた。

 1980年の「連帯」事件の影響から、鉱工業生産は大きく落ち込んだ。1980年代を通して、エネルギー基盤の整備を除くと、目だった投資プロジェクトはみられなかった。1989年の体制移行開始まで、ポーランドの産業基盤は1970年代に形成されたものが温存されたかたちとなった。

 移行期に入り、ポーランドの産業構造は大きく変わりつつある。社会主義経済のもとで培われてきた重化学主体の産業構造からの脱皮が進んでいる。政策的に重視されてきた石炭、鉄鋼などの産業が活動を縮小しているのに対し、輸送機械、電機、食品加工など製造業が伸びている。とくに自動車部門は外資系企業の本格的な操業や2004年のEU加盟により著しい伸びをみせており、生産・販売とも中欧最大規模となっている。

[渡辺博史]

就業構造

体制移行期に入り、産業構造の変化とともに、就業構造は大きく変化してきている。鉱業部門では、1992年から2000年にかけて、約5割減にあたる23万人の減少がみられた。そのなかでも、ポーランドの基幹産業とされてきた石炭産業では、大幅に縮小している。製造業部門では、近年順調に推移しているところから、就業者数の減少が止まり、食品、軽工業、化学などの部門を中心に、わずかながら増加する傾向がみられる。商業、サービス部門では、新たに50万人規模の雇用の場が生まれている。大型店舗、中小の商店やレストラン、自動車の特約販売サービス店などが大量に出現した。商業・サービス産業の伸長は、サービス産業を軽視してきた旧体制の不備を補う性格をもっている。流通業に加えて、金融、保険、法律、コンサルタント、不動産、広告、報道などの事業が新たに展開されている。第三次産業の隆盛、経済のソフト化の流れがみてとれる。

 ポーランドの就業構成の特色として、農業部門のシェアの大きさがあげられる。農業部門の就業者は全就業者の26~28%(1990~2000)を占めている。1950年代なかばにポーランドでは集団化の試みが頓挫(とんざ)し、その後、個人農がポーランド農業の主力を担ってきていた。社会主義体制のもと、工業化の過程で農業部門から工業部門へと農村の過剰労働力の移動がすすんだ。移行期においては、逆に工場をレイオフされた労働者が帰村する動きがみられ、農業部門がポーランドの失業問題の緩衝(かんしょう)装置ともなっている。

[渡辺博史]

交通

国内輸送の主力は長らく鉄道であったが、近年鉄道輸送の割合は低下傾向にある。鉄道網の総距離は2万3852キロメートル(2003)、鉄道輸送による貨物数量は1990年には2億8170万トンだったが、2000年には1億8720万トンとなっている。1970年代に道路網の整備が進み、自動車による貨物輸送が急増、道路輸送による貨物数量は10億8310万トン(2000)で、貨物輸送におけるトラック輸送の割合は80%を越えるに至った。また第二次世界大戦後は海上輸送の育成に努め、商船隊も充実した。

 なおチェコ、スロバキア、ハンガリーの海上輸送にはシュチェチン、グディニア、グダニスクのポーランド三大港が利用されている。

[渡辺博史]

文化

西欧的文化の発展

966年のラテン典礼によるキリスト教受容によって、ポーランドは、民族・言語はスラブでありながら、とりわけイタリア、フランスなどの西欧と深く結び付いた文化を発展させることになった。長い国家消滅の時期には、その民族的一体性を文化の「連続性」によって保ち続けた。コペルニクスやクラクフ大学の隆盛にみられる15世紀の学芸の発展、ポーランド文語を確立させ「ポーランド文学の父」とされるレイ、当時のスラブ世界最大の詩人でその後幾世代もの手本とされたコハノフスキらを輩出した16世紀ルネサンスが、ポーランド文化の絶頂期であった。バロック期に訪れた国家の没落と文化の衰退を救おうとする啓蒙(けいもう)主義は、クラシツキに代表される優れた作家・思想家を生んだが、彼らの努力は実らず、ポーランドは18世紀末以来三次にわたる列強の分割を受けた。

[小原雅俊]

