与謝蕪村(読み)ヨサブソン

デジタル大辞泉 「与謝蕪村」の意味・読み・例文・類語

よさ‐ぶそん【与謝蕪村】

[1716~1784]江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のち与謝と改める。蕪村は俳号。別号、宰鳥・紫狐庵。画号、四明・長庚・謝寅など。江戸に出て俳人早野巴人はやのはじん(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名のった。浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、中興俳諧の中心的役割を果たした。絵画では、池大雅いけのたいがとともに日本南画の大成者とされる。著「新花摘しんはなつみ」「夜半楽」「蕪村句集」など。
大野洒竹によるの評伝。明治30年(1897)刊。

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共同通信ニュース用語解説 「与謝蕪村」の解説

与謝蕪村

与謝蕪村よさ・ぶそん 江戸中期の俳諧師、画家。江戸俳諧中興の祖とされる。独創性を失った当時の俳諧を憂い、蕉風(松尾芭蕉まつお・ばしょうと門流の俳風)への回帰を唱えた。写実的な発句を得意とした。代表句に〈春の海終日ひねもすのたりのたりかな〉〈なの花や月は東に日は西に〉〈さみだれや大河を前に家二軒〉など。正岡子まさおか・しき規の俳句革新に大きな影響を与えたことでも知られる。文人画でも大成した。

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精選版 日本国語大辞典 「与謝蕪村」の意味・読み・例文・類語

よさ‐ぶそん【与謝蕪村】

  1. 江戸中期の俳人、画家。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の農家に生まれた。本姓谷口、のち与謝。別号宰鳥、夜半亭二世。画号四明・春星・謝寅など。一七、八歳のころ江戸に出て、画や俳諧を学び、俳諧の師巴人が寛保二年(一七四二)に没してからは江戸を去り、一〇年あまり東国を放浪した。宝暦元年(一七五一)京都に移ってからは、しだいに画俳ともに声価を高め、明和七年(一七七〇)には夜半亭を継ぎ宗匠の列につらなった。さらに安永二年(一七七三)には「あけ烏」を刊行し、俳諧新風を大いに鼓吹した。俳風は離俗、象徴的で美的典型を示しており、中興俳諧の指導的役割を果たした。一方、画にすぐれ、大雅と並び文人画の大成者といわれる。著「新花摘」「夜半楽」「玉藻集」など。句集に「蕪村句集」がある。享保元~天明三年(一七一六‐八三

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朝日日本歴史人物事典 「与謝蕪村」の解説

与謝蕪村

没年:天明3.12.25(1784.1.17)
生年:享保1(1716)
江戸中期の俳人,画家。俳号として別に夜半亭,落日庵,紫狐庵など。画号は長庚,春星,謝寅など。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれ。本姓は谷口氏と伝えられるが,丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち,与謝の姓を名乗る。20歳ごろ江戸に出て夜半亭(早野)巴人の門人となるが,巴人没後,結城の砂岡雁宕ら巴人門下の縁故を頼り,約10年にわたり常総地方を歴遊する。宝暦1(1751)年,36歳のとき上京,その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが,京都を定住の地と定めてこの地で没した。この間,明和7(1770)年,55歳のときには巴人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが,画業においても,53歳のときには『平安人物志』の画家の部に登録されており,画俳いずれにおいても当時一流の存在であった。池大雅と蕪村について,田能村竹田が『山中人饒舌』の中で「一代,覇を作すの好敵手」と述べている通り,早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。俳諧はいわば余技であり,俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく,趣味や教養を同じくする者同士の高雅な遊びに終始した。 死後松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが,生き方にならおうとはしなかった。芝居好きで,役者や作者とも個人的な付き合いがあり,自分の家で人に知られないようにこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話がある。小糸という芸妓とは深い関係があったらしく,門人の樋口道立 から意見をされて「よしなき風流,老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。彼が故郷を出たのは何か特殊な事情があるらしく,郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後も故郷に帰った形跡はまったくない。<参考文献>森本哲郎『詩人与謝蕪村の世界』,尾形仂『蕪村自筆句帳』,清水孝之『与謝蕪村の鑑賞と批評』,山下一海『戯遊の詩人与謝蕪村』

