一条通(読み)いちじようどおり

日本歴史地名大系 「一条通」の解説

一条通
いちじようどおり

平安京開設当初に開かれた一条大路にほぼ該当。「坊目誌」は「東は烏丸に起り、西は紙屋川に至り、葛野郡衣笠村に接す、(中略)文明中荒廃し、天正中再開して道路狭少す、始め京極に通せしが、土御門皇居造営に際し、烏丸以東は皇居地に入り閉塞す」と記す。

大路の広さについては「延喜式」左右京職の規定を解説して「京の水」は「一条 皇城北面の大路也。広サ十二丈、南つらハ皇城にして築垣ついぢあつサ七尺なり。これを半分道幅みちはヾにかけて三尺五寸とし、築垣よりほりまでをぜんちといふて二丈六尺五寸、隍の広サ八尺、又北頬ハすべて大路のせいにして築垣の厚サ六尺也。

一条通
いちじようどおり

[現在地名]旭川市一条通

明治三二年(一八九九)に新設された町。明治二五年一月旭川村市街予定地の区域設定では「ほ通」とされた。同二八年二月の字名変更により本町ほんまちとなる。同三二年八月の字名変更で一条通が設定され、昭和四年(一九二九)四月の町名変更で一―二四丁目が置かれた。明治二五年札幌警察署旭川分署が三丁目に設置。また四丁目に下村醸造所創業、五丁目に私立小学校共生黌きようせいこう開校

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報