ロマン主義と民族意識

19世紀前半の独立回復を目ざす相次ぐ民族蜂起(ほうき)の時期に成立したロマン主義は、強い愛国的性格をもつことになった。この時期以降、文学はポーランド人の民族意識の保持と民族的統合の核としての役割を担い、ポーランド文化のなかで特別な地位を占めることになった。ロマン主義はおもにフランスを中心とする亡命地で栄え、愛国心とフォークロア性、幻想性や神秘性の強い作品を生み出し、ミツキェビッチ、スウォワツキ、クラシンスキ、ノルビッドらポーランド文学史上最高の詩人群を輩出した。ポーランド・ロマン主義の真骨頂は詩の領域にあったがゆえに(またそのあまりにも強い愛国心のゆえに)世界的価値を獲得することがむずかしかったとすれば、それを補ったのがポーランド・ロマン派「ピアノの詩人」ショパンである。

 1863~1864年の一月蜂起敗北のあと、学問や教育、経済の発展を通じて独立の準備を目ざそうとする「実証主義」の運動がおこり、『クオ・バディス』のノーベル賞作家シェンキェビッチやオジェシュコバ、プルスらの優れた散文作家を生んだ。この流れのなかから出たのが現代物理学の礎(いしずえ)を築いたキュリー・スクウォドフスカ(マリー・キュリー)である。

 そのほか、文学者としては19世紀末から20世紀にかけて、自然主義とモダニズム運動のなかから長編四部作『農民』でノーベル文学賞を得たレイモントや、ポーランド・ロマン主義の伝統をよみがえらせたジェロムスキ、ポーランド現代演劇の祖ウィスピヤンスキらが出た。第一次・第二次両世界大戦の戦間期はトゥービムや戦後アメリカに亡命しノーベル文学賞を受けたミーワッシュ(ミウォシュ)も含む多くの詩人、ドンブロフスカ、ナウコフスカやもっとも20世紀的な作家群――ビトキェビッチ、シュルツ、ゴンブロビッチらを生んだ。

[小原雅俊]

第二次世界大戦後のポーランド文化

第二次世界大戦後のポーランド文化は、社会主義政権の誕生に伴う新しい文化政策と伝統的なカトリック的西欧への志向との間でさまざまな軋轢(あつれき)を経験しながら、高い芸術性と実験精神あふれる作品を生み出してきた。1976年ごろに始まる国家検閲を拒む地下出版の出現と1989年の社会主義体制の崩壊の結果、戦後文化を支えてきた制度的基盤が崩壊し、戦後文化自体の価値が疑問に付された。制度転換に伴う過渡期のなかから、文化と民族、政治、社会との結び付きの伝統やそれを生み出してきた言語とは決別した文化が育ちつつある。

 文学ではイワシュキェビッチアンジェイエフスキ、映画監督でもあるコンビツキの散文、レムのSF、ムロジェク、ルジェビッチの戯曲、カルポビッチTymoteusz Karpowicz(1921―2005)、ヘルベルト、1996年ノーベル文学賞を授与されたビスワバ・シンボルスカの詩が知られる。地下出版を経てヘルリンク・グルジンスキGustaw Herling Grudziński(1919―2000)、1980年ノーベル文学賞受賞者ミーワッシュ、フワスコなどの亡命文学も復権を遂げた。また、アイザック・シンガーやコジンスキー(コシンスキ)など亡命ユダヤ系ポーランド人作家やかつてポーランドの地で生まれたイディッシュ語のユダヤ文学の翻訳が次々と紹介されるようになった。ショパン以後の音楽では20世紀初めのシマノフスキー、第二次世界大戦後のルトスワフスキ、ペンデレツキ、ベールトTadeusz Baird(1928―1981)らが世界の作曲界での地位を確立した。

 第二次世界大戦中ドイツ占領下で徹底的破壊を受けた多くの文化遺産の復原作業が1970年代初めにいちおう完了し、10世紀ロマネスク以来の諸様式の建築が各地で保存されている。とりわけゴシック、ルネサンス、バロックの優れた建築、彫刻、絵画が各都市やよく整備された美術館でみることができる。戦後のポーランドのグラフィック・アートは世界的に高い評価を得ている。戦後のポーランド文化をもっともよく代表するのが、『灰とダイヤモンド』や『地下水道』のワイダ、『尼僧ヨアンナ』のカワレロビチ、さらにムンクAndrzej Munk(1921―1961)、ポランスキらの「ポーランド派」の映画、グロトフスキ、カントルらの演劇である。

 学問分野で世界的貢献をなした人では、社会学のズナニエツキ、民族学のマリノフスキー、論理学のウカシェビチ(ルカシェービチ)、タルスキー、現象学のインガルデン、言語学のボードアン・ド・クルトネー、クリウォビチ(クリロウィチ)、経済学のランゲ、カレツキ、数学のバナッフ(バナッハ)、オルリッチWładysław Orlicz(1903―1990)、哲学のコワコフスキLeszek Kołakowski(1927―2009)、シャフなど数多くあげることができる。

