中国(読み)チュウゴク

デジタル大辞泉 「中国」の意味・読み・例文・類語

ちゅう‐ごく【中国】


国の中央の部分。天子の都のある地方。
諸国の中央の意で、自国を誇っていう語。
律令制で、人口・面積などによって諸国を大・上・中・下の四等級に分けたうちの第三位の国。安房あわ若狭能登など。
律令制で、都からの距離によって国を遠国おんごく・中国・近国に分類したうちの一。駿河するが越前出雲いずも備後びんごなど。
山陽道山陰道を合わせた称。

ちゅうごく【中国】

中華思想に基づいて自ら称した名》アジア東部の大半を占める国の通称。前16世紀ごろから前11世紀ごろにかけて、黄河流域にいん王朝が起こり、以後、三国南北朝などの時代を経て、1912年共和制中華民国が成立、1949年中華人民共和国となる。→中華人民共和国

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精選版 日本国語大辞典 「中国」の意味・読み・例文・類語

ちゅう‐ごく【中国】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 国の中央の部分。天皇の都のある地方。畿内。くになか。
      1. [初出の実例]「是以聖王立制、亦務辺者、蓋以中国也」(出典:続日本紀‐養老六年(722)閏四月乙丑)
      2. [その他の文献]〔詩経‐大雅・民労〕
    2. 諸国の中央。自国を誇っていう語。中華。
      1. [初出の実例]「君呉越を并られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且ク伏兵、隠武、待時給ふべし」(出典:太平記(14C後)四)
      2. [その他の文献]〔礼記‐中庸〕
    3. 国のなか。国内。くになか。〔孟子‐滕文公上〕
    4. 令制で、人口などによって国を大・上・中・下の四等に分類したうちの第三等の国。延喜民部式では安房(千葉県)・若狭(福井県)・能登(石川県)・佐渡(新潟県)・丹後(京都府)・石見(島根県)・長門(山口県)・土佐(高知県)・日向(宮崎県)・大隅(鹿児島県)・薩摩(鹿児島県)の一一か国。
      1. [初出の実例]「中国 守一人。掾一人。目一人。史生三人」(出典:令義解(718)職員)
    5. 令制で、都からの行程の長短、所要日数によって国を遠・中・近国に分類したうちの一つ。延喜民部式では遠江(静岡県)・駿河(静岡県)・伊豆(静岡県)・甲斐(山梨県)・飛騨(岐阜県)・信濃(長野県)・越前(福井県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越中(富山県)・伯耆(鳥取県)・出雲(島根県)・備中(岡山県)・備後(広島県)・阿波(徳島県)・讚岐(香川県)の一六か国。〔令集解(701)〕
    6. 仏典などで、国家の規模を大・中・小・粟散(そくさん)の四等に分類したうちの第二等の国。
      1. [初出の実例]「かの十六の大国にもこえ、五百の中国(チウゴク)にも勝たり」(出典:金刀比羅本保元(1220頃か)上)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 山陽道と山陰道とを合わせた称。また、その地方の一六か国をいう。古くは山陽道をさして用いる。山陰道と南海道の、あるいは近畿と九州の中間に位するのでいう。
    2. [ 二 ] 漢民族の居住地。アジア大陸の東部に出現した歴代王朝の通称。古来、漢民族は周辺の外民族を蛮夷と称し、自らは世界の中心にあるとしてこれを自称。以来、この地に建国した王朝はほとんどこの名称を用いた。その範囲は、殷・周・秦・漢時代には、ほぼ華北に限定されていたが、三国・晉・南北朝時代には江南、唐代には広東、宋代に福建・江西、明代に雲貴・広西の各地にまで広がり、清代にはさらに満州・蒙古などの一部に及んだ。一九四九年、中華人民共和国の成立以来、その領土はすべて中国と規定されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国」の意味・わかりやすい解説

中国
ちゅうごく

中国という語は、固有名詞としては、現在、漢字を使う国々では中華人民共和国や中華民国(台湾)の国名として用いられるが、もともとは文字通り中心の国(地域)という意味であって、その範囲も、国都のような中心地から、中原(ちゅうげん)とよばれる黄河下流域の古代文明圏、さらには広く漢民族の支配する領域をさすなど、時代や状況に応じてさまざまに変化した。近代以前においては、この国は、たとえば漢や唐のように、それぞれの王朝名が同時にその名であり、外国からもそのようによばれるのが通常であった。西欧語のChina系の語は最初に西欧に知られた秦(チン)王朝からきたものであり、日本で前近代にこの国を唐(カラ)国、人々を唐人とよんだのは、日本にとって唐代の交流がもっとも盛んであって強い印象を残したからであった。また仏教系の用語として伝わったシナ(支那)という語が、江戸時代から一般にも使われるようになり、第二次世界大戦まではよく使われた呼称であったが、現在では中国がもっとも一般的である。

 この国が中国をその呼称としても用いるのは、中華(中夏)や華夏(かか)という語と同じく、この国が世界の中心であるという中華思想に基づいて、自己を誇示するときであった。したがって朝鮮や日本など、中華思想の影響を受けた国では、自国を誇示する意識をあらわす場合、やはり自国を中国とよんでいる(これを小中華思想という)。ちなみに日本の本州西部を中国地方とよぶのは、都のある畿内と第二の中心であった大宰府(だざいふ)を中心とする西国との間にある国々という意味で、中華思想による中国という呼称ではない。

 現在、中国の面積は、約960万平方キロメートル、世界の陸地面積の約15分の1、アジア州の面積の4分の1を占め、ロシア連邦、カナダに次いで世界第3位である。その領域は、北は黒竜江(こくりゅうこう/ヘイロンチヤン)省の北端で北緯53度を越え、南は海南(かいなん/ハイナン)省で北緯18度、中国の主張どおりに南沙群島(なんさぐんとう/ナンシャーチュンタオ)まで入れると北緯4度まで及ぶ。西は東経73度、東は黒竜江省の東端で東経131度に達する。これは最後の王朝であった清朝の境域をほぼ引き継ぐもので、その辺境地域には康煕(こうき)帝、乾隆(けんりゅう)帝などによるたび重なる軍事的遠征や外交的交渉によって獲得した非漢民族の領域を含む。

 陸上の国境線の長さは2万キロメートル余だが、インドとの国境など、いまだに国境の位置が未確定な部分も残されている。陸上で国境を接している国は、東の北朝鮮、北のモンゴル、北東から北にかけてのロシア連邦、北西のカザフスタン、キルギス、タジキスタン、西から南西にかけてのアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、南のミャンマー、ラオス、ベトナムの14か国に上る。また中国の東部は海洋に臨んでいて、太平洋の縁海にあたる渤海(ぼっかい/ポーハイ)、黄海(こうかい/ホワンハイ)、東シナ海(中国では東海とよぶ)、南シナ海(中国では南海とよぶ)が南北に並ぶ。海岸線の総延長は3万2000キロメートル余、うち大陸の海岸線は、北は鴨緑江(おうりょくこう)河口から南はベトナム国境の北侖(ほくりん)河河口まで1万8000キロメートル余である。海南島をはじめとする約5000の島があり、その86%は杭州(こうしゅう/ハンチョウ)湾以南の大陸近海と南シナ海に分布している。そのうち最南方にある南沙群島はその所属について、ベトナムおよびフィリピンと係争中であり、また魚釣(うおつり)島その他からなる、台湾島北東方の尖閣(せんかく)群島については、日本との間で互いに領有権を主張している。また前記の各海を隔てて隣り合っている国としては、韓国、日本、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、インドネシアがあげられる。

 この広大な領域の有する自然はまことに多様で、高度でいえば世界最高峰8848メートルのエベレスト(チョモ・ランマ)を擁するヒマラヤ山脈が国土の西南にそびえる一方、海抜より150メートル低い低地(艾丁(アイディン)湖)が、西北地方のトルファン盆地の中にある。ヒマラヤ山脈に連なるチベット高原から西南の雲貴(うんき/ユンコイ)高原にかけての地帯は、人間の居住がみられる世界でもっとも広大な高原であり、内蒙古(もうこ)から東北にかけての地帯には、世界でも有数の面積をもつ草原が広がる。気候でみれば、最北端の黒竜江では1月の平均気温が零下30℃にまで下がるのに対し、同じ時期に最南端の海南島では20℃を下らない。しかし7月には黒竜江でも平均気温が20℃にあがる。年間降水量でも、東南海岸では1600ミリメートルを越えるのに対し、内陸の西北部では20ミリメートル以下と、ほとんど雨が降らない砂漠がある。

 このような多様な自然のもとには、それに呼応して多様な文化が発達し、多様な生活様式が展開している。またこの領域を舞台としてたくさんの民族が興亡を繰り返し、お互いに交渉を繰り返しながら、全体として長く複雑な歴史を築いてきた。モンゴル族、ウィグル族、回族、チベット族、壮(チワン)族など、現在、公式に認められている非漢民族(少数民族)は55、総数で約1億人、総人口(約13億)の8.2%(2000年)を占める。

 ユーラシア大陸の東端であるこの地域に人類がいつごろ出現したかについては、日中戦争前の1933年までに北京(ペキン)郊外周口店(しゅうこうてん/チョウコウティエン)で発見された北京原人(約46万~23万年前)が有名であるが、その後、各地で化石人骨が発見され、すこし前まで、中国で発見された古人骨のうちもっとも古いとされていた元謀(げんぼう)人(雲南(うんなん/ユンナン)省で出土、約170万年前)や藍田(らんでん)人(陝西(せんせい/シャンシー)省西安(せいあん/シーアン)南方で出土、80万年前)よりも古いとされる化石原人・猿人(500万年前とされる雲南の禄豊(りょくほう)猿人、200万年前とされる重慶(じゅうけい/チョンチン)の巫山(ふざん)人など)の発見があり、東アジアにおける人類の進化や旧石器時代については、今後の研究成果がまたれる。

 新石器時代文化についても、最近の考古学的発掘によって、新しい知見がどんどん加えられている。20世紀初期に陝西省西安の近く仰韶(ぎょうしょう/ヤンシャオ)で発見された新石器文化(紀元前5000年ころ)は、色鮮やかな文様をもつ陶器が特徴で、彩陶文化とよばれ、黄河文明の誕生を示すものとされてきたが、その後、より古い裴李崗(はいりこう)文化(河南(かなん/ホーナン)省西部、紀元前約7000年)や老官台(ろうかんだい)文化(陝西省東部、紀元前6000年)などが各地で発見され、そのなかから仰韶文化が生まれたと考えられている。同じころ、山東半島を中心にした東部には大汶口(だいぶんこう)文化、甘粛(かんしゅく/カンスー)・青海(せいかい/チンハイ)など西部には馬家窯(ばかよう)文化、遼寧(りょうねい/リヤオニン)から内蒙古南部など北部には紅山(こうざん)文化など、それぞれの地方的特長をもった文化が成立し、紀元前2500年ころには、黒陶土器で知られる竜山(りゅうざん)文化が広い範囲を覆うようになる。

 一方、黄河流域のみならず、長江(ちょうこう/チャンチヤン)の流域でも紀元前6000年にさかのぼる河姆渡(かぼと)遺跡(浙江(せっこう/チョーチヤン)省東部)をはじめ、馬家浜(ばかひん)文化(浙江省西部、紀元前5000年)、大渓(だいけい)文化(四川(しせん/スーチョワン)省東部、紀元前4000年)、良渚(りょうしょ)文化(浙江省東部、紀元前3300年)、屈家嶺(くっかれい)文化(湖北(こほく/フーペイ)省中部、紀元前3000年)などの文化が成立しており、畑作を生産基盤とした黄河文明に対し、稲作を基盤とした長江文明が存在していたことが認められるようになっている。それをうけて黄河流域の竜山文化と同じころ、四川盆地には三星堆(さんせいたい)文化が生まれており、独特の造形芸術を発達させた。

 これらの多様な地域文化が展開していた中から、黄河中流域に、のちに伝統的な中国史で正統王朝の嚆矢(こうし)とされる夏王朝が生まれた。夏王朝は従来、禹王(うおう)を創始者とする伝説上の王朝とされてきたが、河南省中部の二里頭(にりとう)遺跡の発見により、歴史上、実在した王朝(紀元前2000年~紀元前1600年ころ)であると考えられるようになった。このころには、青銅器も使用されるようになっており、原始的な文字らしいものも発見されている。のちに漢民族としてまとまったかたちをもつ社会集団も、このころにその核心が形成されつつあった。

 夏につぐ王朝とされる殷(いん)(商)(紀元前1600年~紀元前1046年)については、河南省安陽(あんよう/アンヤン)で発見された殷墟(いんきょ)遺跡から出土した甲骨資料から、より具体的に明らかになっており、その後をつぐ周王朝の時代(紀元前1046年から)にかけて、黄河中下流域に強力な政治力をもつ複数の国家が生まれ、それらの抗争や連携(春秋戦国時代、紀元前770年~紀元前221年)のなかで、王と諸侯の間にいわゆる封建制度が形成されていった。政治的な中心地は堅固な城壁をもった都市であり、経済的にも鉄器を利用した高い生産力をもつようになった。中原を中核的文明圏とし、周辺を野蛮な夷狄(いてき)圏とする中華思想は、このような環境のなかで生み出された。儒家(じゅか)をはじめとするさまざまな古典的思想体系(諸子百家(しょしひゃっか)とよばれる)が生み出されたのもこのころであった。

 紀元前221年の秦(しん)・始皇帝による中原(ちゅうげん)とその周辺諸国の統一は、その後の中国の歴史の中に生き続ける堅固な骨組みをつくりあげた。秦、漢の統一国家の後は、三国から南北朝にわたる分裂時代が続き、隋、唐の統一ののちは、ふたたび五代十国に分かれ、北宋時代からは、北方異民族の跳梁(ちょうりょう)によって元(げん)(モンゴル族)や清(しん)(満洲族)のように、間断的に全土を異民族による王朝が支配する時代を迎える。このように中国の歴史は、漢民族と周辺諸民族、とくに北方異民族との交渉と、それにかかわる長い統一と分裂の繰り返しであるが、けっして分裂のままではなく、やがて統一国家のかたちに戻るのは、中原を中心とした求心的な地域構造がその基盤にあると考えられる。

 清朝に至るまで、前近代においては世界有数の力をもつ帝国であった中国は、その末期、西欧から全世界に及んだ産業化においては大きく立ち遅れ、1840年からのアヘン戦争によって西欧列強の勢力に決定的な敗北を喫する。その後、アジアの新興勢力であった日本との戦争にも敗れ、1911年の辛亥(しんがい)革命で近代国家として自立しようとするが、混乱する国内政治や日本の侵略によって安定した国家形成には至らず、第二次世界大戦後も共産党と国民党との内戦が続き、ようやく1949年に中華人民共和国が成立し、社会主義国家としての道を歩むことになる。

 新中国建国後は、広大な国土と膨大な人口を抱えながら、厳しい自然条件のもとで生産性の高い土地が限られたなかで、十分な経済発展を図るのは困難で、そのうえに大躍進政策(1958~1960年)の失敗や文化大革命(1966~1976年)による社会の混乱で、国民の経済生活の向上はなかなか実現しなかった。しかし1978年12月の中国共産党第11期第3回中央委員会総会以後、いわゆる改革開放政策がとられるようになった。

 まず、農業が集団耕作の制約から解放されて、個人請負制による農業生産が実施され、一定の作付けの自由が保障された。また鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の主唱によって社会主義的市場経済論が取り入れられ、経済改革と対外開放政策が推進されるようになり、南方や東部沿海地方に、経済特区や経済開放区が設けられ、積極的に外資を導入して発展がはかられた。日本をはじめとする先進国や、韓国、台湾などアジアで急速に成長した国々も、安価な労働力と大規模な国内市場を目ざして中国に経済進出をはかり、多くの外資企業、合弁企業が成立している。また国内経済においては、地方で郷鎮(ごうちん)企業とよばれる農村部の地場産業の近代化と自主的発展が奨励され、赤字経営の多かった従来の国営大企業に対しても厳しい指導政策がとられるようになった。その結果、最近20年間、国内総生産(GDP)は年率平均9%の成長を維持しており、アメリカ、日本につぐ、経済大国になりつつある。

 しかしその反面、内陸部奥地と沿海部の先進地域との経済格差も増大しており、西部大開発と称する国家的開発プロジェクトも進行している。西部の辺境地域は少数民族の居住地域でもあり、経済格差の問題は同時に民族問題としての側面ももっている。急速な経済成長とともに環境汚染や土地の荒廃にともなう砂漠化が深刻化しており、中国の環境問題は世界的課題となっている。また石油をはじめとする資源の需要が急増しており、中国はアフリカなど、開発途上国での資源の確保に努めている。都市化にともなって農地の減少が進み、食糧の確保も深刻な問題である。

 政治的には、アヘン戦争の結果、1842年にイギリスの植民地になり、中国にとって近代史の汚点の象徴であった香港(ホンコン)は、1997年、一国両制という理念の下に中国に返還され、それまでのアジア経済の拠点や西欧世界への窓口としての位置づけにどのような変化が起こるかが注目されている。なお16世紀以来、ポルトガルのアジアにおける活動拠点であったマカオ(澳門)も、1999年に中国に返還されている。

 一方、1949年、国民党政権が占拠し、中華民国として独自の道を歩んできた台湾については、あくまで「一つの中国」政策から台湾政府の主権を認めていないが、台湾自身の経済成長と政治的開放政策によって、その独自性を高めており、両者の関係は緊張をはらんでいる。

 悠久の歴史過程のなかで中国はきわめて多様で豊かな精神文化や絢爛(けんらん)たる伝統工芸を発展させたが、その一方で短時日のうちに先端科学技術を吸収して、世界の先進的大国の列に加わろうとしている。しかし、長い封建的社会制度の残渣(ざんさ)を引きずっていることも事実で、中国共産党は党内幹部の権力の濫用や汚職の絶滅のために「精神文明」の振興を叫んでいるが、まだ十分な効果があがっているとはいえない状況である。この後進性の克服と、一部地域の貧困からの脱却を一日も早く実現することが、21世紀前半期の大きな課題である。

[秋山元秀]

自然

地質・地形

960万平方キロメートルの国土を標高別にみると、500メートル以下が16%でもっとも少なく、1000~2000メートルが28%でもっとも広い。5000メートル以上の面積が19%を占め、「世界の屋根」とよばれる青蔵(せいぞう)高原(平均標高4500メートル)の面積は230万平方キロメートルに達する。青蔵高原の北端に崑崙(こんろん/クンルン)山脈と祁連(きれん/チーリエン)山脈がほぼ東西に走り、東端には横断(おうだん/ホントワン)山脈が南北に走る。中国の地形は3段の階段状の構造をもつが、この青蔵高原がその第1段の地域である。第2段の地域は中国北西部から、ほぼ中央部を占める標高1000~2000メートルの地域で、ジュンガル盆地、タリム盆地、四川(しせん/スーチョワン)盆地と、内モンゴル高原、黄土(こうど/ホワントゥー)高原、雲貴(うんき/ユンコイ)高原の3盆地と3高原がある。この地域の面積がもっとも広い。第2段の地域と第3段の地域の境界はほぼ南北に走っており、北から大興安嶺(だいこうあんれい/ターシンアンリン)、太行(たいこう/タイハン)山脈、巫山(ふざん/ウーシャン)山脈、武陵(ぶりょう/ウーリン)山脈、雪峰(せつほう/シュエフォン)山脈となって南部国境に至る。この境界より東側が標高500メートル以下の第3段の地域となる。この地域は古くから人類の活動の舞台になった所で、東北(とうほく/トンペイ)平原、華北(かほく/ホワピン)平原、長江中下游(ちょうこうちゅうかゆう/チャンチヤンチョンシヤユー)平原、鄱陽(はよう/ポーヤン)盆地などがある。この第3段の地域の東縁は現在の海岸線であるが、その東側が東シナ海と黄海で、深さ約200メートルの大陸棚である。

 中国のこのような大山脈の基本的な形は、何回かの造山運動の結果、中生代にほぼできあがったものである。新しい強烈な隆起運動は、西部で非常に激しかった。青蔵高原(チベット高原)、ヒマラヤ山脈、崑崙山脈、天山山脈などいずれも第三紀の活動の結果である。ヒマラヤ山脈のシシャ・パンマ峰(ゴサインタン山)における観測結果によると、第三紀末以来の隆起量は約3000メートルで、平均して1万年に約30メートル上昇した計算となる。中国とネパールの国境にそびえるエベレスト山(中国名チョモ・ランマ峰、8848メートル)は世界の最高峰である。崑崙山脈は西はパミール高原に始まり、青蔵高原の中央を横切って、東は四川盆地に至る長さ約2500キロメートル、平均標高は約5000メートルである。東にはホフシル山脈、さらにバインハル山脈となり、長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン))と黄河(こうが/ホワンホー)の分水嶺となる。天山(てんざん/ティエンシャン)山脈は西はキルギス領から始まり、やはり長さは約2500キロメートル、標高3000~5000メートルである。新疆(しんきょう/シンチヤン)ウイグル自治区は天山山脈によってタリム盆地とジュンガル盆地の二大盆地に分けられている。現在の天山山脈は、2~3億年前に形成された古天山山脈がいったん侵食されて低平になり、その後、前述のように、第三紀末以来の数回の地殻運動の影響下に新しく断層が隆起してできたものである。天山山脈が隆起するときに部分的に陥没し、トゥルファン盆地、ハミ盆地、焉耆(えんき)盆地などやイリ谷地などを生じた。トゥルファン盆地のもっとも低い所は海面より低く、海面下154メートルの所がある。

 アルタイ山脈は、ロシア連邦、カザフスタン、モンゴル、中国の国境にまたがって北西から南東に走り、構造的には天山山脈と同じで、いくつかの階段状の斜面がある。南嶺(なんれい/ナンリン)山脈は東西に約1000キロメートルの長さに連なり、湖南(こなん/フーナン)省、江西(こうせい/チヤンシー)省の南部と、広西(こうせい/カンシー)チワン族自治区、広東(カントン)省の北部とを画する。平均して約1000メートルの標高だが、長江と南の珠江(しゅこう/チューチヤン)との分水嶺をなしている。しかし峰は連続しておらず、その間に標高200~400メートルの低い山間の隘路(あいろ)がいくつもある。大興安嶺は内モンゴル高原の東を、北東から南西に走る標高1000~1400メートルの起伏の緩やかな山地である。東斜面は傾斜が急であるのに対して、西斜面は緩やかである。横断山脈は青蔵高原の南東部をほぼ南北に走る3本の山脈からなる。尾根の平均標高は3000~4000メートルで、最高は5000~6000メートルに達する。最高のコンガ山は標高7556メートルである。高い尾根と尾根の間には比高2500メートルに及ぶ深い谷があり、金沙江(きんさこう/チンシャーチヤン)、瀾滄江(らんそうこう/ランツァンチヤン)、怒江(どこう/ヌーチヤン)などの数本の川が南に向かって流れる。内モンゴル高原は青蔵高原と同じく、比較的新しい地質時代に隆起したが、青蔵高原ほど隆起量は大きくなかった。標高1000~1500メートルの緩やかな起伏をもつ。数百キロメートルの距離の間に高度差が200~300メートルなので、高原の表面はまったくなだらかな丘のようである。

 前記の第1段と第2段の境界、第2段と第3段の境界、第3段と太平洋との境界などにそれぞれ沿う地帯は、地殻運動が盛んであるため地震や火山が多く地熱も高い。大地震がよく発生する所は、六盤(りくばん/リウパン)山脈、四川省西部、雲南省、太行山脈東麓(とうろく)、燕山(えんざん/イエンシャン)山脈南麓などである。ちなみに台湾東部はそれらを上回る地震帯で地震の回数も多い。1966年の太行山脈東麓の邢台(けいだい)の大地震、1970年の雲南省の通海大地震、1976年の燕山山脈南麓の唐山(とうざん)の大地震などは有名である。これらの大地震に伴って、広い面積にわたって地面が40~50メートルも上昇したり下降したりした。地震や火山が多い地域は温泉に恵まれている。温泉は雲南省、広東省、福建(ふっけん/フーチエン)省などに多く、台湾も含めるとその数は約1900にのぼる。青蔵高原の標高5500メートルの所にも温泉があり90℃以上の湯が出る。

 中国の地形は営力からみると3地域に区分できる。すなわち、(1)流水の作用がおもな東部の季節風湿潤区、(2)風力と乾燥剥食(はくしょく)作用がおもな北西部の乾燥区、(3)周氷河作用と氷河作用がおもな青蔵高原区である。

 黄河は黄土高原を囲むような流路をとる。黄土高原は標高1000~1500メートル、面積約60万平方キロメートルで、その70%は第四紀の黄土(レス)で覆われている。黄土層の厚さは50~80メートルで最大100メートルに達する。

 中国西部の現代の雪線高度はアルタイ山脈で3000メートル、青蔵高原では5500~6000メートル、エベレスト山北斜面では6200メートルである。現在、氷河の総面積は4400平方キロメートルといわれる。第四紀の氷期には氷河活動は北緯27~28度まで、雲南省と台湾では北緯23度付近にまで南下した。北半球全体と比較してかなり低温であったと推定される。青蔵高原の西および南部の標高の高い地方では現在も氷河がみられる。

 永久凍土は大陸性気候のためかなり広く、中国全面積の23%を占める。青蔵高原と主要な山地における永久凍土の分布の下限標高は、ヒマラヤ山脈(北緯28~29度)では5000メートル、天山山脈中部(北緯42度)で2700~2800メートル、長白(ちょうはく/チャンパイ)山地(北緯43度)で2200~2300メートル、大興安嶺南部(北緯43度)で1600~1900メートルである。

 中国の砂漠は109万5000平方キロメートル、全国の総面積の11.4%に及ぶ。タリム盆地の西部はタクリマカン砂漠とよばれ、面積は27万平方キロメートルで中国で最大の広さをもつ。そのうち移動砂丘に覆われた面積が85%、残りが固定または半固定砂丘の地域である。移動砂丘の高いものは200~300メートルに達するが、50メートルぐらいのものが80%を占める。

 中国の土壌は次のとおりである。東北地区は森林土壌で、北から順に、東北地区北部の茶色のタイガ土、東北地区東部の暗褐色の森林土、東北地区南部から華北の湿原土および暗褐色土、長江中・下流域と華南の水田土の黄色土と赤色土、南部国境近くの純赤色とさらにラテライトの地域である。一方、東北地区中央部から内モンゴルおよび黄河中流域にかけては栗(くり)色、褐色、灰色の砂漠土、一部には風砂が分布する。北西部の乾燥・半乾燥地域には灰褐色、褐色の砂漠土が広く分布する。青蔵高原やその他の高い山地には山地森林土、さらには高山の褐色土、もっとも高度の高い所は高山の砂漠土となる。

 中国は世界でも有数の水系が発達した国で、流域面積100平方キロメートル以上の河川は5万以上に及ぶ。海に流出する外流流域は全国の総面積の64%で、ほかは内陸流域が占める。水系のうち太平洋に流れ出るものがもっとも広い面積を占める。この流域では降水量も多く、年912ミリメートル、約50億立方メートルであるが、蒸発量もまた多く年517ミリメートル、28億立方メートルに達する。黄河が運ぶ土砂はナイル川の34倍に及び、1平方キロメートルの黄土地域から毎年3700トンの割合で土壌を侵食運搬している計算になるという。

[吉野正敏]

気候

中国の気候地域区分は次のとおりである。

(1)東北型 最寒月の平均気温は0℃以下で、最暖月は10℃以上。冬には乾燥し、夏には冬の10倍以上の降水量がある。Ⅰa、Ⅰb、Ⅰc、Ⅰdの四つに分かれ、Ⅰa、Ⅰbは低地のため最暖月の月平均気温は22℃以上になる。Ⅰc、Ⅰdは山地または丘陵地のため22℃以下である。

(2)北部ステップ型 蒸発量が降水量より多く、低温で、最暖月の月平均気温は18℃より低い。Ⅱa、Ⅱbの二つ分かれ、Ⅱaは内モンゴル自治区のステップ、Ⅱbはモンゴル国のステップである。

(3)北西部山岳型 ツンドラ気候。

(4)北西部砂漠型 Ⅳa、Ⅳb、Ⅳc、Ⅳd、Ⅳe、Ⅳgの六つに分かれ、Ⅳaはオルドス、Ⅳbはゴビ、Ⅳcはアルシャウル、Ⅳdはタリム、Ⅳeはジュンガル、Ⅳgはチャイダムなどの盆地または砂漠地域。

(5)華北型 北部はステップ型で、南部は温帯夏雨気候または温帯多雨気候。最寒月の月平均気温は0~18℃。

(6)華中型 一年中降雨があって著しい乾季はない。温度条件は(5)とほぼ同じ。

(7)華南型 温帯夏雨気候だが高温になる。

(8)海南型 最寒月の月平均気温は18℃以上で、熱帯のサバナ気候または季節風気候。

(9)西部型 北部は冷帯夏雨気候で冷涼、南部は温帯夏雨気候で温暖で、地域差が大きい。Ⅸa、Ⅸb、Ⅸc、Ⅸdの四つに分かれ、Ⅸaは雲南、Ⅸbはチベット自治区南東部、Ⅸcは同自治区東部、Ⅸdは秦嶺(しんれい)山脈。

(10)チベット型 高山気候でツンドラまたは氷雪気候(永久凍結気候)。

 上に述べたような純気候学的な気候区分のほかに、農業を目的とした気候区分がある。その一つは、日平均気温10℃以上が植物の成長に重要であることから、10℃以上を有効温度とよび、有効温度期間の気温の総和を有効積算温度と名づける。これによって中国を区分すると、寒温帯、中温帯、暖温帯、亜熱帯、熱帯と青蔵高原地域の6気候区に分けられる。

(1)寒温帯 有効温度期間は100日以下、有効積算温度は1600℃以下である。農作物は一年一作で、主として早熟の春小麦、大麦とジャガイモである。

(2)中温帯 ほぼ万里の長城以北の地域と西部のジュンガル盆地で、有効温度期間は100~160日、有効積算温度は1600~3400℃である。農作物はほとんど一年一作で、大豆と春小麦が主である。

(3)暖温帯 万里の長城以南で、秦嶺山脈と淮河(わいが)以北の黄河中・下流域およびタリム盆地である。有効温度期間は160~220日、有効積算温度は3400~4500℃である。農作物は米、トウモロコシ、コウリャン、綿花、冬小麦が主で、一年二作または二年三作である。

(4)亜熱帯 秦嶺山脈と淮河以南の広大な地域で、長江(ちょうこう/チャンチヤン)、珠江流域のほとんどと、雲貴高原の大部分を含む。有効温度期間は210~365日で、有効積算温度は4500~8000℃である。農作物は一年二作以上の地域がほとんどで、米の二期作が可能である。

(5)熱帯 広東省の海岸部、雷州半島、海南省と雲南省の南部の地域である。台湾も熱帯に属する。有効温度期間はほぼ全年(350~365日)で、有効積算温度は8000℃以上である。米は三作が可能で、サトウキビは年四作、ヤシ、ゴム、サイザル麻、コショウ、ココアなどの熱帯作物が栽培できる。熱帯雨林としての森林資源も豊富である。

(6)青蔵高原地域 標高が高いため低温で、有効積算温度は2000℃以下である。空気が澄明なため透過日射量が大きい。10月から5月にかけてはジェット気流が上空を吹くため風が強く、とりわけ午後に顕著となる。たとえば1972年2月上旬にはこの地域全体に秒速40メートル以上の強風が吹いた。この地域の南部で標高が低い地方では、低地に米、斜面には柑橘(かんきつ)類やバナナを栽培して局地気候条件を生かしている。

 日本とほとんど同じ期間に梅雨がある。梅雨の期間、入梅の日、出梅の日および期間中の降水量は年によってかなり異なっている。梅雨は南方ほど早く始まり早く終わるのが通常である。入梅は華南では5月末から、長江流域では6月中旬、淮河流域では6月末である。梅雨の期間も年によって大きな差がある。たとえば、長江中・下流域の梅雨期間は、短い年は11日、長い年(1954)には49日であった。梅雨が終わると盛夏の季節となる。これを俗に「入伏(ルーフー)」とよぶ。北太平洋高気圧が大陸上に張り出してくるために、天気はよく、しかも高温となり、局地的に雷雨があるが、広範囲の降水はない。これが盛夏の小乾燥季で「伏旱(フーハン)」とよばれる。

[吉野正敏]

生物相

中国の植物界の特徴は、植生の種類が複雑で植物の種類が多いことである。中国の高等植物は亜寒帯、温帯、熱帯に属し、3万2000種以上あり、複雑な植物群系に分かれる。すなわち、古北極群系、中央アジア群系、北アメリカ群系、ヒマラヤ群系、インド―マレーシア群系、日本群系、汎(はん)世界群系、中国特産群系などである。Ⅰの寒温帯針葉林区域の55%は天然林で、興安カラマツがその75%を占め、トウヒ、モンゴルアカマツなどがある。二次林はシラカバである。Ⅱは温帯針広葉混交林区域で、長白山ではアカマツを主とする。Ⅲの暖温帯落葉広葉林区域ではカエデ、ニレ、カンバ、榕樹(ようじゅ)などを主とする。Ⅱに近い遼東(りょうとう)半島、山東半島ではクヌギ、アカマツなどが卓越する。Ⅳの亜熱帯常緑広葉林区域では、標高によっても異なるが、熱帯の森林と似ている。森林の上層木はブナ科とクス科が多く、中層木にはサザンカ科、キクレンゲ科などが多い。Ⅴの熱帯季節風雨林や雨林区域では、板根をもち樹高40メートルに達する常緑樹に、つる植物や着生植物が生活している。Ⅵの温帯草原区域には細く硬い葉の芽が見渡す限り大草原をなしている。Ⅶの温帯荒漠区域は植生がほとんどないか、きわめて貧弱である。オアシスではドロノキなどがみられ、塩性の沼沢の周辺には塩生植物が成長している。Ⅷの青蔵高原高寒植被区域では日向斜面に草原が広がっている。高原荒漠地帯では小さい低木だけとなる。

 中国に生存する陸生脊椎(せきつい)動物は2091種あり、現在知られている世界の総種数の9.9%である。この内訳は、両生類が196種で世界の7%、爬虫(はちゅう)類は315種で5%、鳥類が1166種で13.5%、哺乳(ほにゅう)類が414種で9.7%である。中国は第四紀以降、大陸氷河に覆われたことがないので、比較的古い種や珍しい種が現存している。日本でも有名なジャイアントパンダは、現在は横断山脈北部とその周辺にのみ生息する。

[吉野正敏]

地誌

いろいろな地域区分

中国は広大な国土をもつだけに、肥沃(ひよく)な耕地の多い平原が国土の12%を占める一方、国土の3分の1は険しい山地、4分の1は高原である。しかも山地、高原の多くは南西部に、砂漠は北西部から北部に集中していて、地域差が大きい。地下資源についてみても、石炭はおもに長江以北に分布し、非鉄金属は長江以南が多い。こうした自然的諸条件の地域的偏りが各地域の産業面に反映しているうえに、歴史的条件の違いもまた、各地域の特色に色濃く投影されている。

