三田村四郎 (みたむらしろう)
生没年:1896-1964(明治29-昭和39)
労働運動家。本名は四朗。金沢市出身。高等小学校卒業後,大阪や東京で職業を転々とし,1916年大阪府巡査となる。社会主義運動を取り締まっているうちに,社会主義に関心をもつようになり,19年服務規律違反で免職となる。上京して平民大学で高津正道と知り合い,暁民会に入る。また,日本社会主義同盟に参加した。九津見房子と結婚して大阪に行き,総同盟に加入,大阪印刷労働組合を組織した。25年評議会の創設に参画し,中央常任委員,組織部長,政治部長を歴任,産業別整理・統一を指導した。26年には日本楽器争議を指導したが,弾圧された。同年日本共産党中央委員となる。29年四・一六事件で検挙され,無期懲役の判決を受け(求刑は死刑),控訴中にコミンテルンとの決別を表明,懲役15年となる。第2次世界大戦後,共産党への復党が認められず,日本労働組合会議,職場防衛連絡協議会(職場防衛講習会は三田村学校と呼ばれた)などを創設し,反共労働運動を指導した。
執筆者:岩村 登志夫
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三田村四郎【みたむらしろう】
労働運動家。本名は四朗。金沢市出身。少年時より職を転々としたあと,大阪府巡査となったが,社会主義に目覚め,1919年服務規律違反で免職となる。上京して印刷職工となり,暁民会に加盟,翌年日本社会主義同盟に参加した。九津見房子と結婚して大阪に移り日本労働総同盟に加入,大阪印刷労働組合を組織した。1925年日本労働組合評議会の創設に参画,組織部長,政治部長を歴任した。1926年には浜松の日本楽器争議を指導したが,弾圧を受ける。同年日本共産党中央委員候補となる。1929年四・一六事件で検挙され,無期懲役の判決を受けたが,控訴中にコミンテルンとの決別を表明,懲役15年となる。第2次大戦後,共産党への復党が認められず,日本労働組合会議,職場防衛連絡協議会などを創設,反共労働運動を推進した。
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三田村四郎 みたむら-しろう
1896-1964 大正-昭和時代の労働運動家。
明治29年8月25日生まれ。妻は九津見房子。大正14年日本労働組合評議会の結成に参加,15年浜松の日本楽器争議を指導した。同年共産党にはいり,昭和4年四・一六事件で検挙され,獄中で転向。戦後は反共労働運動に転じた。昭和39年6月20日死去。67歳。石川県出身。川口商業卒。本名は四朗。筆名は小泉保太郎。
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世界大百科事典(旧版)内の三田村四郎の言及
【日本楽器争議】より
…日本労働組合評議会([評議会])系の浜松合同労組の勢力が急速に浸透した同工場1300の労働者は,4月21日に衛生設備改善,最低賃金の保障など16項目の要求を提出,これが拒否されるとストライキに突入した。評議会本部は三田村四郎(1896‐1964)ら最高幹部を現地に派遣し,総力をあげて争議支援に取り組んだ。会社側が雇った暴力団の暴行や警察の弾圧は激しかったが,105日間の長期ストライキとなり,その過程で〈争議日報〉の発行など新しい戦術もあみ出された。…
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