[小原雅俊]

放送・新聞

テレビの本放送は1953年に開始され、1970年テレビ第二放送が開始、カラー放送は1971年ワルシャワ局で始まった。1975年に衛星放送、1980年代にケーブルテレビが開始された。1992年末、それまで国営であったテレビ・ラジオは公営(日本のNHKのような形態)になった。テレビは1993年から、ラジオは1990年から民間放送が開始された。現在、テレビは公営の2局のほか、民営のポルサト、カナル・プルスと12の地方局がある。ラジオは公営の4局のほか、ラジオ・エスカ、ラジオ・ゼット、ラジオ・エルエムエフ、ラジオ・マリヤなどの民間局がある。

 新聞は社会主義時代は政党・政府の機関紙が主であったが、地下出版の開始とともに少部数の無数の新聞・雑誌が出た。1989年以後、「ガゼタ・ビボルチャ」など大部数の独立系の新聞が発行され、1990年の新聞・雑誌の民営化によって、「ジェチポスポリタ」「ワルシャワ生活」「トリブナ」など現在出ているおもな大部数の新聞がそろった。

[小原雅俊]

日本との関係

日本とポーランドの正式な国交が樹立するのは、ポーランドが第一次世界大戦後に独立してからのことであるが(1921年公使館相互設置、1922年通商航海条約締結、1941年第二次世界大戦による国交断絶、1957年国交回復)、相互への関心はもちろんそれ以前にも存在した。まずポーランドでは、19世紀末にフランスなどの影響もあって文学、美術、民俗学などを中心に日本への関心が芽生えたが、それが学術研究だけでなく一般のレベルで飛躍的に高まるのは日露戦争を契機としてである。独立を目ざすポーランド人が「敵の敵」日本に親しみを抱いたためで、1904年(明治37)のJ・ピウスツキ、ドモフスキという2人の傑出した政治指導者の来日もこの延長線上にある。

 独立後のポーランドにおいても、基本的には、日露戦争時に形成された日本観が受け継がれていったといえるが、とりわけ日本が第一次世界大戦で戦勝国となり西欧列強の仲間入りをしたことで、いよいよ「強国」日本のイメージが定着した。日本研究も独立とともに本格化し、1919年にはワルシャワ大学に初の日本語講座が開設された。第二次世界大戦後は日本の復興・高度経済成長に伴い、従来の「伝統の国」というイメージに「経済大国」「技術大国」のイメージが重ね合わされるようになり、その限りでは他の国々の日本観と大差はないが、日露戦争以来の親日感情はいまも健在である。戦後の日本研究は、国交回復に先だつ1955年ワルシャワ大学に再建された日本学科を足掛りとして再出発した。以来、世界的にみても高水準の日本語教育と、文学や古典芸能を中心とする地道な研究・啓蒙活動が行われている。1980年代にはクラクフのヤギェウォ大学、ポズナニのアダム・ミツキェビッチ大学にも相次いで日本学科が開設され、ポーランドの日本研究はいっそうの発展に向かっている。

 日本におけるポーランド観としては、政治的・歴史的観点からの「悲劇の国」および文化的観点からの「作曲家ショパンの国」という二つのイメージが併存しているといえよう。前者はそもそも明治維新後、富国強兵が進められるなかで定着したもので、ポーランドは反面教師ととらえられ、軍歌『波蘭(ポーランド)懐古』にも歌われた。しかし、こうしたイメージは他方で、歴史に翻弄(ほんろう)されてきたポーランド人への同情や共感として表現され、1980年代の自主労組「連帯」の運動への大きな関心も同一線上にあるものであろう。この一方でショパンからポーランドを想起する日本人は依然として多い。ポーランドに留学する日本人ピアニストも多く、ワルシャワのショパン・コンクールへの参加者は回を追うごとに増え、参加国中1、2位を争うまでになっている。第二次世界大戦後の日本映画に大きな影響を与えたといわれるポーランド映画の人気は根強いが、文芸作品のみならず、政治性・歴史性に富むワイダの作品への大きな関心は、以上のような日本人のポーランド観を反映しているように思われる。日本におけるポーランド研究は、ポーランドの日本研究が戦前からの伝統を有しているのに比べればまだ新しい。政府留学生の交換が始まり、ポーランド語を駆使できる研究者が育ってきた1960~1970年代からようやく本格化した。1991年(平成3)には初のポーランド語専攻課程が東京外国語大学に開設された。