 このような地域差を考慮して、中国では古来、種々の地域区分が試みられてきた。その最古のものは『尚書(しょうしょ)』の一編である「禹貢(うこう)」(戦国時代の作と推定)に述べられた「九州説」である。この説は、当時の中国を九つの州に区分して、土性や肥沃度を論じている。かつて、第二次世界大戦前後には中国を東北、華北、華東、華中、華南、内蒙古(うちもうこ)、西北、西南、康蔵(こうぞう)(または青蔵(せいぞう))に区分する方法が行われたり、アメリカの農業経済学者ロッシング・バックJohn Lossing Buck(1890―1975)による、土地利用法に基づいた地域区分も試みられた。新中国成立後は中国を東北、華北、華東、中南(ちゅうなん)、西南、西北の6地域に区分することになり、今も行政上はこの方法が踏襲されている。しかしこの区分方法は、同じ華北平原(中国では黄淮海(こうわいかい)平原という)上にあり、共通した特色をもつ河北、山東、河南の3省を、エネルギー資源配分上の便宜から、華北、華東、中南に分属させるという、地域性を無視した不合理な区分になっている。

 また、文化大革命の後には、改革開放政策に基づいて、沿海部で外資導入に便利な東部、エネルギー資源の供給基地としての中部、内陸部で急速には近代化の困難な西部に分け、東部から迅速な近代化を推進しようとする3区分方式をとったこともある。1996年3月の第8期全国人民代表大会では、行政区域を越えた七つの経済区を設定することになった。前の3区分の乱暴さはなくなったが、じつはこの7地域区分も行政区域の重複が避けられないという欠点がある。その七つの経済区名をあげると、(1)長江三角州および沿江地区、(2)環渤海(ぼっかい)地区、(3)東南沿海地区、(4)西南と華南の一部(広西チワン族自治区)、(5)東北地区、(6)中部5省(河南、湖北、湖南、安徽(あんき)、江西(こうせい))地区、(7)西北地区となるが、これによると、たとえば湖北、湖南、江西の3省は(1)と(6)とで重複し、遼寧(りょうねい)は(2)にも(5)にも含まれることになる。

 ここでは省、自治区の重複をできるだけ避けながら、各地域の特色が明らかになるように、東北、黄河中・下流域、長江中・下流域、華南、西南、青蔵高原、西北の7地域に分けて概観する。ただし内モンゴル地区については、東北でその東部を、黄河中・下流部でその中部を、西北でその西部と全体のまとめとを分けて述べることにする。

[河野通博]

東北

遼寧、吉林(きつりん/チーリン)、黒竜江の3省からなる地域だが、最近では石炭資源の不足を補うため、内モンゴル自治区東部も含めて東北経済区と考える場合が多い。南東部は北朝鮮、北東部から北部にかけては黒竜江(アムール川)水系を隔ててロシア連邦と境する。中朝国境の長白(ちょうはく)山脈、黒竜江本流南側の小興安嶺(しょうこうあんれい)、西方の内モンゴル自治区を南北に走る大興安嶺に囲まれて、中国最大の東北平原が広がるが、この平原は、高度200メートルの低い分水界によって、南の遼河(りょうが)平原と北の松嫩(しょうどん)平原に分けられる。松嫩平原は黒竜江水系の松花(しょうか)江と嫩(どん)江の流域にあたる。また、松花江と中国東部のロシア連邦との国境を北流するウスリー川とが黒竜江本流に合流するあたりに、湿地性の三江平原(さんこうへいげん)がある。三江平原には1950年代前半の朝鮮戦争に参加した中国義勇軍の復員兵士を主体とする人々の開拓した旧国営農場が多くあり、大型の農業機械を使用して、小麦と大豆を主とする近代的な大規模農業経営が進められている。その他の平野でも朝鮮族が水田を開いて盛んに水稲栽培を行い、また19世紀ごろから入植した漢族を中心に、春小麦、トウモロコシ、コウリャンなどの食糧作物のほか、大豆、サトウダイコン、亜麻(あま)、ヒマワリなどの商品作物の栽培が盛んである。大興安嶺を含む周辺山地には針葉樹の原生林が広く分布し、紙・パルプ工業の重要な原料供給地となっている。また南部には遼東半島が突出して、渤海(ぼっかい)と黄海とを分けているが、そこには渤海西岸とともにリンゴ園が多く、丹東(たんとう)付近は中国でもっとも柞蚕(さくさん)飼育が盛んである。

 地下資源では石油と石炭の埋蔵量が比較的多く、低品位ながら鉄鉱の埋蔵量も多い。石油は大慶(たいけい)(黒竜江省)が全国第1位の生産量を誇り、1976年以来中国の原油生産量の3分の1にあたる5000万トン以上の出油を継続しているほか、遼河油田(遼寧省)が全国第3位でこれに次ぐ。また吉林油田も全国第9位の産油量を示している。

 石炭は1995年現在、黒竜江省が全国第6位(7900万トン)、遼寧省が第8位(5600万トン)、吉林省が第17位(2600万トン)で、各省ともかつての華やかさはない。ことに遼寧省の撫順(ぶじゅん/フーシュン)炭鉱はかつては中国最大の露天掘炭鉱であったが、より大規模な露天掘炭鉱の相次ぐ出現で、全国第22位(876万トン)に転落している。この地区最大の炭鉱は鶴崗(かくこう)(黒竜江省、全国第8位)で、阜新(ふしん/フーシン)(遼寧省)、鶏西(けいせい)(黒竜江省)、鉄法(てっぽう)(遼寧省)、七台河(しちたいか)(黒竜江省)、双鴨山(そうおうざん)(黒竜江省)がこれに次ぎ、1000万トン以上の出炭量を誇っている。しかし、それでもなお東北の重化学工業の石炭需要を満たせないので、内モンゴル自治区東部の平庄(へいしょう)、霍林河(かくりんが/フオリンホー)、ジャライノール、伊敏河(いびんが)などの炭鉱の開発につとめている。水力発電では松花江の白山(ぱくざん)(出力90万キロワット)が最大で、水豊(すいほう)、豊満(ほうまん)、雲峰(うんぽう)、老虎哨(ろうこしょう)など、長白山地と鴨緑(おうりょく)江に集中して大型発電所が立地する。

 東北地区はもともと女真(じょしん)など狩猟民族の故郷で、南部は高句麗(こうくり)の国土だったこともあり、また東部に渤海国の建設された時代もあったが、漢族の分布は瀋陽(しんよう)以南に限られていた。満洲族が中国全土を征服して建てた清(しん)王朝も漢族の入植を認めなかったが、清代後半にロシア帝国の東進により、清の領土が脅かされるようになったため、ロシア帝国に対して領土権を主張するために、東北全域への漢族農民の入植を認めるに至った。19世紀末以後はロシア帝国と日本の帝国主義的侵略を受けるようになり、とくに1932~1945年の間は日本の傀儡(かいらい)政権である「満州国」の統治下(実質は日本の関東軍の支配下)にあった。解放後の第一次五か年計画によって、日本が第二次世界大戦前に鞍山(あんざん/アンシャン)、本渓(ほんけい/ベンシー)、撫順などに建設した鉱工業施設が復旧、拡張されたほか、旧ソ連の援助で多くの新しい重工業施設が建設された。長春の国営第一自動車工場、ハルビン(哈爾浜)の発電設備製造業、瀋陽の各種重化学工業などがそれで、瀋陽を中心とする遼寧省北部は、中国でも代表的な重化学部門の国営大工場の集中地区となった。その後さらに、大慶、遼河の両油田や遼陽(りょうよう)、撫順の石油化学工業も加わったが、改革開放の時代に入って、国営企業に対する国の手厚い保護が弱まり、長江流域や広東(カントン)省などの目覚ましい近代工業化に比べて、成長の鈍化が認められる。1984年の経済開発区設置以後、遼寧省南部の大連を中心に外資の導入を図り、より近代的な工業の建設を目ざす動きもみられる。

 この地区は解放以前から中国でもっとも鉄道密度が高い地区であったが、通遼(つうりょう/トンリヤオ)経由で大慶と北京(ペキン)を結ぶ通譲(つうじょう)線、京通(けいつう)線をはじめ、新しい鉄道も敷設(ふせつ)された。また瀋陽―大連間の高速道路など、新しい道路交通体系の建設も進んでいる。

[河野通博]

黄河中・下流域

この地区は、全長5460キロメートル、1年間に480億トンの流出量をもつ黄河の中流部以下の区域をさすが、ここではとくにその範囲を、寧夏回族(ねいかかいぞく)自治区と内モンゴル自治区との境界より下流の地域とする。行政上は北京、天津という二つの国直轄市と、河北、山西、山東、河南、陝西(せんせい)の5省ならびに内モンゴル自治区の中部からなる。黄河中流部両岸にある黄土高原は、モンゴル高原や内陸アジアなどの乾燥地域から強風によって運ばれてきた黄土が堆積(たいせき)してできた高原で、夏の豪雨による土壌の流失が激しく、中国政府は水と土の流失を防止するために努力を続けている。この泥の流出が、黄河を黄色の泥が多量に混入した汁粉のような河にしているのであり、その泥が浅海を埋めることによって形成されたのが下流部の大平原である。今も毎年16億トンの泥が主として黄土高原から黄河水系によって運び出されている。そのため黄河河口は、毎年3キロメートル前後海面に張り出していると同時に、約4億トンの泥が河道に堆積し、鄭州(ていしゅう)より下流では10メートル以上河床が周りの平地より高い天井川になっている場所もある。こうして運ばれた泥によって形成された平野は華北平原とよばれ、黄河河道を分水界として、北は海河(かいが)流域、南は淮河(わいが)流域となっている。華北平原の東には山東半島が接し、渤海(ぼっかい)と黄海とを隔てている。

 この地区は夏に雨が多いが、年によって雨量の変化が大きく、古来、多雨の年は大洪水、少雨の年は旱魃(かんばつ)になりやすかった。解放後、国が黄河本流の治水工事につとめたため、かつてのように激しい河道の変化はみられなくなったが、いまだに海河、淮河は大洪水が生じやすく、ともに大規模な放水路やダムの建設が進められている。このように災害が起こりやすい状況ではあるが、華北平原は黄河が運搬、堆積した肥沃(ひよく)な黄土(次成(じせい)黄土)をもつとともに、適度な夏の雨に恵まれた年は豊作がもたらされ、重要な農業地帯の一つとなっている。おもな作物は、華北平原では冬小麦とトウモロコシ、ワタで、ラッカセイ、ゴマ、タバコの収穫も多い。黄土高原上ではトウモロコシ、アワなどの雑穀を主とするが、汾河(ふんが)、渭河(いが)流域の小平野では小麦、ワタを産する。また黄河沿岸や西安西方の水利の便のよい地域では水稲の栽培もみられる。山東半島はブドウ、リンゴなど果樹栽培が盛んで、河北省でもナシ、リンゴを産する。最近では陝西省でもリンゴの栽培が盛んに行われ、ナツメ、カキも栽培される。内モンゴル中部の五原地区は黄河の水を引いた灌漑(かんがい)農業が盛んで、フフホト、パオトウ(包頭)周辺でもトウモロコシ、サトウダイコン、ヒマワリの産出量が多い。

 エネルギー資源の埋蔵量はきわめて豊富である。石炭は年間生産量が3億5000万トンと他省に比べてはるかに突出した生産量で全国第1位を誇る山西省をはじめ、第2位の河南省、第4位の山東省、第5位の河北省があり、内モンゴル中部、陝西省も最近急速に生産量が増加している。おもな炭鉱は、山西省に全国第1位の大同(だいどう)をはじめ、平朔(へいさく)、西山(せいざん)、陽泉(ようせん)、晋城(しんじょう)、潞安(ろあん)などがあるほか、河南省に平頂山(へいちょうさん)、義馬(ぎば)、鄭州、山東省に兗州(えんしゅう)、淄博(しはく)、新汶(しんもん)、河北省に開灤(かいらん)(中国第2位)、峰々(ほうほう)、北京市に門頭溝(もんとうこう)、陝西省に神府(しんふ)、銅川(どうせん)、内モンゴルに東勝(とうしょう)、ジュンガルなど、あらたに開発されたものを含めて、大型炭鉱がそろっている。大同炭鉱の石炭(大同炭)は大秦(だいしん)鉄路で秦皇島(しんのうとう)から、山西省南部の石炭は、山東省の石炭(山東炭)とともに山東省日照(にっしょう)港から輸出される。石油については、山東省にある年間生産量3000万トン余で全国第2位の勝利(しょうり)油田、天津市の大港(たいこう)(第6位)、河南省の中原(第7位)、河北省の華北(第8位、旧名任邱(じんきゅう))など目白押しで、陝西省北部(第16位)でも、年間生産量166万トンを産出する。また渤海には日中合弁油田である埕北(ていほく)をはじめ、いくつかの海底油田がある。水力発電では三門峡ダムが旧ソ連技術者の設計ミスによって流れ込む泥の量に対して泥の処理能力が弱く、当初の計画の5分の1の25万キロワットしか出力がないため、現在洛陽北方に建設中の小浪底(しょうろうてい)ダムとともに洪水水量の調節に重きが置かれているが、そのほかは、多くが中、小ダムである。天津市北方の潘家口(はんかこう)ダム、北京市の密雲(みつうん)ダムはともに都市用水の確保をおもな目的としているが、将来の水不足が見込まれ、長江から黄河を越えて送水する「南水北調」計画の着工が期待されている。この計画では揚州(ようしゅう)から大運河経由で天津へ送水するものと、2009年に完成した長江上流の三峡(さんきょう)ダムから丹江口(たんこうこう)ダム経由で北京に送水するものと、2路線が予定されており、後者は2014年に通水を開始した。

 金属鉱物資源としては、北京市の東北方の遷安(せんあん)、山西省の五台(ごだい)付近、河北省南部の邯鄲(かんたん)、内モンゴル北部のバインオボ(パインボクト)で鉄を産し、北京(首都鋼鉄公司(コンス))、唐山(とうざん)、太原(たいげん)、パオトウなどに大型製鉄所が建設されたほか、河南、山西、山東各省ではボーキサイトを産出し、鄭州に大型アルミ精錬工場がある。また山東半島では金の産出が多い。石油化学工場は北京(房山(ぼうざん))、淄博、滄州(そうしゅう)、天津に立地し、パイプラインによって原油が北京、南京(ナンキン)、青島(チンタオ)に送られる。

 重工業では北京の電機、自動車、西安の電機、航空機、鄭州の織機、洛陽(らくよう)のトラクター、太原の重機械があり、また保定(ほてい)のフィルム、開封(かいふう)の化学工業、石家荘(せきかそう)、鄭州、咸陽(かんよう)その他の綿紡織、山海関(さんかいかん)の橋梁(きょうりょう)用鉄骨、青島のビールなど、各地に多様な工業が発達し、北京、天津などは総合的工業都市として成長している。

 この地域には古代からの国都としての西安、洛陽、開封、北京をはじめ、邯鄲、曲阜(きょくふ)、太原、許昌(きょしょう)、安陽(あんよう)(殷墟(いんきょ))など歴史的都市が多いが、それぞれ特色のある近代的な工業都市に生まれ変わっている。なかでも北京は全国の首都として、政治、文化、教育、経済、交通の中心となり、急速に都市化への改造が進んでいる。航空交通では中国最大の国際空港をもつとともに、鉄道も、香港に直通する京九線が完成した(1996)。また地域全体としても、鉄道の電化や多くの石炭輸送用新線の建設などによって、鉄道密度が東北に次いで高くなっているほか、1993年に北京―天津間、北京―石家荘間の高速道路が開通するなど、交通の近代化も着々と進んでいる。歴史的水運路として有名な大運河は、いまでは地方的交通路として利用されているにすぎないが、「南水北調」計画が現実化すると、新しい役割を担うことになる。

[河野通博]

長江中・下流域

この地区は湖北、湖南、江西(こうせい)、安徽(あんき)、江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)の6省と国の直轄市の上海を含む。長江は全長6300キロメートル、長さこそ黄河と大差ないが、年間流出量は1兆トン弱で、黄河の20倍もの水を海に流出している。この地域は長江が三峡の険を越えた付近から以降の部分にあたる。この地区には長江中流部にある洞庭(どうてい)湖、鄱陽(はよう)湖の二大淡水湖をはじめ、下流部の沿岸やデルタにも巣(そう)湖、太(たい)湖など多くの湖が分布する。これらの湖や長江本流北方の漢水(かんすい)などの大支流から流入する水によって、長江はいっそう豊かに水を流している。中流部には漢水から洞庭湖にかけての両湖(りょうこ)平原と江西省の鄱陽平原、下流部にも南岸の江南(こうなん)デルタ(長江三角州)と北側の江淮(こうわい)平原が広がり、古くから水稲作を中心とする重要な穀倉地帯であった。江淮、両湖の両平原はワタの栽培が盛んであり、江南デルタは養蚕業と絹織物業の大中心地である。江南デルタは、南方の丘陵部では広く茶園が発達し、沿海部には広く天日製塩(てんぴせいえん)の塩田が開拓されるなど、農業を基盤として、昔から中国でもっとも経済の発達した地域であった。中流部沿岸の山間ではウルシやアブラギリ(実が桐油の原料になる)も植えられ、椿(つばき)油の生産も多く、家畜ではブタの飼育が盛んである。杭州(こうしゅう)湾の出口に近い舟山(しゅうざん)群島から南の浙江省沿岸は、中国最大の沿岸漁場であるが、この沿岸にある温州(おんしゅう)はその名からもわかるように、柑橘(かんきつ)類の産地としても知られる。湖南省、江西省の丘陵ではサツマイモも広く栽培される。

 地下資源のうち、石炭は江蘇省の徐州(じょしゅう)、大屯(だいとん)、安徽省の淮南(わいなん)、淮北(わいほく)に大型炭鉱がある。江西省の萍郷(ひょうきょう)は革命史跡ではあるが中型炭鉱にすぎず、むしろ湖南省の湖南炭のほうが、炭質は悪いが産出量は多い。石油と天然ガスは、江蘇省、湖北省の長江北岸近くと、上海市沖合いの東シナ海の海底油田で産出されるが、まだ量は少ない。この地区に多いのはむしろ金属鉱床で、湖北省黄石(こうせき)市周辺の大冶(だいや)や南京から馬鞍山(ばあんさん)を経て蘆江(ろこう)に至る一帯の鉄鉱床のほか、江西省の徳興(とくこう)、湖北省黄石市、安徽省銅陵(どうりょう)市の銅、江西省南端の大余(だいよ)県などのタングステン、湖南省冷水江(れいすいこう)市の錫鉱山(しゃくこうざん)のアンチモン、水口山(すいこうざん)の鉛、亜鉛などがある。

 地元の鉄鉱石を使用して、馬鞍山、武漢の二大製鉄所が操業しているが、海外からの輸入鉄鉱石を使って、1985年の操業開始以来、目覚ましく生産を増加させているのが日中が協力して建設した上海市の宝山(ほうざん)製鉄所で、粗鋼生産額は全国第2位である。輸入鉄鉱石は、浙江省の北侖(ほくりん)港で、巨大な鉱石運搬船から小型の運搬船に積み換えられて、長江沿岸の宝山に運ばれる。そのほかにも、外資を導入して、先端技術を駆使した各種工業が目覚ましく発展している。とりわけ総合商工業都市上海は、宝山製鉄所だけでなく金山衛(きんさんえい)、高橋(こうきょう)の二大石油化学工場や、あらゆる工業部門の工場を有するうえに、旧市街地東方にある浦東(ほとう)地区に、巨大な工業地帯と新ビジネスセンター建設構想を1990年に発表、以後建設を開始している。

 上海を取り巻く江蘇省では、上海―南京間に立地する蘇州(そしゅう)、常州(じょうしゅう)、南通(なんつう)をはじめ多くの都市の工業化が進んでいるだけでなく、農村部でも郷鎮(ごうちん)企業による工場が数多く建設され、電子工業をはじめ多くの工業部門で、全国第1位の生産量を誇っている。浙江省も絹織物のほか、機械工業部門で江蘇省に次ぐ発展ぶりを示している。南京(ナンキン)、武漢は総合工業都市として発展しているが、南昌(なんしょう)、長沙(ちょうさ)がこれに次ぎ、また国営第二自動車工場のある湖北省の十堰(じゅうえん)は、メルセデス・ベンツが進出した上海と肩を並べ、長春、北京(ペキン)に次ぐ自動車生産量をあげている。湖南、湖北省境にある岳陽(がくよう)は石油化学系人造繊維の生産で知られるが、湖南省にはほかにも株洲(しゅしゅう)、衡陽(こうよう)などの重工業都市がある。これらの工業に対する電力の供給源としては、長江本流の宜昌(ぎしょう)に葛洲壩(かっしゅうは)ダム、漢水に丹江口(たんこうこう)ダム、浙江省の銭塘江(せんとうこう)水系に新安江(しんあんこう)ダムなど多くのダムがある。1993年に着工し、長江三峡を水面下に沈めた三峡ダムも2009年に完成し、発電を開始した。また杭州湾岸には中国の自力建設による秦山(しんざん)原子力発電所が完成した。

 鉄道は北京―香港(ホンコン)直通の京九鉄道が九江(きゅうこう)、南昌経由で完成し、既成の京広、枝柳とならんで長江中流には3本の南北連絡鉄道が完成した。東西の連絡は長江水運のほか、四川省と武漢との間が鉄道で結ばれ、上海―株洲の浙贛(せっかん)線も昆明(こんめい)まで連続する鉄道が完成し、いっそう四通八達(しつうはったつ)の度を高めている。高速自動車道も上海を中心にしだいに距離を伸ばしている。また「南船北馬」といわれるように、この地区には古来から水路網が発達しており、貨物の水上輸送が盛んで、長江の水位の上昇する夏期には武漢まで1万トン級の汽船がさかのぼる。

[河野通博]

華南

この地域は福建(ふっけん)省、広東(カントン)省、海南(かいなん)省と広西チワン族自治区および1997年7月に中国に返還された香港(ホンコン)特別地区と、1999年12月に返還されたマカオ(澳門)を含む。古くから中国南方の門戸の役割を果たし、福建省の泉州(せんしゅう)や広東省の番禺(ばんぐう)(広州)に定住したアラビア商人も多かった。また言語の面でも福建語、広東語など北部とは発音が異なる。民族的には等しく漢族なのだが、古くからこの地区に移住してきた「客家(ハッカ)」とよばれる人々が多く住んでおり、独特の円形集合住宅に居住している所もある。また平地が狭小なため人口定着率は低く、古くから大量の移民(華僑)を送り出し、海外に移住した華僑の大部分の出身地ともなっている。その範囲は世界全域にわたり、とくに東南アジアでの活躍が著しい。シンガポールでは歴代の大統領も華僑出身である。

 本土部は低い丘陵性山地からなり、その山地から流出する短い河川が、多くの小さな谷底平野やデルタをつくっている。そのなかでは珠江(しゅこう)デルタがもっとも広い。広西チワン族自治区にはカルスト地形がよく発達し、桂林(けいりん)など名勝地が多い。海南島は海南省の主要部を形成するほか、沿岸部と南シナ海上に4000余の小島が分布する。この地域の大部分は北回帰線の南にあり、亜熱帯および熱帯の植物が繁茂する。農業は米作が主体で、二期作が多く、三期作を行う地域もある。商品作物としてはサトウキビが広く栽培され、製糖工業の原料となるとともに、しぼりかすのバガスは製紙の原料とされる。珠江デルタでは高畝(たかうね)上にクワを植えての養蚕が盛んで、畝の間の溝を使って淡水養魚も行われる。海南島にはマレーシアからの帰国華僑が働く広いゴム園があり、コーヒーも栽培される。本土部ではラッカセイの生産量が多い。またバナナ、パイナップル、レイシ(茘枝(れいし))、リュウガンなどの熱帯果樹や柑橘(かんきつ)類も広く栽培されている。

 地下資源としては本土部の錫(すず)、タングステン、ウランなどのほかに、海南島に良質の鉄鉱石があるが、最大の資源は珠江河口から海南島沿岸を経て北部(ほくぶ)湾(トンキン湾)の州(いしゅう)島付近までの海底油田である。ここでは外国の石油資本との合弁で試掘が進められたあと、珠江河口沖などでは本格的な採掘に入り、年々産出量が増大し、広東省は全国第5位の650万トンの原油と天然ガスを産出している。しかし石炭は乏しく、エネルギー資源の不足を補うために、香港に近い大亜湾に原子力発電所が建設され、さらに増設中である。水力資源の開発については、西江(珠江本流)の太化や西津、東江(珠江支流)の新豊江などの大型ダムのほか、福建省、広東省には無数の小型水力発電所があり、農村の電化の推進に貢献している。

 工業は新中国になってから、珠江デルタ一帯にサトウキビを原料とする製糖、製紙工業が立地し、また汕頭(スワトウ)には缶詰工場、福建省三明(さんめい)、広東省韶関(しょうかん)などには中規模の製鉄所、広東省茂名(もめい)に油母頁岩(ゆぼけつがん)(オイルシェール)を原料とする人造石油工場、広州、南寧(なんねい)などに若干の機械工場などがあったが、改革開放政策の実施によって、香港に隣接する深圳(しんせん)、マカオに隣接する珠海(しゅかい)、汕頭と福建省の厦門(アモイ)が経済特別区(経済特区ともいう)に指定され(1979)、華僑資本や日本などの外国資本との合弁企業の導入を試みて成功した。その経験のうえにたって、海南島が1988年経済特別区に追加指定され、福州、広州、湛江(たんこう)、北海(ほっかい)などにも対外資本開放地区が設立され、先端技術を駆使した工場の誘致につとめている。最近では台湾系資本の投資も行われている。その結果、広東省は電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビなどの家電製品や、カメラ、時計の生産では全国第1位の生産量を示すようになり、とくに深圳は香港の市街地と見違えるばかりに都市化が進んでいる。

 香港は1840年から1842年のアヘン戦争以来、イギリスの支配下にあったが、1997年7月中国に返還された。世界の中継貿易港として発展してきた資本主義経済の実績を中国も無視できず、2050年までは一国両制の形で特別行政区として従来の自由経済が認められることになっているが、今後の推移が注目されている。マカオは長くポルトガルの東アジア進出の拠点とされた小都市であるが、1999年12月に中国に返還された。

[河野通博]

西南

四川(しせん)、雲南(うんなん)、貴州の3省と国直轄市の重慶(じゅうけい)を含む地域である。この3州1市の内部、とくに雲南、貴州両省と、四川省の北部、西部には多くの自治州や自治県があり、チベット族、イ族、ミャオ族、ヤオ族、ナシ族、タイ族など多くの少数民族が居住し、焼畑耕作や狩猟に従事している人々もいる。そのなかで、四川盆地は古来「天府(てんぷ)の地」として知られる肥沃(ひよく)な土地で、秦代から人工灌漑(かんがい)が発達していた。人口も1億9000万人と多く(2000)、食糧も充足し、地下資源も石炭、天然ガス、鉄と豊富で、塩井(えんせい)のおかげで内陸部ながら塩も自給していた。雲南省東半部と貴州省に広がる雲貴高原は広くカルスト地形が発達し、ドリーネの底にある小盆地は壩子(はし)とよばれ、ここに水田が集中している。高原上は緯度が低いため、年中温暖で、「常春(とこはる)の地」といわれる。一方四川省と雲南省との西半部は青蔵(せいぞう)高原の東端にあたり、南北方向に走る幾列もの高峻(こうしゅん)な山脈は横断山脈と総称され、山頂部には万年雪もみられる。これらの高山の間を金沙江(きんさこう)(長江上流)、瀾滄江(らんそうこう)(メコン川上流)、怒江(どこう)(サルウィン川上流)などが深い峡谷をつくって南流している。これらの峡谷は莫大(ばくだい)な包蔵水力を有するが、開発はほとんど進んでいない。しかしすでに四川省の龔咀(きょうそ)、銅街子(どうがいし)、雲南省の魯布革(ルプゲ)、天生橋、貴州省の烏江渡(うこうと)など、長江支流と珠江(しゅこう)上流に大型ダムが完成した。地下資源としては古くから四川省の自貢(じこう)の天然ガスが地下の塩水を汲み上げての製塩の燃料として利用されていたほか、貴州省東部の水銀、雲南省の銅、錫(すず)が開発されていた。新中国になってから四川盆地中部の南充(なんじゅう)などの天然ガス、重慶市の石炭、鉄、四川省南部の攀枝花(はんしか)市の鉄、石炭、貴州省の六盤水(ろっぱんすい)炭田と貴陽(きよう)付近のボーキサイトなどが開発され、攀枝花市と重慶市では大型製鉄所が稼働している。四川省西部は石綿と雲母(うんも)の産地でもあり、横断山脈内部では多種類の金属の共生鉱床も発見された。

 農業では、天府の国四川省は米、麦ともに豊かな地域だが、雲貴高原では米のほか、傾斜地の畑で主としてトウモロコシを産する。雲南省、四川省ではサトウキビの生産も盛んである。雲南省は中国有数のタバコの産地でもあり、四川省は養蚕も盛んである。

 工業の最大の中心としては、まず重化学工業を中心とする総合工業都市の重慶があげられる。本市は日中戦争当時、国民政府の臨時の行政中心だった所だが、新中国になっても工業の大中心地であり、1997年3月に国の第4番目の直轄市となった。同市は四川省東部のもとの重慶、万県(まんけん)、涪陵(ふりょう)の3市と黔江(けんこう)地区を管轄する特別市で、東西470キロメートル、南北450キロメートル、湖北、湖南、貴州、四川、陝西(せんせい)の5省と境を接し、総面積8万2000平方キロメートル、総人口3091万人の中国最大の巨大都市である。内陸部にあるにもかかわらず、先端技術を取り入れた総合的重化学工業都市に成長し、とくに自動車、鉄鋼、アルミなどの大工場が立地している。これに次ぐ総合工業都市は四川省都の成都(せいと)だが、貴州省都の貴陽にはアルミ工業その他の工場が、雲南省都の昆明(こんめい)にも工作機械などの工場が立地する。そのほか攀枝花市には製鉄、自貢にはガス化学、四川盆地には多くの製糸、紡織工業都市がある。また貴州省の茅台酒(マオタイチウ)や四川の蜀錦(しょくきん)などの伝統工業も残っている。

 この地区はかつては鉄道のない不便な地域だったが、現在は成都、重慶、貴陽、昆明の各市から武漢、北京、上海、西安と連絡する鉄道が建設され、航空路も北京、上海、広州、西安などと結ばれている。最近、昆明と広西チワン族自治区の南寧を結ぶ鉄道も完成した。

[河野通博]

青蔵高原

平均標高4500メートルの青蔵(せいぞう)高原には青海(せいかい/チンハイ)省とチベット自治区が含まれるが、住民の大部分はチベット族で、チベット仏教(ラマ教)が広く信仰されている。長い間秘境で人口も希薄であったが、近年開発が進められている。青蔵高原の南にヒマラヤ山脈、北に崑崙(こんろん/クンルン)山脈などがある。高原上にもガンディセ、タングラ、バインハル、アムネマチンなどの山脈が走っている。いずれも氷河や万年雪を頂く高山であるが、高原との比高差は比較的少ない。高原面は山脈壁に遮られているため、雨量はきわめて少なく、寒冷、乾燥の寒漠もみられる。本高原はアジアの大河川である長江、黄河、メコン川、サルウィン川、ブラマプトラ川、ガンジス川、インダス川の発源地にあたる。

 耕地はヤルンズアンボ江(ブラマプトラ川上流)谷底平野と青海省の西寧(せいねい/シーニン)付近、チャイダム盆地のゴルムド周辺にみられるだけで、ほかの大部分は草原になっており、主としてヤクが放牧される。標高3000メートル前後の「低い」耕地では小麦もできるが、高冷地でつくられるのは耐寒性大麦に属する青稞(チンコー)(ハダカエンバク)ぐらいのものである。

 地下資源の本格的探査は今後の課題だが、石炭は標高5000メートルのマルツァラ炭鉱をはじめ、青海省の大通(だいつう/タートン)など数か所で発見されている。石油は青海省チャイダム盆地西部で冷湖(れいこ/ロンフー)油田などの開発が本格化し、最近では121万トン(全国第12位)の年産量を示し、また同盆地のチャルハン塩湖ではカリ塩が、チャカ塩湖ではナトリウム塩が採取されている。また同盆地北部の錫鉄山(しゃくてつざん)は鉛、亜鉛の産地として知られる。水力発電では黄河上流の竜羊峡(りゅうようきょう)の大型発電所が完成し、さらに李家峡(りかきょう)に大容量の発電所を建設中である。これに比べると、チベットの河川の電源開発は遅れているが、ラサ北方のヤンバジェン(羊八井)では地熱発電所が稼動している。本地区には青海省西寧から延びる青蔵鉄道がゴルムドの南の南山口まで開通していたが、2005年チベット自治区ラサまでの全線(1956キロメートル)が完成、2006年から営業運転を開始した。ラサにはほかに航空路と自動車道路が通じている。

[河野通博]

西北

甘粛(かんしゅく)省と寧夏回族(ねいかかいぞく)自治区、新疆(しんきょう)ウイグル自治区、ならびに内モンゴル自治区西部が含まれる。内モンゴル自治区は、東は大興安嶺(だいこうあんれい)(北部を除く)からオルドス地方を経て、西は新疆ウイグル自治区との境まで、中国の北端部を経度にして約29度にわたっている。面積は120万平方キロメートルに達するが、経済的には東部は東北地区、中部は黄河中・下流部地区との関係が深いので、ここでは西部地区と全体像の一部を述べることとする。

 内モンゴル自治区はモンゴル高原の南東部にあたり、北方はモンゴル国と境を接する。東半部は大興安嶺の森林地帯以外は、内モンゴルのなかでは雨量がやや多く、草生の良好な草原をなすので、モンゴル族による牧畜が行われるが、南東隅は漢族の農耕地域になっている。中部のシリンゴル地区はやや砂漠化していて、草地の回復につとめているが、オルドス地方の五原付近では黄河から水を引いて灌漑(かんがい)を行い、区都のフフホト、パオトウ周辺とともに春小麦、サトウダイコン、ヒマワリ(採油用)、ジャガイモ、アワ、トウモロコシを産する。これに対して西部は高さ300メートル以上の高い砂丘群の発達するバダインジャランなどの砂漠と広大なゴビとよばれる礫質(れきしつ)砂漠が広がり、植生もきわめてまばらで、ラクダが飼育されるだけである。

 甘粛省の西部から新疆にかけてはかつてのシルクロードのルートにあたる。新疆ウイグル自治区は中央を東西に走る天山山脈によって、北のジュンガル盆地と南のタリム盆地に分けられる。タリム盆地の中央には砂丘の連なる広大なタクリマカン砂漠があり、それを取り巻くゴビ地帯にオアシスが散在し、灌漑農業が行われる。またタリム盆地の北側を東流するタリム河沿岸や天山山脈の北麓のマナス河流域には、新中国建設当初に新疆に進駐した人民解放軍が、元の編成のまま生産建設兵団に組織変えして、人工水路によって灌漑された国営農場を建設している。これらの灌漑農地では小麦、ワタ、サトウダイコンが生産されている。ジュンガル盆地は北極海から吹き込む風の影響で、タリム盆地よりやや雨量が多いので、草地の占める比率がやや高く、とくに北端のアルタイ山地では季節的に家畜を移動させる移牧によって、ヒツジ、ヤギの放牧が行われている。

