デジタル大辞泉 「ルーズベルト」の意味・読み・例文・類語
ルーズベルト(Roosevelt)
(Franklin Delano ~)[1882~1945]米国の政治家。第32代大統領。在任1933~1945。の縁戚。民主党。ニューディール政策を実施して大恐慌に対処。また、ラテンアメリカ諸国との善隣外交を推進。第二次大戦中は連合国の戦争指導に当たるとともに、戦後の国際連合の設立にも努力。終戦を間近にして急死。ローズベルト。→トルーマン
アメリカ合衆国第32代大統領(在任1933~1945)。1月30日ニューヨーク州ハイドパーク生まれ。古い名門の家柄の出身で、第26代大統領セオドア・ルーズベルトは縁戚(えんせき)にあたる。ハーバード大学を卒業、弁護士を経て、1910年ニューヨーク州上院議員を皮切りに政界に入り、ウィルソン政権の海軍次官補を務めた。1920年の大統領選挙には民主党副大統領候補として出馬したが敗北、しかも翌1921年小児麻痺(まひ)(急性灰白髄炎)にかかり苦しい闘病生活を余儀なくされた。だがエレノア夫人の献身的な努力もあって1928年政界に復帰、ニューヨーク州知事に当選し(1929~1933)、大恐慌勃発(ぼっぱつ)後「小型ニューディール」とよばれることになる革新的政策を実施して注目を集め、1932年の大統領選挙で「ニューディール」のスローガンを掲げて当選した。
選挙運動期間中から学識経験者を集めて「ブレーン・トラスト」を組織し、政策の立案・企画にあたらせていたが、1933年3月政権につくや特別会期の「百日議会」を招集し、強力な指導力を発揮して矢つぎばやに政策を実現、最悪の経済危機をのりきることに成功した。彼には明確な体系立った政策構想があったわけではなく、矛盾した見解の人材を起用することも多かったが、むしろそのために政策選択の幅が広くなり、国民の要求を把握する優れた能力と相まって、現実の必要に柔軟に対処することができた。また「炉辺談話(ろへんだんわ)」と称したラジオ放送により、国民に直接語りかける政策説明や新聞記者会見の積極的な活用など、世論操作の面でも大衆政治家として卓越した手腕を示した。ニューディール政策の展開過程で社会改革や福祉政策を重視する一方、反独占の姿勢を強めて進歩派の指導者としての地歩を固め、1936年の選挙では「ルーズベルト連合」とよばれる広範な支持勢力を基盤に再選された。だが、全国産業復興法や農業調整法といったニューディールの主要立法に違憲判決を下した保守的な最高裁判所の改組を企てた結果、保守派に結束、反撃の機会を提供し、指導力の後退を招いた。
対外的には、元来ウィルソン流の国際主義者だったが、世論の孤立主義的風潮の下に、1935年以後、一連の中立法の制定に同調、1937年「防疫演説(ぼうえきえんぜつ)」でファシズム諸国の脅威について警告したが、積極的な対抗策は示さなかった。だが中南米諸国に対しては当初から善隣外交を推進し、西半球の地域的協力関係を強化した。第二次世界大戦が勃発すると、参戦を回避しながらも「民主主義の兵器廠(しょう)」として反ファシズム陣営を支援。ついで日本の真珠湾攻撃を機に参戦し、連合国側の戦争遂行に指導的役割を演じた。とくに当時のソ連との協調を重視しつつ、カイロ、テヘラン、ヤルタなど一連の首脳会談で活躍し、戦時の「大同盟」を基盤に戦後国際社会の再建を図ろうと尽力した。この間、1940年、1944年にアメリカ史上初の大統領3選、4選を果たしたが、大戦の終結を間近に控えた1945年4月12日脳溢血(のういっけつ)で死去した。記念図書館が生地ハイドパークにある。
[新川健三郎]
『中屋健一著『ルーズヴェルト』(1960・誠文堂新光社)』▽『新川健三郎著『ルーズベルト』(1971・清水書院)』▽『J・ガンサー著、清水俊二訳『回想のルーズベルト』(1969・早川書房)』
アメリカ合衆国第26代大統領(在任1901~1909)。10月27日ニューヨーク市の名家に生まれる。ハーバード大学に学び、若くして政界に入った。ニューヨーク州下院議員(1882~1884)、連邦公務員制度委員(1889~1895)、ニューヨーク市公安委員長(1895~1897)を務めたのち、1897年マッキンリー政府の海軍次官に登用され、翌1898年アメリカ・スペイン戦争が起こると、同職を辞して義勇軍を組織し、一躍国民的英雄となった。その後ニューヨーク州知事を一期務め、1900年共和党の副大統領候補として当選し、翌1901年マッキンリー大統領が暗殺されたことから大統領に就任した。彼の大統領就任期は革新主義の台頭期にあたった。アメリカ社会の調和ある統合を求め、またきわめて熱狂的で個性的な愛国者であった彼は、就任まもなく、この時期の連邦政治に革新主義的改革を行い、新たな争点を生み出していった。1902年炭鉱ストに介入、1904年に反トラスト法の実施を強化した。またそれに先だつ1903年、新設の商務労働省内に会社局を設置して、企業活動に対する調査規制を連邦政府の新しい行政課題とした。そのほか、自然保護を連邦政府の新しい課題としたのも彼であった。1904年再選されて第二期に入ると、彼の改革的施策は、鉄道料金に対する規制強化あるいは食品産業への衛生上の規制など、さらに多方面に及んだ。
外交面では、列強としてのアメリカの力を誇示し、アメリカ・スペイン戦争以来の帝国主義的対外進出、とくにラテンアメリカ、カリブ海地域への勢力拡大を求めた。その政策はしばしば軍事力を用いたきわめて強引なものであり、「棍棒(こんぼう)外交」Big Stick Diplomacyとよばれた。極東への関心も強く、1905年には日露戦争の調停に乗り出し、ポーツマス会議を斡旋(あっせん)した。1909年一度は政界から引退したが、その後、彼の後継者であるタフト共和党大統領に不満を抱き、1912年、共和党より分離した革新党から再度大統領選挙に出馬したが、民主党のウィルソンに敗れた。
[紀平英作]
『関西アメリカ史研究会編著『アメリカ革新主義史論』(1973・小川出版)』▽『有賀貞著『アメリカ政治史(1776―1971)』(1972・福村出版)』▽『斎藤真著『アメリカ政治外交史』(1975・東京大学出版会)』
アメリカの政治家、社会運動家。ニューヨーク市生まれ。1905年20歳のとき親戚(しんせき)のフランクリン・D・ルーズベルトと結婚。5児をもうけた。夫の政治生活を積極的に援助するほか、婦人問題、人権問題など広い分野で活躍。新聞に連載したコラムは500万の読者を得た。夫の死後も影響力をもち、1945~1953年には国連のアメリカ代表を務め、国連人権宣言の起草に積極的役割を果たした。主著に『私の日々』(1953)、『民主主義の道徳的基礎』(1940)がある。
[塚田広人]
『坂西志保訳『エリノア・ルーズヴェルト自叙伝』(1964・時事通信社)』
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ローズベルトを見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
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