 政治関係では、1987年1月、中曽根康弘(なかそねやすひろ)が日本の首相として初めて公式訪問し、同年6月国家評議会議長ヤルゼルスキが日本を訪れた。

 1989年のポーランドにおける共産党独裁体制の崩壊後は、官民とも交流は確実に拡大している。1990年1月には首相海部俊樹(かいふとしき)がハンガリーとともにポーランドを訪問し、冷戦終結を導いた立て役者としての両国に本格的な民主化支援を約束した。これ以後、日本は対日債務の返済免除、技術協力、食料援助などの形でポーランドの改革を支えている。1994年10月には日本の協力でワルシャワに私立の「ポーランド・日本情報大学」が設立された。また同年11月には映画監督のワイダが提唱し、日本の企業、一般市民が資金面などで協力したクラクフの「日本美術・技術センター」が開館した。ここは葛飾北斎(かつしかほくさい)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などの浮世絵や日本の美術工芸品、約1万点を集めた世界でも有数のコレクションが展示されている。1994年にはワレサ大統領、1998年にクワシニエフスキ大統領が訪日しており、2002年には天皇・皇后によるポーランド訪問が実現した。翌2003年には首相小泉純一郎がポーランドを訪問、2008年にカチンスキ大統領が訪日している。なお、2007年は日本とポーランドの国交回復50周年にあたり、各種記念行事が行われた。

 経済関係では、近年貿易額は徐々に拡大しており中東欧諸国のなかではハンガリー、チェコにつぐ貿易相手国となっている。おもな対日輸出品目は自動車部品、木材板など、輸入品目は機械類、電気機器類、輸送用機械などである。また、東欧最大の人口をもつポーランドの市場としての将来性や安く質のよい労働力を求めて日本企業の進出が進んでおり、投資や現地生産が徐々に拡大している。

[柴 理子]

