ヨハネ騎士団の後身。1309年以来ロードス騎士団となり,1530年神聖ローマ皇帝カール5世からマルタ島を譲渡され改称した。1798年ナポレオン1世に同島を奪われた後もこの名称で今日まで存続している。創立時(1113)の活動方針であった巡礼救護と十字軍戦闘を使命として,十字軍挫折後も対イスラム戦略を放棄せず,15~16世紀にはオスマン・トルコ軍と執拗に戦い続けた。病院経営の伝統と海軍力の保持を特色とする。1565年総長ラ・バレットJean Parisot de La Valette(1494-1568)の指揮下にトルコ艦隊の包囲を撃退し,71年のレパントの海戦では西欧連合軍の有力な一翼として勝因をなした。18世紀以降軍事面の衰退期に入り,同島撤退後は医療活動と慈善事業に専念するようになった。1834年ローマに本部を復活し,現在約9000人の聖俗会員が人道主義的団体として活躍しており,マルタ十字勲章の授与で知られている。
→ヨハネ騎士団
執筆者:橋口 倫介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかし,アラブがマルタから追放されたのは,13世紀フェデリコ(フリードリヒ)2世のときであり,アラブの影響は現在に至るまでマルタの文化に色濃く残っている。12世紀末以降のマルタは,政治的にはシチリアと運命をともにしていたが,1530年スペイン王カルロス1世(カール5世)はこの岩だらけの不毛な島を1522年にロードス島から追い払われたヨハネ騎士団(これ以降マルタ騎士団とも呼ばれるようになった)に与えた。以後マルタ島は騎士団の軍事力によって,キリスト教世界のイスラム(オスマン・トルコ)勢力に対する砦となり,65年の攻防をはじめとして何回かのオスマン帝国海軍の攻撃を撃退した。…
…イスラムの医療制度を導入して西欧各地に病院を設立し,癩者の収容施設もつくった。聖地失陥(1291)以後キプロス島に撤退して十字軍再興をはかり,ロードス島に本拠を移した(1309)が,オスマン・トルコ軍に追われ1530年以降マルタ島に移り〈マルタ騎士団〉と改称した。【橋口 倫介】。…
※「マルタ騎士団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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