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上杉鷹山 【うえすぎ・ようざん】

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朝日日本歴史人物事典の解説

生年: 宝暦1.7.20 (1751.9.9)
没年: 文政5.3.12 (1822.5.3)
江戸中期の米沢藩(山形県)9代藩主。名君として知られる。高鍋藩(宮崎県)藩主秋月種美の次男。母は秋月藩主黒田長治の娘春姫。祖母は上杉綱憲の娘豊姫。江戸生まれ。米沢藩上杉家の養子に入った。幼少の名は直丸,元服して治憲と改名。鷹山はのちの号名。鷹山が藩主となったのは明和4(1767)年で,米沢藩の藩政改革がそこから始まった。改革の指導についての鷹山の事績は,藩主の時代と隠退後の後見役としての時代に分けられる。藩主時代は,明和・安永期の改革を実施し,奉行竹俣当綱を執政として,農村支配機構整備(代官制改革),農村復興,産業の開発および藩校の興譲館の設立を進めたが,自らも食事は一汁一菜,衣は木綿着とし,奥女中の削減や仕切料を3分の1とするなど,徹底した質素倹約を実行した。政治に当たっても,厳正と寛大を旨とし,安永2(1773)年改革に反対する重臣による七家騒動に対しては,果断処置をもってのぞみ,安永改革の最大の功労者,竹俣当綱の失脚においても,厳正な処分を行っている。 当綱処分のあと間もなく自らも藩主隠退を決意し,天明5(1785)年新藩主となった治広に対して,有名な「伝国の辞」を贈っている。それは3カ条からなり,国家は先祖より子孫へ伝えるもの,人民は国家に属するもの,国家は人民のためにあるもので,君主自由にできるものではないという,君主専制を戒めたものである。この期の寛政の改革は藩主治広の治政下にあったが,鷹山の指導力が極めて大きかった。代官制の改革は連続して進められたが,上書箱の設置,藩主時代に制定した博打死刑制の廃止,国産物の多様化策など,新政策も積極的に実施されている。このときの執政は中老として登用された莅戸善政(太華)であった。鷹山は学問を学ぶことに熱心で,青年時代から読書を好んだ。江戸の折衷学者細井平洲を師とする鷹山は,3度平洲を米沢に招いたり,藩医を江戸や長崎遊学させるなど,実学として広く学問の導入奨励した。<参考文献>横山昭男『上杉鷹山』
(横山昭男)


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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

上杉鷹山 うえすぎ-ようざん
 
1751-1822 江戸時代中期大名
寛延4年7月20日生まれ。秋月種美の次男上杉重定養子となり,明和4年出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩主上杉家9代をつぐ。細井平洲に師事。竹俣当綱(たけのまた-まさつな),莅戸(のぞき)太華らを登用。倹約を奨励し,農村復興・殖産興業政策などにより藩財政を改革した。天明5年隠居。跡継ぎの治広にあたえた家訓「伝国之辞」は有名。文政5年3月12日死去。72歳。幼名は直松,直丸。名は治憲(はるのり)。
格言など】国家は,先祖より子孫へ伝え候国家にして,我(われ)私(わたくし)すべき物には是なく候(「伝国之辞」)

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(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

美術人名辞典の解説

江戸中期の大名。出羽米沢藩主。江戸生。日向高鍋藩主秋月種美の次男、米沢藩主重定の養嗣子。幼名は直丸・直松・勝興、鷹山は号、元服後十代将軍徳川家治に諱を与えられ治憲と改める。藁科松伯・細井平洲・滝長愷等に師事する。藩主になると質素倹約・殖産興業田畑の開墾等を実施し、さらに養蚕織物等の新産業の開発にも努めた。また農村振興により天明の大飢饉にも餓死者を出さず寛政期の藩政改革者としては最も優れた人物であった。文政5年(1882)歿、77才。


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大辞林 第三版の解説

うえすぎようざん【上杉鷹山】
 
(1751~1822) 江戸中・後期の大名。米沢藩主。名は勝興・治憲(はるのり)。鷹山は号。藩政の改革に努め,節倹を率先励行,財政改革・殖産興業・新田開発を行い,藩政を立て直した。藩校興譲館を設立。


(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

うえすぎ‐ようざん 〔うへすぎ‐〕 【上杉鷹山】
 
[1751~1822]江戸中期の米沢藩主。日向(ひゅうが)高鍋(たかなべ)藩主秋月種美の二男。上杉重定の養子。名は治憲(はるのり)。倹約・殖産興業政策などで、藩政改革に努めた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

上杉治憲 (うえすぎはるのり) 」のページをご覧ください。


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百科事典マイペディアの解説

上杉鷹山 【うえすぎようざん】

上杉治憲 」のページをご覧ください。


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世界大百科事典内の上杉鷹山の言及

【上杉治憲】より
…第10代米沢藩主。江戸時代の名君の一人。幼名松三郎,元服して治憲,のち鷹山(ようざん)と号した。日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生まれ,上杉重定の養嗣子となる。1767年(明和4)17歳で米沢藩主となった。治憲襲封以前の米沢藩政は動揺が激しく,宝暦年間(1751‐64),森平右衛門が郡代として藩政の実権をにぎったが,新政半ばにして菁莪社中のクーデタによって暗殺され,治憲の藩主就任とともに,奉行竹俣当綱(まさつな)を中心とする藩政改革が開始された。…
【藩政改革】より
…幕藩体制のもとで,個別領有の側面をもつが実施した政治的改革。幕藩体制社会を,太閤検地の施行を史的前提として,単婚小家族の小百姓を土地に緊縛し,これを身分制的に支配する封建社会と規定するとき,そこでの農政の基調は,小百姓の自立あるいは分裂による創出であり,維持であった。そして,そこでは領主の封建的大土地所有と小百姓の零細錯圃の占有とが対峙する関係にたっていた。江戸幕府は1643年(寛永20)3月に,田畑永代売買禁止令を出しているが,後者の占有内部に〈身上(しんしよう)能(よ)き〉百姓=〈徳人(とくにん)〉の輩出と極貧の小百姓経営の成立という分解をおそれてのことであった。…
※「上杉鷹山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。


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