 甘粛省東部は黄土高原の一部にあたるが、北西部は河西(かせい)回廊とよばれるゴビ地帯で、武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)、酒泉(しゅせん)、敦煌(とんこう)などのオアシスが連なる。寧夏回族自治区では、青銅峡で黄河から分水した用水路に沿う銀川平原が、「寨北江南(さいほくこうなん)」(長城の北の江南〈デルタ〉のような穀倉地帯の意味)とよばれる農業地帯である。西北地区は、中国でもっとも乾燥の激しい大陸性の気候で、タリム盆地は年降水量が15ミリに達しない所も多く、トゥルファンでは夏の気温が日陰でも48℃を示す年が多い。

 地下資源としては、内モンゴルの烏達(うたつ)、海勃湾(かいぼつわん)、寧夏の石嘴山(せきしさん)、石炭井(せきたんせい)、霊武(れいぶ)、甘粛省の靖遠(せいえん)、新疆ウイグル自治区のハミ(露天掘)、ウルムチなどで石炭を産する。石油は甘粛省では玉門(ぎょくもん)油田の産出は衰えたが、これにかわって、同省東部から陝西(せんせい)北部、寧夏回族自治区南部にわたる長慶油田の稼動がみられる。新疆ウイグル自治区では従来ジュンガル盆地のカラマイ油田だけが唯一の産油地とされてきたが、現在ではタリム盆地のタクラマカン砂漠の中央にある塔中油田をはじめ、タリム盆地の周辺部を含むタリム油田やトゥルファン市とハミとの間のトゥルファン・ハミ油田、ジュンガル盆地東部などで油田が発見されており、とくにタリム盆地の地下には大きな貯油構造が存在するものと期待されている。1995年現在、新疆ウイグル自治区の原油生産量は1300万トン弱で全国第4位、甘粛省は第10位である。

 金属鉱物では甘粛省の白銀の銅、金昌のニッケル、鏡鉄山の鉄鉱石などが発見され、酒泉にはこの鉄を原料にした製鉄所が建設された。また、甘粛省の蘭州などには石油化学工業も発展している。黄河上流部には青海(せいかい)省の諸発電所の下流に、劉家(りゅうか)峡、八盤峡、塩鍋(えんか)峡、青銅峡の各水力発電所があり、さらに蘭州―青銅峡間に多くの水力発電所を階段状に建設する計画がある。また新疆ウイグル自治区では羊毛やワタの紡織が盛んで、じゅうたん製造、玉器の生産も行われている。

 この地域には、かつて「さまよえる湖」とよばれたロプ・ノールの水の乾上った湖跡の近くに残る樓蘭(ろうらん)遺跡やトゥルファン近郊の交河(こうが)古城、あるいは敦煌莫高窟(ばっこうくつ)の千仏洞など、シルクロードに沿う多くの遺跡が残っていて、ウイグル族などの民族舞踊や工芸品とともに、重要な観光資源にもなっている。

[河野通博]

内モンゴル

東は大興安嶺からオルドス地方を経て、西は新疆ウイグル自治区との境まで、中国の北端部を経度約29度にわたって占めており、面積は120万平方キロメートルに達する。モンゴル高原の南東部に位置し、北方はモンゴル国と境を接する。西半はバダインジャランなどの大砂漠と広大なゴビからなり、植生もまばらな乾燥地域であるが、東半部はやや雨量が多く、草生の良好な草原をなし、モンゴル族による放牧が行われる。しかし南東隅は漢族の農耕地域となっている。またオルドス地方の五原付近では黄河から水を引いて灌漑農業が盛んである。これらの農地では春小麦、雑穀(アワ、トウモロコシ)、サトウダイコン、ジャガイモ、油料作物を産する。家畜では三河(さんか)馬、三河牛をはじめヒツジ、ウシ、ウマが多い。

 地下資源には、バインオボの鉄、希土鉱物があり、パオトウ製鉄所の原料とされる。また伊敏河(いびんが)、霍林河(かくりんが)、天宝山(てんぽうさん)、ジュンガル、烏達(うたつ)などに大炭田がある。吉蘭泰(きつらんたい)塩池のソーダは烏海(うかい)の化学工業の原料とされる。工業は区都フフホトのほかパオトウ、烏海、赤峰、通遼(つうりょう)などで発達し、モンゴル国境のエレンホトでは近年石油の開発に着手した。

[河野通博]

政治

概観

中国の将来が、人類の命運にもかかわる形で、いよいよ切実に注目されなければならなくなってきている。それほどまでに今日の中国には、さまざまな問題が連鎖をなして存在している。人口、食糧、失業、民工潮(みんこうちょう)(現代中国農民の大規模な出稼ぎ。労働力の再配分に着目した言い換え)、資源、エネルギー、環境破壊、人権、民主化、公安警察、軍事肥大、貧富の差、拝金主義、汚職、腐敗、宗教、習俗、民族、集権と分離・分権などの諸問題が、「改革開放」体制下の「社会主義市場経済」の導入によって、従来以上に顕在化し、経済の「マクロレベルの調整と統制」によっても、これらの問題がもたらす諸矛盾の解決は容易でなくなってきている。

 そうしたなかで中国は政治的にも社会的にも、鄧小平以後の時代へと明白に移行した。1989年6月の天安門事件(血の日曜日事件)以降、趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)総書記失脚ののちには江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)総書記によって、いわゆる「上海閥」を中心に中国のリーダーシップが担われたが、今日では2002年秋の中国共産党第16回大会で総書記となった胡錦濤(こきんとう/フーチンタオ)体制が共産主義青年団出身者を中心に確立しつつあり、2007年秋の中国共産党第17回大会では、胡錦濤主導の「科学的発展観」というテーゼが党規約のなかに記された。

 しかし、共産党一党独裁体制下の中国に対しては、時とともに、より自由で開かれた「改革開放」を求める内外の圧力が一段と強く働くであろうことは疑いない。中国共産党の独裁体制から離脱しようとする内部のみえざる遠心力と多元化傾向に現体制がはたして耐えうるのか否かという重要問題に、中国はいよいよ本格的に直面するであろう。

 ところで過去20年にわたり年率9%台以上もの中国の著しい経済成長も、限界に近づきつつある。中国の経済成長は産業構造の内部的転換や農業部門から工業部門への資本移動を伴う内発的な発展によるものではなく、もっぱら外資に依存して、沿岸部から発展する他力本願のものであったことは否めない事実である。それだけに、2008年夏の北京(ペキン)オリンピック以降、対中国直接投資が大幅かつ急速に減少し、1997年の香港返還直後に発生したアジア経済危機のような金融危機が中国に発生した場合、そもそも「まるごとバブル」であった中国経済が一挙に崩壊する危険もなきにしもあらずだといえよう。

 「改革開放の総設計師」としての鄧小平をたたえていわゆる「鄧小平理論」を党規約に盛り込んだ1997年9月の中国共産党第15回大会が決定した国有企業への株式制度導入にしても、これまで香港の株式市場に上場された優良国有企業の株がもてはやされ、容易に資金調達できたという夢を追ったきらいがあった。また、2007年春の全国人民代表大会第10期第5回会議で可決された「物権法」によって、中国でも私有財産が保護されることになったとはいえ、中国国内の社会的矛盾はさらに深刻化しつつあり、貧富の差や党幹部の特権化の半面での大衆の無権利状態に対する不満も爆発しつつある。したがって、政治的には引き続き「開発独裁」型ないしは「軍事ボナパルティズム」型の強権体制を維持していくものと推測されよう。

[中嶋嶺雄]

鄧小平以後の時代

中国革命の最高指導者であった毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)や周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)よりもさらに長寿を保ち、社会主義革命国家の航路を逆転させて「改革開放」の市場経済体制へと中国を大胆にも導いた鄧小平も、1997年2月19日、満92歳でついに逝(い)った。中国革命初期から数えれば三度失脚して三度復活、晩年の鄧小平絶対化時代を築いた波乱万丈の生涯であったが、宿願の香港返還(1997年7月)をついに見定めることはできなかった。

 鄧小平亡き後の中国が政治的な安定を維持できるのか、社会的混乱は回避できるのか、などの重大問題については、大きな不安をぬぐえなかったが、江沢民体制もいまや胡錦濤体制に引き継がれて、今日に至るまで、そのような不安はまだ現実化していない。こうして、中国では毛沢東時代のように1976年9月9日の毛沢東主席の死が、その直後のいわゆる「四人組」逮捕という北京政変を招き、政治的混乱に陥ったように、国家の命運がふたたび鄧小平という類(たぐい)まれなる一人の指導者にかかっていたのか、それとも「改革開放」路線はすでに制度化され、構造化されていたのかという大問題に直面することとなったが、この点では後者の道をたどったといえよう。いずれにせよ、さまざまな意味で、鄧小平が革命中国における「最後の皇帝」であったことは疑いえない。

 当面の中国は、政治の安定という点ではかなり順調に推移している。だが、その中国は現在、経済急成長の反面、すでにみたように数多くの深刻な社会矛盾を内包した「圧力釜」のような状態にある。そうしたなかで政治システムに民主的装置を欠く中国では、天安門事件以後も「改革開放」路線をめぐって党内の争いが絶えなかったばかりか、民主化運動の火種も消えていないだけに、いつの日にかは、巨大な変動が起こるかもしれないのである。趙紫陽前総書記のような民主改革派リーダーがふたたび台頭することも将来的には十分ありえよう。この場合、民主化運動の再高揚や農民反乱の爆発があるかもしれないが、当面は台湾や香港からの資本主義(「南風」)の影響、またグローバル化が進む国際社会からの「外圧」も無視できないであろう。

 中国はこれまでも深刻な体制的危機を経験している。当面は「開発独裁」が強化されるにせよ、世界的に脱社会主義の潮流が持続しつつあるなかで、中国が21世紀も引き続き社会主義革命国家として現体制を維持することは、かなり困難ではないかと思われる。

[中嶋嶺雄]

中国共産党

中国共産党は中国革命の担い手であり、社会主義中国の建設を担う中華人民共和国の指導政党であるが、建国(1949年10月1日樹立)後はつねに権力闘争に揺れ動き、近年は信頼感の低下が著しかった。しかし、「改革開放」を掲げて経済発展中心の路線を推進し、ふたたび党勢を拡大している。

 党員は2007年時点で約7300万人。機関紙は『人民日報』。1921年に陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)、李大釗(りたいしょう/リターチャオ)らの革命的知識人が中心となり、コミンテルンの指導を受けて創立された。1924年には第一次国共合作に成功、1927年には労農紅軍を創建し、1931年には解放区としての中華ソビエト臨時共和国政府を瑞金(ずいきん)に樹立した。長征途上の遵義(じゅんぎ)会議(1935年)で毛沢東が指導権を確立、1936年の西安事件の後、抗日民族統一戦線を結成、第二次国共合作がなった。延安(えんあん/イエンアン)の革命根拠地を中心に基盤を固め、第二次世界大戦後の国共内戦を経て1949年10月1日、中華人民共和国を樹立した。建国後は土地改革や社会主義改造に着手したが、1950年代なかばから毛沢東主導の急進的な農業集団化が始まり、1958年には全国の農村が人民公社化された。1960年代後半からは毛沢東思想絶対化のもとで文化大革命を発動、悲劇的な結末を招いた。1976年9月の毛沢東の死後、同年10月のいわゆる四人組逮捕による北京政変が起こった。その後は非毛沢東化が進み、1978年12月の三中全会(中国共産党第11期中央委員会第3回総会)で鄧小平が華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)にかわって党内主導権を確立して以降、農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を目標とする「改革開放」の政策が行われてきた。1981年6月の六中全会では、華国鋒の後を継いで胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)が主席となり、「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」を採択、毛沢東政治を全面的に否定した。1982年9月の第12回党大会(全国代表大会)からは従来の主席制にかわって総書記制がとられたが、1987年1月には胡耀邦総書記が民主化に加担したとして解任された。1987年秋の第13回党大会では趙紫陽総書記によって社会主義初級段階論が提起され、中国社会の現状は、未発達の資本主義的要素を残す社会主義の初級段階だと規定された。1989年6月の天安門事件後には趙紫陽総書記を「反革命暴乱」を扇動したとして解任、江沢民元上海市長が後任となったが、中国の悲劇を代償に同年秋以降、東欧社会主義国が崩れ、1991年夏の「ソ連政変」によるソ連共産党解体という社会主義世界の大変動に直面した。鄧小平主導の「改革開放」の政策をめぐって党内対立がふたたび深刻化したが、1992年の第14回党大会では江沢民総書記のもとで「社会主義市場経済」というテーゼを採択し、同時に「改革開放の総設計師」鄧小平への礼賛ムードが高まった。その鄧小平が1997年2月に死去した後、中国共産党は同年9月に第15回全国代表大会を開催した。同大会は「鄧小平理論」を党規約に明記するとともに、国有企業改革のための株式制度を導入するなど、「中国の特色をもつ社会主義建設」のよりいっそうの推進を強調した。江沢民は2000年春以降、「三つの代表(党は先進的生産力、先進的文化、人民の利益の代表である)」を唱えたが、2002年秋の第16回党大会で胡錦濤が総書記に就任、2007年秋の第17回党大会では「科学的発展観」が党規約に取り入れられた。

[中嶋嶺雄]

胡錦濤体制の問題点

では、胡錦濤体制下の中国は、はたしてこれで安定するのであろうか。かならずしもそのようには思われない。今日の中国が抱える社会、経済の深刻な矛盾と亀裂(きれつ)の大きさゆえに、政治的には引き続き強権体制を維持せざるをえないのが現実だといえよう。膨大な貧困農民や失業の不安に脅かされている国有企業労働者、潜在的に持続している民主化活動家などの不満と相まって、いまや体制エリート特権集団としての中国共産党への根本的不信を社会の底辺に形成してしまっているだけに、「社会との調和(社会和諧)」説く胡錦濤体制が抱える問題もまた深刻である。

 今日の中国にとって緊急な課題である国有企業の改革にしても、その病弊はあまりにも重い。しかも国有企業の民営化が進むと、社会的基盤に公有制が消滅してしまい、中国当局がもっとも警戒する社会主義体制の内部的変質、つまり「和平演変」を自ら促進しかねないだけに、依然として根強い保守派の抵抗もあなどりがたいであろう。

 すでにみたような内政上の諸矛盾を抱えた中国は、対外的には今後も大中華ナショナリズムにたって、香港返還や2000年以降の台湾の独立化傾向に対する強い反発がもたらした台湾海峡危機にみせているような強硬路線を堅持するものと思われる。当面の国家財政赤字にもかかわらず、中央政府予算では国防費を対前年比19年連続で2桁(けた)増を遂行していることも、こうした対外強硬路線の反映であろう。

[中嶋嶺雄]

政治制度

中国の現行憲法は1993年に大幅に改正されたもので、さらに1999年にも改正されている。これに先行した1954年憲法、1975年憲法、1978年憲法、1982年憲法に次ぐ5番目の憲法(1988年憲法)である。過去の憲法は、中国政治の変動を反映してしばしば改正されてきたが、現行憲法は1954年憲法に近いもので、第1条で「中華人民共和国は労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした、人民民主主義専政の社会主義国家である。社会主義制度は、中華人民共和国の根本制度である」と規定している。人民民主主義専政の「専政」とは、執権とか独裁と邦訳される語で、現行憲法の序言では人民民主主義専政は実質上のプロレタリア階級専政であると説明されている。中国の最高の国家権力機関は全国人民代表大会であり、その常設機関は全国人民代表大会常務委員会である。この代表大会と常務委員会が国家の立法権を行使している。全国人民代表大会は、各省、自治区、直轄市と軍隊から選出された約3000人の代表(うち25%余は女性)によって構成されている。各少数民族も、それぞれ適当数の代表(代表総数の13%前後)をもっている。全国人民代表大会の任期は5年。代表大会は毎年1回会議を開くのを原則としており、憲法の改正、基本的な法律の制定と改正、人民共和国主席・副主席の選出、人民共和国中央軍事委員会主席の選出、戦争と平和の問題の決定、その他の重要職権を行使する。

 中国の最高の行政機関は国務院であり、その構成は、国務院総理(首相)、副総理若干名、国務委員若干名、各部部長、各委員会主任、会計検査長、秘書長であって、任期は人民代表大会の毎期の任期と同じである。国務院総理の人選は、共和国主席の提案に基づいて全国人民代表大会が決定し、副総理以下の国務院の人事は、総理の指名により決定される。国務院の職権は、行政法規の制定、決議・命令などの発布、人民代表大会やその常務委員会への試案の提出、国民経済・社会発展計画や国家予算の作成と執行、そのほか憲法で規定された多くの重要事項を含んでいる。2008年時点の国家主席と中央軍事委員会主席は胡錦濤、全国人民代表大会常務委員長は呉邦国(ごほうこく/ウーパンクオ)(1941―2024)で、国務院総理は温家宝(おんかほう/ウエンチアパオ)であり、また全国政治協商会議主席は賈慶林(かけいりん/チアチンリン)である。

 中国の指導的政党は労働者階級の前衛である中国共産党である。中国共産党は、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を行動の指針とする、と党規約(1982年党の第12回全国代表大会決定、1987年修正、1992年改正、2002年改正、2007年改正)で規定しており、この場合の毛沢東思想とは、毛沢東をはじめとする中国共産主義者らの革命的経験の総括、集団的英知の結晶であると説いている。2008年時点の中国共産党の党員は約7300万人に達しているが、党内の志気にはやや緩みが生じているといわれており、党規律の保持と党風刷新が求められている。また幹部の隊列の革命化、若返り、知識化、専門化が必要とされており、中央と地方各級の規律検査委員会による点検活動や、党中央に総書記だけを置き、主席と副主席を廃止することなどによって、過度の権力集中、個人の専断を避けようと努めている。2008年時点の党中央規律検査委員会の書記は呉官正(ごかんせい)(1938― )、党中央委員会総書記は胡錦濤。中国には共産党のほかに中国国民党革命委員会(略称「民革」)、中国民主同盟(略称「民盟」)、中国民主建国会(略称「民建」)、中国民主促進会(略称「民進」)、中国農工民主党(略称「農工党」)、中国致公党(略称「致公党」)、九三学社(旧称「民主科学社」)、台湾民主自治同盟(略称「台盟」)の八つの民主諸党派がある。これらの政党は民主諸党派といっても名目的な政党にすぎず、いずれも組織は小さく、新規に入党する青年も多くないが、中国共産党や各種人民団体、各界代表と、中国人民政治協商会議という統一戦線を組み、共産党と「長期共存、相互監督」の関係を保ちながら中国の社会主義建設に協力している。

 中国の選挙制度は、1979年の第5期全国人民代表大会第2回会議を通過し1982年の同期人民代表大会第5回会議で修正された選挙法によっている。全国人民代表大会の代表と、省、直轄市、区を設置した市の人民代表大会の代表は、一級下の人民代表大会で選出している。区を設置しない市、市管轄区、県、郷、民族郷、鎮の人民代表大会の代表は、選挙民が直接選出している。満18歳以上の中国公民は、民族、種族、性別、職業、出身階級、宗教信仰、教育程度、財産状況、居住期間の違いにかかわらずすべて選挙権と被選挙権をもっている。

 中国の司法機関としては最高人民法院、地方各級人民法院、特別人民法院がある。また検察機関として最高人民検察院、地方各級人民検察院、特別人民検察院がある。人民法院は国家の裁判機関であり、そこでの事件の審理は原則として公開で行われる。被告人は弁護を受ける権利をもっている。中国には、刑法、刑事訴訟法、民事訴訟法も制定されているが、人民の間には法律を守る観念が強くない傾向があるので、全国的に法制宣伝教育の活動が開始されている。また中国には60万人余の司法要員がいるが、法学専門の高等教育を受けた者は8%にすぎず、司法要員の法知識の全般的なレベルアップも必要となっている。

 中国の政治に影響力をもつ人民団体には、中華全国工商業連合会、中華全国総工会(労働組合の全国組織)、中国共産主義青年団、中華全国青年連合会、中華全国学生連合会、中国少年先鋒(せんぽう)隊、中華全国婦女連合会などがある。

[米沢秀夫・中嶋嶺雄]

地方行政

中国の各省、直轄市、市、市管轄区、県、郷、民族郷、鎮には、それぞれ人民代表大会と人民政府が置かれている。地方各級の人民代表大会は地方の国家権力機関である。人民代表の任期は、省、直轄市、区を設置した市では5年、区を設置しない市、市管轄区、県、郷、民族郷、鎮では3年である。地方各級人民代表大会は、その行政区域の経済、文化、公共事業の建設についての計画を審査、決定する。県級以上の地方各級人民代表大会は、その行政区域の国民経済・社会発展計画、予算とそれらの執行状況の報告を審査、承認する。県以上の地方各級人民代表大会には常務委員会を置き、省、直轄市の人民代表大会とその常務委員会は地方的法規を制定することができる。地方各級人民代表大会は、それぞれ同級の人民政府の省長、副省長、市長、副市長、区長、副区長、県長、副県長、郷長、副郷長、鎮長、副鎮長を選挙し、これを罷免する権限をもっている。地方各級の人民政府は地方各級の国家行政機関である。都市と農村には住民の居住区ごとに住民委員会または村民委員会とよばれる大衆的自治組織が設けられており、それらが居住区の公共事業と公益事業をつかさどり、治安維持に協力している。少数民族の自治地方には、自治機関として自治区、自治州、自治県の人民代表大会と人民政府があり、その地の民族の特徴に応じた自治条例を制定し、民族文化の繁栄に配慮を加えた行政を実施している。

[米沢秀夫・中嶋嶺雄]

外交

1954年に中国の国務院総理(首相)、周恩来がインド、ビルマ(現、ミャンマー)を訪れ、両国とともに平和五原則を提唱した。「主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存」というこの原則は国際情勢のめまぐるしい変化のなかで試練に耐え、多くの国に受け入れられてきた。中国はこの外交原則の提唱国の一つとして平和五原則を外交の根本方針に据えており、憲法のなかにも織り込んでいる。中国が外交関係を打ち立てている国は現在、150か国前後にのぼる。

 1989年の第二次天安門事件で欧米諸国との関係が悪化したが、経済関係を中心にその関係の改善を図ってきた。1972年のニクソン米大統領訪中による米中接近ののち、1979年に国交を樹立したアメリカとの関係は、1995年台湾の李登輝(りとうき)総統がアメリカを訪問したことからふたたび悪化した。1996年以降、関係の修復が図られており、ブッシュ政権はイラク戦争や反テロ対策により米中関係を重視している。しかし、中国の軍事的増強もあって「新冷戦」としての米中間の構造的な対立は変わっていない。対日関係も、1972年に国交が回復され、1978年には日中平和友好条約が結ばれ、中国の対外開放政策の実施に伴い日本からの経済協力が期待されていたが、尖閣諸島(せんかくしょとう)の領有権問題、中国の地下核実験問題、首相の靖国神社参拝、歴史教科書の問題などからしばしば関係が悪化した。現在は、その関係の修復が図られており、2006年秋の安倍首相の訪中による日中間の戦略的互恵関係の確立、2007年春の温家宝首相来日、同年末の福田首相訪中へと接続した。香港(ホンコン)の主権は、イギリスとの協定によって1997年に中国に返還され、香港特別行政区となったが、香港の民主派との関係、経済的問題など、多くの懸案が残されている。中国当局は「一つの中国」の立場から台湾が中国の領土であることを主張しているが、台湾側は現状を「分治」とみなしており、台湾を有効に統治する中華民国政府も実質的に存在していて、台湾のいわゆる祖国復帰は実現していない。そのため中台間の両岸会談が1993年にはシンガポールで、1998年にはシャンハイで開かれたが、依然として平行線をたどった。対日関係では、「日米安保のための新しいガイドライン」と周辺事態法案の「周辺」に台湾が含まれるかいなか、日本軍国主義問題にも厳しい態度をとっている。米中関係ではクリントン大統領訪中と江沢民国家主席、朱鎔基総理(首相)訪米といった相互訪問にもかかわらず、中国の人権問題、民主党への献金問題、エネルギー庁の秘密資料漏洩(ろうえい)などさまざまな疑惑追及に不快感を募らせていたなか、1999年アメリカを先頭とするNATO(北大西洋条約機構)軍が介入したコソボ紛争で、米軍のミサイルが在ユーゴスラビア(現、セルビア)中国大使館を誤爆したことは、中国国内で激しい反米デモが行われるなど米中関係に深刻な影響を及ぼした。さらに、2001年11月にWTO(世界貿易機関)加盟を果たし、2008年には北京オリンピックを開催する中国が国際社会とどのような経済・外交関係を築いていくのかに、21世紀のアジア、ひいては世界の命運がかかっているといっても過言ではない。

[米沢秀夫・中嶋嶺雄]

防衛

中国の防衛にあたる武装力は人民解放軍とよばれ、その全軍を統率するのは人民共和国中央軍事委員会である。中国共産党内部にも中央軍事委員会があり、この党の軍事委員会の主席・副主席が国家の軍事委員会の主席・副主席を兼ねるしきたりがあるため、事実上国家の武装力は党によって指導されている。1985年の党全国代表会議で軍事委員会の副主席4名を事実上の常務副主席1名に減らした。中国の解放軍の戦闘部隊は、四つ前後の省にまたがる七つの大軍区に分かれて駐屯し、大軍区の内部はさらに省軍区に細分されている。戦闘部隊は名目上、政府の国防部に属しているが、指揮権は軍事委員会の総参謀と各軍区の司令員が担任している。歩兵を主とする単一兵種から出発し、しだいに空軍、海軍、砲兵、装甲兵、工兵、鉄道兵、通信兵、化学戦部隊、戦略ロケット部隊の創設に進み、単一の陸軍から混成軍隊に発展してきたが、現在は諸軍種、諸兵種をあわせた混成集団軍を組織するように努めている。1984年兵役法を改正し、常備兵を少なくして戦時に動員できる予備役を多くすることを決定した。中国解放軍の総兵員は1985年6月に約100万人が削減されたことにより、約300万人と推定されるが、人民解放軍の兵力削減の半面で、おもに国内治安が目的の人民武装警察部隊が増強されており、その人数は約150万と推計されている。これらは兵員削減によって浮かした資金で軍の装備をよくしようというわけでもあり、これによって中国は国産の軍用機で空軍を装備するようになり、海軍も艦艇を自力で設計、建造できる段階に達している。1964年に初めて原子爆弾の開発に成功し、1966年には原爆とミサイルを結合した実験を行った。1967年には水爆をもつに至り、1992年に核不拡散条約(NPT)に加盟したが、1996年7月には通算45回目の地下核実験を実施し、国際社会からの批判を浴びた。中国政府は今後核実験を凍結し、先制使用しないと言明した。その後、1998年6月、インド、パキスタンの相次ぐ地下核実験に対して、包括的核実験禁止条約(CTBT)の成立をめざし印パ両国に核兵器開発計画を放棄するよう強く働きかける声明を発表した。中国は1989年の天安門事件以来、19年連続で軍事力を対前年比2桁の比率で増強してきており、とくに台湾海峡には約1000基のミサイルが配備されている。2005年10月には有人衛星神舟6号の打上げに成功し、2007年1月には衛星攻撃兵器の実験にも成功しており、中国の軍事力増強への警戒がアメリカや西欧諸国をはじめ、アジアの周辺諸国でも高まっている。

[米沢秀夫・中嶋嶺雄]

経済・産業

概観
社会主義経済への道のりとその矛盾

1949年の革命から1980年代初めまで、中国は土地、工場、鉄道など生産手段が国有化された社会主義的経済構造であった。中国の経済は革命直後の混乱から脱した1952年以後、1956年までは比較的順調に成長した。大・中規模の企業は国有化され、零細のものは共同経営となった。農村では地主、ボスの土地を貧農に分配して零細な自営農が成立した(第一の農地改革)。しかし、戸籍は農村と都市とに分けられ、農民身分のものの都市移住を許さなかった(二元戸籍)。

 1957年以降は毛沢東主導による農業の集団化が急速に進められ、1958年集団農場「人民公社」が組織され、15年間でイギリスに追いつくという「大躍進」と、地域の「自力更生」が呼号された。中国は一時熱狂の嵐に包まれたが、農業は1962年まで極端な減退をして、凶作が続いた。人口ピラミッドから推測するかぎり1958年からの3年間に2000万人、研究者によっては3000万人をはるかに超える餓死者があった。毛沢東は大躍進失敗によって第一線を退き、劉少奇(りゅうしょうき/リウシャオチー)、鄧小平らの「調整」政策によって経済はようやく回復した。だが中国では経済的合理性を軽視する傾向がつねに主流を占め、人々の生活は1980年代に至るまで1957年のレベルを超えることはなかったと思われる。1966年、毛沢東は「文化大革命」を発動して、劉小奇ら最高級官僚を「資本主義の道を歩む実権派」として失脚させた。このとき毛沢東の権威をかさに着た紅衛兵ら極左派の武力をまじえた破壊活動のために、全国の行政、経済および文化遺産は破壊され、冤罪(えんざい)による何百万人の死傷者と投獄者、それをはるかに超す人々に別離生活の悲劇を生み出した。

 中国ではソ連をモデルに五か年計画が進められたが、それは高度の中央集権を前提に、石炭、鉄などの生産財生産を基軸にした重化学工業を重視するもので、これに全投資の50%を集中した。このため農業は停滞し、1952年以来1978年末までの27年間、中国の経済成長率は2%弱にすぎず、計画経済の名にふさわしいパフォーマンスは存在しなかった。

 人民公社でも企業でも行政と経営が一体化し、指令的生産計画、資源の統一割当て、生産物の統一買上げ、労働力の行政的配分など、経済論理よりも行政命令あるいは大衆動員が優先する仕組みになっていた。企業の赤字は政府が負担するかわりに、利潤のほとんどを政府が吸上げたので、企業の経営成績が上がっても労賃は上がらなかった。人民公社では集団生産と平均分配が行われたが、食料や綿花などの政府買上価格は生産コストをわるほど安いものであった。

 文化大革命期の中国は米ソ両大国と敵対するなか、戦争への過剰な危機感から国家資本を国防工業、核兵器などの優先目標に集中し、また重要産業を内陸に移動し(三線建設)、地方ごとに完結した工業体系をつくろうとした。都市では防空壕を掘って戦争に備えた。中央直轄以外の部門、地域は国家の援助なしに自力で建設を行うものとされた。いうまでもなく農村の水利工事やそのほかのインフラ建設、教育、医療などは農民の無償労働を前提として存在した。この時期、農民の日当は「服のボタン一つ」、農村より恵まれた都市の労働者も「ひとり毎月油3両(150グラム)、肉半斤(250グラム)」に象徴される配給であった。

 1970年代前半の農村人口は全人口の75%を占め、国民総生産のうち農業40%、国民所得のうち農業40%、工業生産額のうち農産物を原料とするもの50%、軽工業原料のうち農産物の占める割合80%、財政収入源のうち農業関連50%であったにもかかわらず、重工業への投資のなかで農業機械、農薬、化学肥料分野に用いられた割合は10%、重工業が軽工業に提供した機械類は1972年で全機械中6%、1976年では2%にすぎなかった。こうした文化大革命中の数字(推計)がどのくらい正確であるかはわからないが、文化大革命当時農民を極端な貧困状態において資本の原始的蓄積を行ったのは確かである。

 社会主義企業体制には効率化を促進する内的メカニズムが欠落していたために、工業投資は設備増設に偏り、既存設備の改善や技術革新(いわゆるイノベーション)には向けられなかった。地方は「自力更生」の美名のもと、地元の資金や資材、とりわけただに近い労働力を用いて工場、水利施設などを建設運営するほかなかった。地域自給圏形成の核であった社隊企業(公社、大隊経営の工場)は生産性が低くコスト高で、技術基盤は劣悪だった。各工場が「小にして全」(小規模ながら何でもつくる)であったため、専門化と協業ができなかった。生産された農機具は価格が高くて耐久性がなく、農民の要求に十分に応じられなかった。地方当局は「自力更生」のたてまえで財政権限を与えられて過剰投資を行い、浪費と資源エネルギーの逼迫(ひっぱく)が深刻化した。

[阿部治平]

文化大革命以後――改革開放路線

1976年毛沢東が死去、毛沢東夫人の江青(こうせい/チヤンチン)ら側近の四人組が逮捕された。華国鋒の短期政権が成立した後、1978年末に鄧小平が権力争いに勝利、復活した。文化大革命直後の1977年、国民経済は破綻(はたん)に瀕(ひん)していた。工業生産額は国民総生産(GNP)の44%を占めたものの、1人当り国民総生産はわずか200ドルであった。同じ時期、同様の工業水準にあったユーゴスラビア(44.6%)、アルゼンチン(43.2%)などの1人当りGNPは2000ドル、韓国(33%)は820ドルである。1978年も国民所得の36.5%が蓄積資金とされ、うち26.2%は生産的蓄積に回り、重工業への投資が依然大きな割合を占めた。

 1979年から鄧小平による「改革開放」とよばれる新たな経済政策が登場した。食糧、油料穀物、綿花などの主要農産物の価格を引き上げ、1983年には自営農制を全国に押し広げ、人民公社体制を解体した(第二の農地改革)。重工業への投資を抑制し、中小企業の自営を認め、経済特区(一種の保税区)を設定した。農業と軽工業への投資が増加するにしたがい、生活必需品と耐久消費財が増産され始めた。自主権を大幅に認められた農民によって農産物の供給は著しく増加し、食糧自給が可能になった。労働者の賃金と福祉が改善され、病院や住宅など非生産的蓄積の割合が大きくなり、消費傾向は変化した。

 鄧小平はブレーントラストの提案を受け入れて「先に豊かになれるものから豊かになる」という「社会主義市場経済」を提唱した。これは中国が中国共産党の一党支配を前提に資本主義の道を歩むことを意味した。1984年には改革ブレーントラストの指導者高尚全(カオシャオチュエン)(1929―2021、北京大学教授)が提起し鄧小平が認めたという「計画ある商品経済」が公式文書に書きこまれた。1987年には毛沢東を信奉する人々の激しい抵抗にもかかわらず、「国家が市場をコントロールし、市場は企業をリードする」という概念が提起された。

 しかし1980年代はずっとインフレが続いた。工業投資は雇用の拡大を導かず、農村の労働力は1983年になってもなお74.5%もあった。1985年3月に趙紫陽は次のように発言している。

