日蓮宗の一派。京都妙覚寺住持の日奥(にちおう)を派祖とし,江戸幕府に禁教されたので〈禁教不受不施〉の名で有名。不受とは寺や僧侶が謗法(ほうぼう)(他宗)からの布施供養を拒否すること。不施とは謗法の寺社や僧侶に日蓮宗の信者は布施供養をしないこと。法華信仰だけを正しい仏法とした日蓮宗の立場からみると,謗法は諸宗無得道という邪信仰である。謗法からの布施供養はその邪を正すべき相手からの施物である。受容すると,邪を正す〈折伏(しやくぶく)〉の根拠は失われる。謗施の不受はこうして生まれ,不施はこれに付随して生じた。折伏と不受不施は表裏一体のものである。またいい換えると,折伏とは口角沫(あわ)を飛ばす宗論だけではない。謗法供養を拒否する不受不施も,謗法者にそれが拒否される理由が自己の信仰の邪性にあることを内省させる意味で,これも折伏の一法だった。だから不受不施の寺では謗法者が施物を投じうる賽銭箱は置かない。こうした不受不施は,折伏を教化の基本にすえて日蓮宗が大きく教線を全国にのばした室町時代に,宗内各門流に僧俗の守るべき宗制として広範に定着した。だが近世初頭,謗法者の豊臣秀吉が方広寺大仏の千僧供養に京都日蓮宗の出仕を命じたとき,この宗制を堅守して出仕を拒否した妙覚寺日奥ら不受不施派と,宗制よりも世俗の政権の命を重視して出仕した受不施(じゆふせ)派の2派に,日蓮宗は分裂した。そののち数十年間,宗内2派の対立抗争は激化し,問題の焦点は不受不施の宗制そのものの是非よりも,宗制という仏法と,王命という世法が対峙したとき,宗門や仏教者はいずれを選択すべきであるかという幕府の宗教統制政策の根幹に抵触する問題に移った。不受不施派は世法よりも宗制堅守を選択し法難甘受の立場を示したので,江戸幕府は1665年(寛文5)から全国的に不受不施禁教に踏み切った。
不受不施を堅守した僧は寺を追われ,以後明治初年まで,幕府が公認した日蓮宗の寺や僧侶や信者は受不施派日蓮宗に限られた。不受不施の信者は表面は受不施派の寺や他宗の寺の檀家となって寺請をとり宗門改めをのがれ,内心に不受不施信仰を守った。これを当時,内信(ないしん)とか内信者といった。いわゆる〈かくれ不受不施〉である。厳密な意味での不受不施派とは,この禁教後の地下教団を指していうことが多い。地下教団は全国各地にかくし庵をもち,内信-法立(ほうりゆう)-法中(ほつちゆう)-法灯(法頭)(ほうとう)の系列で組織された。法立は表面だけの転向さえ拒んで人別帳をはずれて無宿(むしゆく)や無籍となって家を捨て,法中に随身した強信者。法中は各地のかくし庵を転々する清僧。法灯は法中のなかの長老で,地方ごとに地方法灯がおり,ほかに全国法灯1人が教団全体を統一した。法灯クラスの多くは捕らえられ伊豆諸島などに流されたが,島から船便を利した秘密通信で本土のかくれ不受不施を教化指導した。内信らは組織内で符牒で呼ばれるなど,用心深く法網をくぐって信仰を維持した。江戸時代,不受不施派の主たる勢力地域は,江戸・京都・大坂の三都,房総半島,備前・備中・美作(みまさか)(岡山県下)だった。1876年政府は不受不施派再興を公認した。いま岡山県金川の妙覚寺を本山とする日蓮宗不受不施派がこれであり,同寺には禁教時代の遺物・文書が多数伝蔵されている。
執筆者:藤井 学
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日蓮(にちれん)宗の一派。不受不施とは受けず施さずということで、日蓮宗以外の他宗および不信者(謗法(ぼうほう)者)の布施供養(ふせくよう)を受けず、信者は謗法の僧に供養しないという、日蓮教団の信仰の清浄、純正を守るための宗規であり信条である。この不受不施義は、日蓮教団の形成・発展の初期は、公武の権力者は枠外にあった(王侯除外の不受不施制)が、室町時代に入ると公武も一般信者も同等にして差別なしとされ、宗祖日蓮以来の古制として厳守されてきた。1595年(文禄4)豊臣(とよとみ)秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請した。これを拒む日奥(にちおう)と柔軟派の日重(にちじゅう)とが対立、結局、日重派が大勢を占めたが、ここに不受不施の論争が展開することとなった。