『ポーランド大使館編、小原雅俊訳『ポーランドの国と人々』(1978・恒文社)』『阪東宏編『ポーランド入門』(1987・三省堂選書)』『宮島直機編『もっと知りたいポーランド』(1993・弘文堂)』『吉田忠正著『ポーランドのくらし――日本の子どもたちがみた、森と平原の国ポーランド』(1996・ポプラ社)』『足達和子著『ポーランドの民族衣裳』(1999・源流社)』『田辺裕監修・山本茂訳『図説大百科 世界の地理13 東ヨーロッパ』(2000・朝倉書店)』『渡辺克義編著『ポーランドを知るための60章』(2001・明石書店)』『田村和子著『ワルシャワの春――わたしが出会ったポーランドの女たち』(2003・草の根出版会)』『矢田俊隆編「東欧史」新版(『世界各国史 13』1977・山川出版社)』『宮島直機著『ポーランド近代政治史研究』(1978・中央大学生協出版局)』『山本俊朗・井内敏夫著『ポーランド民族の歴史』(1980・三省堂選書)』『ステファン・キェニェビッチ他編、加藤一夫・水島孝生訳『ポーランド史』全2冊(1986・恒文社)』『木戸蓊・伊東孝之編『東欧現代史』(1987・有斐閣)』『伊東孝之著『ポーランド現代史』(1988・山川出版社)』『A・ポロンスキ著、羽場久浘子監訳『小独裁者たち――両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』(1993・法政大学出版局)』『家本博一著『ポーランド「脱社会主義」への道――体制内改革から体制転換へ』(1994・名古屋大学出版会)』『中山昭吉著『近代ヨーロッパと東欧――ポーランド啓蒙の国際関係史的研究』(1995・ミネルヴァ書房)』『阪東宏編『ポーランド史論集』(1996・三省堂)』『高橋了著『ポーランドの九年――社会主義体制の崩壊とその後 1986~1995』(1997・海文堂出版)』『伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新版(1998・山川出版社)』『早坂真理著『革命独裁の史的研究――ロシア革命運動の裏面史としてのポーランド問題』(1999・多賀出版)』『伊藤定良著『ドイツの長い十九世紀――ドイツ人・ポーランド人・ユダヤ人』(2002・青木書店)』『白木太一著『近世ポーランド「共和国」の再建――四年議会と五月三日憲法への道』(2005・彩流社)』『アンブロワーズ・ジョベール著、山本俊朗訳『ポーランド史』(白水社・文庫クセジュ)』『加藤正泰・石川晃弘編『ポーランドの文化と社会』(1975・大明堂)』『工藤幸雄著『ワルシャワの7年』(1977・新潮社)』『中山研一著『ポーランドの法と社会』(1978・成文堂)』『工藤幸雄・岡田春夫・佐久間邦夫著『ポーランド革命――なにが問題なのか』(1981・亜紀書房)』『B・ゲッタ著、大空博・川島太郎訳『ポーランドの夏――激動の20日間』増訂新版(1981・新評論)』『工藤幸雄・筑紫哲也著『ポーランドの道――社会主義・虚偽から真実へ』(1981・サイマル出版会)』『D・シンガー著、加藤雅彦他訳『ポーランド革命とソ連』(1981・TBSブリタニカ)』『藤村信著『ポーランド――未来への実験』(1981・岩波書店)』『ヴェルシェフスキ著、小山真理子・影山純子訳『ポーランドの女性問題』(1981・三一書房)』『Y・マラノフスキ著、小山真理子訳『ポーランドの労働者たち』(1982・三一書房)』『ポーランド資料センター編訳『ポーランド不屈の「連帯」』(1983・柘植書房)』『梅本浩志・足達和子著『「連帯」か党か――ポーランド自主管理共和国へのプログラム』(1983・新地書房)』『D・マクシェーン著、佐藤和男訳『連帯――ポーランド自主労働組合』(1983・日本工業新聞社)』『T・コンヴィツキ著、工藤幸雄訳『ポーランド・コンプレックス』(1984・中央公論社)』『土谷直人著『ポーランド文化史ノート』(1985・新読書社)』『鳥山成人著『ロシア・東欧の国家と社会』(1985・恒文社)』『アンドルー・ナゴースキー著、工藤幸雄監訳『新しい東欧――ポスト共産主義の世界』(1994・共同通信社)』『伊東孝之編『東欧政治ハンドブック――議会と政党を中心に』(1995・日本国際問題研究所)』『ステファン・シレジンスキ他編、阿部緋沙子他訳『ポーランド音楽の歴史』(1998・音楽之友社)』『小林浩二・佐々木博・森和紀他編著『東欧革命後の中央ヨーロッパ――旧東ドイツ・ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリーの挑戦』(2000・二宮書店)』『A・J・シュヴァルツ著、西原春夫監訳、高橋則夫他訳『ポーランドの刑法とスポーツ法』(2000・成文堂)』『今野元著『マックス・ヴェーバーとポーランド問題――ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説』(2003・東京大学出版会)』『渡辺克義著『ポーランド人の姓名――ポーランド固有名詞学研究序説』(2005・西日本法規出版)』『岩田昌征編『ソ連・東欧経済事情』(1983・有斐閣)』『吉野悦雄訳・評注『社会主義経済改革論』(1987・木鐸社)』『小川和男・渡辺博史著『変わりゆくロシア・東欧経済』(1994・中央経済社)』『青山繁著『欧州の大国ポーランド――高成長の秘密』(1997・大蔵省印刷局)』『大津定美・吉井昌彦編著『経済システム転換と労働市場の展開――ロシア・中・東欧』(1999・日本評論社)』『木村武雄著『欧州におけるポーランド経済』(2000・創成社)』『西村可明著『ロシア・東欧経済――市場経済移行の到達点』(2004・日本国際問題研究所)』『木村武雄著『ポーランド経済――体制転換の観点から』最新第2版(2005・創成社)』『田口雅弘著『ポーランド体制転換論――システム崩壊と生成の政治経済学』(2005・御茶の水書房)』『和田正武・安保哲夫編著『中東欧の日本型経営生産システム――ポーランド・スロバキアでの受容』(2005・文眞堂)』『世界経済情報サービス編・刊『ポーランド(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』『日本東欧関係研究会編『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(1982・東欧史研究会)』『国際交流基金編・刊『ソ連・東欧における日本研究』(1984)』『ポロニカ編集室編・刊『ポロニカ 特集日本・ポーランド人物交流史』(1995・恒文社発売)』『阪東宏著『ポーランド人と日露戦争』(1995・青木書店)』『兵藤長雄著『善意の架け橋――ポーランド魂とやまと心』(1998・文芸春秋)』『阪東宏著『世界のなかの日本・ポーランド関係 1931―1945』(2004・大月書店)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ポーランド」の意味・わかりやすい解説