「わが国の経済発展の過程には軽視できない問題も一部に残っている。エネルギー、交通、原材料供給がいまなお逼迫(ひっぱく)していること、産業構造と製品構成がまだあまり合理的でないこと、予算外の固定投資の規模が大きすぎることなどのほか、比較的際だった問題として、1984年下半期とりわけ第4四半期の貸付け基金と消費基金の管理が厳密でなく、通貨の発行量が多すぎたこと、むやみに物価をつり上げるなどの不正の風潮がはびこり、一部商品の価格上昇を招いたことである」
 趙紫陽の心配は、官僚が二重価格制を悪用して私腹を肥やすこと(農産物を公定価格で買い上げて市場でより高く売るなど)、地方がかってに工業投資をすることにあった。それは1989年の第二次天安門事件の底流を形づくった。人々は物価上昇と上から下まで公然と賄賂(わいろ)を要求するような官僚の腐敗に怒って、胡耀邦の死をきっかけに起こった学生の民主化要求を支持したのであった。そして天安門事件によって「10年後には民主主義を実現する」として民主化要求運動を支持した趙紫陽は失脚し、軟禁状態におかれた。天安門事件によって日本を除く主要国は中国に経済制裁を加え、外国投資は減少し景気は後退した。

[阿部治平]

高度成長とその問題点

中国経済の躍進は1992年春の鄧小平の「南巡講話」とよばれる市場経済拡大の大号令から始まる。鄧小平は経済特区を視察し、「改革開放」をいっそう進めるべきだとして、それまで続いていた「資本主義か社会主義か」という論争に終止符を打った。これによって市場経済化は促進され、ふたたび外資導入は進み、中国の経済成長はアジア各国のなかでも高い水準に達した。しかし、1990年代の前半も20%前後の激しいインフレが進行した。1993年から政府は固定資産投資を抑え、景気引き締め政策をとった。1990年代は経済成長が進んだが、国有企業の整理は困難であった。その反面、郷鎮企業の民営化と淘汰(とうた)では1億4000万の郷鎮企業に働く農民のかなりを整理した。

 第九次五か年計画の最初の年、1996年の経済成長率は9.7%となって物価上昇率8.3%を上回り、3年半実行してきたマクロ調整政策の効果がようやく現れた。

 1978年から2005年まで、国内総生産(GDP)の年成長率は9.6%、1人当りのそれは200米ドルから1700米ドルへ上昇した。そして農村の貧困発生率も30.7%から2.5%への減少をみた。過去20年のあいだに中国のGDPは4倍に増加し、消費水準も2.51倍となった。1985年から2005年までに全中国の1人当り消費水準はおよそ5000元(都市平均月給の2.5倍程度)増加した。

 人口の都市化率は1978年の18%から1985年の23.7%、2005年の43.0%になった。このままあと20年経過すれば63%に達する。2025年には人口の都市化によって市場消費は少なくとも1兆2000億元増加するとみられている。2007年9月末、中国人民銀行(中央銀行)研究局は中国のGDP総額は2006年は20兆元(300兆円)強、成長率は2006年実績を上回る11.6%、消費者物価指数は4.6%上昇と発表した。日本の高度成長期を上回る数値である。しかし、中国経済の実体は統計数値だけではわからない。胡錦濤は2007年、中国共産党第16期中央委員会で高度成長のもうひとつの側面を語った。その趣旨は「中国は全体的には調和のとれた社会といえるが、多くの矛盾と問題がある。おもに、都市と地方・地域の経済発展のアンバランス、農村の潜在的過剰人口と出稼ぎ・資源の浪費・環境破壊の増大、就職、社会保障、収入分配、教育、医療、住宅、生産の安全、治安など大衆の利益にかかわる問題が突出している。『法の支配』も完成には遠く、社会成員のある部分の信頼、道徳が損なわれたうえに、一部指導者の素質、能力、仕事のやりかたは任務の必要にふさわしくはない」というものだった。

 中国の最高指導者は高度成長がひきずった社会的アンバランス、資源・環境の浪費と破壊、国民生活の不安、官僚の腐敗の存在を認めたのである。現在中国のどこにでも「和諧社会」(調和ある社会)というスローガンが見られる。いまさらのように「和諧社会」が掲げられたのは社会矛盾が深刻になったからである。

 専門家によると中国社会階層の現状は次のとおりである。(1)国と社会管理者階層(国家・省市の上級官僚、大企業の指導者)、(2)経営者階層(大企業の上層)、(3)私営企業主階層(中規模商工業経営者)、(4)専門技術要員階層(専門職、技術者)、(5)事務要員階層(一般公務員、会社員、教師)、(6)個人経営商工業者階層(中小零細企業経営者)、(7)商業サービス業従業員階層((6)の従業員層)、(8)産業労働者階層(工場労働者)、(9)農業勤労者階層(農民)、(10)都市失業・半失業者(もと国有企業労働者、不安定就業者、ホームレス)。

 中国革命は労農大衆の革命だという筋(すじ)からすれば、現状は革命前の階級社会に返ったことになる。とりわけ(7)、(8)、(9)は国家の多数者であり主人公であるはずだ。しかし、彼らの下にはルンペン・プロレタリアートしかいない位置に置かれている。

 精華大学の経済学者、胡鞍鋼(こあんこう/フーアンガン)(1953― )によれば中国には四つの世界がある。1999年の1人当り購買力でみると、第一は上海、北京、深圳などで、GDPが中位収入の国家の平均レベル(8320ドル)を超えた。上海、北京で全国人口の2.2%。第二は大中都市と東部臨海地域で、天津、広東、浙江、江蘇、福建、遼寧などは中位収入の低レベル国家の平均(3960ドル)を大きく超えた。6省市の人口は2億7404万人、全国人口の21.8%を占める。第三は河北省と東北、華北中部の一部地域で、ほぼ中位の低レベル国家に該当する。人口3億2783万人、全国人口の26.0%を占める。第四は中西部貧困地域、少数民族地域、農村地域、辺鄙(へんぴ)な地域、そのほかの低収入地域である。たとえば貴州(きしゅう/コイチョウ)省は1人当り1247ドル。世界の低収入国家の平均レベル(1790ドル)よりも低い。胡鞍鋼によれば、6億5000万人、中国人口の半数が世界の最貧地域の水準だという。

 この統計からすでに7年。豊かなところはもっと豊かになり、貧しい地域は依然貧しい。国連統計では中国最貧20%に当る人々の収入は全国総収入の4.7%を占めるにすぎず、最富裕層20%の収入は全国総収入の50%前後を占める。また、資産上位800人の総額が3兆4452億元(約51兆7000億円)という。これは「農民全体の1年間の収入」に匹敵するという(「産経新聞」2007年10月24日)。しかも景気は過熱ぎみで「金(かね)余り現象」が生まれ、銀行、証券会社、保険会社などの機関投資家は住宅や株式投機に走っている。社会格差をおおまかに示すジニ係数は社会不安が高まり暴動がおきる水準の0.5に迫る。2005年の公式統計では当局や企業に対する大衆的集団抗議は8万7000件に達した。

[阿部治平]

改革ブレーンらの主張

高度成長を続ける中国経済のなにが問題だったのか。中国にも改革に異議申立てをしている人々がいる。彼らのなかには「経済を社会主義に戻せ、農村を人民公社化せよ」と主張する毛沢東主義者もいるが、多くは改革の必要性を認めたうえで、市場主義的方法に原因があったとする。

 10年近く「市場至上」「効率優先」の改革を進めたが、資源分配の権限をもつもの(すなわち高級官僚)が権限の有効な制限を受けなかった。そのため政治権力と資本が結びついて私欲を満たすのは放置された。新自由主義経済学はそれら私欲の輩に表向きはりっぱな理論解釈を提供し、彼らの行動を「合理化」した。最近十数年、経済総量の増大と産業拡大という面で、工業は終始優先的地位におかれ、農業では官僚の行政的成績を上げることはできないから、農業は無視されたというのである。こうした批判は一部の元官僚や学者だけによるのではなく、国民大多数のものでもある。

 たしかに、やみくもな改革で、市場原理になじまない医療、教育、住宅、福祉分野も市場化した。かつて人口の90%をカバーした医療合作制がなくなり、医療費は高騰し貧困層は医者にかかれなくなった。小学校でも学費を取るから学校へ行きたくても行けないものがある。中学、高校の学費はときには大学なみである。2006年現在、国公立大学でも年6000元という学費である。農民1人当りの現金収入は年間2111元で、都市住民(1万0346元)の約5分の1にすぎず、子どもを大学に入れようとしても借金をしなければ不可能である。また、都市住宅は投機の対象となったために庶民の手の届かない価格となった。

 改革のブレーンらは、批判者の指摘する事実を認めるが、しかし市場主義的改革が悪いのではないとする。批判者がいうように中央、地方の権力の介入によって「公平な市場」形成のための改革がゆがめられた。権力市場化(企業家と政治権力の結託した金儲(もう)け)現象の根源は、ほしいままの権力行使に対し有効な制度的制約メカニズムがないことである。改革のブレーンらは、権力が関与しなければ、これほどの不公正な取引と経済格差は生まれなかったはずだという。中国では公共需要が急速に増加するなか、公共性生産物が不足している。政府は公平な競争の環境をつくり、次は二次分配のなかで役割を果たさなければならない。たとえば税収を通して収入と分配の不合理現象を調節し、財政支出構造を調整し、財力を集中して医療救助、義務教育、社会保障などの問題を解決する政策をとる。いいかえれば法による支配を確立し「人治」を排除して「良い市場経済」を確立し、高福祉政策を採る。以上が改革ブレーンらの主張である。

 2007年10月の中国共産党17回大会では、2020年までに1人当り国内総生産(GDP)を2000年比で4倍増とするという目標を示した。もし改革ブレーンの意見と胡錦濤・温家宝政権の路線が一致しているならば、これからは「和諧社会」のスローガンのもとで持続可能な成長路線を意味する「科学的発展観」によって経済成長・市場改革とともに、二次分配による高福祉政策が進められるはずである。

 しかし、国有財産を横領し労働者を搾取し農民から土地を収奪したのは、中央・地方の指導者とそれに連なるものである。立法をするのも、権力から独立した公平・透明な市場の実現を担保するのも、過熱した景気を抑えて軟着陸させるのも、高度福祉政策をつくるのも、汚職根絶のために尽力するのも、実にこの指導者層である。「悪い市場経済」が好ましい方向に向かい、社会主義の名にふさわしい福祉政策が実現するか否かはわからない。

[阿部治平]

農林・牧畜業

中国の農業地理はモンスーンの影響を受ける東半分と、非モンスーン地帯の西半分に分けられる。東半分は大まかに年降水量850ミリメートルを境界として北の畑作地帯と南の水田地帯になる。400ミリメートルの線から西半分はチベット高原と新疆・内モンゴルのステップと砂漠である。畑作地帯の主要作物は小麦、トウモロコシ、水田地帯は水稲であるが、畑作地帯にも稲作、果樹園芸が点在するし、水田地帯の何割かは米麦二毛作、畑、果樹園である。チベット高原の河谷には牧畜と結びついた小麦、裸麦(はだかむぎ)があり、新疆ではウイグルと新来の漢人はオアシス農耕、カザフの多くは半農半牧に傾く。内モンゴル高原のほとんどは漢民族農耕民であって、モンゴル牧民は少数である。都市近郊では市場向けの畜産、蔬菜(そさい)、果樹、園芸作物がある。

 革命以来1980年代までの農政上の業績は土地改革を除けばそれほど大きくはない。1949年の革命から1970年代の後半までは、1930年代の労働生産性を超えられなかったという説がある。1949年に中華人民共和国が成立したとき、人口の10%あまりの地主と富農が耕地の70%を占有していた。これを第一の土地革命によって平均化し、自営農民を創設した。これによって日中戦争と国共内戦で疲弊(ひへい)した農村は数年で回復した。しかし、指導者毛沢東は自営農の階層分解を警戒して、1952年から「互助組」をつくらせ、さらにそれを生産協同組合である「初級合作社」に変え、1955年には合作社を連合して「高級合作社」にした。農民の土地は合作社の占有、農民は命令された作業をやるだけの存在、経営は役人のやるものに変わった。

 1958年、毛沢東は「大躍進」のスローガンのもと、高級合作社を連合した「人民公社」を組織した。この経営規模は伝統的な行政「郷」(大まかには日本の行政村と同じ)、大きいものは「県」規模であった。中央には偽りの豊作報告が地方官僚から寄せられ、毛沢東らはそれを喜んだが、現実には1958年から3年間凶作が続き、軍隊も動揺するような大量の餓死者が発生した。

 毛沢東にかわった劉少奇、鄧小平らは農業経営のレベルを生産隊(かつての初級合作社、20戸くらい)に戻し、農民に自家用菜園地(自留地)を与え、若干の自由を許した。機械、施設、道具などは規模に応じて人民公社、生産大隊(かつての高級合作社)、生産隊の管理するところとした。これは「三級所有制」とよばれた。食糧危機、飢餓から中国農村が抜け出したのは1965年のことである。しかし、翌1966年から「文化大革命」の混乱が始まり、家内副業、自由市場を「資本主義」として禁止し、油料、果物など商品作物の栽培は切り捨てられ、食糧生産のみが強調された。「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」運動が始まり、山地森林を伐採し急斜面を段々畑にするなど、不合理な農法が強制された。

 文化大革命が終わって、1980年から徐々に第二の土地改革が行われ自営農が創設された。同時に人民公社は郷政府、大隊は村政府に変わった。農家は労働力と家族数によって耕地を請負い、割当販売(義務供出)と納税の義務を遂行すればあとは自由に生産、販売してもよいとされた(包幹到戸(パオカンタオフ))。西北のステップの牧畜改革は家畜の分配請負と私有化、やがて草地の各戸請負が加わり自営牧畜制が完成した。草地の個別牧家への細分とともに定住が進み遊牧はなくなった。副業、小商売、運搬、旅館、倉庫やさまざまなサービス業が認められるようになった。1979年に食糧の政府買上げ価格は20%、義務供出超過分に対しては50%の割増し価格が実施された。1984年になると食料の半分は商品となり、国家は食糧1キログラムにつき0.18元、食用油1キログラムには0.14~0.16元の財政負担をした。まもなく、食糧増産を背景に「統一買付け・統一販売」(国家による食糧統制)を見直し、価格を市場原理によって調節する方向が示され、割当買付けは食糧、搾油原料、綿花などに限られた。1978年には全農村の現金収入は580億元であったが、1984年には1500億元を超えた。現金収入の増加によって1984年の社会購買力の50%は農民が占めたという。とくに都市近郊農村では家の新築、自転車、ラジオ、時計、白黒テレビなどの需要が高まった。しかし、「包幹到戸」の初期効果はここまでで、1980年代後半から農業は停滞した。

 1993年に食糧生産が4億5000万トンを上回り、生産過剰を背景に南部諸省から供出と配給、売買の自由化が進み、食料価格は下落した。しかし政府は保護政策をとり、公定買付け価格を高めに維持し、1998年には農地請負を30年に延長した。21世紀に入ると食料の安定供給を背景に、政府の価格政策はようやく後退する。

 2007年9月、農業部の副部長尹成傑(いんせいけつ/インチョンジエ)は2006年の農民1人当りの純収入が前年比実質7.4%増、3587元だったとした。2007年上半期の農民現金収入は前年同期比13.3%増加して2111元となった。純収入は、現金収入に農作物などの自家消費分を収入として加算した数値である。1人当り純収入は2007年までに3年連続で6%超の成長であった。1995年以来もっとも速い伸びだったというから、これだけをみれば農業もある程度評価できるレベルに達したと考えられる。ところが中国農民の実体は全国統計の合計値や平均値とはかけ離れたところにあった。

 2000年の春、湖北省監利(かんり/ジエンリ)県棋盤(きばん/チバン)郷の郷党書記李昌平(りしょうへい/リチャンピン)(1963― )は「南方周末」(新聞)に寄稿して朱鎔基(しゅようき/チューロンチー)総理に「農民はまことに苦労し、農村はまことに貧乏で、農業はまことに危ない状況にある」と農民農村の窮状を訴えた。いわゆる「三農問題」である。

 やがて中央も農村の窮状を認める。2003年1月、中国共産党中央は「三農問題」解決を課題とし、2005年2月、中国共産党中央と国務院は「農民の収入を増加促進するに関する若干の政策意見」を発表し、そのなかで農民の純収入の伸びが緩慢で、食料主産地(土地利用型農業)では全国平均以下であること、都市住民との格差は開く一方であること、農業収入の停滞が食料生産と農産物供給に影響し国民経済全体の成長にマイナスになることなどを指摘した。

 約30年にわたる市場主義改革は高成長を生んだが、それを支えた農民、労働者など弱者には冷淡で、改革は「あな」だらけで「ずさん」だった。社会主義体制下で隠蔽(いんぺい)されていた構造的問題がこれに拍車をかけた。

 中国国土資源部の「2006年度全国土地利用変更調査結果報告」によれば、全耕地面積は2005年10月から2006年9月までの1年間に30万7000ヘクタール減少して1億2200万ヘクタール(1人口当たり0.087ヘクタール。日本は0.2ヘクタール)になった。2010年末までの維持目標は1億2000万ヘクタールだが、それは不可能である。この面積ならば米、麦、トウモロコシなど穀作を中心とする土地利用型農業を前提とすれば、1億人の労働力で足りる。国家統計局によると、2005年の人口1%サ。cv。。ンプリング調査では、農村人口は7億3500万、全人口の56%を占めるものと推計される。労働力をかりに農村人口の半分とし、「農民工」1億5000万強(うち3000万近くは老人と子どもだけの留守家庭)を農外就労者としても、なお1億2000万近くは潜在的失業労働力である。2030年には全人口は16億。都市化率63%とすると、都市に10億人、農村に6億人が生活する。やはり億単位の潜在的失業労働力を抱えることになる。それを避けるには各都市は巨大人口を包容しなければならず、農業もまた構造変革をせまられる。

 市場主義改革によって農民は市場経済のなかに「裸」で放り出され孤立している。国家・地方の農業関係予算は人口比からすれば僅少(きんしょう)であって、日米欧の農民ほどには保護されていない。ところによっては共同設備、水路、貯水池などインフラも荒廃したうえ、公社時代の共同施設(製粉精米所など)が私有化され、共同作業、共同購入がなくなった。にもかかわらず、初歩的な互助組織、共同販売や信用制度も設立されなかった。農民の自主互助組織設立は緊急の課題である。

 「物権法」(所有権法)が成立したものの、土地所有権は郷政府にあり、農民の耕作権は依然として不安定である。地方政府は、土地をしばしば安い補償金で収用し、耕作権を奪う。これがまた政府関係者の不当利益の源泉となる。農民は土地という生活手段を奪われて行きどころがなく、地方政府や企業に対する抗議が絶えない。県以下の地方政府にしてみれば税制上の欠陥から赤字となり、ときには官僚の給料も出ないから、それを農民に転嫁して土地収用と税と不法な負担金(攤派(タンパイ))を押し付けざるを得ない。その徴収方法はしばしば「匪賊(ひぞく)」同然(朱鎔基の発言)である。

 一方、WTO加盟によって、大豆、トウモロコシ、食用油など農産物の貿易が自由化し輸入が増加した。政府が食料生産農家を支え自給率95%を維持することはむずかしくなった。中国農業は大都市近郊はともかく、土地利用型農業はこれからもかなり困難が続く可能性がある。

[阿部治平]

工業

今日おもな工業地帯は、東部臨海地帯の上海、南京、杭州、蘇州、無錫(むしゃく/ウーシー)などを中心とする長江デルタ、広州、深圳を中心とする珠江デルタ、瀋陽、大連にわたる、かつて日本が軍事的に占領していた満州国以来の重工業を主とする遼寧省中南部、北京、天津を中心とする京津地帯である。ほかにもチチハルからハルビンに及ぶ地域、洛陽、鄭州(ていしゅう/チョンチョウ)を中心とする地域、成都から重慶にかけての地域、武漢、宜昌、長沙、株洲など長江中流地域をあげることができよう。これら地域は多かれ少なかれひととおりの業種を網羅する総合的な工業地帯である。そのほか石油に特化しているクラマイ、蘭州(らんしゅう/ランチョウ)、大慶、鋼鉄の唐山、包頭(パオトウ)、攀枝花(はんしか/パンジホワ)などが特徴的である。1990年代から21世紀にかけて急成長した地域は長江デルタと珠江デルタ、山東半島各都市で、天津などは大都市でありながらやや出遅れた。工業に関連して対外貿易は、広東が全国の約30%を占めるのをはじめ珠江デルタが大きい。近年は上海を中心に長江中下流、首都圏の天津、河北、山東が伸びている。

 2001年の粗鋼生産量は1.5億トンほどだったのが、5、6年にわたって約20%の成長率を続け、2007年は5億トンを突破。これは世界生産量の3分の1強を占める。鉄鋼産地の随一は河北省唐山で全省の50%、全国レベルでもでも7%を占める。2006年には中国は鉄鋼の純輸出国となり、生産設備の大きさからいってこれからも伸び続ける。問題は大小の鉄鋼産地が国内各地に散在し、効率が悪いことである。中央政府は各地の新規プロジェクトの制限や中小規模設備の合併、閉鎖を進め、2020年までに国内の上位10社に生産量の70%を集中する計画である。

 中国はすでに世界第2の自動車消費国、第3の生産国となった。自動車産業が国内総生産(GDP)に占める割合は2006年末時点で3.7%、自動車関連産業の就業者数は社会全体の6分の1を占める。生産台数は乗用車だけで2005年では400万台。2002年以降、生産台数は毎年数十%の増加を示している。おもなユーザーは個人に変わり、乗用車に占める個人所有の割合はおよそ60%。2007年の各種運転免許証取得者数は1億6000万人で前年末比7%の増加である。しかし、大都市には恒常的な渋滞がうまれ、排出ガス規制がないためか大気汚染がすさまじい。

 日本のトヨタ自動車、日産自動車、スズキ、本田技研工業などをはじめドイツ、アメリカ、台湾、韓国の自動車メーカーも合弁など各種の形で中国各地の主要都市に製造工場を設立している。中国の自動車輸出は急速に伸びる傾向にある。2006年の完成車輸出は34万台で前年の2倍。2007年には50万台を超える。部品輸出は88億5000万ドルで、成長率は同32.4%。

 中国は、日中戦争が始まる前はインドよりも工業化の程度は低く、鉄鋼を中心とする重工業は日本支配下の「満州帝国」南部にしかなく、近代都市上海にも繊維工業を主とする軽工業が集中しているにすぎなかった。1953年から大規模な工業化が始まったが、1950年代の工業建設はおもにソ連の援助による自己完結型工業体系を目ざしたから、重工業の投資率は国際水準よりも著しく高かった。中ソ対立が顕著になってからは、対米ソ同時戦争を想定し、臨海地域の工業を内陸部に移して、四川省、貴州省、雲南省などの産業基盤の弱い地方に、軍事工業、重機械、鉄鋼、エネルギー、鉄道建設を進めた(三線建設)。1966年からの第三次五か年計画期間、全国の基本建設投資総額の半分を上回る52.7%の資金が投じられ、第四次五か年計画期には41.1%があてられた。コストと効率は無視され、既存の工業地帯の停滞は免れなかった。

 改革開放政策が登場するとその初期効果によって、1984年にエネルギー生産は石炭7億7000万トン、石油1億1500万トン、発電量3746億キロワット時に達した。これを受けて粗鋼生産は4337万トンとなり、綿花、綿布、セメント、石炭、化学肥料は世界3位以内、鉄鋼はロシア、日本、アメリカに次ぐ地位に、発電量、石油も10位内に入るようになった。1984年の水準は、粗鋼では日本の1950年代の初期にあたり、1人当り繊維消費量は日本の10分の1以下である。だが、自力建設の方針や巨大人口など条件のよく似たインドと比較すると、一部の消費財を除き、多くの財の消費量、生産増加率は中国のほうが優れていた。

 1980年代は中国経済が先進技術を取り入れ、世界市場に参加していく10年であった。国営企業の独立採算制、私営企業設立の容認、外国技術・外資導入のために設立された「経済特区」と対外開放都市、社隊企業から郷鎮(ごうちん)企業への編成がえなど、次々と市場経済化の布石が打たれた。1992年春の鄧小平「南巡講話」は経済改革と対外開放(すなわち外資導入)をいっそう推し進める号砲となった。1992年10月の第14回中国共産党大会は「社会主義市場経済」を建設するとし、工業投資は重工業優先から消費財生産を主とする軽工業優先に変わり、それが雇用を拡大し農業と重工業の発展を刺激した。工業全体が国家独占から分散構造に変わった。1995年の粗鋼生産は9297万トン、石炭は13億トン、原油は1億5000万トンである。自家用車、トラックを含む自動車生産は個人購入もあって急増し150万台に達した。ただ、国有企業の改革は困難であった。国有企業は1995年になっても投資の50%を占め、生産の40%を占めた。12万社という企業数があり、労働者は1億1000万人、全労働者の20%を超えていたが、その半数近くが赤字企業であり、赤字額はGDPの1%といわれた。1998年からようやく赤字企業を倒産させる政策が採用され、失業者が増大した。

 1990年代は、耐久消費財とりわけ電気冷蔵庫、電気洗濯機などが大きく伸び、そのブームは農村にも及んだ。1995年にはそれぞれ929万台、944万台になった。郷鎮企業と都市私営企業、経済特区と開放都市に進出した外資系企業が発展の担い手であった。この間、中国は10%内外の高成長を続け、やはり高速で伸びるASEAN(アセアン=東南アジア諸国連合)諸国の速度を上回った。

 1996年の1人当り国内総生産(GDP)670ドル(台湾1万2731ドル、フィリピン1162ドル)、GDPに占める第一次産業の割合は20%、第二次産業49%、第三次産業31%であった。2005年は1人当りGDPは約1700ドルで、農業の比率が減少し第三次産業が伸びたが、サービス産業は依然として低い比率である。中国の工業資本は低技術、低付加価値の産業分野に多く、ハイテク、設備製造業は外資系企業が主導的地位を占めている。中国独自の技術開発が遅れたのである。労働生産性はアメリカの30分の1、日本の18分の1、フランスの16分の1、ドイツの12分の1、韓国の7分の1である。

 さらに鉄鋼・自動車など地域ごとに業種の重複が目だつ。官僚の成績評価の基準が経済成長にあるために、地方当局が重工業建設プロジェクトに投資したがるからである。21世紀に入ってから地方政府は「都市を経営する」という名の下に「銀行授信借款」あるいは「地方政府のための投資機構が担保する貸付」などのやり方で建設資金を集めて投資する。農民から強制収用した土地を通して、地方政府は特恵的価格を設定し投資を引き付ける。この制度外融資は中央政府のマクロコントロールの及ばないものである。

 この50余年中国の経済発展は粗放型、浪費型であった。その特徴は、若年労働力が安いこと、技術水準の低さ、土地・鉱産資源コストへの関心が小さい、企業に資源エネルギー節約のモチベーションがない、などである。市場経済の今日でも、2003年は、インフラ建設と不動産投資は全社会固定資産投資の60%を占めたが、技術革新への投資は15%を占めたにすぎない。資本形成がGDPに占める比重は、アメリカ、ドイツ、フランス、インドなどは20%程度であるのに比べて、中国は1978年が38.2%、2004年は55.3%という高さである。GDPが十数倍に成長するなか、鉱産資源の消耗は四十数倍となった。とくに単位当り生産のエネルギーと資源消費は国際レベルより相当高い。火力発電所の燃料炭消耗量は国際レベルの22.5%も高く、大中型鉄鋼企業の鋼鉄トン当り生産エネルギー消耗量は21%、セメントのそれは45%も高い。2005年の中国のGDPが世界全体に占める比重は4.9%だが、消耗した原燃料が全世界消耗量に占める割合は、原油7.4%、原料炭31%、鉄鉱石30%、鋼材27%、アルミナ25%、セメント40%である。1トンの標準炭のエネルギー産出効率はアメリカの28.6%、EUの16.8%、日本の10.3%にすぎない。

 製造業の毎時間当り賃金は、2004年には0.84ドル。アメリカでは16.14ドル、ドイツ18.56ドル、日本16.55ドル(2003年)、イギリス19.96ドル(2003年)、カナダ18.05ドル、韓国10.31ドルであった。中国製造業の賃金コストは、韓国の8.1%を除けば先進国の5%内外に過ぎなかった。低賃金が維持できたのは農村の巨大な余剰人口と、工会(労働組合)が労働組合らしい権限もなく、長時間労働と低賃金、人権に関心をもたなかったからである。「世界の工場」という美名を支えたのは若い低賃金労働者である。労働争議が頻繁に起こるのをうけて、2007年にようやく最低賃金を引上げる動きが出てきた。これから労働力コストは東部臨海大都市を中心にゆっくりと上昇し、低賃金をあてにしてきた日系その他の外資系企業が経営転換を迫られる日が近づいている。

[阿部治平]

交通・運輸

古くは「南船北馬」といわれた面影は、長江、珠江、淮河(わいが/ホワイホー)などの本支流の船運や華北の小都市でラバの引く荷車などにわずかに見られるが、いまや主たる輸送手段は鉄道、水路、道路、航空そして石油と天然ガスのパイプラインである。国土が広いため、道路の総延長は2005年現在193万5000キロメートルで、日本(118万キロメートル)を上回るのは当然である。最初の長距離高速道路は、1990年に開通した瀋陽―大連間(376キロメートル)であった。1993年当時は、上海―南京間、広東省の主要都市を結ぶ道路、仏山(ぶつざん/フォーシャン)―湛江(たんこう/チャンチヤン)、深圳―珠海、成都―綿陽(めんよう/ミエンヤン)などを結ぶ高速道路が計画あるいは着工され、同年北京―天津―塘沽(タンクー)高速道路、北京―石家荘などの高速道路がようやく完成した。その後、急速に延びた高速道路網は2006年現在で、総延長が4万1000キロメートルに達し、世界第2位。飛行場、大都市へのアプローチも格段に改善された。すべての省都はもちろん、主要都市は高速道路で結ばれている。チベット高原でも自動車で行けない県政府所在地はない。タクラマカン砂漠石油道路も完成した。

 バスも国際化が進み、ウルムチ―アルマトイ(カザフスタン)、騰冲(とうちゅう/トンチョン)―ミーチーナ(ミャンマー)間の国際バスが開通した。2003年から2005年までの3年間に建設された農村のコンクリート道路も、革命以後2002年までの53年間に建設された道路の2倍にあたる63万キロメートルという。2000年から2005年までの6年間、交通分野への固定資産投資は2兆2300億元余りに達し、新中国成立後51年間の投資合計を上回った。2006年からの5年間に道路総延長は38万キロメートル増加し、230万キロメートルに達する。

 鉄道は1990年代までは東北地区がもっとも密といえたが、現状では北京と上海、北京と香港(ホンコン)九竜(きゅうりゅう/チウロン)、上海と杭州を結ぶなど南北の主要都市を結ぶ幹線が整えられた。東西を結ぶ線路も北から綏芬河(すいふんが)―ハルビン―満洲里(まんしゅうり/マンチョウリー)、北京―蘭州(らんしゅう/ランチョウ)―ウルムチ、連雲港(れんうんこう/リエンユンカン)―蘭州、上海―昆明などの線が整備された。ディーゼル車が主力で蒸気機関車は20%だが、将来はすべて電化される予定である。2006年に青海省西寧からラサまでの青蔵鉄道が完成した。これはいわゆる政治路線の意味合いもある。また2007年には、日本の新幹線車両をベースにした高速鉄道「子弾頭(しだんとう)」が上海―杭州、上海―南京間で営業運転を開始した。

 鉄道営業距離(鉄道部統計)は、2002年当時7万1900キロメートルであったが、2006年末には7万7000キロメートル、世界第3位となった。総延長距離は15万4600キロメートルである。複線区間は2万3000キロメートルから2万6400キロメートルに、電化区間は2万4400キロメートルとなり電化率は31.7%となった。2002年から鉄道の革新・高速化への投資を中心に毎年20%増やし、2006年には建国以来最多となる1553億元を投資した。だが経済の高成長に比較すると投資額はそう多いとはいえない。

 国家統計局によると、2006年時点で、旅客および貨物運輸量と鉄道の収入が3年連続の増加、旅客および貨物輸送量、車両利用率、運輸密度が世界でもっとも高かった。当然のことながら大衆列車はいつも混み、とくに5月、10月の連休の混雑はすさまじい。旅客は長距離は鉄道、短距離はバスというのが通り相場だが、鉄道未発達のために長距離バス利用も多い。しかも大都市圏に、近郊と中心地を結ぶ鉄道がほとんどない。北京、上海、天津、広州、青島(チンタオ)に地下鉄があるが、これも人々の需要に応じきれていない。

 航空路線は2006年現在、国内線が1000近く、国際線は約200ある。日本とは香港はもちろん北京、上海、天津、大連、広州、厦門(アモイ)、青島など臨海都市、ハルビン、瀋陽、重慶、武漢などの内陸都市、西安、桂林、昆明などの観光地を結ぶ直行便がある。一時各地に地方航空会社があったが、2002年に中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空の三集団に編成された。国内線で利用者が多いのは北京と上海、広州、深圳間、上海と広州、深圳間である。

 おもな貿易港は大連、秦皇島(しんこうとう/チンホワンタオ)、天津、煙台(えんだい/イエンタイ)、青島、上海、福州、厦門、香港、黄埔(こうほ/ホワンプー)、湛江(たんこう/チャンチヤン)などである。このうち上海が最大である。また取引量は少ないにしても内陸国境の貿易地も忘れてはならない。貨物輸送総量のおよそ半分は沿海水運による。石炭輸送が多く、山西の石炭は秦皇島から臨海各都市に運ばれる。内陸水運のおもなものは長江水系、珠江水系、京杭(けいこう)運河である。東北の国際水路、黒竜江(アムール川)水系も重要である。淮河以南の平野部河川はいずれも大小の船運がある。長江は三峡ダムが2009年に完成し、上海から重慶まで1万トンクラスの船が航行できるようになった。

 1993年末、全国の電話普及率はわずかに2.15%、都市部で7%であった。2007年現在、通信網は上海や広東省などの沿海地域を中心に整備され、チベット高原の小さな町からでも直通で外国に電話をかけられる。光ファイバーは北京からラサまでなど重要都市を網羅しており、日本とも海底光ファイバーで結ばれている。1990年から携帯電話サービスが始まって急速に増加したが、固定電話普及の遅れたことが携帯電話の利用をもたらした。2007年1月末現在、全国の電話加入件数は固定電話が3億6800万件、携帯電話が4億6700万件に達している。

[阿部治平]

環境問題

中国の環境問題の深刻さは、住民が居住地環境の実態を知らないことである。議会制民主主義国家にあっては、有効な初歩的方法は研究者が参加した大衆的環境保護運動であるが、中国では環境保護は政府が主導するものであって、大衆的抗議は当局の妨害を受けることがある。ところが官僚は環境汚染は途上国にはつきものと考え、積極的に回避しようとしない傾向がある。北京(ペキン)の大気汚染が深刻化している現状を、副市長は世界中の多くの都市が経験してきた現象だと主張した。学校では環境保護週間があるが、スローガンを書いた横断幕を張るだけである。信頼できる全国的環境調査は現状では存在しない。今後、官僚の成績評価に経済開発実績のほか環境保護が加わるから、環境調査結果は偽造される危険がある。

