三栖庄(読み)みすのしよう

日本歴史地名大系 「三栖庄」の解説

三栖庄
みすのしよう

おおよそ近世の三栖村・上三栖村下三栖村・富森村域内に比定される荘園中世を通じ上三栖庄・下三栖庄・三栖庄などと史料上に現れるが、実態は明確でない。

三栖が庄号を伴って現れる早い例は嘉禄元年(一二二五)六月付の山城安楽寿院公文所下文(山城橘木社文書)である。

<資料は省略されています>

この下文により、安楽寿院あんらくじゆいん領上三栖庄が鎌倉初期に存在したこと、三栖里一九坪等を内包していたこと、しかもそこには、安楽寿院公文所の補任にかかる下司が設置されていたことがわかる。

三栖庄
みすのしよう

三栖川(現左会津川)流域に成立した荘園で、初め摂関家領、のち後院領。荘域は上・中・下三栖および長野ながの一帯に比定される。

藤原為房の日記「為房卿記」永保元年(一〇八一)一〇月一日条に、熊野詣往路を記して「辰剋乗海人舟未刻着太万浦、同時越留三栖庄家散位正資秋津庄・那賀庄贈羇旅之資」とみえ、同七日条によれば為房は帰路も三栖庄家に宿している。当時の熊野街道田辺から上万呂かみまろ・下三栖を通り、ほぼ東進して山越えし、南方岩田いわた(現西牟婁郡上富田町)に至っていたとされ、「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月二二日条には「次行田之陪(田辺)、於王子社又奉幣、於此処天漸明、行程五十町許、自此以後海不見於萩生山口昼養、是右衛門督庄住人宅云々、巳刻、次越其山、於新王子社奉幣」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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