ポーランド

◎正式名称−ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska/Republic of Poland。◎面積−31万2685km2。◎人口−3851万人(2011)。◎首都−ワルシャワWarszawa(170万人,2011)。◎住民−ポーランド人。◎宗教−カトリック95%。◎言語−ポーランド語(公用語)。◎通貨−ズウォティ。◎元首−大統領,アンジェイ・ドゥダAndrzej Duda(1972年生れ,2015年8月就任)。◎首相−ベアタ・シドゥウオBeata Szydlo(2015年11月発足)。◎憲法−1997年5月国民投票で承認。◎国会−二院制。上院(定員100,任期4年),下院(定員460,任期4年)(2011)。◎GDP−5270億ドル(2008)。◎1人当りGDP−1万7481ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−20.2%(2003)。◎平均寿命−男72.3歳,女80.5歳(2013)。◎乳児死亡率−5.0‰(2010)。◎識字率−99%以上(2008)。    *    *ヨーロッパ中央部の共和国。〔自然〕 ドイツ,チェコ,スロバキア,ウクライナ,ベラルーシ,リトアニア,ロシアに接し,北はバルト海に臨む。国土の大部分が標高200m以下のポーランド平野で,ビスワ川,オドラ(オーデル)川の流域である。南部国境にズデーテンカルパティアなどの山脈が走り,最高点は標高2500m。気候は西岸海洋性と大陸性の中間。〔歴史〕 この地にスラブ人が本格的に定住するようになったのは7世紀になってからである。10−14世紀ピャスト朝の下で統一国家を形成したが,モンゴルの侵略とドイツ人の進出(東方植民)で荒廃した。14−16世紀ヤギエウォ朝の下で外国勢力を排し,ヨーロッパで有数の強国となった。以後選挙王制下で中央集権が弱まり,ロシア,プロイセン,オーストリアによるポーランド分割で1795年一時滅亡した。19世紀半ば以後数次の独立反乱を経て,第1次世界大戦末期の1918年共和国として再建された。第2次世界大戦でドイツに占領され,約300万のユダヤ人が殺された。1945年独立を回復し,1952年人民共和国憲法を制定した。1970年ゴムルカに代わり登場したギエレク政権は,西側との協力による高度経済成長政策をとり,1970年代前半は著しい発展をとげた。しかし石油危機の影響で1975年以降は経済不振に陥り,消費物資の値上げが相次いで行われたため,1980年工場労働者の賃上げストライキが各地で続発した。政府は労働者との交渉で大幅譲歩し,全国組織としての自主管理労組〈連帯〉(委員長ワレサ)を承認,労働者のスト権を認めた。1981年軍人のヤルゼルスキ国防相が首相,党第一書記に就任し,戒厳令を宣言,〈連帯〉幹部の逮捕に踏み切った。しかし1983年戒厳令を解除し,1984年政治犯の多くを釈放,1989年には〈連帯〉と円卓会議を開いて大幅な政治改革を断行した。その結果行われた同年の自由選挙では〈連帯〉側が圧勝し,〈連帯〉を主軸とする内閣が誕生,西欧型の市場経済の導入による再生を志向した。〔経済・産業〕 第2次世界大戦後数次の五ヵ年計画によって経済の社会主義化,工業化が進められ,工業部門での私有は全体の1%以下になったが,1989年以後,社会主義を放棄し,国をあげて経済改革に取り組んだ。鉄,石炭,天然ガス,銅,硫黄などの鉱産がある。南西部のシロンスク(シュレジエン)(冶金,化学),ワルシャワ(製紙,食品加工,機械),グダンスクを中心とするバルト海岸(造船)などが主要工業地帯。南西部の丘陵地帯で小麦を主産,中央部では,ライ麦,ジャガイモ,テンサイ,大麦などを産する。豚,牛の畜産もあり,森林資源も重要。ドイツとの貿易が多い。1995年世界貿易機関(WTO)に加盟した。また,1991年から旧東欧の先進的諸国と〈ビシェグラード四国協力〉を結んでいる。1998年ヨーロッパ連合(EU)加盟のための交渉を開始し,2004年5月に加盟した。ポーランド経済は,2000年代に国内インフラ整備を背景に堅実な経済成長を続け,2008年の世界金融危機の影響も最小限に切り抜けて,2010年以降の欧州経済危機のなかでも唯一プラスの経済成長率を達成している。若年人口の多さと教育水準の高さ(大学進学率はヨーロッパ最高レベル)が経済成長を支えている。EU議長国も務め,2012年からのユーロ導入を目指していたが,欧州債務問題の深刻化のなかで慎重姿勢に転じており,現政権は導入時期について明示していない。財政改革についても積極的に取り組んでおり,医療・年金制度改革などで大幅な財政削減を達成しつつある。→中欧〔政治〕 1993年の総選挙ではポーランド統一労働者党の流れをくむ民主左翼同盟が第一党となり,すでに分裂を始めていた〈連帯〉系勢力は惨敗した。1990年の大統領選に勝利したワレサも,1995年の大統領選では民主左翼連合のクワシニエフスキ党首に小差で敗れた(クワシニエフスキは2000年再選)。1997年の総選挙で〈連帯〉系勢力が勝利し,政権に返り咲いたが,2001年総選挙で,民主左翼連合が第一党になった。通貨はユーロには参加せずズウォティ。2005年9月の総選挙では保守系の〈法と正義〉が第一党となったが,2007年10月の総選挙で,最大野党の市民プラットフォーム(PO)が勝利,農民党と連立を組み,市民プラットフォームの党首トゥスクが首相に就任した。2010年4月,カチンの森事件の70周年追悼式典に出席したカチンスキ大統領の一行が,ロシアのスモレンスク郊外で飛行機墜落事故に遭い,大統領夫妻を含む政府高官94人が死亡するという悲劇に見舞われた。新大統領選出の選挙では,与党POのコモロフスキ下院議長が,死亡した前大統領の双子の兄であるヤロスワフ・カチンスキPiS党首を破って当選。2011年10月の総選挙では再び与党POが勝利,農民党との連立で第二次トゥスク内閣が発足した。2014年8月,トゥスク首相が次期欧州理事会議長に選出され,9月9日にトゥスク首相はコモロフスキ大統領に辞表を提出し受理された。9月22日,コモロフスキ大統領はエヴァ・コパチ下院議長を首班とする新内閣を任命した。トゥスク首相の首相在任期間(6年10ヵ月)は民主化後最長。2015年の大統領選挙ではアンジェイ・ドゥダが当選し大統領に就任,首相にはベアタ・シドゥウオが就任した。1999年NATO(北大西洋条約機構)に加盟。徴兵制度をとっていたが,2009年に廃止。2013年時点で約10万人の兵力をもつ。
→関連項目トルン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーランド」の意味・わかりやすい解説