 2007年10月の17回中国共産党大会での胡錦濤の報告によれば、「21世紀に至っても、中国経済は依然として高投入と高消耗と低効率が並存し、この粗放型経済成長が天然資源の過度の消耗と生態環境に対する深刻な破壊をもたらした」としている。国家環境保護総局のホームページによると、2006年には環境汚染対策に2567億8000万元が費やされた。前年比7.5%の増加であり、国内総生産(GDP)の1.23%に当る過去最高の金額である。環境汚染対策費用が急増するのは、対策効果よりも汚染拡大が激しいことを示している。

 すでに1993年、国家環境保護局は20世紀末までに中国で排出されるSO2(二酸化硫黄)は2000万トンに達すると発表した。2006年の放出量は予想を超え2588万8000トンで前年比1.5%の増加。全国廃水放出量は536億8000万トンで前年比2.3%増加したという。SO2や降下煤塵(ばいじん)は、石炭使用量の多い北部工業地帯と炭鉱発電所、重慶、貴陽(きよう/コイヤン)、南昌(なんしょう/ナンチャン)などで深刻である。炭産地大同(だいどう/タートン)の石仏は腐食が著しく進んだ。中国のSO2濃度は平均で日本の約3倍といわれており、工業都市はいずれもアジア有数の汚染地域である。北京には、かつて「北京の秋」と讃えられた青空はない。

 公式発表では7割以上の湖、9割以上の地下水が汚染されているとか、安全な水は都市の2分の1、農村の7分の1しか供給できないといわれるが、確かなことはわからない。2007年には国務院水利部当局も「3億1200万の地方住民は水不足とフッ素、ヒ素、高濃度塩分などの水質汚染に直面している」と新華社通信に語った。降水量の豊富な広東(カントン)省でも、2007年現在でフッ素、ヒ素などの含有量基準値を超えるとか、にがいとか塩辛いとか、なんらかの異常があって、水質基準を満たさない水を利用している人は1700万人に達する。青海湖(ココノール)沿岸の観光施設は排水の垂れ流しをしているが、青海湖は水温の低い内陸湖だから汚染は蓄積濃縮されるだけである。華北の水不足を解消するために長江流域の水を北に輸送する三つの水路のうち、「南水北調」中線は長江支流漢水の水を無処理のまま運搬するようだ。黄河は上流の西寧や蘭州から無処理の水をかなり流している。

 2006年5月から長江下流の太湖(たいこ/タイフー)を水源地とする無錫(むしゃく/ウーシー)では、湖水の富栄養化によるアオコ(藍藻)の繁殖のために水道水が悪臭を放ち、一時使用不能となった。当局も有害排水禁止のキャンペーンとともに、長江の水を太湖にいれて希釈を試みたが、工場、カニ養殖池などが無処理の廃水を依然流し込むとともに、長江そのものが富栄養化しているためほとんど効果はなかった。2007年夏、無錫ではシャワーも使えないほど水質が悪化し市民はパニック状態となった。当時太湖は黄緑のアオコにおおわれ、粥(かゆ)状になっていた。

 環境汚染が深刻化している地域の例をあげると、広東省韶関(しょうかん/シャオコワン)市周辺、天津市北晨(ほくしん/ベイチェン)区の化学工場地帯、湖北省襄樊(じょうはん/シヤンハン)市周辺、さらには淮河流域などである。これらはがん、イタイイタイ病類似などの奇病地域として知られる。淮河支流の沙河(さが/シャーホー)・穎河(えいが/インホー)を使っている村々では十数年前から消化器系がんで死ぬ人が増加し、先天性障害をもつ子どもも増えている。長江から30キロメートル離れた地域でも、村人と新生児の30%ほどが胆嚢炎にかかっているという報告がある。その原因は汚染された井戸水にあり、汚染源は周辺の工場排水といわれる。

 いわば中国の河川は川というより下水道だ。主要な河流の汚染は河口から沿岸、近海に及ぶ。渤海の今日は、明日の朝鮮半島沿岸と日本近海の姿である。

 おもな汚染源は日本など多国籍企業を含む各種工業だが、家庭排水、ごみ処理も問題である。ごみは分別なし焼却なしの野積み。都市郊外には例外なくごみの山がある。農業、水産業も農薬、化学肥料、抗生物質の過剰使用、ビニルの野焼きによって汚染源となっている。ときに農作物は各種残留農薬、重金属その他の有害化合物で、養殖池のウナギ、エビ、カニ、貝類は抗生物質と成長促進ホルモン剤で汚染される。

 黄土高原は、毎年黄土が1平方キロメートル当り4000~1万トン流失する。短時間の暴雨のたび裂谷(ガリー)が拡大し、耕地は侵され、道路や家屋も危険にさらされる。黄河中流部の河床は毎年10~20センチメートルの速さで上昇し、鄭州(ていしゅう/チョンチョウ)より下流ではところによっては10メートル以上の天井川となっている。長江流域も30年前から土砂運搬量が多くなり「黄河化」が始まった。1980年代に入って四川盆地以下の流域では雨期のたび洪水となり、同時に土砂堆積のために水運に支障が生じた。おもな原因は、上流のチベット人地域などで木材生産のための乱伐を行い、森林被度が十数%に減少したからであるが、対策として森林回復ではなく三峡ダムが計画された。総工費1800億元、完成時約130万人の強制立ち退き、生態系の破壊、歴史遺跡の水没を伴うことから、研究者も参加した論争があった。しかし、最終的に中国共産党中央が反対論を抑え、1994年12月に起工式が行われた。堤防の長さ2309メートル、高さ185メートル、ダム湖の長さは湖北省宜昌(ぎしょう/イーチャン)から重慶にわたる570キロメートル、貯水量は日本のダム総貯水量の2倍、年間発電量846.8億キロワット(日本の水力発電総量と同じ)、水没面積630平方キロメートルの世界有数の大型ダムである。2009年には水位が175メートルに達した。

 ところが大ダムが1800億元という投資に見合った効果を発揮するか否かについては疑問の声が多い。アム川、シル川の灌漑(かんがい)とアラル海、ドニエプル川、ドン川のダム群、ナイル川のアスワンハイダムなどのように功罪相半ばあるいは問題が続出する危険も大きい。三峡ダムでも強制移住とその後の生活の悪化、名勝旧跡の水没、貯水による水質汚濁や種絶滅の危険など悪影響が生まれている。ダム上流の重慶では土砂堆積を予想して新河港を建設中である。政府はまた長江上流、金沙江(きんさこう/チンシャーチヤン)の世界遺産にさしかかる2か所に水力発電ダムの建設を計画した。三峡ダムの砂防堰堤(えんてい)であるが、後に計画を取りやめた。

 革命後、内モンゴル、新疆、青海などでは「生産建設兵団」など移住者が良好な牧野を開墾した。畑は数年で表土が風食によって失われるか、灌漑をした場合は塩類集積でだめになるため、つぎつぎ草地を開墾する。こうして牧民の牧野はどんどん狭くなる。近年、牧民も商品価値の高いカシミヤヤギを放牧したため荒廃が速まっている。砂漠化は年々拡大速度を上げ、1970年代までは毎年1500平方キロメートルの拡大、1980年代に2100平方キロメートル、1990年代に3600平方キロメートルとなった。21世紀になると、環境保護のため農耕と放牧が禁止され「生態移民」と称して町への移住を強制される地域が生まれた。新疆のタリム川やバクラシ湖周辺は、ヤナギ類の林を伐採して灌漑耕地としたが、畑灌漑の排水によって中下流部に塩害が生じた。青海湖は中国最大の塩水湖で平均水深17~18メートルであるが、毎年14~17センチメートルずつ水位が下がり、1959年の水面4548.3平方キロメートルが2004年には4186平方キロメートルに縮小した。原因の一つは水源の水が入植地の灌漑に使われたからである。この3年は多雨のため湖面縮小は止まっているが、降水量が平年並みになると100年で消滅することになる。

 こうした牧野砂漠化と、畑灌漑による湖水、河川水、地下水の減少と汚染は乾燥地帯のいたるところでみられる。西北部では「退耕還林」「退牧還草」(農牧業をやめて育林育草をする)や、日本のボランティアも含めた植林事業が続くが、地元民の理解と慎重な生態調査を前提にしない、やみくもな緑化事業は浪費あるいは有害である。

 中国共産党第17回大会(2007年10月)で、胡錦濤は今後省エネ対策に力をそそぎ、環境への資金投下を増やし汚染対策を強化すると述べた。これは中国が世界第2位のエネルギー消費国となり、石油の輸入依存度が高まるなか浪費型、粗放型の工業では「持続可能な発展」ができなくなったからである。現状からすると、中国はまさに日本の1950年代~1960年代の轍(てつ)を踏んでいる。環境破壊による幾多の悲劇を経験し、環境回復の費用が高くつくことを知った日本としては、いま中国は待ったなしのところにあると警告せずにはいられない。中国は地球人口の約20%を占める。中国の環境問題を地球全体に影響を及ぼす重要なものとしてとらえる必要がある。

[阿部治平]

貿易

中国の貿易は産業全般と同様、市場経済化以後大きくさま変わりした。以前の体制では自力更生が原則であったために、貿易の規模は経済全体に比べて小さなものであった。輸出入総額は1950年には11億ドル強にすぎなかった。輸出品目は初め農副産品が多く、経済建設の進展とともに軽工業製品や鉱産物、やがては重工業製品が登場するようになった。貿易は大躍進期(飢餓の3年)には後退し、1963年から1966年の調整期には回復した。文化大革命期には軽工業、とくに繊維製品がトップの座を占め、石油がこれに次いだ。文化大革命期の経済から市場経済化への移行期である1979年には、輸出総額の45%を軽工業製品が占め、石油などの製品がこれに次いだ。農産物は23%であった。

 「改革開放」以後、中国は積極的な貿易政策に転換し、外貨獲得のために多様な政策を展開した。輸出入総額は1985年には423億ドル、1990年代に入ってからは、アパレル(既製服)関係の軽工業製品が輸出額の首位を占め、電気製品の輸出が増加し、10年後の1995年には2808億ドルとなった。この年の黒字幅は167億ドル、1996年は122億ドルである。輸入品は、1990年代に入ってからおもに、鋼材、自動車、航空機、工作機械などであったが、経済の過熱のために、エネルギー需要が高まり石油製品、原油が加わった。

 貿易相手国は1950年代末まではソ連、東欧の比重が高かったが、中ソ対立によって、1960年代初めから西側との貿易拡大を図り、日本の比重がとみに高くなった。市場経済化が進んだ5年目の1984年には輸出の30%は香港(ホンコン)、20.6%は日本向けであり、アメリカ、EC(ヨーロッパ共同体)向けは18%だった。輸入相手国は日本、香港、アメリカ、西ドイツの順で、日本は27.8%に達した。日本、アメリカ、西ドイツに対しては輸入超過、香港、マカオ、ASEAN諸国に対しては輸出超過であり、ソ連、東欧との貿易量は4%しかなかった。1980年代は外国からの借款、援助により、1990年代は外国からの投資によって経済が急成長し、貿易の増加はそれを上回った。2001年12月には世界貿易機関(WTO)への加盟を果たしており、それ以後も高度成長を続けている。2000年~2005年の6年間では、貿易の経済成長弾性率(GDP1の増加に対する貿易額の増加比率)は、1.87である。

 今日、中国はすでに貿易大国である。2003年から2006年まで、中国の貿易総額は年間平均29.8%増加した。輸出が輸入よりもやや高率である。2002年、中国の輸出入総額は6208億ドル(約75兆円)であったのが2006年には2.8倍の1兆7604億ドル(約211兆円)に達した。中国国家統計局の統計によると、2006年の中国の貿易総額は世界第3位。貿易依存度(貿易額/GDP)は64%、外貨準備高は8188.7億ドル。100種類以上の工業産品が世界一となった。世界の貿易総額で中国は2002年の4.7%から2006年には7.2%に躍進した。まさに「世界の工場」である。

 中国が利用できる外資は、改革開放政策初期の20億米ドルから、2005年には638億米ドルに達した。ちなみに1979年から2005年までに、中国が実際に利用できた外資は8091億米ドルである。うち外資の直接投資は6224億米ドルであった。

 貿易相手国は1990年代のなかばまで日本が第一、日本にとっても中国はアメリカに次ぐ第二の相手国であった。中国の統計では1994年の対日輸出215億ドル、輸入263億ドルで中国の輸入超過となっている。1996年の輸出先は香港、日本、アメリカの順、輸入先は日本、アメリカ、台湾の順になっている。アメリカに対しては輸出超過額が急増しており、アメリカは対中投資拡大とともに、対中入超額が大きくなるという構造である。

 産業構造の変化とともに、輸出品目はおおまかには一次産品から軽工業品へと変わり、今日では組立加工品輸出と輸送機器を含む機械類の増加が著しい。ハイテク製品の輸出は2002年から2006年にかけて年40%の割合で増えており、パソコンや携帯電話などの輸出量は世界一、2007年の輸出総額は3500億ドルに達する。一方、輸出製品の90%は外資・合弁企業が生産した外国のブランドで、国産のブランドが占める比率は低い。したがって外国企業から原料、補助資材、包装材料などの提供を受け、デザイン、品質その他は相手側の注文によるという、労働集約型生産の製品輸出が多い。このため輸入品目は機械類の生産のための資本財、製品部品が40%台で推移してもっとも大きく、原燃料と食糧の輸入が急成長している。

 食料については、政府当局は食料自給率を当面95%としているが、レスター・ブラウンLester Russell Brown(1934― )が『誰(だれ)が中国を養うのか』(1995)のなかで提起した、食糧自給の成否は現実のものとなりつつある。2003年中国市場が開放され、中国は大豆2074万トンを輸入したが、これは国内大豆生産量を超過した。綿花の輸入量も急激に増加、総計87万トン。いずれも金額にして前年比数倍になる。2003年に農業省がアメリカからの遺伝子組換えトウモロコシ輸入を許可してからは劇的な変化が生まれ、トウモロコシの純輸入国になった。いずれの作物も中国の零細規模、低技術では農業先進国に技術的、価格的に対抗できない。そのうえ先進国は補助金その他の手段を使って農業を保護するが、中国はもともと農民を援助する農業予算が少ないうえに、WTO加盟以後、農業関税を低くしている。このほか、中国は近年大量の化学肥料、殺虫剤をふくむ農業化学物資を輸入し、世界最大の農業化学製品輸入国となった。2004年中国が輸入した肥料の27%と殺虫剤の22%はアメリカからの輸入である。一方で食料輸出はたえず問題を起こしている。2006年は蔬菜(そさい)、果物、茶、蜂蜜(はちみつ)、ニワトリと魚介類に残留農薬、環境ホルモンその他の有害物質が発見され、日本、韓国などへの輸出が減少した。日本のアグリビジネス(農業関連企業)は中国で各種野菜の委託栽培やノリ養殖をし、中国から大量の農水産物を輸入しているが、中国では食品安全上の問題は山積している。

[阿部治平]

財政

中国の予算年度は暦年(1月1日から12月31日まで)を採用している。中央財政と地方財政があることは日本同様だがその内容は異なる。中央財政はおもに軍事をはじめ国家機関の経費、中央政府の事業にかかわる経費を負担し、さらに経済のマクロコントロールを行う。地方財政は地方政府各部門の経費、地方政府によって行われる経済・社会事業の経費などを負担する。地方とは省、自治区、直轄市さらにその下部の市、県、自治州などをさす。中央と地方の予算案、予算執行はそれぞれ全国人民代表大会(全人代)、地方人民代表大会の審議承認が必要である。また、中央と地方の補正予算案、決算は、全人代常務委員会と地方人代常務委員会の承認を得なければならない。中央地方の財政部がそれぞれの財政を担当して予算案の作成などにあたる。中国の財政原則は「統一政策、分級管理」である。中央は予算編成上の政治方針、法規を決め、地方は独自の財政管理を行う建前になっている。

  地方は中央から示された原則に従い、いちおうの予算案をつくって上級に上げ、省、自治区、直轄市レベルの財政部はこれをまとめて中央に上げる。中央財政部は、政府機関各部の予算案と地方から報告された予算案を勘案して中央と地方予算案を編成する。中央および地方予算案は全人代の審査、承認を経て成立する。地方各級政府予算は、原則的に地方債の発行や赤字を計上できない。

 財政歳入のおもなものは、税収、企業の上納金、公債、対外借款、保険収入、減価償却基金、その他である。国税のおもなものは物品販売高税、集団企業からの所得税、農業税である。地方税は都市土地家屋税、市場取引税、車船ライセンス税などである。1979年の鄧小平による改革までは、地方歳入はまず中央に集中し、その後ふたたび分配される仕組みであり、国営企業の固定資産と運転資金の70%が中央から支給された。のちに地方分権的になり、国家財政のなかの中央分は30%台から20%台へ急速に減少した。これに伴い中央の直接的行政コントロールが弱まり、国家は税、利子、価格、計画とその許認可など、マクロの手段による間接的統制を行うものとされた。

 1979年以来、国家の財政収支は毎年赤字である。1990年代に入って価格差補給金、国防費、文教事業費、行政費などの歳出は著しく増加した。なかでも国防費は予算に計上されない部分が数倍あると考えられており、中国脅威論の根拠となっている。1994年に至ると赤字額は670億元に膨れ上がり、1995年財政歳入は6188億元、歳出は6809億元であり、620億元強(70億ドル程度)の赤字で、これに国債や借款を加えれば実質赤字は巨額となる。

 しかも改革開放以後、国内総生産(GDP)に占める国家財政歳入が1980年の25%から1993年の12%に低下し、さらに国家財政収入に占める中央財政の比率は1980年の24.5%から一時高まったものの、1993年には22.0%となった。中央が赤字で地方が黒字という状況である。このため中央政府は1994年に「分税制」改革を実施して中央財政の強化を目ざした。分税制とは、企業と個人の所得税、営業税、消費税など税の種類によって、中央財政、地方財政、共通部分と、税収を区分することである。税は、中央と地方の職権区分の状況、財政権と職権一致の原則に基づき、中央収入、地方収入および共有収入に分けられており、基本的には、国家権益の保護、マクロコントロールに必要な税種は中央固定収入(関税、消費税等)に、地方の管理が適当である税種は地方固定収入(営業税、地方企業所得税)に、経済発展に直接関わる税種については中央と地方の共有収入(共有税)に区分されている。

 「分税制」以後、中央の徴税能力が強化され、GDPに占める国家財政歳入比率は1995年の11%から2004年の19.3%、全体収入のうち中央財政歳入比率は1994年に55.7%に上昇、2004年には60.0%となった。ところが「分税制」では地方財政は軒並み赤字となるため、地方政府の抵抗が強かった。それを抑えるために中央の歳入のなかから「税収返還」(日本の地方交付税に似ている)を行なって地方の財政を補てんしたのである。このため地方財政の歳出は1994年69.7%、2004年72.3%となり、実際には中央財政の実質は強化されなかった。たとえば中央の経済格差の対策にあてるべき財源は限られている。そのうえ残念なことに分税制の恩恵は省にはともかく、県・郷レベル政府にはほとんどない。省政府は県以下の政府に圧力をかけて税を吸上げ、県は郷鎮政府に、郷鎮政府は村政府に、村政府は農民に重圧をかけ、各種の費用を徴収する。

 2003年から中央政府は財政力を高めようとして、国有企業所得税や個人所得税などの直接税のかなりの部分を中央に確保した。たとえば新設の地方国有企業の徴税を中央の国家税務総局に担当させ、元来地方税だった個人所得税についても中央が介入できるようにした。しかし、「予算外資金」の存在などがあって中央の財政コントロール機能はそう高くない。これは国家予算を経由せずに地方経済活性化のために予算外で運用することを認められたもので合法的な存在だが、1996年統計値では国家財政収入の5割に達する規模である。1993年から予算外資金の範囲について大規模な調整が行われ、1996年には財政部から「予算外資金管理実施弁法」が公布されるなど、予算外資金の整理、予算内資金への組入れ等の動きが強化された。予算外資金は、本来ルールに基づいて調達、運用することになっているが、中央のコントロールの効かない資金で、地方政府の都合によって中央の政策外のプロジェクト、基本建設投資へ支出されるから、中国全体の産業構造、経済発展への影響が大きい。不正不当な管理による支出(規定外の福利厚生、給与、公私混同、乱用)もある。

 さらに中国の地方行政当局には、法によらないで随意に大衆から徴収する「制度外資金」がある。代表的なものは村費などの強制徴収(攤派(タンパイ))、政府事業の民衆負担、各種の罰金である。

 2007年10月の17回中国共産党大会は、今後も依然として20年にわたる高成長を目ざすものとしたが、バブル経済の危険があるなか、不動産や株式、生産設備への過剰投資を抑え、金融機関の不良債権増大を回避するためには、市場の自律的な調整機能が不可欠である。しかし、中国には権力から独立した市場がなく、中央銀行である中国人民銀行は国務院支配下にあり独立性がない。政府系商業銀行にも政府の手が直接及ぶなど、行政がさまざまな形で銀行の貸付に関与し、いまだ金融機関の公正・透明な市場原理による健全な自己規制メカニズムが形成されないのである。さらに外為市場では人民元は上昇中であり、当局は市場に介入して上昇を抑えている。それが輸出を促進して世界一巨額の外貨準備をもたらし、金余り(過剰流動性)現象をさらに進行させて、景気抑制のための金融政策の効果をそいでいる。

[阿部治平]

社会

概観

漢民族の母体ともいえる集団はまず黄河中流域に農耕文化を発展させた。その周辺には彼らが非文明人とみた東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)とよばれる異民族がいた。漢民族はこれらを吸収・融合して拡大し、紀元前11世紀ころ西周時代には自らを夏、華と称し、文化の中心であることを誇って「中華」といいまた「中国」といった。したがって現在でも「中国」という名称は世界の中心国家の意味であって、日本、インド、アメリカ、ドイツといった地域あるいは民族をさすことばとはその意味合いが異なる。また、地域ということであれば「シナ」(支那)であり、欧米、アジアでは一般にチャイナ、シーナ、チニスタンなどとよばれるが、日本では「シナ」は第二次世界大戦前に差別語として使われた経緯があるので、地名や学術用語以外には使われていない。

 異民族、夷狄蛮戎をさげすむ思想を中華思想とか華夷思想といい、のちに儒教(じゅきょう)にのっとり礼教のない野蛮な民族を徳の高い皇帝が徳化するという観念に発展する。古代以来、1911年の清朝崩壊後の中華民国までこの徳治主義は続く。清朝皇帝は満州民族という異民族でありながら自ら中華文明の継承者として、一身に権力を集中して君臨したが、それは、民衆は天朝の赤子であり、皇帝は完璧(かんぺき)な人物であり、その徳をもって領土に君臨し慈愛をもって人民を訓育するというたてまえによったからである。

 皇帝の意思は各レベルの官僚によって実現された。官僚採用の制度が隋朝に始まる科挙(かきょ)であり、宋朝にいたって厳格な制度となった。科挙によって官僚になることは皇帝の代理者になることであり、政治に参加する資格を得ることを意味した。徳治主義と官僚支配の伝統は今日でも中国社会の抜きがたい底流となっている。

 清朝は地主制を階級的基盤とし、官僚は公権力を行使して地主階層の利益を擁護した。清朝の税制は地丁銀(ちていぎん)すなわち銀納による地代であって、小作農から小作料を取る地主と、自作農が主たる納税者となった。中国の歴史上、地丁銀制の成立をもって封建制の確立とみることもできる。

 1911~1912年の辛亥(しんがい)革命は清朝を倒すことはできたが、地主制の階級基盤は揺るがなかった。とはいえ華北では分割相続制だったから地主が何代も続くことは珍しかった。辛亥革命ののち中国人は軍閥(ぐんばつ)の割拠と抗争、外国による植民地化とりわけ日本の侵略戦争に悩んだ。

 1945年に15年間にわたる日中戦争勝利のあと、国民党と共産党は和戦両様の争いを展開したが、1949年、最終的に中国共産党が勝利し国民党は台湾にしりぞいた。この革命は地主制の根絶と民族の完全独立をかちとるとともに、自由・平等といった市民革命の理念はもちろん、労働者・農民を主人公とする政治、生産手段の国有化ないしは公有化、計画経済、そして生産力の飛躍的発展を実現するはずのものであった。しかし現実には自由・平等は実現せず、政治・経済ともに紆余曲折を経て、人々は苦しい生活を強いられた。

 中国共産党の指導者、毛沢東が国政に影響力を行使した25年間、毛は皇帝崇拝に等しい尊崇をあつめ、党官僚は礼教にかわるマルクス・レーン主義と毛沢東の片言隻句をもって国政を支配した。しかし、毛沢東の政治思想は空想的極左的な要素があって、現実と矛盾し、社会は激しい揺れを繰り返した。たとえば1958年の「大躍進政策」の失敗による2000万、3000万ともいわれる餓死者、1966年から10年間にわたる「プロレタリア文化大革命」による社会・経済の混乱と千数百万ともいわれる犠牲者がそれである。

 1978年末に鄧小平が政権を掌握し、1980年代に「改革・開放」政策が登場してから中国社会は大きな変化をとげた。この30年間に、中国の国内総生産(GDP)は約60倍になった。2005年のGDPは18兆2321億元、2007年のそれは24兆6619億元である。2005年にフランスとイギリスを抜き、世界第4位となり、上位のアメリカ、日本、ドイツとの差は毎年縮まっている。外貨準備高は約1兆5000万ドルで世界第1位。1978年以降、中国の年平均輸入額の平均成長率は16.7%に達し、2007年現在世界で第3位、アジア最大の輸入マーケットとなった。

 人口は1978年の9億6000万人が2006年に13億2000万人となり、3億6000万人増えたにもかかわらず、1人当りのGDPは376元(1元は約15円)から1万5900元と42倍になった。

 鄧小平は、混乱を繰り返した中国社会に市場経済システムを導入し、安定した生活を人々にもたらしその支持をかちえた。しかし、政治改革すなわち民主主義化は1989年の天安門事件以後後退した。ポスト鄧小平時代をになった江沢民・朱鎔基(しゅようき/チューロンチー)政権も、胡錦濤・温家宝政権も、鄧小平の一党支配と市場経済路線を踏襲した。

 鄧政権は人々に小康社会(衣食が足りた社会)の実現を約束し、たしかに農村を含めて社会全体を豊かにしたが、同時に貧富の格差が拡大した。GDP崇拝により共産党の「向前看」(前向きに生きよう)という呼びかけは、市場倫理が確立することなく「向銭看」(金銭第一)に変わり、一部の特権的高級官僚とそれに結びつく経営者層が現れた。それにひきかえ「老百姓」(大衆)、とくに農民の無権利状態は土地の強制収用にもみられるように依然として続いている。経営者の側でも、誠実な経営者は生きていくのも困難である一方、不動産・株式・商品などの取引で投機者が簡単に成功を収めるともいわれる。

 2008年の全国人民代表大会(全人代=国会)の報告によると、中国ではGDPの4割を非公有制企業が掌握する。中国の自作農も含めた民営経済には7億6000万人の就業人口のうち90%が従事する。農業労働力(出稼ぎ農民もふくめて)を除外しても、民営経済は全体の26%におよぶ1億9000万人の雇用を創出している。

 市場経済の30年間に生まれた新しい経営者層とそれに付属する中間階層は新社会階層とよばれる。2008年の全人代で報告された数字によると、中国には資本家階級もふくめた新社会階層が7500万人おり、10兆元前後の資本を管理・掌握している。そして全国の3分の1の税収と貿易総額の40%、出版の約70%を直接・間接に管理している。

 国家主導の市場経済のもとで、特権官僚と新興資本家階級との癒着と腐敗があることは公に認められた事実である。官僚の汚職は構造的で、2007年までの過去5年間で公務員がからむ汚職事件が約18万件あり、約21万人が摘発された。なかでも土地再開発にからむ汚職事件が多い。このうち、賄賂が10万元(約150万円)以上、公金流用額が100万元以上の事件は計3万5255件に上った。また、海外や国内に逃亡した汚職公務員4547人を逮捕したとしている。一方、最高人民法院(最高裁)の活動報告によると、過去5年で、官僚の汚職や土地の強制収用などを訴えに最高裁に来た「直訴」数は約72万件で、それ以前の5年間に比べ12%増加。一方、全国の地方裁判所への直訴は約1876万件で同56%減少した。

 江沢民前総書記によって新社会階層の経営者が共産党員として認められたこと(「三個代表」)により、中国の支配階層は高級官僚およびそれと結ぶ資本家となった、といった見方が生まれている。この場合もちろん被支配階層は労働者・農民である。

 GDPの4割を非公有制企業が掌握するような社会を社会主義とよぶのは現実離れしている。現状は法治国家というよりは中国共産党の党治国家であり、行政と立法はもちろん、法と人権も党の支配下にある。

[阿部治平]

農村

鄧小平の「改革・開放」政策は、たしかに農村の暮らしを以前よりは豊かにした。しかし、問題によってはいっそう深刻な困難を抱えている。すでに述べた戸籍の都市・農村という二元システム(原則として農村戸籍のものは都市への移住ができない)、都市との格差、農村内部の東西格差のほかに、農村のマイナス現象を象徴的に表すものは、自殺率の高さである。伝統的な考え方の残る農村では、自殺は個人による社会や周囲に対する抗議の最終手段といえる。中国では毎年約29万人が自殺している(2003年発表の数値)が、農村の自殺率は都市の3倍である。そして農薬による農民の自殺は15万、自殺未遂50万といわれる。女性は男性より25%多い。自殺を、ストレスへの反発が自己への攻撃性となって表れたものとすれば、女性への圧力はより強いといえる。

 第二の問題は中央政府への陳情(上訪)である。統計では減少しているものの、多いことに変わりはない。現行法では中央への陳情は違法であるが、陳情のおもな内容は地方政府機関の違法行為に関するものである。中国では日常的に「人民のために服務する」とか「民主」がスローガンとなっているが、官僚は農民に「服務」せず、農民にとっては「民主」的に権力を批判したり抗議する手段が限られている。したがって忍耐の限度に達したとき、2008年6月の貴州省にみるように、農民の行動は陳情よりも対政府暴動になることが多い。

 第三は教育問題である。現行憲法では教育を受けるのは万人の権利であるが、そうはなっていない。経済的負担が大きいことが義務教育の普及、とくに農村児童の小学校卒業と上級学校への進学を阻んでいる。

 第四に出稼ぎをめぐる問題がある。東部臨海都市の経済成長に伴って、近郊農業すなわち蔬菜・果物栽培や畜産とくに酪農が一定の伸びを示す一方で、日本の1950年代、1960年代にみられたように、農民の都市部への出稼ぎが増加している。2007年現在で出稼ぎ農民は約1億3000万人といわれるが、正確なことはわからない。出稼ぎ農民は都市において危険な仕事につくことも多く、低賃金、賃金不払い、不衛生な住環境など、生活面での不安を抱えている。

 農村に残った家族もまた苦労の多い生活に耐えている。これに伴い父母のいない村で暮らす留守児童が増加している。これまで留守児童は2000万人程度とみられていたが、中華全国婦女連合会の2007年サンプリング調査では、父母の少なくとも一方が不在の17歳以下の子どもは、従来の推計を大きく上回り全国で5800万人にのぼる。しかも両親とも不在で祖父母ないし親戚と暮らす児童はその50%をはるかに越えるという。

 農村の留守家族においては、かつての日本における三ちゃん農業(おじいちゃん、おばあちゃん、おかあちゃんで営む農業のこと)あるいは二ちゃん農業のように、農業労働は女性ないしは老人の肩にかかる。祖父母は残された孫たちの面倒をみながら、なお農業労働に従事しなければならない。ときには複数の家庭の子どもを一人で養育するとか、残された主婦が老人二人と子どもの養育をする場合もあり、その負担の重さは深刻である。留守家族は四川省、安徽省、河南省、湖南省など出稼ぎの多い長江中流地域に集中するといわれるが、東北地方とともに西北部、西南部の少数民族社会も例外ではない。

 中国では両親あるいは一方の親が不在の児童は情緒不安定、不健康な食生活、監督不行き届き、不登校などの問題をあわせ抱えることが多いという。親の目が行き届かないことが少年犯罪の増加につながる。現実に少女の性的な被害も多発しているという。

[阿部治平]

少数民族政策

中国政府は中国すべての民族を総称して「中華民族」とする。その下位概念として「族」がある。総人口の90%を超える漢族と、55の少数民族からなるとされるが、これは50年近く前の調査に基づく行政上の概念で、現実にこのすべてが民族としての実態を備えているか、民族として数えるべき集団がこれ以外に存在するか否かは問題とされない。「中華民族」の概念はあいまいで、ドイツ民族、ロシア民族などと同じレベルの概念かどうか明確ではない。国境を挟んで同じ民族が分布するとき、中国国内のものを「中華民族」とよび、外にある同民族を、たとえばモンゴル、カザフ、チベット、朝鮮などその民族名でよぶのは自家撞着(どうちゃく)といえる。

 人口100万人を超える少数民族は、チワン、回、ウイグル、イ、ミャオ、満洲、チベット、トゥチャ、モンゴル、プイ、朝鮮、トン、ヤオ、ペー、ハニ、タイ、カザフの17民族で、このうちチワンは1500万を超える。これらの少数民族は、もともと歴史的に相互に融合し、変容しながら形成されてきた存在であり、単純に分類、概観するのは困難であるが、言語体系の語族系による分類が比較的よく文化的特徴と符合する。

 今日の中国民族学では一般に、シナ・チベット語族、アルタイ語族、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族、インド・ヨーロッパ語族の五大語族に分類し、それらをさらに10の語群に区分する。最大の範囲をカバーするシナ・チベット語族には、広西のチワン、雲南のタイ、貴州のプイ、トンなど西南地方に住むチワン・トン語群の稲作文化諸族、チベット(青蔵)高原および四川・雲南一帯に住むチベット、チャンなどチベット系とイ、リス、ナシ、ハニなどイ族(ロロ)系のチベット・ビルマ語群の諸族、雲南・貴州・湖南一帯の山岳地区に住むミャオ・ヤオ系諸族、トゥチャ族などが含まれる。アルタイ語族には、西北地方のウイグル、カザフ、ウズベクなどのチュルク系民族、内モンゴルのモンゴル系民族、東北地方のオロチョン、エベンキなど、ツングース系民族がある。このほか、オーストロ(南)アジア語族に雲南のワ族などの諸族、オーストロネシア(南島)語族に高砂(高山(カオシャン))リー族、インド・ヨーロッパ語族にロシア系のオロス、アーリア系のタジク族がある。

 1949年、中国共産党中央が主催した第1回中国人民政治協商会議の共同綱領で、同党は初めて民族独立を否定し自治区制をとることとした。中国の民族問題はここから始まる。それまで一般には、民族の自決を認め、ソ連型の共和国連邦が構想されていた。中国共産党もかつては、民族共和国が構成員となる連邦国家をつくることを綱領で規定していた。しかし1949年以降、少数民族居住地区の各民族自身による自治政策は新中国の民族政策の骨幹をなすとされ、1958年までに該当地区の90%が地方自治制度を実現、公式には1965年のチベット自治区の正式成立をもって実質上の完成をみるに至ったという。

 全国行政区画統計(2008年)は次のとおりである。直轄市4、省23(台湾を含む)、自治区5、特別行政区2(香港と厦門)、地方区レベルでは市283、自治州30、地区17、盟3(内モンゴルのみ)である。

