フランス西部,シャラント・マリティム県の県都。人口8万0055(1999)。大西洋に面した海港都市で,中世にはハンザ同盟やネーデルラントの貿易商と交易し,商業の一大中心地として発展した。政治的にはイギリス,フランス両王家の争いに巻き込まれながらも大きな自治権を誇った。初めアキテーヌ公領に属していたが,1152年,アキテーヌ公領の女性相続人アリエノールがプラントジュネ家のアンリと再婚し,54年アンリがイギリス国王として即位(プランタジネット朝初代,ヘンリー2世)したため,イギリス領となった。しかし,1224年にはルイ8世の占領を受けてフランス領となった。その後,百年戦争中の1360年ブレティニー条約により再びイギリス領となったが,市民はこれに抵抗してフランス国王シャルル5世に門戸を開放(1372),代りに大きな自治権を認められた。
しかし,16世紀以降,市はプロテスタントの拠点となったため,これが独自の政治勢力となることを嫌った王権と対立するようになる。周囲を堅固な城壁で固めた市は,1573年と1622年の2度にわたって王権による武力攻撃をしりぞけた。だが,プロテスタント勢力が市の港を通じてイギリスの武力援助に頼り始めると,時の宰相リシュリューは断固とした処置を決意し,1627年海陸両面から攻撃を開始した。これに対し市民は籠城して頑強に抵抗を続けたが10ヵ月後ついに降伏,しかも1万8000人の市民が5000人に激減するほど大量の餓死者を出した末のことだった。この戦いの結果,市は自治権を剝奪され,市壁と要塞もとり壊された。また,戦後のアレスの王令(1629)によって,プロテスタントは,信仰の自由は維持されたものの政治的特権を奪われた。さらに,その信仰の自由さえも,ルイ14世時代の85年,ナントの王令の廃止を定めたフォンテンブローの王令により禁じられた。このとき,市内のプロテスタント商人,手工業者は数多く海外に亡命したため,先の戦争での打撃とあいまって市の経済は大きく停滞した。さらに18世紀には,フランス領カナダとの交易で繁栄を取り戻すかにみえた矢先,フランスが七年戦争で敗北したため,カナダ植民地がイギリスへ割譲され(1763),またもや発展がさまたげられた。
しかし,その後漁業と工業の都市として復興し,1881-91年に市の西部に新たにラ・パリス港が開かれたため,それまでより多くの船舶の出入りも可能となった。現在,旧港は観光船と漁船でにぎわっており,水揚高は国内第6位を占める。他方,ラ・パリス新港は貿易港として使用され,主として石油生成物や木材の輸入,穀物の輸出が行われている。しかし,長い間支配的であった港湾都市としての機能はしだいに比重を軽くしており,代わって造船,鉄道設備,自動車工業といった鉄鋼加工産業が現在の市の中心産業となっている。市内には,16世紀のルネサンス建築の市役所,18世紀の聖ルイ大聖堂など歴史的建造物も多い。
執筆者:林田 伸一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…〈ポアトゥーのしきい〉周辺では,生垣のまばらになった〈半ボカージュ〉がみられ,ポアティエ以北とニオール以南の石灰岩台地では,典型的なオープン・フィールド(開放耕地)となって,小麦,大麦,トウモロコシの栽培が行われる。
[産業]
人口の半分以上は田園にとどまっており,ポアティエ,アングレーム,ラ・ロシェルの三大都市でさえ人口は10万に達しない。人口の増加率もフランス全体の平均を下回っており,とくに南部のシャラント地方では人口の流出が目だっている。…
※「ラロシェル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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