上植野村(読み)かみうえのむら

日本歴史地名大系 「上植野村」の解説

上植野村
かみうえのむら

[現在地名]向日市上植野町

向日丘陵の東南端から平地部に位置する。東は菱川ひしかわ(現京都市伏見区)、南は馬場ばば(現長岡京市)、西は今里いまざと(現長岡京市)、北は鶏冠井かいで村。「上上野」とも記す。

当村は長岡京の推定条坊のほぼ三条一坊にあたる。延暦一四年(七九五)太政官符(「類聚三代格」所収)に次のように記す。

<資料は省略されています>

この太政官符が当村の地を示す初出で、平安遷都ののち、勅旨藍圃と近衛蓮池が設けられた。蓮池の地は最近まで痕跡をとどめていた。

条里制では八条榎小田里にあたることは、久我荘名田并散田等帳(久我家文書)の「サシツ次第」で推定されるが、貞観四年(八六二)一〇月一五日付太政官符案(仁和寺文書)に「応為貞観寺田地壱町肆段弐佰歩事」として「在山城国乙訓郡 八条榎小田里卅三坪三段 二反六(ママ)、元故左大臣地、三百廿歩、元故従四位下川辺女王田、而御与故左大臣既(ママ)券文明白也、承和十一年授田之日、須実注田、而誤収公 同条衾手里四坪壱町(下略)」とみえる。長岡京の条坊の地が公卿や官人に与えられていたが、廃都ののち条里制の農村に返ったことを示している。衾手里は榎小田里の東側。

「師守記」貞治六年(一三六七)九月一四日条裏書に「大炊寮領山城国乙訓上村雑掌国隆申、上々野郷御稲田事、上野兵庫助・太郎左衛門尉・中務丞等、号半済押妨云々、早止其妨、可沙汰付雑掌之状、如件」という、同月一〇日付の将軍足利義詮から伊与前司今川貞世に宛てた御判御教書写がある。御稲田は山城・河内・摂津国に散在し、天皇の日々の供御を上進した。近くには久世くぜ(現京都市南区)寺戸てらど菱川古川ふるかわ(現京都市伏見区)などがあり、合わせて乙訓上おとくにかみ村御稲とし、別に乙訓下村御稲があった。

上植野村
かみうえのむら

[現在地名]勝浦市上植野

下植野村西方に位置し、夷隅いすみ川が流れる。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。天保郷帳・旧高旧領取調帳では下植野村と合せて植野村一村として高付されている。元禄郷帳に村名がみえ、高四〇四石余。天和二年(一六八二)から宝暦元年(一七五一)まで勝浦藩領であった(永島家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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