 2008年3月、オリンピックを前にチベット自治区のラサで起きた「騒乱」事件、新疆(しんきょう)で起きた民族事件は、少数民族が中央政府の方針に強い不満をもっていることを明らかにした。たとえば新疆では、かつてソ連の援助をうけた東トルキスタン共和国独立運動があり、国民党と戦争状態にあったが、中国共産党の勝利を目前にして中国革命に同調した。しかし初めての政治協商会議に参加するため指導者らが乗った飛行機が北京に向う途中墜落、独立の動きは挫折し、中国の直接支配がおよんだ。

 一方チベットは、かつては清の従属国の位置にあったが、13世ダライ・ラマは独立を目ざした。それが実現しないうちに、1949年、国共内戦に勝利した中国共産党にチャムド攻防戦において敗れ、「十七か条協約」によってラサは制圧された。やがて1959年、14世ダライ・ラマとともに十数万のチベット人がヒマラヤを越えて亡命した。

 毛沢東時代は「民族区域自治」という名目で事実上「民族自治」は否定された。1949年の革命以後、少数民族地域へは漢民族の組織的で大量の入植(囚人労働や生産建設兵団)が図られた。現在内モンゴルではモンゴル人は20%に満たない状況となり、新疆でも多数民族であったウイグル人は40%未満となった。チベットでも青蔵鉄道開通以後の漢民族の進出は著しい。区域自治は実は民族自治ではなく単なる地方行政となり、中央政府による直接支配が行われている。

 少数民族に融和的であった胡耀邦・趙紫陽政権時代、1984年には自治地方の人民代表大会(議会)の議長、行政の長などに少数民族がつくよう制度化されたが、自治区、自治州の実権をもつ党書記は漢人が掌握することが多かった。1980年代末以後、中国共産党中央は少数民族に対して強硬策に転じ、新疆、チベットで民族運動の街頭デモなどに対し武力鎮圧が頻繁に行われるようになった。ラサで事件が多発するようになった当時のチベット自治区書記は胡錦濤である。

 民族相互の平等・団結・互恵の原則は、1980年の新憲法にもうたわれている。憲法の民族条項が完全実施され、少数民族が伝統文化や言語・文字、風俗・習慣を喪失せずに、誇りをもって学び、働き、生活し、信仰して行けるならば、僧侶も一般人も中国を「わが祖国」と考えるだろう。しかし現実には少数民族の文化は漢文化に蚕食されており、危機的状態にある。チベット・モンゴル文化は仏教の、チュルク系文化はイスラム教の衣をまとい、文化と宗教の維持・発展は二重写しになっている。ところが仏教研究は衰退し、僧院の観光化は免れがたい。国際的影響を恐れて中央政府はメッカ巡礼すら制限している。こうして、少数民族にとって民族文化喪失の危機感は増すばかりである。

 中国指導者にとって少数民族の独立を否定する最大の理由は安全保障問題である。国土の60%、とくに国境周辺は少数民族分布域である。防衛線は、新疆が独立すればクンルン・アルチンタークから北山につらなる砂漠地帯、チベットが独立すれば長江上流金沙江の線まで退かなくてはならない。14世ダライ・ラマは全チベット人地域の自治を求めているが、チベット民族分布域は中国全土の4分の1を占める。中国政府は、民族地域での自治強化は民族意識を醸成し独立につながると考える。中央ないしは漢民族にとって、チベットも新疆も内モンゴルもみな「わが領土」である。現状では、少数民族が高度自治へ向うことは許されざる原則である。

[阿部治平]

言語

日本では中国で圧倒的多数の漢人が使っている言語を「中国語」とよぶが、これは「漢語」とよぶべきだといわれることがある。中国には多くの民族語があり「漢語」だけが中国の言語ではないから当然のようにみえる。ところが実際は、商取引の請求書、領収書の類はもちろん役所の書類はすべて「漢語」で書かれているので、自民族語の読み書きができても、少数民族地域ですら「漢語」ができなかったら手紙は届かないし、書類も読むことはできない。少数民族地域では「民族語・漢語」併記がたてまえだが、街頭から民族語が消えても、多くの人は不思議に思わない現実がある。

 少数民族地域では、「双語(バイリンガル)教育」が強調されるが、実際には少数民族が「漢語」を学習するのが「双語教育」となる。漢人はだれも少数民族語を勉強しない。いまや「漢語」はいやおうなしに中国に住むすべての民族を支配する言語になったとみなし、「中国語」とすることは、むしろ現実を反映したものといえよう。

 漢字については、中国でも国民党政府の時代、音標文字化(漢字は表語文字、音とともに意味を表す)をかかげて「注音字母」の普及をはじめたが、漢字の簡略化を行わないうちに政府が台湾に逃亡して挫折した。1949年の革命後は新中国によって「拼音羅馬字」というアルファベットを用いた音標文字化が試みられ、過渡的措置として漢字の簡略化が行われた。音標文字化を目ざした点では日本の漢字簡略化と同じであるが、日本同様、音標文字化ができないまま、略字(簡体字)が正式文字のように使用されている。最近、正式な文字を旧字体に戻してはどうかという学者からの提案があったが注目すべきである。

 漢族以外で文字をもつのは、チベット、モンゴル、ウイグル、朝鮮、タイ、カザフ、シボ、キルギス、ウズベク、タタール、オロス(ロシア)の諸族である。イ、ミャオ、ナシ、ジンポウ、リス、ラフ、ワの諸民族にも、通用の程度は異なるが固有の文字がある。

 なお、少数民族語によっては、アルファベット表記による文字化、および民族文字の改良などの施策が図られたこともあったが、今日では漢語教育が推進され、少数民族語が急速に失われる現実がある。中国社会科学院によると、現在56の民族が129言語を使用しているとされている。しかし64言語は使用人口の減少によって消滅しつつある。少数民族語はたいていは民族中学卒業まで、実際には18歳までの言語である。

 漢語方言は大きく分類すると、官話方言(華北地方)、呉(ご)方言(江蘇・浙江地方)、閩(びん)方言(福建地方)、粤(えつ)方言(広東地方)、および客家(ハッカ)方言(福建・広東付近の客家の言語)の5系統よりなり、さらに官話方言は華中、華南にも分布し、東北、山東、四川、江蘇、浙江の各地方によって差異が認められる。琉球王朝の朝貢使は対岸の福建官話を用いたことで知られる。

 1949年の革命後は、原則として北方官話とりわけ北京方言を下敷きにした標準語、すなわち「普通話(プートンホワ)」を基本とする言語教育と、テレビ・ラジオ放送の普及により、広東や福建のように北方とは差異のはなはだしい地方であっても、老人世代を除けば少数民族を含めてかなりの人口は「普通話」を通して相互理解ができる。しかし、方言の差異は依然として明らかで、「漢語」でも異なった大方言を使っては意思疎通ができない。

[阿部治平]

国民生活

中国は世界で人口が最大の国で、1995年2月に12億に達し、2000年全国統計による全人口は約12億3672万で、世界の総人口の実に約20%を占める。1971年当時は不正確ながら約8億5000万人とされていたから、この間の急増のすさまじさが知られる。12億3672万のうち都市人口は5億4870万人であるが、年を追って都市人口が急増している。人口密度は1平方キロメートル当り130人で日本の3分の1にすぎないが、この数字は日本の26倍にあたる広大な国土面積全体によって算出したものである。実際は東部の主要な省と市に人口が著しく偏っており、都市部の人口過密は深刻である。

 人口膨張を抑制するために、政府は晩婚の奨励や、1970年代からの計画出産政策いわゆる「一人っ子」(「独生子女」)政策をとってきた。これによって三十数年間の累計で、3億5000万の出生を減らすことができたとされる。しかし今日では、夫婦二人が四人の父母を扶養あるいは介護しなければならない状況が生まれ、老人問題が顕著となってきた。

 中国では、かつて大学・高校などの卒業生は、個人の意志ではなく、国家が「分配」制度によって就職先を決定したが、1990年代以降、仕事は個人で選択できるようになった。しかし経済が高成長を続けるにもかかわらず、就職難は20年来相変わらず深刻である。2007年末の都市部の失業率は4.0%で前年比0.1ポイント低下したものの、1年間で新たに都市部で雇用を必要とするのは、新卒者や継続的失業者ら計2400万人であるのに対し、新規雇用は1200万人にとどまり、「農民工」とよばれる農村からの出稼ぎ労働者800万人を加えると、年間約2000万人分の職が不足する。

 住宅については、農村の場合、従来は人民公社、生産大隊が主体となり、1985年以後はそれを引き継いだ郷人民政府のもとで居民区が建設され、住宅もそれに従って建設されているといわれていた。しかし農村での住宅建設の実態は、たいていは個人負担であった。

 都市部では農村とことなりかなり恵まれていたといえる。勤労者の所属する「単位」(職場、たとえば官庁・工場・学校など)ごとに共同住宅が建設分配された。1984年末の都市部の勤労者、住民の1人当り平均住居面積は4.77平方メートルであったのが、1990年に入って10.4平方メートルにまで増加した。しかし、もともと劣悪な居住環境であるうえに、都市部では労働人口流入が激しく、住宅供給もなお十分とはいえない状態である。

 個人持家制度が導入されて10年以上たつが、居住条件のより良い住宅を購入しようにも価格が高くて購入できない状態がつづく。とりわけ北京、上海、広州など東部臨海都市の住宅建設は投機の対象となっており、その価格高騰はすさまじく、中流労働者の年間収入の20~30倍あるいはそれ以上に達する。この投機の波は21世紀に入り西北にも及び、都市ではマンション建築ブームが起こったが、地元の一般人には入手困難な価格である。

 衣服はかつて人民服が主であったが、西洋化が進み、農村でも背広(西服)が主流であり、伝統的な衣服はいずれの民族のものも晴れ着となった。

 主食は東北、華北はコムギのパンやうどん、華中、華南は米食が一般的である。しかし市場経済の浸透とともに東北の良質米(コシヒカリ、ササニシキなど日本種も含む)が全国に流通する。

 かつてアメリカの経済学者レスター・ブラウンが『誰(だれ)が中国を養うのか』(1995)で問題提起したが、いまや食生活の向上によって、トウモロコシ、コムギなどの需要は年々高まり、中国は巨大な輸入市場となっている。都市に肥満体型の人々が増加し、他方、食の安全が環境汚染によっておびやかされている状況も出現している。

[阿部治平]

教育

現行教育制度は小学6年、初級中学3年、高級中学(高校に相当)3年、「高等学校」すなわち大学・学院(総合大学・単科大学に相当)4年の、6―3―3―4制が基本であるが、ほかに、ほぼ日本の高等専門学校に相当する中等専門学校、技工学校や、農業中学、職業中学もあり、短期大学に相当する短期職業大学や専家学校、放送大学、成人教育の業余大学などの制度も設けられている。文化大革命期には就学期間を大幅に減らし、5―2―2―3制のうえに、入学者選抜制度を所属単位の労農兵の推薦制とし、有力者のコネによる入学が多かったので学力、知識水準が著しく低下した。

 文化大革命が終わった1978年には大学・学院の全国統一入試が復活し、日本の大学院に相当する研究生の制度も設けられた。また1980年からは学位制度が施行され、博士、碩士(せきし)(修士)、学士の称号が授与されている。

 国民の教育水準は全体的にみると高いとはいえない。たとえば1957年の時点では、勤労者の就学率は小学卒が64%、中学卒は20%に満たず、非識字率もかなりの高さに達していた。その後は改善され、1992年統計による就学年齢児童の小学への入学率は98.0%に達したが、なお青海、雲南、貴州、寧夏(ねいか/ニンシヤ)、チベットなどの辺境地区では未就学児童の数が多く、1993年では全国で約261万人にのぼる。

 1984年の全国の農業・職業中学在校生数は170万人を超え、中等技術学校、中等師範学校生とあわせると、高級中学(高校)全体の30.8%を占めるに至った。1993年統計によると、学校数は、小学69万6681、初級中学6万8415、高等中学1万4380、大学1065である。

 小学、中学の教職員には民辨(ミンパン)(民間雇用)の人たちが含まれており、小学の教職員の場合、1982年ではこの民辨が全体の約49%を占めていたが、21世紀の今日、農村を除いて基本的になくなった。

 1998年統計では15歳以上の非識字率は全国レベルで15.8%(男9.0%、女22.6%)である。1982年には非識字率が全人口の約23%あったというから16年間にかなりの改善をみたことは事実である。しかし西部地区(ここでいう西部地区とは内モンゴル、広西、重慶、四川、貴州、雲南、チベット、陝西、甘粛、青海、寧夏、新疆である)で1998年現在、非識字率は25.0%である。西部12省市区のうち新疆は比較的教育程度が高く、内モンゴル、広西、重慶、四川、陝西の5省市区がこれに次いでおり、非識字率は全国レベルよりもパーセンテージが低い。その他の6省区は非識字率は全国レベルよりも高く、とりわけチベット60.0%、青海42.9%とチベット人地域が圧倒的に高い。女性の非識字率は全国レベルでも男性より13%も高いが、西部ではチベットが69.4%、青海が54.9%ととびぬけて高い。これに次ぐのは貴州、甘粛、寧夏などの地域である。

[阿部治平]

宗教

中国には歴史上古くから多種の宗教が併存した。仏教、道教、イスラム教、キリスト教、およびゾロアスター教、マニ教などの諸宗教が興亡し、廃仏毀釈(きしゃく)の政令のような厳格な宗教弾圧が行われた歴史もあった。新中国の成立以後、宗教信仰の自由は原則的には認められたが、対社会的な宗教活動たとえば布教活動などは抑制されている。中国の現行憲法の第36条には、「中華人民共和国の公民は宗教信仰の自由を有する。いかなる国家機関、社会団体、個人も、公民に対して宗教の信仰もしくは不信仰を強制してはならず、宗教を信仰し、もしくは信仰しない公民を蔑視してはならない」と規定されている。

 新中国の成立直後から主要な宗教各派は次々に全国規模の組織を設立し、その新生を公的に宣言した。すなわち、歴史上最大の影響力をもち続けた仏教は、1953年3月に各地区・民族の諸宗派の仏教徒が北京(ペキン)に結集して中国仏教協会を設立した。イスラム教徒は新中国成立当時に1000万人を数えた。その大半は回、ウイグル、カザフ、タタール、キルギス、ウズベクなどの少数民族で、同じ1953年、北京に中国伊斯蘭(イスラム)教協会を設立した。キリスト教は、新中国の成立以前に天主教徒(カトリック)300万人、基督教徒(プロテスタント)70万人を数え、それぞれ1954年上海に中国基督教三自愛国運動委員会、1957年北京に中国天主教愛国会を設立した。歴史上民間信仰として根強い影響力をもち続けた道教は、すでに明・清時代以降衰退したので規模は大きくないが、1957年、北京に中国道教協会を設立した。

 これらの宗教組織の活動はいちおう公認されたが、文化大革命の時期には、「四旧打破」つまり旧社会の弊害の一つとして宗教は迷信と同一視されて打倒目標となり、各地の仏寺や道観(道教寺院)、モスクなどは一部の例外を除いていずれも破壊され、貴重な文化遺産が消滅した。僧侶(そうりょ)や道士、イスラムのアーホンド(ākhond=聖職者)たちは殺されるか、砂漠の収容所、鉱山などで強制労働をさせられた。

 1980年代に入ると、政府の開放政策に伴い、伝統的な社会風俗がむしろ徐々に復旧した。1977年には宗教活動が復活して僧侶や道士、牧師たちも寺観や教堂に復職した。著名な寺廟(じびょう)、教堂をはじめとして地方の寺院なども再建され、1983年4月には国務院が全国160件の仏寺、道観を、全国重点寺院宮観に指定し保護対象としている。だが現在では有名な寺院やモスクはむしろ観光地化している。

 中国共産党はあらゆる宗教を統制する体制をとっており、カトリック・プロテスタントの教会、仏教寺院、イスラムのモスクなどを管理下におき、僧侶など聖職者の行動を制限し、宗教自治を許していない。また、外国の影響を極力排除しようとしており、ローマ公教会任命の司教を拒否しているためバチカンとの関係は断絶している。また非公認の教会を破壊、集会を摘発するなど、自由な布教活動を許さない。民族主義運動の影響を絶とうとして、寺廟やモスクに愛国主義教育という国家統一すなわち中国共産党賛美の政治教育を強制している。1992年から布教を始めた気功集団法輪功(ほうりんこう)などは、一時北京の中南海(中国共産党首脳の集中居住域)を包囲して公認を求めたことから、共産党に敵対する宗教集団とされ、厳しく弾圧されている。

[阿部治平]

民俗

中国では古代に儒教の礼の理念に基づく冠婚葬祭制度の詳細な規定がつくられた。戦国時代ころに成立したらしい儒教の経典『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『周礼(しゅらい)』の三礼(さんらい)は、実際は国家の制度や士大夫(したいふ)の礼制を記した基本的な古典であるが、いわゆる社会風俗や庶民の日常生活の面からはほど遠い。しかし、今日でもこうした古代以来の儒教礼制の強固な伝統が中国人たちの生活や民俗行事に根強い影響を及ぼし、特有の色合いを加えていることは見逃せない。新中国の成立以後、この種の習俗の多くは旧社会の遺物として廃止されたが、なお庶民の間に根強く生き続けている民俗行事もある。

 年中行事は、古くは農耕民族の特性に呼応するもので、農事暦(太陰暦)に基づいた祭祀(さいし)や行事が伝えられてきた。解放前の状況は清の『燕京(えんけい)歳時記』などに活写されている。新中国になってから伝統的な祭りや風習が急速に姿を消したとはいえ、たとえば春節(旧暦正月)は今日でも最大の祭日、休暇であり、灯節(元宵節、旧正月14~15日)、清明節(4月5、6日)、端午節(旧5月5日)・龍船競漕、仲秋節(旧8月11~15日)などの伝統的年中行事も依然として生き続けている。一方、新中国が国家として制定している重要記念日・節日(祝日)は、国慶節(中華人民共和国成立記念日、10月1日)、労働節(メーデー、5月1日)、五・四運動記念日(5月4日)など、革命史上の重要な記念日がほとんどである。

 日常生活における伝統的な風俗習慣は、解放後つとめて廃されてきたが、文化大革命以後、近年は一部でむしろ復活の兆しをみせ、たとえば結婚の挙式は年々はでになる傾向にあり、農村や地方都市では結納に相当する家具備品の提供の総額も急騰している。また漢民族の葬礼では楽隊行列などを伴った旧来の儀式に従う例が多くなっている。墓は都市では火葬、農村地帯では依然として土葬が多い。漢民族の移住にともない伝統的な葬儀を失った民族もある。たとえばチベット人の鳥葬などは、多くの地方でタカが激減したため、行うことができなくなっている。

[阿部治平]

医療・福祉

中国社会の困窮を端的に示すのは、医療問題の深刻さである。農村では多くの人々にとって、収入に比し治療費が高いために病気になっても医者にかかれない、売薬を買うにも価格が高い、という状況がある。政府は国民皆保険の試みをしているがその普及は遅々たるもので、さらに準備金が十分でないという構造的欠陥がある。

 中国の経済体制が、長期にわたって都市と農村の二元戸籍構造であったために、医療制度も都市と農村に分割され、人口の半数以上を占める農村は全体の20%の医療資源(医師、看護師、病院の建物や施設設備)しかもたない。都市住民はおもに医療設備を国家から供給されているが、農村は農民の自前である。政府の農村医療への投資は長期にわたって不足している。2007年には全国で35万件のにせ薬事件が起きたが、このうち80%が農村で発生している。

 人民公社時代には村、郷(鎮)、県の各レベルに医療機関をもうけた三級医療制度があり、基礎的な医療衛生系統は、村衛生所、郷鎮衛生院、県病院という3レベルで構成されていた。つまり、村の衛生所で治療できないものは郷鎮の衛生院へ、郷鎮レベルで治療できないとなれば県へ行くのである。軽い風邪程度なら村衛生所で、安い薬代で治療ができた。そこには中学校卒業程度の短期養成の「はだしの医者」とよばれた医務要員(1979年で157万人)がいた。

 1980年には全国の90%の行政村で合作医療が行われていたが、人民公社解体とともに集団経済は瓦解し、これを頼みとしていた村と郷鎮の二つのレベルの医療組織は私営企業に姿をかえつつある。医療の荒廃にはもうけ主義のほか、基礎レベルの医者の水準の低いことが影響している。また、華中の省で15衛生所ないしは衛生院があるとすれば、うち5は赤字を抱えているといわれる。

 1993年統計では全国病院総数は6万7849件(ベッド総数279万5000床)、うち県立以上の病院1万4713件、農村病院その他4万6071件である。2003年の第3次国家衛生服務調査によると、衛生院の医療技術者のうち中級以上の職称をもつものは11.5%、専科学校以上の学歴のもの19.3%である。貧困地域の郷鎮衛生院で虫垂炎の手術ができるものは15%にすぎず、ところによっては切傷の縫合すらできない。

 改革開放と市場化政策の強行によって、県レベルの病院で独立採算あるいは民営に移行しているものも多い。たとえば江蘇省北部宿遷(しゅくせん)市という田園都市の医療改革では、124か所の郷鎮衛生院と10か所の県レベル以上の病院をほとんど共同経営制、(公私)混合所有制、株式制、単独資本制などの医療企業にかえ、政府は完全に医療から撤退した。競争圧力が病院に医療専門家と先進設備を導入させ、医療の範囲を拡大し、宿遷地区の医療サービス項目は200あまり増加し施設設備も向上したというが、医者の技術水準の向上などソフト方面はそれについていっていない。だが、多くの病院の収入は大幅に増えている。というのは過剰検査、過剰医療によって患者の負担が増えているからである。

 中国では2002年から農村に「新型合作医療」保険制度を建設する試みが始まった。これは中央と地方の財政から3分の1ずつ、農民から3分の1を集めて資金とするもので、強制ではなかった。2007年、これを推進することが決まり、翌年には全国に普及することとなった。2008年現在、人口の20%を網羅するが、全国で600県にすぎず、残りの2000余りの県はまだ参加していない。

 しかも「新型合作医療」は準備金が少ないために医療保障能力が低いという構造的欠陥をもっている。2003年の(モデル地区の)保険料は30元だが、保険支出は115元であった。85元もの赤字では保険で医療ができず自己負担分が多くならざるをえない。

 もうひとつの問題は都市で働く農村の出稼ぎ者(農民工)はこの保険の対象にならないことである。都市医療保険の資格がないから都市で自己負担で治療をするか、もとの住所に帰らなくてはならない。農村では毎年約1300万人が病気のため貧困化し破産する。政府の施策によって救済される人口は毎年1000万にすぎないから、毎年300万は新たな貧困者となる。現在農村の40~60%は病気治療が受けられない。

 老人医療問題は日本よりも深刻である。1970年代から計画出産政策を実行して以来、中国社会の高齢化は急速に進行した。1982年の人口調査では全国の60歳以上の老人は7666万人で総人口の7.64%を占めたにすぎないが、第5回国勢調査(2000年)ではその数は1億3200万人に達した。上海(シャンハイ)では14%、北京(ペキン)では13%に達する。2006年6月の調査では1億4900万人に達し、全人口の約11%となった。しかし、社会保険制度が未発達の状態で、夫婦2人でそれぞれの親である4人の老人を支えることに耐えきれず、老人虐待や扶養義務の放棄といった深刻な問題が生まれている。

[阿部治平]

文化

概観

1945年の対日戦勝利直後から中国共産党と国民党は和戦両様の駆け引きを始めた。民衆は平和と民主主義を要求し、内戦反対の声は広がりをみせた。重慶で開かれた国民・共産両党と各党派の協商会議を民衆は歓迎したが、国民党はこれを喜ばず血の弾圧でこたえた。平和と民主主義を主導した李公樸(りこうぼく)(1902―1946)や聞一多(ぶんいった/ウェンイートゥオ)は暗殺され、郭沫若(かくまつじゃく/クオモールオ)や馬寅初(ばいんしょ/マーインチュ)(経済学者)は暴行を受けた。しかし1949年の中国共産党勝利までを内戦期とすれば、その困難期ですら中国の作家はすぐれた作品を生み出した。現代中国では、文化活動は中国共産党のときの政策によって厳格に統制されるが、この時期は文学だけでなく、映画も比較的自由に創作できた。

 1949年の新中国成立以後は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想が国是の哲学となった。これらマルクス主義思想は中国共産党の思想的バックボーンであるが、国民一般にもこの思想が要求され学校で教育された。問題はこれがときの中国共産党の政治方針とともに、文化芸術の価値判断の基準とされたことである。国是の哲学や中国共産党の政治方針にかなっているか否かは官僚が判断する。

 文学、芸術の領域では、毛沢東の『文芸講話』(1942年、革命根拠地の延安(えんあん/イエンアン)における『延安の文芸座談会での講話』)が、1949年の革命以前から文化政策の指針となった。あらゆる文芸作品と文化活動は、(抗日活動への)全民動員、革命への貢献という政治任務を担うものとして位置づけられ、文学であれ報道であれ、党の宣伝手段としての役割を求められた。これは1930年代以後の日本侵略と国共内戦の状況を考えればやむをえないことであったが、同時にその弊害も大きかった。

 また1949年の新中国成立後、ソ連一辺倒の外交政策がとられ、あらゆる分野でソ連がモデルとされ、大量の留学生がソ連に送り込まれた。文芸分野ではソ連流の「社会主義リアリズム」が創作と批判の基準につけ加えられた。多様で自由な芸術活動や言論、報道を期待した者からすれば、いずれも抑圧的な文化政策が実行されたというほかない。

 毛沢東は文芸界、思想界においてもその権威は絶対のものであった。1949年の革命後、毛沢東とその側近は文学、演劇、映画などすべての文化領域の活動を一元的に主導した。したがって毛沢東の思想動向、左右に揺れ動く政治路線によって中国の文芸界も激動を繰り返した。

 新中国成立直後、早くも伝統的な文学研究に批判の矢が向けられた。中国共産党が題材や表現方法を規制するのに反発し、自由で闊達な芸術活動を求めた者は反革命として葬(ほうむ)り去られた。この規制による芸術活動の沈滞を破るために、1956年中国共産党の側から「百花斉放・百家争鳴」が呼びかけられた。はじめのころは、党に対する批判や発言を求め、発言者をとがめないとされたが、1957年になって中国共産党に対する知識人の批判が噴出すると、毛沢東はこれをゆるさず、多くの文化人、学者が右派分子(毒草)、ブルジョア分子とされ、また十数万の少数民族知識人が地方民族主義者とされて攻撃の的となり、追放された。

 1958年、毛沢東は革命的ロマンチシズムとリアリズムをあわせもった「両結合」文学あるいは芸術を提唱した。これは中国文学の歴史の科学的総括であり、当面する時代の特徴と必要から生まれた非常に正しい理論であるとされた。

 1960年代初めには中・ソ両国間では、アメリカ帝国主義の評価をめぐり対立が激化し、国境をはさんで局地戦が起きるまでになった。これを背景にソ連の文芸や、1930年代の魯迅(ろじん/ルーシュン)などの進歩的文化運動までが否定された。一方、京劇改革がおこり、のちの革命模範劇につながる演目が登場した。哲学論争でも「一分為二」(一を分けて二とする=対立を根本とみる)論が正しく、「合二而一」(二を合わせて一とする)論は修正主義(ソ連派)とされた。

 1966年からの「文化大革命」は絶対的権力を手にした毛沢東の主導下で発動された、中国史上まれにみる政治的・社会的混乱であったが、それは突発現象ではなく、1949年の新中国成立以来の中国共産党、中央政府による絶えざる作家、芸術家たちへの批判と干渉(かんしょう)の延長上にあり、今日までその影響を残している。

 文化大革命は「動乱の10年」といわれるが、とくに1969年4月までは、「プロレタリア革命かブルジョア反動か」という路線闘争の名の下で、紅衛兵とよばれた少年たちが毛沢東の片言隻句(『毛沢東語録』など)を盾に破壊を繰り返した。宗教、民間習俗をはじめ、伝統的な演劇や大衆娯楽など古いとみなされたものすべてが「破旧立新」(古いものを壊し新しいものをうち立てよう)のスローガンのもとで否定された。建造物を含む貴重な文化遺産が破壊され、すぐれた芸術家、作家、宗教学者が投獄され暴行を受けたり、殺されたりした。反毛沢東の、実権派とされた行政官僚や、大学の教授・研究者、作家は日常的につるしあげを受け、大学・研究所などは「ブルジョア学術権威」の巣窟とされ研究と教育は停止した。

 学術・文芸界が壊滅したあと登場したのは大量の『毛沢東語録』である。一時毛沢東の後継者とされた国防相林彪(りんぴょう/リンピァオ)が編集したもので、軍のみならず労働者・農民教育にも使用された。

 伝統的な京劇が禁止されたかわりに登場したのは貧相な「革命模範劇」である。学者や専門家の研究に代って労働者、農民、学生などの素人(しろうと)の研究が評価され、たとえば短期講習で養成された医学レベルの低い衛生要員「赤脚医生」(はだしの医者)が「新生事物」としてもてはやされたりした。

 文化分野での「文化大革命」開始は1965年11月、姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)の「新編歴史劇『海瑞(かいずい)免官』を評す」によってである。呉晗(ごがん/ウーハン)の作品を、毛沢東によって失脚した彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホワイ)将軍の無実を訴え毛の政策を批判したものとして攻撃したのであったが、同時にそれには劉少奇、鄧小平の「調整政策」批判が込められていた。中国では文芸論争すら政治路線争いを反映することが多い。たとえば文革末期には毛沢東とその夫人らの「四人組」による周恩来や鄧小平に対する攻撃が「批林批孔」(林彪・孔子批判)とか『水滸伝(すいこでん)』批判としてあらわれた。

 毛沢東が世を去り「四人組」が逮捕されて(1976)からも、華国鋒など首脳部の一部に毛沢東崇拝は続いたが、文革はひとまず終わった。1977年から文革の暗黒を描く「傷痕文学」が登場し、1978年には多くの短編小説が発表され、かつて否定された文学作品が再版されて人々に歓迎された。大学の入学試験が再開され、かつてブルジョア的との批難を受けた社会学も含めて、社会科学系の研究所も数年後には機能しはじめ、学術研究と教育はようやく正常化に向った。

 1978年末、政権掌握に成功した鄧小平は、中国共産党の一党支配を維持しつつ国民経済の建直しに腐心しなければならなかった。そのためには毛沢東について過ちより功績のほうが多かったと評価し、毛沢東思想を国家の財産とせざるをえず、毛沢東思想の負の遺産を清算することはできなかった。

 とはいえ、文革派の後退は文芸界に活気をもたらした。もと「右派分子」の劉賓雁(りゅうひんがん/リウピンイェン)(1925―2005)はルポルタージュ『人妖の間』で特権化した官僚による支配の暗部をあばきだした。「傷痕文学」の作品群はいずれも過酷な文革体験を描きだし、また北京(ペキン)には文革の実態の暴露、民主と自由を要求する壁新聞、地下出版物が続々と現れ、「北京の春」とよばれた。

 しかし鄧小平は1979年春、北京の「民主の壁」を弾圧し、ほとんど同時に「四つの基本原則」(社会主義道徳、プロレタリアートの独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の堅持)を発表して「自由化の行きすぎ」にくぎをさした。そして民主運動家魏京生(ぎきょうせい)(1950― )を逮捕して懲役15年の刑に処した(1979年10月)。文芸界は1981年に鄧小平の思想関係についての談話が発表されると、次々に自己批判して自らの芸術表現を「四つの基本原則」すなわち当面する中国共産党の政策の枠のなかにおいたのである。こうした一連の文芸政策は知識人の間に自由な発言を控える風潮を定着させた。

 鄧小平はその実用主義によって、毛沢東の空想的なプロレタリア革命主義にかえて市場経済を中国社会に導入し、経済発展の実績により一党支配体制を維持した。彼は比較的民主的で温和な政策を実施した胡耀邦と趙紫陽を退けたのち、江沢民、朱鎔基を中国共産党総書記と首相の地位に置いた。江沢民政権は12年間続き、その後やはり鄧小平が後継者として指名した胡錦濤・温家宝政権が同じ路線を継いだ。この間、共産党の強権政治を堅持し、市場経済によって国富を高めるという国家の体制に変化はない。文芸に対する党の指導体制にも大きな変化はない。ただ、中国経済は急速な発展を遂げ国民生活も著しく改善された。総合的国力と国際社会における地位も大幅に向上した。経済の市場化、国際化とともに日本や欧米の文化が中国に入ってきた。絵画や彫刻、翻訳文学をはじめ、大衆音楽分野でのジャズやポップスなど、またテレビの児童向けのアニメーションや外国映画が大衆に歓迎され、娯楽の質と量を豊富にした。その裏にはCD、DVDの安い海賊版がひろく普及したことがあげられよう。一方、中国映画は文革後の専門教育を受けた人々によって復活し、国際的に高い評価を受けるに至った。

 IT産業の著しい発展とともに携帯電話が普及し(約6億台)、インターネット人口も大幅に伸びた(約2億人)。国際的なニュースは外国語が理解できればかなり知ることができるし、ネット上に表現される世論も無視できない状況となったとはいえ、やはり中国共産党支配の根幹にかかわる意見表示は当局から注意深く監視される。電子メールで特定の語彙(ごい)が入った文書を送ることができないことがあるし、ホームページやウェブサイトも、またそれへの書き込みもときに閉鎖あるいは削除されることがある。

 環境問題や人権にかかわるルポルタージュや映画、指導者の伝記、近現代史研究は検閲を受け、ときに発禁となる。重要人物の回顧談などは香港で出版され、問題とされる部分を削除して国内での出版がはじめて許される。そのなかで比較的自由なのは性をめぐる表現である。

 江沢民政権以来、特徴的なのはあらゆるメディアを通して愛国主義教育が強調され、反日、抗日のテレビドラマ、歴史ルポ、回顧談などが頻繁にあらわれたことである。学校でも愛国教育が強調されたから、青少年の対日感情は悪い。胡錦濤政権は基本的に愛国主義教育路線を引継いだ。2005年の反日デモなどは日本の外交姿勢とも関連するが、反日教育の結果だともいえる。

[阿部治平]

国民性

中国人の国民性を一律に論じることはむずかしい。ここでは90%余を占める漢民族に限って述べる。その行動様式は外部の人間がみたとき、自己中心的である。欧米人によると、日本人は集団主義的で周囲の動向を気にするのに対し、中国人のほうは「自我」がずっと強い。道教や儒教、仏教、キリスト教など各種の宗教はあるものの、中国人の多くが特定の神、仏に帰依(きえ)しないところは日本人に似ている。周辺国や少数民族地域の仏教徒あるいはイスラム教徒からみると、不信心で信仰をもたないのが漢民族だという印象である。

