下県郡(読み)しもあがたぐん

日本歴史地名大系 「下県郡」の解説

下県郡
しもあがたぐん

面積:三七〇・七八平方キロ
豊玉とよたま町・美津島みつしま町・厳原いづはら

対馬は古来より北部を上県かむつあがた、南部を下県しもつあがたと称するが、古代の下県郡は浅海あそう(浅茅湾)以南の総称であった。近世に浅海北岸にある仁位にい(現豊玉町)が下県郡に編入され、仁位郷と三根みね(現峰町)の境が郡境となった。東は対馬海峡(東水道)に面し、西は朝鮮海峡(西水道)に臨む。東部をヒガシ(東、東面)、西部をニシメ(西面)、内海部をアソウチ(浅海内)と歴史的に通称、外海に出張った荒磯をホカメ(外面)という。対馬は全体に南北の山が高く、中央部が溺れ谷になっているが、南部の郡域の山地は最高峰の矢立やたて(六四八・五メートル)をはじめ五〇〇メートル級の山嶺が南北に連なる。この対馬をはるか洋上から望むと中央部が水平線下に没し、二島のようにみえることがある。この北島が上県郡、南島が下県郡と称されるゆえんであるが、九州島とくに大宰府との距離からみた場合、この郡名の上・下は逆で、現在の下県郡の方こそ上県とするにふさわしい。しかし大宰府が置かれる以前から上県・下県の称があり、上県から日本海航路で上京するほうが、下県から瀬戸内航路で上京するよりも近かったので、都に近い方が上県、遠い方が下県とされたのである。

郡名の表記は下県で、その訓は「延喜式」神名帳にシモツアカタ(吉田本)、「拾芥抄」ではシモツアカタ、シモアカタ、シモカツ、「寛政重修諸家譜」では「しもあがた」とする。中世の下県郡域には古代郷名を継ぐ中世的な郡が四郡あらわれ、宗氏の島内支配の単位を直接反映したものになり、元禄一二年(一六九九)この郡名を郷名に変えるまで公的な郡として機能していた。したがってこの間下県郡は消滅し、対馬島の南部方面という意で下津郡または下郡と称され、シモツとよんでいた。

〔古代〕

浅海沿岸に旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡が多いが、南部は比較的少ない。耕作地の少ない浅海内に人々の居住が多かったのは、「魏志倭人伝」にいう「倭の水人」が「海物を食って自活し、船に乗って南北に市糴する」海の民であったからであろう。南部に遺跡が少ないのはこうした生業の拠点となる船泊の入江に恵まれていないためと考えられる。弥生時代から古墳時代の遺跡約四〇〇ヵ所のうち約半数が浅海の沿岸(現美津島町・豊玉町)に集中する。なかでも弥生時代中期・後期の主要な遺跡が浅海の北辺の仁位付近に多く、古墳時代には南辺のけち(現美津島町)に中心が移り、前方後方墳が出現する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報