ポーランド
Poland

正式名称 ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska 。
面積 31万1895km2
人口 3822万8000(2021推計)。
首都 ワルシャワ

中央ヨーロッパ東部,バルト海に面する国。北東はロシアリトアニアに,東はベラルーシウクライナに,南はチェコスロバキアに,西はドイツに接する。平均標高 173m,国土総面積の約 70%が標高 200m以下で,500mをこすのは総面積のわずか 3%である。マズリポモージェの二つの湖沼地帯からなる北部低地から,南に向かって少しずつ高くなり,スデティ山脈カルパート山脈にいたる。最高点はカルパート山脈西部の高タトリ山地(→タトリ山地)にあるゲルラホフスキーシュチート(2655m)。国土のほぼ中央部をウィスワ川が,東端をオドラ川(オーデル川)が,それぞれ多数の支流を伴って流れ,バルト海に注ぐ。気候は全般に大陸性気候で,年平均気温は南西部低地で 8℃,北東部で 6℃。年平均降水量は約 600mmで,山地では 800~1200mm,中央低地では約 450mm。国土の約 4分の1を広葉樹,針葉樹の混合林が占め,シカ,クマ,キツネなどが生息する。第1次世界大戦後,一時は絶滅を伝えられたヨーロッパバイソンも保護区外で見られる。鉱物資源は南部に豊富で,上シロンスク(→シュレジエン)の石炭を中心に,硫黄,鉄,亜鉛,鉛,銅などを産するほか,南東部では油田,天然ガス田の開発が進んでいる。ほとんどの住民が西スラブ人に属するポーランド人で,残りは同じ西スラブ系のカシューブ人やドイツ人など。公用語は西スラブ語系のポーランド語。宗教はキリスト教のカトリックが圧倒的多数を占める。国土の約半分が耕地化され,ジャガイモ,サトウダイコン,ライムギ,コムギ,オオムギなどの栽培,ブタやウシの飼育が行なわれる。工業は 1990年代初めから国営企業の民営化が推進され,食品,機械,金属,石油精製などが行なわれる。主要輸出品は機械,金属,食品,化学製品,家具などで,主要貿易相手国はロシアからヨーロッパ連合 EU諸国に切り替わっている。1999年北大西洋条約機構 NATO,2004年 EUに加盟。(→ポーランド史