 中国人が困難に陥ったとき、頼りとするのは親族である。現在でも親子・兄弟間の結び付きはもとより、近縁親戚(しんせき)を含めた同族意識は比較的強く、日常の交流がなくても、いざ一家が危機に陥ったときには親戚の相互扶助が発揮される。それは社会的地位の上下にかかわらず、金銭の貸借、冠婚葬祭の援助などの生活扶助から仕事の紹介など多岐にわたる。しかしこの同族意識は上層社会の腐敗の温床にもなる。さらに中国人は親しい友人には親戚同様に義理堅い反面、見知らぬ他人に対しては警戒心が強く冷淡、ときに敵対的であることがある。

 1949年の革命前の中国では、伝統的、保守的な儒教思想の影響が根強く、家庭は家父長制度によって支配されてきた。旧中国の社会では「五世同堂」「四世同堂」のような数世代がいっしょに暮らす大家族制が理想的であったと理解されているが、儒教倫理による家庭観の特徴的な一面を表してはいるものの、一般的には近親をも含む四、五世代というのはまれで、両親および未婚の子ども、祖父母が同居するのが通例であった。家父長制では父母の権力が圧倒的に強く、その家権財産は男系兄弟による分割相続制が一般的であった。

 1949年の新中国成立後も「伝宗接代」(男系子孫を残す)といった父系血縁を重視する考え、男女の別などの原則はほとんど変わらず、また女性は家庭内でも社会的にも地位が低く、今日でもその傾向は続く。「一人っ子」政策のなかで女児出生率が異常なほど低いという事実がある。また、だんだん少なくなっているとはいえ、農村では「同姓不婚」(姓が同じ者は婚姻しない)、「異姓不養」(姓のちがう者を養子としない)の原則もいまなお存在することがある。

 しかし、こうした家族制の風習は、1980年代、農村における土地制度の再改革、すなわち自営農制の成立と市場経済が社会の隅々まで浸透した結果、変わってきており、親子の二世代家族が一般化しつつある。

 また、一時影を潜(ひそ)めた同族集団である「宗族(そうぞく)」の復活が著しい。これは華中、華南にあったもので、改革開放後目だつようになった。たてまえは先祖を共通のものとする、防衛機能をもった互助組織で、このなかでは「輩行(はいこう)」(おおまかには世代)が重んじられ、輩行によって親族の呼び方やつきあい方が異なる。以前は宗族の共有財産があったが、1949年の革命後の土地改革のとき廃止された。同族意識が宗族のような血縁関係から同郷意識に拡大し、地方や省レベルに達すると、同郷すなわち同省出身者のまとまりを確保し相互扶助する「同郷会」ができる。かつてはほとんどの省に「同郷会」や省名のついた「会館」があった。1949年の革命後も省外の各地に「某省某市招待所」「某省駐某市弁事処」などがあるが、これはかつての同郷会の現代版である。これが国家レベルに達すると、中華民族主義の高揚となってあらわれる。それはオリンピック北京大会や、チベット人など少数民族の反中国「騒乱」の際にも遺憾なく発揮され、外国からの対中国批判を事実確認抜きではねつけた。もちろん古来伝統の中華意識によるものもあろうが、長きにわたる列強による干渉と侵略の被害経験が大きな要因になっているものと思われる。

[阿部治平]

文化財・文化施設

数千年の歴史をもつ中国の古美術品や地下文物の発掘が近代科学の研究対象となったのは、20世紀初頭からのことだが、長期に及ぶ外国の支配や内戦の影響を直接的に被(こうむ)って、莫高窟(ばっこうくつ)などの仏像や文書、その他貴重な彫刻、絵画、工芸品が数多く国外に持ち出された。故宮博物院所蔵の歴代宮廷の美術品の多くは、日中戦争のさなか国民党政府によって、はじめ重慶、のちに台湾へ運ばれ、現在台湾故宮博物院にある。1949年に中央政府の文化部に文物事業管理局が設立され、ようやく文化財保護が法律的措置の対象となった。以後、全国各地で考古学発掘が進められ、従来の歴史の記述を改めるような新たな遺跡や遺物の発見が相次いだ。

 1961年、国務院によって初めて全18条の文物保護管理暫行条例が公布され、第一次重点文物保護単位(日本の国宝・重文、史跡に相当)180件(うち革命遺跡・建造物33件)が指定され、文化財の私有、100年以上前の文物の海外流出が禁止された。しかし、各地に残る古建築や遺跡の具体的な保存施策と大衆の啓蒙(けいもう)は十分とはいえず、とくに「文化大革命」の時期には古い文物は「四旧打破」の標的とされ、チベットやチュルク系など少数民族固有の文化遺産も含めて膨大で貴重な建造物、美術工芸品、古文書などの文化遺産が破壊、破棄された。

 文革以後、とくに開放政策に伴って考古学発掘件数は急激に増加し、重要な発見が続いて内外の学界の注目を集めた。1982年には第二次全国重点文物保護単位62件(うち革命遺跡・建造物10件)、第一次歴史文化名城24都市が公布され、全8章33条からなる「中華人民共和国文物保護法」が施行された。1988年には第三次全国重点文物保護単位258件(うち革命遺跡・建造物41件)が指定された。

 とはいうものの、1949年の革命後中国共産党がどんな都市再開発の計画をもっていたか詳(つまび)らかではないが、中国の都市に特有の歴史遺産である城壁は、南京、西安などごく一部の都市を除きほとんど破壊された。北京の城壁もほとんど完全に取り壊され環状道路となった。残された旧市内の四合院(しごういん)などの都市遺跡も市場経済の波及とともに破壊が進んでいる。明代城壁の残る西安では城内の伝統的建造物の取壊しとともに、城内に高層ビルが林立するなど都市景観上も大きな問題を生んでいる。

 博物館は、代表的なものに北京の歴史博物館(中国国家博物館)、故宮博物院、南京博物院、上海博物館、広東省博物館などがある。チベット自治区にあるダライ・ラマの居城だったポタラ宮も現在では博物館とされている。

 図書館は、解放前からの伝統をもつ北京図書館(日本の国立国会図書館に相当)や上海図書館、南京図書館などのような大図書館を別格として、解放以後は大衆を対象とする公共図書館が各地に建設されている。大都市はもちろんのこと、地方都市でも1990年代をとおして相次いで各地に博物館、美術館、展示場が建設された。こうした箱物(はこもの)をみるだけならば、文化施設は文革の破壊をのりこえて豊富になったというべきである。さらに中国政府による4大インターネット(言論・出版の項参照)が開通すると、それがデジタル図書館の発展基盤となった。とりわけCERNETはデジタル図書館、とくに大学デジタル図書館開設に貢献している。デジタル図書館の研究開発はこれからとはいえ注目すべきものである。

[阿部治平]

文学・芸術

1945年から中国共産党勝利までの内戦期にも中国の作家は活躍した。内戦中、老舎(ろうしゃ/ラオショー)は長編『四世同堂』をアメリカで書き、革命直後中国に帰った。白話(はくわ)文学研究などで影響力のあった胡適(こてき/フーシー)は、国民党政府駐米大使だったためか国民党政府敗北後アメリカに逃れ、『北京好日』などで日本に知られる林語堂(りんごどう/リンユイタン)は台湾に渡った。左派系作家丁玲(ていれい/ティンリン)の『霞村にいたころ』や『太陽は桑乾河を照らす』、趙樹理(ちょうじゅり/チャオシューリー)の『李家荘の変遷』、周立波(しゅうりつは/チョウリーボー)の『暴風驟雨』、周而復(しゅうじふく/チョウアルフー)の『べチューン先生』などはこの時期のものである。国民党との武力対決が迫り圧迫が強まると、左派系文学者は香港(ホンコン)に集結し、中国共産党「解放区」の文学は香港から内外に発表された。

 中国の映画は1945年の日本敗戦後いち早く上海で復活した。それは国民党支配に批判的な左派系作家の活躍する場であった。抗日戦争を描いた『一江春水向東流』(1947年)、『万家灯火』(1948年)などがこの時期の代表作とされる。とくに『小城之春』(1948年)は中国映画史上の名作といわれている。

 共産党の政権獲得直後、1950年代の初めを飾るのは老舎の戯曲『龍鬚溝(りゅうしゅこう/ロンシュイコウ)』で、庶民の生活が革命によって改善されたことをうたった。映画『武訓伝』は清末の教育者の伝記であるが、1951年に毛沢東の批判を受けた。また毛沢東による兪平伯(ゆへいはく)の『紅楼夢』研究に対する批判、胡適批判があった(1954年)。これは兪平伯を旧社会の「ブルジョア階級の代弁者」とみなした批判であったが、学者批判はそれにとどまらず、マルクス主義者胡風(こふう)グループに拡大した。胡風とそのグループは、毛沢東の文芸に対する締め付けに不満を表明し自由闊達な表現を求めたことで反革命とされ、二度と世に出ることはなかった。

 この時期、映画関係者はソ連に留学して映画制作を学んだ。革命以前の中国映画、外国映画の上映は禁止され、『橋』(1949年)や『白毛女』(1950年)など抗日と革命の英雄、労農兵を描いた映画が制作された。そのほか大量のドキュメントや革命劇の映画がつくられ、映画人口は爆発的に増加した。

 1956年中国共産党は陸定一(りくていいち/ルーティンイー)によって自由な言論を呼びかける「百家争鳴・百花斉放」を表明したが、これは結果として一種の罠(わな)となった。中国共産党に対する批判が党支配の根幹に及び、北京で学生デモが起こると、発言したものは「右派分子」として1970年代末まで20年間たえず迫害され続けた。

 毛沢東提唱の「革命的ロマンチシズムとリアリズムの結合」にこたえるかたちで、「紅色文学」が盛んになった。1958年、楊沫(ようまつ/ヤンモー)(1914―1995)『青春之歌』、1960年、柳青(りゅうせい/リウチン)『創業史』などは日本でも翻訳出版された。1961年、楊益言(ようえきげん/ヤンイーユェン)(1925―2017)の『紅岩』は獄中の共産党員の不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を描いて反響をよんだ。また、この時期、郭沫若(かくまつじゃく/クオモールオ)、田漢(でんかん/ティエンハン)、呉晗(ごがん/ウーハン)などの歴史劇や京劇が登場した。

 しかし毛沢東は、建国以来15年を経た文芸界を、人は多いが社会主義改革の成果をあげていないとみて、その成果を否定する意見を表明した。毛沢東の意を受ける形で姚文元が多くの作品を「反党反社会主義」と断罪、これによって1966年以後、文芸界は事実上機能を停止した。

 かわって登場したのは革命現代京劇『紅灯記』『智取威虎山(ちしゅいこざん)』や、バレエ『白毛女』『紅色娘子軍』、ピアノ協奏曲『黄河』、彫刻『収租院』(小作料取立て展示場)などである。これらが文学・芸術の模範とされ、文化大革命時代の文学・芸術の方向を決定した。

 文化大革命(文革)がはじまると映画は厳しく制限され、それ以前のほとんどの映画の上映は禁じられた。革命模範劇のバレエ『紅色娘子軍』(1971年)のようなわずかな映画だけが制作されたが、劇映画は1967年から文革が終わるまでほとんど息の根を止められた。ただ国民はわずかな娯楽を求めて単調な革命映画でも見たがったのであった。

 圧政下にあっても秘密の「地下文学」が存在した。一つは『白洋淀(はくようてん)詩群』に代表される詩歌である。もう一つは手書き本のかたちで広まった小説である。これらは文革後出版されて一定の評価を受けた。そして人々の鬱憤(うっぷん)が爆発した1976年4月の第一次天安門事件のとき、人民英雄記念碑に周恩来を追悼する詩が掲げられた。それは摘発されたにもかかわらず密かに筆写され、「四人組」失脚後『天安門詩抄』として出版された。

 文革の間、知識人は「臭老九(しゅうろうきゅう)」(9番目の臭いやつ)とよばれ、社会の最低の悪党とされていたが、文革が終わるとともに楊献珍(ようけんちん)(1896―1992)など哲学者のグループ、周揚(しゅうよう/チョウヤン)、陸定一など文芸官僚などがぞくぞくと、投獄、下放(農村での強制労働)、監禁から解放され復活した。

 1977年、劉心武(りゅうしんぶ)(1942― )『班主任(クラス担任)』が文革中の愚民政策を描き、続いて盧新華(ろしんか)(1954― )の『傷痕』が反響をよんだ。この作品をめぐる論争は毛沢東の言説をすべて正しいとする一派と、真理は実践によって検証されるとする一派の哲学論争を装っていたが、それはとりもなおさず華国鋒と鄧小平の政争であった。

 『傷痕』以来、「傷痕文学」とよばれる一連の文革体験や、それ以前の反右派闘争や大躍進の失敗を描いた多くの作品が登場した。なかでも劉賓雁(りゅうひんがん/リウピンイェン)によるルポ『人妖の間』は、黒竜江省賓県(ひんけん)の女性幹部の腐敗を暴露して読者に衝撃を与えた。上には忠実だが下のものには冷酷だという、中国官僚のありようと構造汚職の実態を描いて今日に続く問題を提起したのである。映画でも「傷痕ドラマ」がつくられ、『巴山夜雨(はざんやう)』(1980)と『天雲山伝奇』(1980)、『芙蓉鎮(ふようちん)』(1986)などは、日本にも紹介されている。

 しかし、鄧小平の「四つの基本原則」が登場するとたちまち統制が強まった。当局は沙葉新(さようしん)(1939―2018)『もしぼくが本物だったら』を上演禁止とし、白樺(はくか/バイホワ)(1930―2019)の映画シナリオ『苦恋』(1980)が批判にさらされる。一方、党の統制の枠のなかではあったが、北島(ほくとう)(1949― )などの「朦朧詩(もうろうし)」とよばれる詩が登場し論議の対象となった。1980年代には新しい手法(「意識の流れ」など)を使った王蒙(おうもう/ワンモン)(1934― )、宗璞(そうはく)(1928― )、高行健(こうこうけん/ガオシンヂエン)などによる「現代派」小説があらわれた。

 映画は1986年に改めて厳格な統制下に置かれたが、この前後、チェン・カイコー(陳凱歌)、チャン・イーモウ(張藝謀)などいわゆる第五世代とよばれる人々が『一人と八人』『黄色い大地』『菊豆(チュイトウ)』『さらば、わが愛 覇王別姫(はおうべっき)』などを制作し、内外にその存在を示した。なかでも、ティエン・チュアンチュアン(田壮壮)『盗馬賊』は1920年代を舞台として、現代チベットの貧困を描いた。ただこの世代の活動は第二次天安門事件をきっかけに低迷したようにみえる。

 1990年代には市場経済が社会の隅々にまで浸透し、失業と再就職、出稼ぎなどが大量に発生した。大都市には消費文化が生まれ、中等教育の普及とともに、文学読者層には知識人だけではなくいわゆる大衆も多く加わった。その結果、「大衆小説」と総括される作品群が生まれた。小説のテーマ、主人公のキャラクターは多岐にわたり、多方面の大量の読者を獲得するようになった。いわば純文学ではなく、たとえば台湾の三毛(サンモウ)(1943―1991)の作品が知識人から一般の若者まで爆発的な人気を博したように、流行小説、流行作家が登場した。

 この時期中国映画ではドキュメンタリー運動が起こり、李紅(りこう)(1967― )は『鳳凰(ほうおう)橋を離れて』(『回到鳳凰橋』1997)で、農村から出稼ぎに出た女性の姿を描いた。最近では李楊(りよう/リーヤン)(1959― )がヤミ炭坑の中で行われる殺人をドキュメンタリータッチで撮影した『盲井』が2003年ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞して話題となった。しかしこの映画は、中国では上映禁止となり、李楊は2006年まで中国国内での映画制作を禁止された。

[阿部治平]

言論・出版

現代中国のマスコミは、新聞、ラジオ、テレビ、出版のいずれも中央政府の厳格な管理下に置かれており、1949年の革命以前から中国共産党の宣伝機関としての役割を直截(ちょくせつ)的に担ってきた報道媒体である。憲法の第28条は、言論、通信、出版の自由を規定しているが、それは自由主義社会のような「表現の自由」を意味するものではない。ときの中国共産党の政策によっていかようにも制限され禁止されるものであり、その本質は文化大革命後の社会に移行して30年以上を経た現在でも変わることはない。

 新聞は、2006年の発行紙数は約1900、全体の年間発行部数は400億を超えるといわれる。『人民日報』は中国共産党中央委員会の機関紙であり、日刊の全国紙で最大の発行部数(年間約11億部)を誇る。おもに政府機関、大会社の購読紙である。全国紙では、ほかに北京の『光明日報』、上海の『文滙(ぶんわい)報』が有力紙で、地方紙・夕刊紙に『北京日報』『北京晩報』『羊城(ようじょう)日報』などがある。

 『解放軍報』は党中央軍事委員会、『工人日報』は全国総工会の機関紙で、ほかに『体育報』などの専門紙もある。ウイグル、モンゴル、カザフ、朝鮮、チベットなどの少数民族の地区では中国語新聞の民族語への翻訳新聞も発行されている。また外国のニュースを翻訳編集した『参考消息』が出ている。『環球時報』は人民日報社発行の外国ニュース専門紙で中国共産党の主張を全面的に反映する。

 一般に新聞の記事は政策キャンペーンや経済、建設、生産実績、業績優秀な行政機関や企業など、社会的にプラス側面の報道が主体を占める。1980年代に比較すれば、日常の社会面に相当するニュースや読者の投書、苦情の訴えやルポなども載せられるようになったが、中央・地方官僚の汚職腐敗、スキャンダルなどを記者が取材して報道することは少ない。

 2005年の反日デモは、四川省成都での日本の国連安保理常任理事国入り反対デモから始まり、上海、深圳、北京、広州などへと拡大し、日本だけでなく世界中で連日大きく報道されたが、中国のメディアが国内向けに報じたのはデモ発生の10日後であった。それも温家宝首相がインド訪問中に、「(反日デモは)アジア人民の強い反応であり、日本政府も深く反省するはずだ」と発言した事実を伝える形での報道であった。これは、中国ではジャーナリズムの存在がきわめて困難なものであることを示している。

 ニュースは、国営通信社である新華社によって、各紙およびテレビ、ラジオに提供される。ラジオは解放後もっとも早く普及し、2007年現在で全国に220以上の放送局がある。テレビは1958年に開局し、現在ではカラーテレビが一般化している。テレビ局は全国で約400を数える(2007年)。なおラジオ、テレビとも一部で少数民族の言語による放送番組が行われている。とくにテレビの最近の急速な普及は、国民生活における情報伝達に大きな変化をもたらしている。

 出版事業は、国家機関の一部に組み込まれている以上、時の党中央の政治路線を反映することは当然である。出版事業は中国共産党の路線に従うことを前提に、一般の教養・娯楽・実用書、小説・文学、人文・社会科学、自然科学、科学技術など多様な分野にわたる。文化大革命後、かつて否定された歴史書や学術書の復刻や新刊を含めて、書籍発行点数の増加は目覚ましいものがある。

 1990年代中期に世界的にインターネットが普及し始めたころ、中国政府は情報高速ハイウェー計画を立案・実施し、CHINANET(中国公衆サービス網または電信網)、CERNET(中国教育科学研究網)、CANET(中国科学技術網)、CHINAGBNET(中国公用経済網)の4大インターネットを開通させた。

 今日では政府民間を問わず、さまざまなウェブサイトが開設されているが、これもまた厳格に中国共産党の路線に従う。外国語を知らないかぎり、ネット参加者が知るニュースは許されたものだけであり、中国当局にとって有害と判断される内外のウェブサイトはときどき閉鎖される。ネット世論は今日では無視できないものになっているが、判断の基準になるものが限られているため、中央政府の世論誘導は日本や欧米諸国のそれよりも容易である。2008年3月のラサ事件や、オリンピック北京大会の聖火リレーをめぐって、フランス資本のスーパーマーケット・チェーン「カルフール」が襲撃された事件はそれをよく示している。

[阿部治平]

科学技術

新中国成立直後の中国の科学技術は、日本の侵略と内戦とによって疲弊し、技術者の水準や工場設備も大きく立ち後れており、ソ連の技術援助と指導を仰ぐことによって出発せざるをえなかった。1953年の第一次五か年計画のもとで、ソ連から大型プラントが導入されたが、中国の自然条件、社会・経済、および基礎的技術水準に合致しないものがあった。1957年に、1953~1967年にわたる三次の五か年長期計画「科学技術発展十二か年計画」が制定され、とくに遅れている分野の強化、自然条件の調査、基礎研究の推進が図られた。しかし、その計画も大躍進政策と、1960年に行われたソ連の技術援助の突然の打ち切りによって、少なからず打撃を被った。文化大革命以前の中国の科学技術の大きな特色として「自力更生」路線があげられるが、これは先進諸国の科学技術からの孤立という状況によるやむをえざる選択であった。

 その後、1960年代に再度修正された計画が進められたが、文化大革命の動乱によってふたたび長期の頓挫(とんざ)を余儀なくされた。文革後、中国を訪れた外国人技術者や研究者が見たものは、停滞した研究と陳腐になった技術であった。1978年にようやく「1978―85年・全国科学技術発展計画要綱」が提示され、農業、エネルギー源、材料、コンピュータ、レーザー、宇宙空間科学技術、高エネルギー物理学、遺伝工学の8分野にとくに重点を置き、1970年代の先進国の水準に近づけるという具体的な目標が打ち出された。続いて、経済開放政策が採用されると、後れをとった科学技術の迅速な巻き返しを図るために、積極的に海外資本・技術の導入、欧米や日本など西側諸国の資本との合弁企業の建設が進められるようになった。1980年に四つの経済特別区(深圳、珠海、汕頭(スワトウ)、厦門)、さらに1984年に14の経済開発区が指定された。現在では東部臨海都市だけでなく内陸の成都、重慶、西安などにも外国企業、合弁企業が進出するとともに、ハイテク産業が立地するようになった。1975年に周恩来が示した、「今世紀内に、農業、工業、国防、科学技術の近代化(四つの近代化)を達成する」という目標は、ほぼ実現できたといえるであろう。

 中国の科学技術研究の中心を担っているのは中国科学院である。1949年に設立され、当時は21の研究所、200人余の研究員を擁(よう)したが、2006年現在では12の分院と91の研究機関、4万人余の研究・技術スタッフを全国に抱えている。また、中国農業科学院、医学科学院、林業科学院などがあり、そのほかに国務院の各省庁に直属の各種の専門研究所が設置されている。

 21世紀の今日、中国の技術開発は海外から導入した最新の技術によって支えられ、一定の成功をみた。だが独自の開発が少ないのが欠点で、たえず外国企業とのあいだに知的財産権をめぐるトラブルが生じている。とはいえ国防産業における技術開発は目覚ましく、古くは対ソ・対米外交関係さえも左右した核開発、今日ではミサイル開発と有人宇宙ロケットの打上げに象徴される先端技術が存在する。問題は、それを商品化して大衆の生活に資するメカニズムに欠けることである。

[阿部治平]

日本との関係

中国と日本との往来は、朝鮮半島南部や南西諸島を経由して、きわめて古い時代から行われてきたと推定される。その間の文化交流は日本側の大陸文化の受容に重きが置かれたことは事実だが、日本の文化が大陸で受け入れられた例が扇子(せんす)だけだったかどうかは疑問の余地もあろう。また、その往来も一方的に日本から出かけただけではなく、大陸からの渡来者も多かった。徐福の日本渡航伝説はいちおうおくとして、秦氏の日本定住、各地に残るクレハトリ、アヤハトリ(服部)の伝承についても今後の解明が期待される。その後も、遣隋使(けんずいし)、遣唐使などの公式使節や勘合(かんごう)船などの官符を携えた船のほかに、多くの民間船が日中の間を往来した。日本からの入唐者のなかには大和(やまと)朝廷の高官とその候補者のほかに、多くの僧侶(そうりょ)もいた。これらの僧侶の真剣な求道精神が唐の来日僧鑑真(がんじん)の心を打ったことはよく知られている。国使の派遣が廃止されたのちも、宋(そう)、明(みん)、清(しん)の各時代を通じて日中の往来は続いた。その間、戦火や政治的理由から中国では失われたり内容を削除されたりした書物が、日本に伝来したいせつに保存された例も一、二にとどまらない。

 2000年にわたる日中交渉史は、緊張し対立した一時期はあったが、近代まではほぼ、平和で友好的な関係に終始したといえる。ただ明末の豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略によって、江戸時代には中国との友好関係の修復にはかなりの時間を要した。江戸時代の鎖国の間にも、日中両国間では生糸の輸入と俵物(たわらもの)とよばれる水産物の輸出が中絶なしに続き、また多くの漢籍や工芸品が日本へもたらされた。さらに古代や中世の仏教思想にかわって、儒教が渡来して武家の思想を支配し、漢学者が幅を利かした。芸術面からも、中世以来の南画の影響のほか、曲亭(きょくてい)馬琴(ばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』や三遊亭円朝の『怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』など、中国文学の翻案がもてはやされたこともあった。幕末に鎖国の禁令の緩みに乗じて上海に渡航した長州藩の伊藤博文(ひろぶみ)と井上馨(かおる)は、アヘン戦争による欧米列強の中国侵略の状況を目撃した。彼らが尊王攘夷(そんのうじょうい)からの方向転換を図るにあたって、中国の実情から得た教訓は大きかったといえる。もっとも、その教訓がその後の日本の歴史に正しく生かされたか否かは疑問の残るところであろう。明治維新後の日本は、脱亜入欧を急ぐあまり、自らを中国に対する帝国主義的侵略者たらしめてしまった。

 明治以後、日本の近代資本主義国家への転進が一定の成功を収めたため、中国の近代化を指向する人々は日本に注目し、多くの中国人留学生が来日した。しかし彼らは、天皇制下の日本の日清戦争後の思い上がりに深い屈辱を感じねばならなかった。やがて対華二十一か条要求、済南(さいなん)事件、そして十五年戦争と、日本は急速に帝国主義と軍国主義への道を歩み、ついには自滅するに至った。その過程で、日本国民自身も軍国主義の犠牲となったが、最大の被害者は中国人民であった。

 第二次世界大戦後、中国侵略に対する深い反省のうえに、日中友好の橋を架ける先頭にたったのは、かつて魯迅(ろじん)を日本軍国主義から守った上海の内山書店店主内山完造であった。アメリカ占領軍の中国敵視政策のなかで、投獄の危険を顧みないで日中友好運動は発足し、やがて、日本政府も無視できない大きな運動に発展し、1972年(昭和47)日中国交回復が実現した。また、戦後、社会主義革命によって誕生した新中国の生気あふれる動向は、敗戦による生活難とインフレにあえぐ日本民衆にとって大きな励ましともなった。むしろ、新中国があまりにも理想化されすぎたことが、後の「プロレタリア文化大革命」の過大評価とその挫折(ざせつ)による幻滅につながったのではなかろうか。「文化大革命」の間の10年間の空白を埋めるべく、急速な近代化を追求する中国にとって、今日の日本の経済発展の過程は謙虚に学ぶべき対象とされている。今日、中国の日本に対する学習熱、日本への渡航熱はすさまじい。それだけに、今日の日本を過大評価することが危惧(きぐ)される。永遠の日中友好のためには、いまこそともに冷静に相手を見つめ合うことが必要であろう。

[河野通博]

『司馬遼太郎・陳舜臣著『中国を考える』(文春文庫)』『中嶋嶺雄著『中国――歴史・社会・国際関係』(中公新書)』『小島晋治他編『中国百科』(1986・大修館書店)』『中国研究所編『中国年鑑』(大修館書店)』『木内信藏編『世界地理2 東アジア』(1984・朝倉書店)』『河野通博他訳『全訳世界の地理教科書23 中国――その国土と人々』(1980・帝国書院)』『阿部治平著『中国地理の散歩』(1979・日中出版)』『任美鍔編著、阿部治平他訳『中国の自然地理』(1986・東京大学出版会)』『黄就順編著、山下龍三訳『現代中国地理――その自然と人間』(1981・帝国書院)』『吉野正敏・陳国彦著『中国の雨と気候』(1975・大明堂)』『吉野正敏著『熱帯中国』(1997・古今書院)』『吉野正敏著『中国の砂漠化』(1997・大明堂)』『河野通博他訳『現代中国地誌』(1988・古今書院)』『山本正三編『産業経済地理-世界-』(総観地理学講座15)(1995・朝倉書店)』『平田幹郎『最新中国データブック』(1996・古今書院)』『安藤正士他著『文化大革命と現代中国』(岩波新書)』『辻康吾著『転換期の中国』(岩波新書)』『馬洪著、張風波訳『中国経済の新戦略』(1985・有斐閣)』『竹内宏・孫尚清著『路地裏の中国経済』(1985・日本経済新聞社)』『藤本昭他著『中国経済――調整と改革』(1984・世界思想社)』『阪本楠彦著『中国農民の挑戦』(1985・サイマル出版会)』『丸山伸郎著『揺れ動く市場化路線』(1991・アジア経済研究所)』『中国年鑑1993年版『中国の環境問題』(中国研究所)』『レスター・ブラウン著『誰が中国を養うのか』(1995)』『中嶋嶺雄編『中国現代史――壮大なる歴史のドラマ(新版)』(1996・有斐閣選書)』『中嶋嶺雄『香港回帰――アジア新世紀の命運』(中公新書)』『中嶋嶺雄『沈みゆく香港』(1997・日本経済新聞社)』『中嶋嶺雄『中国はこうなる――鄧小平なきあとの危険な大国の深層』(1996・講談社)』『ウィリー・ラム著、中嶋嶺雄監訳『中国政治経済分析――新世紀への展望』(1998・丸善)』『竹内実著『現代中国への視点――NHK市民大学』(1986・日本放送出版協会)』『村松一弥著『中国の少数民族』(1973・毎日新聞社)』『周達生著『中国民族誌』(NHKブックス)』『バターフィールド著『中国人』上下(1983・時事通信社)』『船橋洋一著『内部――ある中国報告』(1983・朝日新聞社)』『竹内実著『茶館』(1974・大修館書店)』『竹内実・羅漾明著『中国生活誌』(1984・大修館書店)』『竹内実著『現代中国の文学』(1972・研究社出版)』『費孝通著『生育制度』(1985・東京大学出版会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「中国」の意味・わかりやすい解説

中国 (ちゅうごく)
Zhōng guó

〈それ人は万物の霊とて,天地間に生まるるもの,人より尊きものはなし。殊に我国は神州と号して,世界のうちあらゆる国々,我国に勝れたる風儀なし〉。明治元年京都府が府下人民に与えた〈告諭大意〉の書き出しであるが,中村光夫《現代日本文学史》第1章〈明治初期〉,第2節〈啓蒙思想〉はそれを引用して次のごとく論じている。〈この一節の文章に見られる奇妙な思想の混合は,明治人の心理を象徴しています。人は“万物の霊”であり天地間にあるもので“人より尊きはなし”というのは西洋の近代思想の反映であり,明治新政の原則であった“四民平等”の精神と表裏をなしています。この近代ヒューマニズムの主張が,一方において封建制度を打破する力として働きながら,他方“神州”の信仰と何の矛盾もなく結びつき……〉。日本の代表的知識人の言葉として,これはまことに奇怪千万といわねばならない。なぜなら,江戸時代の,否,明治中期ごろまでの書生たちにおいては常識中の常識であったごとく,〈人は万物の霊〉というのは儒教の古典のうちでも最もポピュラーな《書経》泰誓篇の言葉,そして〈天地の生むところ唯だ人を尊しとなす〉は,そのすぐ下に割りつけられた注釈の言葉にほかならぬからである。

 さらにいま一つ例をあげるならば,井出孫六の小説《太陽の葬送》の中に,乃木将軍の殉死に対して〈儒教的な,あまりに儒教的なその死〉と批判的な感懐を述べたくだりがある。しかしながら,多少とも儒教というものに知識をもつ人であれば,この感懐もまた不思議以外の何物でもあるまい。乃木将軍の死は武士道の精華とこそいうべきであろうが,どう考えても儒教的ということはできないように思われる。君父に対するいかに深い哀痛であろうとも,それを礼によって抑制して〈性を滅せしめない〉のこそ儒教の教えであった。汨羅(べきら)に身を投じた忠臣屈原の自殺がしばしば遺憾とせられるのは,すなわちそれである。儒教が要求するのは何よりもまず思慮,そして思慮によって中庸を守ること,である。直情径行は戎狄の美学にすぎない。〈士は己を知るもののために死す〉とは俠者のことにすぎない(俠と儒とは対極概念)。事実,歴史をふりかえってみても,社稷(しやしよく)(国家)に殉じた臣というものはいくらでも思い出せるが,君主に殉じた臣というものを思い出すのはむつかしい。

中国について何かをいうことは,やさしいようで実は大変むつかしい。それは何よりもまず,中国と日本との関係の地理的歴史的な密接さに起因する。日本はおそらく,歴史の最初から中国文化の不断の波をかぶってきたと思われる。もちろん多くの場合,朝鮮半島の民族と国家が中間で媒介したということはあるが,やがては直接の接触が主流となる。大局的に見て日本が,中国文明の圏内に,ただしその最周辺部に,あったことは疑いない。漢字,儒教,律令(国家体制,政治制度),仏教,の四者を指標として中国を中心とする東アジア世界というものを構想することもできるし(西嶋定生),指標としてはさらに稲作(南中国),ある時期から木綿布を着用すること,食事に箸を用いること,等々を取ることもできよう。ただし,少なくとも明治維新以前まで,中国から日本への影響はまったくの一方交通であって,日本から中国への影響は,扇子のごとき例はあるにしても,ゼロに等しかったといってよい。日本のかな文字のごとき,もし中国に対して何らかの示唆を与えていたならば,大きな貢献として特筆されたであろうが,そのようなことはまるでなかった。

 ただ注意すべきことは,日本は中国に対して,海を隔てて辺境に位置していたので,陸つづきの地域にくらべてその独自性(たとえばその主情性)をはるかに有利に保持することができたということである。中国は政治的には諸外国を朝貢国として扱ってきたが,日本は然るがごとく然らざるがごとき態度,しばしば明確に独立の態度,をよく維持してきた。さらにまた日本は明治以後,西欧文明を進んで受け入れたという事実がある。それには,日本にはすこぶる有利な(心理的に有利な)事情があった。つまり,日本はつねに外国を師としてやってきた,これまでは中国文明を師としてきたが,今日それはもはや最高のものではない,今日,西欧文明を摂取するに何らためらう理由はない云々。西欧文明に対していわば無駄な抵抗を重ね,そのためにさまざまな苦しみを嘗めざるをえなかった中国,われわれはその頑迷固陋さを笑うが,しかし借物の文明をまるで衣がえするように乗りかえるのと,自己のいわば血肉そのものを入れかえる痛みを経験せざるをえない場合と,この二つを同一に見なすことはできないと思う。