(田中善信)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「与謝蕪村」の意味・わかりやすい解説

与謝蕪村
よさぶそん

[生]享保1(1716).摂津
[没]天明3(1783).12.25. 京都
江戸時代中期の画家,俳人。本姓,谷口。別号,宰町,宰鳥,落日庵,紫狐庵,夜半翁,夜半亭2世。画号,長庚,春星,東成,謝寅 (しゃいん) など。豊かな農家に生れたが,両親と家産を失い,17~18歳頃江戸に下り,絵画,俳諧を志した。俳諧は内田沾山,夜半亭早野巴人に師事。寛保2 (1742) 年巴人没後,下総結城の友人砂岡雁宕 (いさおかがんとう) 方に身を寄せ,以後 10年間常陸,下総を中心に放浪生活を続け,画俳の基礎を固めた。延享1 (44) 年 29歳のとき蕪村と改号,翌年和詩『北寿老仙をいたむ』を書いた。宝暦1 (51) 年京都へ移住,以後約 10年間,画業を主とし画名大いにあがった。明和7 (70) 年夜半亭2世を継ぎ,京都俳壇の中心人物となり,池大雅と合作の『十便十宜』を描き,画俳ともに大成期を迎えた。句日記『新花摘』,連句『桃李 (ももすもも) 』 (80) ,追悼集『から桧葉』などがある。高い美意識や教養に基づく感性的,ロマン的作風で,中興期俳壇を代表する俳人。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「与謝蕪村」の解説

与謝蕪村 よさ-ぶそん

1716-1784* 江戸時代中期の俳人,画家。
享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東,奥州を遊歴し,宝暦元年京都にうつる。写実性,浪漫性,叙情性にとむ俳風で中興期俳壇の中心的存在となる。晩年は蕉風(しょうふう)復興を提唱。画家としては文人画を大成,代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。天明3年12月25日死去。68歳。摂津東成郡(大阪府)出身。本姓は谷口。俳号は別に夜半亭,紫狐庵など。著作に俳体詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」,句日記「新花摘(しんはなつみ)」など。
【格言など】しら梅に明くる夜ばかりになりにけり(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「与謝蕪村」の解説

与謝蕪村
よさぶそん

1716〜83
江戸中期の俳人・文人画家
本姓谷口,画号謝寅 (しやいん) 。摂津(大阪府)東成郡の富農の出身。江戸で早野巴人 (はじん) に俳諧を学び,また書・画・漢詩をおさめ,のち京都に定住。文人画の大家として池大雅と並称され,合作の『十便十宜図』は有名。また蕉風俳諧を信奉して,絵画的・ロマン的な句で俳諧を中興した。著書に句集『蕪村七部集』など。また『奥の細道図屛風』など俳画の確立者でもある。

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改訂新版 世界大百科事典 「与謝蕪村」の意味・わかりやすい解説

与謝蕪村 (よさぶそん)

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百科事典マイペディア 「与謝蕪村」の意味・わかりやすい解説

与謝蕪村【よさぶそん】

蕪村

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「与謝蕪村」の解説

与謝蕪村
よさぶそん

蕪村(ぶそん)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「与謝蕪村」の意味・わかりやすい解説

与謝蕪村
よさぶそん

蕪村

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世界大百科事典(旧版)内の与謝蕪村の言及

【蕪村】より

…江戸中期の俳人,文人,画家。姓は谷口,のち与謝(よさ)と改める。俳号は落日庵,紫狐庵,夜半亭など,画号も四明,朝滄(ちようそう),長庚,春星など数多い。摂津国東成郡毛馬村(現,大阪市)に生まれ,享保(1716‐36)の末年に江戸に下った。俳諧を学ぶが,1737年(元文2),京から江戸に戻った夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))の内弟子となり,宰町の号で江戸俳壇に出る一方,絵画にも親しむ。また服部南郭(なんかく)の講義にも列席したらしい。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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