秀吉が没し、徳川家康の時代となると、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年(慶長5)対馬(つしま)に遠流された。1612年日奥は赦(ゆる)され、23年(元和9)江戸幕府は不受不施派に公許状を与えた。しかし、布施を受けることを認める京都側と、不受不施を主張する関東諸山はつねに対立した。幕府は初め、2派の対立抗争に介入せず、統制下に置くこともなかったが、1660年(万治3)ころ幕府機構の確立とともに全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を下付した。ここに、朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう))を中心に、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家(だんか)となり内心に不受不施を信ずる(内信(ないしん))者と、自ら戸籍を脱して無宿の者となり内信と法中の間にあって給仕する(法立(ほうりゅう))者とが自然に生まれ、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。不受不施派は教団形成後まもない1682年(天和2)のころ日指(ひざし)派(尭了(ぎょうりょう)派)と津寺(つじ)派(講門派)に分かれたが、1876年(明治9)4月、尭了派の釈日正(しゃくにっしょう)が「日蓮宗不受不施派」を再興し、派名公称の許可を得、84年3月に講門派の釈日心(しゃくにっしん)は「日蓮宗不受不施講門派」の公許を得た。
[望月良晃]
『宮崎英修著『不受不施派の源流と展開』(1969・平楽寺書店)』▽『相葉伸著『不受不施派殉教の歴史』(1976・大蔵出版)』
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日蓮宗の一派。不受は他宗の信者や未信者から供養・施物をうけないこと。不施は他宗の僧に布施供養をしないこと。日奥(にちおう)が1595年(文禄4)豊臣秀吉主催の千僧供養会を欠席し,99年(慶長4)徳川家康の面前でもその教義を貫きとおして,受不施派と対立したことに始まる。日奥は対馬に配流となり,以後も江戸幕府の弾圧をうけた。1876年(明治9)日正の要請で派名と宗意の公布が許された。
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…こうして賽銭の目的も多彩となり,敬虔な報謝の性格から,神仏の加護や利益を取引しようとする一種の投資的な祈念をこめた散銭もあった。中世後期から盛行した名神大寺への庶民群参の風潮とあいまって,ほとんどの社寺に賽銭箱が設けられたが,ただ日蓮宗不受不施派(ふじゆふせは)の寺院だけにはこの箱が置かれなかった。賽銭には謗法(ほうぼう)(他宗の人)の銭がまじるからである。…
…日蓮宗不受不施派の派祖。京都町衆の子。…
…池上の学室に入り,1619年(元和5)鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺,池上本門寺両山の住持となり,また浅草長遠寺を開創した。日奥に学問的に私淑し,中山法華経寺日賢,小西檀林日領,本土寺日弘らとともに池上を中心とした関東学派の不受不施派を唱和し,本満寺日重,身延日乾らを中心とする身延・関西学派の受不施派と対抗した。ことに30年(寛永7)幕命により,江戸城内で行われた身池対論には不受不施派を代表して出席し,受不施派と激しく法論を行ったが,同派は禁教に処され,彼も信州伊奈に流された。…
…寺地の広さは洛中では東寺・相国寺・妙顕寺につぎ,地方末寺も多く,寺勢の強大さが知れる。江戸初期,住持日奥が幕府の弾圧にも屈せず不受不施の宗義を説き,受不施派の身延山と対立,1630年(寛永7)の身池対論(しんちたいろん)まで不受不施派の拠点となった。現存堂宇のほとんどは1788年(天明8)の大火後の再建。…
※「不受不施派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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