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ポーランド」の解説

ポーランド
Poland

ヨーロッパ北部のバルト海に面した共和国。首都ワルシャワ
バルト海と南カルパティア山脈の間にあり,南ロシア平原から北ドイツ平原に至る地帯におよぶ。西スラヴ族によって9〜10世紀に統一され,1025年ボレスワフ1世が国王となり,ピアスト朝を始めた。13世紀モンゴル人とドイツ人の進出を東西から受けたが,カジミェシュ3世(大王,在位1333〜70)のもとで商工業や文化が発展した。14世紀にはリトアニアと同君連合を組み,ヤゲウォ朝が成立,東西に領土を拡大し,経済・文化も栄えて東欧ルネサンスの中心となった。しかし国内で大貴族の勢力が強くなり,1572年からは選挙王制となって国内の分権化が進み,1772年以来プロイセン・オーストリア・ロシア3国の3回にわたるポーランド分割によって滅亡した。ナポレオン1世はティルジット条約によってワルシャワ大公国をつくったが,ウィーン会議の結果,ロシアに従属するポーランド王国が成立した。ロシアからの完全独立をめざしてしばしば独立運動が起こったが,いずれも失敗し,独立の夢は第一次世界大戦後にもち越された。ヴェルサイユ条約によって独立共和国として成立したものの,領土は分割前の半分以下で,しかも領内に多数の異民族(ドイツ人・ウクライナ人・ベラルーシ人)を含み,産業も進まず,政治的混乱が続いて1926年にはピウスツキーによる軍事クーデタが起こり,独裁国家となった。第二次世界大戦が起こると,ドイツ軍の電撃的進出を受けて降伏し,ドイツとソ連に分割されたが,1941年夏の独ソ戦争の開戦後は全土がドイツ軍に占領され,住民は迫害を受けた。激しい抵抗運動が続き,1945年1月ソ連軍によって解放された。1952年には新憲法がつくられ,人民民主主義を唱え,ソ連の衛星国とされた。1956年にはポズナニ(ポーゼン)で反ソ暴動(ポズナニ暴動)が起こり,80年にはワレサを議長とする自主管理労組「連帯」が生まれ,自由化を要求して政府と対立。1989年選挙で「連帯」が圧勝し,非共産党政権が誕生して国名をポーランド共和国に変更した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ポーランド」の解説

ポーランド
Polska[ポーランド],Poland[英]

東ヨーロッパの国で,現在の国家は主にカトリック信仰の西スラヴ系ポーランド人からなるが,歴史的概念としては東方に広がり異民族を多く抱えた広大な地域をさす。10世紀後半に国家統一(ピアスト朝),キリスト教を受容。13世紀には封建的分裂が深化し,ドイツ人の進出やモンゴルの侵攻をこうむったが,その後再統一がなされ,東方に領土を広げた。1384年にリトアニアと連合しヤギェウォ朝となった(1569年のルブリン合同で正式に合体)。1410年にドイツ騎士団を破り,国家は強化された。この間,貴族(シュラフタ)は種々の特権を手に入れた。ヤギェウォ朝が断絶すると大貴族の寡頭支配が強まり,カザークの反乱やスウェーデンの侵入(「大洪水」)によって疲弊した。18世紀後半,国制改革が進められたが,3度にわたるポーランド分割で国家は消滅した。19世紀には独立回復を求め,何度か民族蜂起が起こった。1918年に独立を回復。小党乱立の不安定な時代が続くが,26年にピウスツキのクーデタが起こり,以後強権的な政治が続いた。39年,第二次世界大戦勃発と同時にドイツとソ連に分割占領され,41年の独ソ戦開始後はドイツの占領下に置かれ,厳しい占領政策の犠牲となった。ソ連軍によって徐々に国土は解放され,45年に挙国一致政府がつくられたが,その後48年を境に社会主義体制に移行した。89年の自由選挙で「連帯」が勝利して社会主義の時代は終焉を迎え,共和国となって現在に至っている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「ポーランド」の解説

ポーランド

ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーの交響曲第3番(1875)。名称は第5楽章がポーランドの舞曲のリズムを用いていることに由来する。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android