上曾根村(読み)かみそねむら

日本歴史地名大系 「上曾根村」の解説

上曾根村
かみそねむら

[現在地名]中道町上曾根

甲府盆地の南部、白井河原しらいかわら村の南西にある。北の村境で南西流してきた鵜飼うかい(金川、現笛吹川)が笛吹川に合流する。中道往還が同川を渡って山梨郡落合おちあい(現甲府市)に通じる。地内はほぼ平坦で、南域は曾根丘陵の前縁と平地が接する辺りに勝山かつやま文殊もんじゆなどの小円丘がほぼ直線上に並ぶ。西側を間門まかど川が流れ、対岸は下曾根村。南の寺尾てらお(現境川村)から芋沢いもざわ川などが小円丘の間を流れ出ている。集落は村域のほぼ南部、小円丘の裾部や間の平坦地に形成されており、小村に中村・平岡ひらおか新居あらい(荒井)堀ノ内・文殊・壱里塚・堰ノ下・渡船場わたしばがあった(甲斐国志)。古くは下曾根村とともに曾禰そね(村)と称された。

慶長古高帳に上曾禰とみえ高九六八石余・新田高一〇八石余、幕府領。ほかに竜華りゆうげ院領三三石余、山王(現日枝大神社)領三石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本佐橋・水野・中根・伊川(飯河)の四氏の名がみえる。元禄郷帳では幕府領と旗本佐橋・水野・飯河・江原の四家領と竜華院領、山王権現領。飯河氏は慶長一九年(一六一四)、佐橋氏は寛永一一年(一六三四)に宛行われたと考えられ、中根氏は元禄二年(一六八九)に遠島(「寛政重修諸家譜」など)

上曾根村
かみぞねむら

[現在地名]利根町上曾根

利根川と小貝こかい川の合流点東方に所在。東は下曾根村。江戸時代の領主変遷は大平だいへい村に同じ。天明七年(一七八七)の上曾根村飢死并他出之者改帳(鈴木家文書)には「〆飢死五拾九人 〆四人何方か罷出帰不申候 〆三軒飢死跡絶申候」とあり、天明飢饉の厳しさがうかがわれる。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本建部徳次郎の知行地で村高二九一・二三五石。

上曾根村
かみぞねむら

[現在地名]上越市上曾根

下曾根しもぞね村の東に位置する。正保国絵図によると高一二八石余。近世末には高田藩預所。郷蔵があり、文政五年(一八二二)の蔵米点検書上控(上越市教育委員会蔵)によれば、米二五〇俵を収蔵していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報