下相野村(読み)しもあいのむら

日本歴史地名大系 「下相野村」の解説

下相野村
しもあいのむら

[現在地名]三田市下相野

上内神かみうちがみ村の北に位置し、西は播磨国美嚢みのう武士山むしやま新田野呂谷のろだに新田(現吉川町)。北境近くを相野川が貫流し、河岸段丘上には灌漑用溜池が多い。中世野鞍ののくら庄のうち。同庄の領家職は普成仏名ふじようぶつみよう(仏名院、山城醍醐寺子院)が伝承していたが、文永元年(一二六四)七月二九日の野鞍庄下司方雑掌申状案(醍醐寺文書)によれば、「野鞍庄内相野村領家職」は承元年中(一二〇七―一一)に仏名院主(円遍)から尼証阿に譲られたという。永仁三年(一二九五)五月四日の野鞍庄田数并米銭注進状案(同文書)によると、相野の定田は二町六反大、年貢は米三九石・銭六八貫四〇〇文であった。


下相野村
しもあいのむら

[現在地名]森田村下相野

田圃を隔てて西は浅田あさた村、南西漆館うるしたて村、東は富岡とみおか村へ続く。

天和三年(一六八三)広須御新田所図に上相野村のほかに相野村とあるのが、この村をさすと思われる。享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて六八町三反七畝七歩、村高は三九一・八九六石であった。うち田方は六三町六反七畝八歩で三七九・四三五石、上田から下々田まで設定され、下々田が四二町八反六畝一一歩、二一四・三一九石とあり、畑方は四町六反九畝二九歩で一二・四六一石、中畑と下々畑のみで、下々畑が三町三反五歩、三・二九九石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

メタン

化学式 CH4 。最も簡単なメタン系炭化水素で,天然ガスの主成分をなしている。また石炭ガスにも 25~30%含まれる。有機物の分解,たとえばセルロースの腐敗,発酵の際に生成され,沼気ともいわれる。また...

メタンの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android