 要するに明治に至って歴史上初めて中国→日本という流れが逆転して,日本→中国という流れが生まれた。その最も顕著なものは言葉であって,政治,思想,学術,あらゆる方面に日本製の新漢語がはんらんし,今日ではもはや完全に定着して誰ひとりその由来を意識しないまでになっている。日本より逆輸入されたこれらの漢語をぬきにしては,今日いかなる文章をも成すことはできないであろう。もとはといえば日本人が欧米の文物を摂取しようとして苦心して作り出したものであるが,さらにまたそのもとはといえば,中国から輸入した漢字というものの存在と,儒教の書物などによってあらかじめ理論的抽象的思考の能力が養成されていたこととのおかげである。かくて,歴史上初めて本格的な日本研究書《日本国志》(黄遵憲著)が出現し,明治維新にならおうとする政治改革運動が起こった。留学生は日本に殺到した。その数は1905,06年のピーク時に8000名といわれている。数千年来の王朝体制にとどめを刺した辛亥革命は日本留学生が行った事業といってよく,その策源地は東京であった。かくて日本人の先進国意識は抜きがたいものとなり,中国への軽侮は夏目漱石をして,少しは受けた恩義のことを考えたがよかろう,といわしめるまでになった。はやくも1885年,福沢諭吉は〈脱亜論〉を書いていた。日本はすでにアジアの固陋を脱して西洋の文明に移ったのに,不幸なることに固陋な儒教主義の国(支那,朝鮮)と隣りあわせている,日本として,とても〈隣国の開明を待ちてともにアジアを起こすの猶予あるべからず〉,隣国だからといって特別の考慮は不要である,アジア東方の悪友を謝絶することこそ急務であり,〈まさに西洋人がこれに接するの風に従って処すべきのみ〉と。

 では西洋人はアジアに対してどのように接したか。一つには文明の師として,だが同時に,あたかも一枚の紙の表裏のごとく,二つには帝国主義者,侵略者として。日本は第2の風に従うことにはなはだ果敢であった。もちろん,ヨーロッパ帝国主義への抵抗,そのためのアジア連帯の意識もたしかに一部に生まれた。そしてその意識にとって,本来連帯の中核たるべき中国の現状は,何ともじれったいかぎりであった。いわゆる〈右翼〉の源流の一つに,このようなアジア主義の意識があったことは否定すべきではない。やがて大勢は,侵略に抵抗するための侵略,という大義名分に滔々として流れてゆく。だが中国の生れ変わりに協力し,中国を真に強くすることによって連帯を実現しようとした宮崎滔天のような人も,やはりいたのである。

 要するに中国は日本にとって,愛憎二面的な対象である。少なくとも,明治以後はそうである。しかしいかに思い上がった傲慢さの底にも,欧米へのとは異質の身近さの感情は消失しなかった。〈中国と日本の関係はギリシアと西欧文化の関係に等しい。日本人は中国へ観光客としてよりも巡礼として行く〉(エドガー・スノー)。ある程度の教育をうけた日本人で孔子や孟子の金言のいくつか,李白や杜甫の詩の一句や二句を記憶にとどめていないものは少ないであろう。われわれは単なる風景,習俗,物産の珍しさを喜ぶよりも,孔孟,諸葛孔明,李杜韓白(李白・杜甫・韓愈・白居易)の国であることに感動する面が,たしかにある。さらにいま一つ無視できないのは,敗戦までの日中関係の特殊さの結果として,中国への往来にはビザを必要とせず,多くの日本人が自由に彼我を往来し,住みつき,商業その他を営んでおり,そのうえまた日中戦争で多くの庶民日本兵が肌身で親しく中国を体験した,という事実がある。そのことが侵略への荷担にすぎなかったといえばまさにその通りであるが,しかし,とにもかくにも肌身で中国を体験した日本人が飛躍的に増大したことは,中国への民衆レベルでの親近感という点で,無視することはできないであろう。

今日では,さらに,社会主義中国(中華人民共和国)の出現という新しい事態がある。それはとくに,その革命成功にいたるまでのほとんど叙事詩的ともいうべき前史によって,イデオロギーを超えた感動を全世界にまきおこした。中国は今度は,日本の知識人,いわんや左翼知識人にとって,一転して金ピカの存在となる。侮蔑は一転して熱狂的な崇拝となり,それは当然反発を生みつつ,ほとんど一時代の〈世相〉とまでなった。やがてそれも文化大革命とその失敗によって,幻滅をもってサイクルを閉じるが,そしてその時期は社会主義国一般の信用失墜の時期と重なったが,ともかくこの社会主義中国の出現は日本の中国観に複雑な要素をつけ加えたのである。いわんや毛沢東時代の完全な終焉,現代化政策のなりふりかまわぬ開始は,イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンの有名な定義〈共産主義とは工業化におくれをとった民族が一挙にそれに追いつこうとするときにとる国家形態〉を,否応なしに想起せしめるほどである。

 かくて,新中国と旧中国の連続,非連続の問題は,われわれのこれから慎重に検討すべき課題である。もちろん革命である以上,単なる連続であるはずはない。事実,金ピカ時代,日本における論調には,中国は完全に過去から絶縁したという語気のものが多かった。しかし今日ではむしろ連続面に注目するものが多いようである。中国自身においても〈文明の民族的風格〉とか〈中国的社会主義〉というものが,さかんに強調されている。つまり,われわれの中国の理解--それはもちろん現代中国の理解ということに帰着する--の前には,(1)日本人であるがゆえの困難,に加えて,また(2)伝統的中国文明対西欧文明(五・四運動時期の標語によれば,デモクラシーとサイエンス),という図式以上に,もっとも具体的には,(3)次のような課題が存在することを知る。つまり(a)数千年にわたってまったく独自に形成せられた中国固有の伝統文明,(b)マルクシズム,社会主義の国家体制,(c)国家体制のいかんを問わず今日の最大問題ともいうべき工業化,科学文明,少なくともこの三つの座標軸を用意してかからねばならないということである。最小限この三つの視点をかみあわせることなしには,例えば,今日の外国資本の大胆な導入や農業における野放図ともいえる生産請負制奨励などから誰もが容易に抱くであろうところの疑問,中国は社会主義をすてて資本主義に移るのではないかという疑問,などに有効な示唆を与えることは到底できないのではないかと思われるが,率直にいって筆者にはその力量はない。以下にはただ,これらの座標軸のことを頭におきながら,ただ一つ,伝統的中国の諸相を概観して,読者への参考としようと思うのである。

これは中国を論ずるものが誰でもまず第一に取りあげる点で,国土の広大,物産の豊富,住民の多さ,改めて説明の必要はない。今日の人民共和国の領土は,清朝のそれが原型となっており,それから外モンゴル(および台湾?)を引き去ったものといってよい。他に香港,澳門(マカオ)の問題。清朝では,(1)本部(内地ともいう),(2)藩部(内蒙古,外蒙古,回部すなわち西北のイスラム教徒地域,青海,チベット),(3)満州(清朝発祥の地なのでとくに直轄地とした)の三部建てで統治した。そのうち外蒙古はロシア革命の波及によって1924年にモンゴル人民共和国として独立している。満州つまり今日いう〈東北〉も中華民国時代,日本の傀儡政権〈満州帝国〉が一時独立を称していたことがあるが,これは日本の敗戦によって消滅した。中華民国は台湾で独自に政権を立てているが,要するに政権の問題であって,大陸側も台湾側も台湾が中国の一部分,つまり台湾省にすぎないことは明言している。広さはソ連,カナダに次いで世界第3位で,全ヨーロッパとほぼ等しく,アメリカより大きい。日本の約26倍もある。満州,つまり〈東北〉(遼寧,吉林,黒竜江の3省)のみで日本の3倍の広さであり,四川省一省のみで日本全体より広い(四川省は人口もほぼ1億)。

 いうまでもなく中国は農民の国であり,このような国土の広さは大きな強みのように思われがちであるが,実際には耕地として利用されているのは全領土の10%程度にすぎないのである。その広い土地は,冬季-52℃を記録したこともあるほどの黒竜江省より純然たる熱帯の海南島--ただし,最も暑いのは海南島ではなく新疆ウイグル自治区のトゥルファン盆地で,日中の最高気温が47℃を記録したという--,さらに高地帯では標高4000m,年平均気温が-6℃,空気すら希薄なチベットを含む。山岳,砂漠,湖沼,単調な海岸,ありとあらゆる地形をそなえている。とくに注目すべきは,古来,ひとたび洪水を起こすとほとんど想像を絶する災害を引き起こす黄河や長江(揚子江)をその腹部にかかえていることである。筆者は1935年黄河の大水害(山東,それが波及して江蘇,その被災者500万人,救済を要するもの200万人,飢餓に瀕するもの27万人)の際の被災農民の流浪の実態--ひっきりなしの貨物列車での輸送,山東省済南市での収容,を親しく見たことがある。政府の救済金,世界各国よりの義捐(ぎえん)金などは役人にピンはねされて末端に来ると雀の涙にも当たらないとのうわさであった。そのせいかどうか,城内各戸に割当てられた被災民は夕方うす暗くなると,厳重な禁止にもかかわらず,三三五五大通りにあふれ出,通行人に立ちふさがって物乞いをする。実に不気味な光景であった。曲りなりにも近代化した国民党政府のもとで,また必ずしも未曾有とはいえない規模の水災においてさえ,かくのごとく,歴史上,水災,蝗害,飢饉に際してややもすると数万,数十万という流民集団が発生し,一部はいわゆる流賊となって各地を襲撃,転戦してまわったのが実感的に納得できた。人民共和国の政府が,ともかく人民を食わせることに成功した,としばしば特筆される背景には,このような現実があったことを知るべきである。

中国の領土は,というよりいわゆる中国文明の地は,最初から今日の広さをもっていたわけではない。黄河の下流地域,今の山西,河南,河北,山東の接触地帯のあたりにまず文明が開け(王朝),ついで陝西省の西安の近くにの民族が興り,東進して殷を倒し,いわゆる中原の文明を築いた。その文明の継承者たる王朝は政治的,名目的にはベトナムにも達する範囲の支配者となったけれども,しかし南方地域がどれほど開発されていたかは疑問である。南方とは,(1)せまくは長江下流,江の南北にまたがっての一帯,とくに江蘇,浙江などの江南地域,(2)ひろくは長江以南の南中国全般を指す。漢(前漢・後漢)につづいて三国時代,次いで南北朝時代という大分裂時代(魏晋南北朝時代),それが統一されての大帝国の時代を迎えるが,この時期に江南の開発は相当に進み,さらに五代十国という50年ほどの短期の分裂時代をへて(北宋・南宋)に入って福建広東の地域まで本格的な開発と漢化が進んだこと,文化と経済の中心が江南に移ってゆきつつあったこと,はよく知られている。やがての時代をへて時代に入ると,南方優越の形勢は決定的となる。科挙における進士合格者の数,学者芸術家の数,税負担の額,すべて江蘇,浙江を頂点とする南方が圧倒的である。モンゴル民族の征服王朝たる元朝が南人に対して過酷であったことが,かえって南方士大夫の文化を発展させ精彩を与えることとなったという(内藤湖南)。中国文明の歴史は,南進の歴史といってよい。南船北馬,南人は軽薄,北人は素朴,南方は地主小作関係が多く,北方は自作農が多い,南方の士大夫は晩年は仏教にふけり,北方の士大夫は道教にふける,など南北を対比したいい方は無数にある。辛亥革命,人民革命の革命家がほとんど南方(とくに浙江,湖南,広東の3省)出身であったことはよく知られている。

中国の人口の膨大なことも,近代にはじまったことではない。堅実な計算で漢代に人口6000万,宋代に1億5000万弱,清末に4億と計算されている。唐の玄宗皇帝(712即位)の時代に長安の人口100万,宋・元時代杭州の人口150万。清の乾隆帝のとき,1793年(乾隆58),イギリスの使節マカートニーに随行したアンダーソンの旅行記を見ても最も印象的なのは,彼がいたるところ人間の多さに驚いていることである。山間の村落地帯を通過する際でも,人間の多さということを特筆している。当時のイギリス(あるいはヨーロッパ)はよほど人口が少なかったのであろう。今日,人口は10億0800万(1982),日本の人口の10倍。ただ注意すべきは,そのうち漢族人口は93.3%,非漢族いわゆる少数民族(その数は56)は6.7%,しかるにその居住地は,少数民族のそれが全中国面積の50~60%にわたっていることである。われわれは中国といえば,漢族の居住地と考えやすいが,中国人の90%以上が漢族であるという点ではそのとおりであるが,居住地域については,いわゆる中国の半ば近い地帯は主として非漢族の居住する地域(もちろん漢族も混住する)であることを知っておく必要がある。行政区画は台湾省をふくむ23省4直轄市,5自治区(ほかに香港,澳門(マカオ))に分かつ。自治区(○○民族自治区)とはこれらの少数民族のとくに濃密な居住地帯を自治区として,行政上にも特別な地域としているのであり,その風習,言語,文化(なかには独特の文字を有する民族もある)の保護には,考慮が払われているが,同時に共通語としての漢語(中国語)の普及にも力が注がれている。教育の普及,情報伝達の利便,生活の向上……おそらく歴史始まって以来初めて,中国人(漢族プラス少数民族)が中国〈国民〉としての自覚にめざめる事態が名実ともに出現する日はそれほど遠いことではあるまい。10億の〈国民〉! それは世界史上空前の出来事といわねばならない。

地大物博の物博の面,つまり物産の豊かさについては,今は省略するとして,ここで一つ取り上げておきたいのは,中国文明が地理的に他の文明世界と隔絶して存在し,発展してきたという事実である。もちろん唐や元が世界国家であること,明代以降〈西北〉や雲南という辺境地帯にトルコ系その他のイスラム教徒の民族やイスラムを奉ずる漢族が独特な地域文化を造り上げていたことは周知のところである。いわんやインドや中央アジアからの仏教の伝来,普及,中国化のごとき,やがて天台,華厳の雄大で細緻な哲学をもつ宗教を生み,ついには禅宗という世界にまったく類例のない宗教を生んだ。それを前の諸子百家,後の宋学(朱子学陽明学)につないで考えるとき,中国は通説に反して,世界有数の哲学国であったのではないかとさえ思われる。通説に反してといったのは,ヨーロッパ哲学の規準に合わないものを低次の哲学と考え,中国は要するに詩文の国であって哲学的思索に長じなかったとする傾向が根強くあるからである。生活様式の面でいっても,漢民族はもともと日本人と同じ座り方であったのが,五代・宋以降になると椅子が一般化し腰かけ式の生活が普及した。それは胡人の影響であるという。--しかし大局的に見て中国の地理的位置は,他文明の世界とは隔絶する方向に作用したことは,疑うことはできないであろう。それにまた,中国に近接する地域には,それと肩を並べるような文明は存在しなかった。このことがいわゆる中華意識,というより,他民族・他文化への無関心,を助長した大きな原因であったと思われる。中国におけるヨーロッパ研究の現況については知らないが,少なくとも日本研究,日本学は,吉川幸次郎がしばしば嘆いたように欧米にくらべてはるかに劣っている。そもそも日本のことなど,まともに研究するに値するなどとは思ってもみなかったのではないかとさえ疑われる。すでにあげた《日本国志》以後,戴季陶《日本論》(1928)以外にどれほどの研究があるだろうか。このような中華意識が近代ヨーロッパ文明,ヨーロッパ帝国主義との接触以降,中国をして事々に失策を重ねしめた大きな原因の一つであったことも疑うべからざる事実である。しかし,同時にまた中国の中華意識というものが,ある時期までは決して単なる空威張りでなかったことも知っておく必要があろう。たとえば科学でいっても,中国が遂に〈近代科学〉を生み出さなかったのは周知の事実であるが,しかもまた〈16世紀以前の中国は,はるかにヨーロッパを凌駕する科学文明を築きあげていたのである〉(藪内清)。

これも周知の特徴である。中国は17,18世紀ヨーロッパにおいても歴史の国として広く知られ,ヘーゲルのごときも,中国が世界で最も古い歴史記録をもつ国,また歴史家の輩出した国として特筆している。ただ,歴史の古さということには,いろいろな意味がある。(1)文字通りに中国史の始まりの年代的古さということ。もっとも単なる古さだけの問題ならエジプトやメソポタミアの古代王国もそうであるが,中国の大きな特徴は,(2)その歴史が,つまりその文明が,終始同じ漢民族によって,同じ中国の大地の上に,中断することなく,しかもつねに高水準に,維持し続けられたことである。このことは,ヨーロッパ人も一様に驚嘆の念をもって言及するところであって,世界史における奇跡と称せられる。すなわち今日のヨーロッパ文明の源流がギリシアとヘブライであることは誰もが知っているけれども,ヨーロッパ文明はギリシアの,またはヘブライの土地・民族において,展開され開花したわけではない。そのことを考えると,中国文明が同一地域・同一民族において〈殆んどが彼ら自らの創作になる諸文化〉を不断に維持発展しつづけてきたことは,驚異的事実といわねばならない。(3)古文献の豊富さ,とくに史書の豊富さにおいて,中国は世界に冠たるものがある。ある研究によると,1750年までに中国で出版された書物の総数は,その年までに世界中で中国語以外で印刷された書物の総数を上回っていたといわれるが,そのうちで最も数量的に多いのは歴史書であった。

 文献によると,漢民族の最初の天子,五帝の筆頭たる黄帝の即位は前2674年というから,今日まででほぼ4700年になる。もっとも,黄帝以前に神農,さらにその前に伏羲がいたが,伏羲の即位は前3308年にあたる(もちろん書物によって数値はいろいろであるが今は董作賓による)。そうすると今日まで5000年を超えることになる。もちろん伏羲,黄帝以後,尭帝,舜帝,禹王(王朝の創始者),湯王(殷王朝の創始者),文王・武王(ともに周王朝の創始者)などの諸帝王および周公(周王朝の諸制度,いわゆる礼の大成者)などの聖人が出現して,中国文明の伝統を築き上げたとされる。尭・舜から周公までの7人の天子(周公は天子ではないが天子に準じて扱う)と天子の位にはつかなかったがこれらの先王の道を大成し後世に伝えたところの孔子,とを合わせた8人が代表的聖人である。これらの聖天子の年代もすべて歴史書に与えられているけれども,もちろんそれが今日より見れば神話的,伝説的年代に過ぎないことはいうまでもない。中国史上学問的に確実な年代の最初のものは前841年(いわゆる共和元年)とされているが,しかしそれ以前でも,ほぼ確実な年代としては,周の武王が殷の紂(ちゆう)王を討って周王朝を開いた前1027年あるいは前1066年もしくは前1111年,さらに一王朝まえ,湯王が夏王朝の桀(けつ)王を攻め滅ぼして殷王朝を開いた前1523年などがあり,もちろん研究の進展により多少動くことはあるとしてもそれほど大幅な動きはないであろう。ただ,殷のさらに一代前の夏王朝については,今日まだ確実な遺跡が発見されていないので,《史記》などの記載がはたして史実であるか否か問題が存するが,要するに,おおよそ紀元前10世紀以後,文献の記載がほぼ史実を反映している時代に入っているといってよく,前841年以降一年の間断もなく編年されているのであって,このことは世界において全く類を見ない事実といわなければならない。日本の歴史と(たぶんギリシアの歴史とも)大きくちがうのは〈神代(かみよ)〉というものを設定しないことである。歴史はどこまでさかのぼっても人間の歴史である。たとえ伏羲が蛇身人面であったとしてもそれを神代とする意識は存しない。

中国の歴史の古さが大きな衝撃を与えたのはキリスト教世界に対してであり,それはあるアメリカ学者のいうように〈ほとんど解決できない問題をつきつけた〉のである。なぜかというと,聖書の教えるところによれば,人類は神の怒りにふれていったん大洪水で絶滅させられ,ただノアとその3人の子供のみが箱舟のおかげで助かったのであり,現在の人類はすべてノアの子孫にほかならないのである。しかるに,黄帝にしろ,さらに古く伏羲にしろ,大洪水(前2233年の出来事という)よりはるか以前の人物であり,しかもその人民はただの一度として絶滅に遭遇することなく連綿として生存し続けていることは,中国の史書が明確に記録している。そのうえ,かの大洪水のことが中国の史書に全然言及されていないというのも不思議な話であって,もしかするとかの大洪水は,ただユダヤ人の間におけるのみの局地的なものにしか過ぎなかったのではないか。いずれにしても,聖書の記述を疑わざるを得ないことになったのは,当時のヨーロッパにおいてはゆゆしき大事件であった。このことと,今ひとつ,中国の聖人天子が宗教の助けを借りず,ただ理性のみに立脚して理想的政治を行ったと認識されたこと(孔子の教えはその哲学化である)とは,ボルテールその他の啓蒙学者が盛んに賛美して,カトリックを支柱とするアンシャン・レジームの権威を動揺させることに少なからぬ貢献をしたのである。もっとも,ルソーのみは中国にきびしかった。韃靼(だつたん)人(満州族を指す)の桎梏(しつこく)から国を守ることができなかったとすれば,シナに栄えた学問や哲学というものにいったい何の意味があったのか,と。

中国の文明はしばしばローマのそれにくらべられ,政治的文明と称せられる。たしかに両者は,多くの少数民族をも含む非常な広域,いわゆる〈天下〉が,中央政府より派遣する官吏によって統一的に統治せられた点で似ている。しかし中国の場合は周囲に先行する高度の文明をもたず,いわば独力で,すこぶる整備した政治機構を作りあげたのである。夏王朝,殷王朝は別として,周王朝以後の中国史は,秦王朝を境に明確に,封建・郡県の二つの時代に区分される。周の初期に全盛で春秋時期まで維持された封建制度の時代,これはとにもかくにも礼と徳が支配したとされる時代。それが徳の対立物たる〈力〉主義によって陥った〈戦国〉の分裂抗争という過渡期(春秋戦国時代)を秦の始皇帝が再び統一(前221)して以後の郡県の時代,これは法律と官僚の支配した中央集権の時代。秦以後,清朝の滅亡(1911)まで2000年,郡県の制度というものはもはや動かすべからざる情勢となったが,しかも国家の教学としては道徳と礼楽を原則とする儒教が採られたので,聖人たる周公の定めたところであり,儒教経典の記載するところである封建の世は後々まで政治の理想としての魅力を失わず,封建に帰れ,とか,郡県制の中に封建の意を寓せしめよ,とかの声は事あるごとに繰り返された。徳川時代の漢学者の中には,郡県制下の中国よりも日本の方が優越している,なぜなら封建制だから,と主張したものもあった。なお,混乱を避けるためにことわっておきたい。現代中国歴史学の通用語として,中国の伝統的な歴史学でいう郡県制の時代を封建制の時代としているのは,まるであべこべの用語法であるが,これは上部構造たる政治体制によってでなく土台たる生産関係によって時代区分(原始共産制時代→奴隷制時代(古代)→封建制時代(中世)→資本主義時代(近代)→共産主義時代)を行うべきだとするマルクス主義理論によっているからである。つまり〈封建〉はfeudalismの訳語として用いられているのであって,この理論によれば,早い説では秦(前246-前207)以前から,おそい説(日本のマルクス主義史学の一派)では宋代(960建国)から(両説の差1000年!),アヘン戦争(1840)までを封建時代(中世)とし,アヘン戦争以後を半封建・半植民地という特殊中国的近代とする。したがって政治体制としては中央集権的官僚体制という常識ではまるで正反対の体制が封建的と呼ばれることになり,ひいてはジャーナリズム用語としても旧時代的,アンシャン・レジーム的なものがすべて封建的と呼ばれるようになっているのである。

郡県制下の中国の政府の形態はさまざまに変遷したけれども,唐・宋をへてほぼ明・清において完成した形としては,中央には六部(現代日本風にいえば六つの省)すなわち吏部,戸部,礼部,兵部,刑部,工部がキャビネットを構成し,地方はによって行政を行う。州と県は大差ないので,あわせて県として数えるとその数は明代で1400ほど,現代で2100ほど。県の広さは大ざっぱにいって日本の郡くらい。府は県をいくつか合わせた単なる行政事務上の単位で,兵庫県のとなりが大阪府というようなものではない。あるのは県だけで,それをいくつかずつくくった単位が府である。別に,中央政府に対しては給事中,地方に対しては御史,という監察機構が置かれている。官(後述の〈吏〉に対していう)は,府・州・県の最末端の官にいたるまで,すべて中央より定期的に派遣される(任期は3年)。もちろん六部の上に,統括者としての宰相があるはずであるが,明の太祖がそれを廃止してしまって以来,明・清を通じて宰相は置かれなかった。君主独裁体制の完成とはすなわちこのことであって,中央・地方のすべての政務の指示,決裁は天子の一身に集まり,天子はおそるべき繁忙に追いこまれる。〈世界でいちばん忙しい天子〉(宮崎市定)が出現する。なぜなら,中国は徹底した文書行政の国であって,政務はすべて中央・地方の官僚より上奏文という形で直接天子に提案され,天子のそれへの決裁(回答)という形で発令され実施にうつされるからである。つまり,天子の性癖や怠慢が,政務にただちに反映することとなる。もちろん実際には天子の周辺にはおのずから顧問が生まれてくる。天子の学問上の助言者,もしくは秘書官として設けられた大学士が政治の相談にもあずかるようになり,これが〈内閣〉を形成し,少なくて2,3名,多くても6,7名程度の大学士の合議によって事実上最高決定がなされるようになる(わが国でいう内閣は六部,中国の内閣は複数の総理大臣グループのこと)。具体的にいえば,天子の決裁の下書きをひとつひとつの上奏文に貼付して天子に差し出す,天子はそれを自筆で写して書きこめばよいのである。つまり中央政府は内閣・六部というのが根幹の体制であるが,しかし清朝になると軍機密保持の便宜上,天子の側近にさらに軍機処(参謀本部)が設けられ,これがいつしか恒常的な政務機構となって,内閣の取り扱うべき政務を軍機処が扱うようになり,内閣は有名無実のごとくなったが,旧中国の特徴として,いったん存在しはじめた内閣を廃止してしまうことはしない。このような,誰が考えても任務や権限が重複し,実質的に無用に帰した官庁を廃止しようとせず,いつまでも存しておくのは,例えば2000年前,漢代の九寺という行政最高官庁(法務庁たる大理寺,対属国外務庁たる鴻臚(こうろ)寺など)が六部その他と重複するにもかかわらず,重複したままで,ごく一部分でも職務を分け与えて,歴代綿々として存続せしめられたごとき,今日の常識からは到底理解できない。その繁雑さには中国史の専門家でも音をあげてしまう。〈官は士を養うために設けられた〉もの,といういい方がしばしば見られるが,政治を儒教でいう〈礼楽〉として考える考え方がその底に働いているのである。

地方の場合は,さすがにもう少し解りやすくなっているが,不思議なことに,府以上を統括する官,つまり省の長官,というものは正式には置かれたことがない。もしその統括者が,つまり各省の長官が必要な場合は,臨時に巡撫あるいは総督という職名で中央から派遣される。それが地方長官として常設化してしまった清朝においても形式上はあくまで臨時派遣で,その下には何ひとつ部局は置かれない。私設秘書官(幕友)の一群がいるのみである。注目すべきは,すべてあるランク以上の官の間には,本質的に上下統属の関係が存しないことである。例えば中央の内閣・六部の間,また地方の督撫・布政使の間,地方と中央の間にも上下統属の関係は存在しない。六部は内閣とは独立に天子に意見具申(上奏)をし,命令をうけ,督撫は内閣・六部と独立にそうし,布政使もそうし,六部の長官と次官との間でもそうである。このことは,責任回避を事とする風を生み,重要案件が発生した場合には,非常に困難な問題を惹起するであろう。

今ひとつ旧中国の政治機構の特徴として,監察機関が非常な威勢をもったということがある。つまり御史(および給事中)の制度であって,清朝の末には,御史の制度こそ中国政治の最大の癌とすらいわれるようになった。それは,御史は単なる風聞にもとづいて弾劾してもとがめられないという特権をもち,その官吏弾劾権というものが新しい,積極的なもののチェックを事とする傾向があり,またしばしば党派主義や報復の道具となったからである。梁啓超は〈中国の政治は役人に善いことをさせようとはしないで,悪いことをさせないことにばかり気を配っている〉と評した。〈一利を興すは一害を除くに如かず〉(耶律楚材)の精神である。しかし監察の重要性は中国人の政治感覚にしみついているので,中華民国の〈五権憲法〉にも立法・司法・行政の万国共通の三権のほかに,監察権というものが特に加えられ,考試権(科挙試験を想起せよ)とともに政治の五つの基本条項(五権)の内に数えられていた。

要するに,問題は官僚である。郡県制中国は,とくに君主独裁政治の中国は,官僚の世界である。県の最下級の官まで,中央から派遣される。もし現代中国における旧中国との連続・非連続を論ずるなら,官僚制,官僚主義こそ連続の最も顕著な例であろう。ところでこの官僚は,同時に非連続的な面ももっているのであって,それはすなわち,旧中国の官僚が科挙試験を通過した士大夫=読書人よりなっていたという点である。ここに一つのきわめて特徴的なエピソード,《紅楼夢》と並ぶ清朝の代表的小説《儒林外史》第8回に見えるエピソード,を紹介しておきたい。江西省南昌府の知府(府知事)蘧(きよ)氏が辞職引退し,後任の王氏が赴任してきたので前知府の息子の蘧公子が応接するが,王氏がしきりに利権の所在,裁判の運用(賄賂の収入源)のコツといったことばかり聞き出そうとするのがうるさくてたまらない。そこで次のような話をする。〈父がこの南昌府を治めていたときは,父の役所では,詩を吟ずる声,碁を打つ音,曲をうたう声,この三種の音声がすると評判でしたが,このたび先生の御着任で,それが次のような三種の音声に変わるのではないかと思われます〉。新知府の王氏〈どのような音に変わります〉。〈秤(はかり)の音,算盤の音,鞭の音〉。王氏は皮肉られたとも気づかないで,顔色を正して答えるには,〈われわれ朝廷のために執務する者は,お互いにこのように真面目にやらなくてはならないと存じます〉。秤の音とは税金(当時の中国の銀貨はコインというよりは銀塊である)をはかる音であり,算盤の音とは財務一般,鞭の音というのは裁判(刑罰)にはげむことである。今日の常識では,よき地方官とはおそらく後者でこそあろう。詩作にふけり,碁を打ち,曲をうたう(義太夫をうなる)というのは,官庁としてあるまじき風景でなければならぬ。しかし,ここでは何のためらいもなく前者の方が称賛されているのである。

 もちろん実際の政務がこういう文雅な読書人主義によって実効的に行われるはずはない。官僚のもとにはそのポケットマネーによっていわゆる幕友が招聘せられて実際の行政を分担し,さらにその下には読書人でもなく官でもない窓口実務者としての胥吏(しより)というものが大量に存在する。官吏という語があるように吏=官という用法ももちろんあるが,法制上の概念としては,吏と官とははっきりと別物である。胥吏は事実上無給にひとしいから直接人民からとりたてる手数料(これはいくらでも手かげんできる)で生活する。人民を直接相手にすることの少ない中央政府においても,官僚の新任・転任事務を扱う吏部の胥吏などは莫大な収入がある。官僚の俸給(俸禄)はほとんど滑稽というほかないまでに薄給である。いうまでもなく,官僚の懐にはいかに清廉潔白な官僚といえども,慣習的に黙認され,前提せられている役得というものが莫大に入るしかけになっている。役得といっても,われわれが想像するようなものとはけたがちがう。宮崎市定があげている例を借りると清朝の雍正年間,河南省巡撫の年俸は銀150両,勤務地手当が年に銀3万両(本俸の200倍),だが実際の収入は銀20万両であったという。単純に計算して17万両ほどが役得なのである。まさにM.ウェーバーのいう家産官僚制の典型的なものといってよい。--要するに官僚はここでは学識と,学識が必然的にともなうところの道義,とによって権威をもち人民を教化指導する者であり,実務は二の次なのである。徳川時代の武士もある意味で官僚といってよいと思うが,その場合武士が徹頭徹尾実務家であったのと対照的である。もちろん〈人民のサーバント〉のイメージなどまったくない。今日中国政治の問題たる官僚主義を伝統の面から見るとき,このような点が目につくのである。

官僚はその実体において士大夫であり,士大夫とは読書人,つまり儒教経典の教養の保持者としての知識人である。ふつう士大夫とは読書人・官僚・地主の三位一体といういい方があり,それぞれliterati,mandarin,gentryの語が当てられることがある。事実,官僚はほとんど例外なく地主(相当な規模な地主)であったが,それはしかし必須の条件ではない。あえて図式化していえば,読書人が官僚となり,官僚となることによって地主となるのである。〈君子は多く前言往行を識(し)って徳を蓄える〉(《易経》)。学問が徳を生む。徳こそ政治の原理である。科挙はこういう前提に立って,ただ儒教経典(ただしその解釈学は朱子学に限る)に対する知識とそれの応用としての作文・作詩の能力,書法(わが国でいう書道)の程度を見るのである。行政のための専門的知識を見ようとするのではない。そのようなことは必要に応じて幕友をやとって,まかせておけばよい。科挙受験のためには長期の勉強が必要であり,それにはもちろん相当な財力のあることが望ましいに相違ない。従来この点が過度に強調されてきたが,しかし実際はごく普通の家庭(都市の小商人,農村の小地主,自作農など)の子弟からの合格者もけっして珍しくはなかった。〈倪煥之の父は両替屋の手代で,のち番頭まで出世したが,生活はむろん余裕などあろうはずはなく,どうやら雨露をしのいでいた。もうこれ以上望みはない,せめて息子だけでも出世させたい。その頃(清朝末期)はまだ科挙という制度のある時代で,科挙に受かって素寒貧(すかんぴん)から一足とびに出世した例が都会地ではいくらもあった。そこで父親は煥之が四,五歳になると,書のうまい,評判のいい私塾の先生を彼につけた。帳付け用の読み書きだけで終らせたくなかったのである〉(葉紹鈞著・竹内好訳《小学教師》第2章)。この主人公は1905年科挙が廃止になったので,結局,革新気運に乗って新しく出現した中学校に行くことになる。
読み書き算盤
 読書人とは,(1)最広義ではもちろん官民を問わず知識人一般を指すが,(2)そのうち民間の読書人はほとんどが科挙受験志望者で,多くはすでに妻帯し何らかの収入の道を講じつつ,つまり社会人として生活しつつ,経書の暗誦,作文・作詩の修練にはげむ。そして根気よく生員の試験を受ける。一生涯受験生というのも珍しくない。この試験は3年間に2回挙行される。(3)生員。府学,州学,県学の学生で,俗に秀才という。生員にパスしたならば科挙の第一関門を通過したわけである。学校の学生とはいうものの,学校は授業や学業をするわけではない。学籍簿の保管,年何回かの試験,ときたま教官の訓話,の場所にすぎない。生員はすでに完成した正真正銘の読書人である。官僚に準ずる身分であることが法的に保証され,みだりに逮捕されず,税制上の優遇その他の特権を受ける。(4)挙人・進士。生員はさらに試験によって挙人,ついには進士にまで進む。生員は任官することはできないが,進士は当然,また挙人ももし任官を望めば,実際に官僚になれる。つまり,(2)は民,(3)は準官,(4)は官の身分に入るわけである。いま便宜上,科挙の第一関門を通過したもの以上,すなわち生員,挙人,進士((3)と(4))の全体を士大夫と考えるならば,挙人,進士への関門ははなはだ狭いから生員はどんどん増加する一方で,生涯を生員のままで終わる者が多く(いわゆる落第秀才),社会においてこの狭義の士大夫の9割方は生員である。もちろん彼らは税制上の特典を受けているが,挙人,進士とちがい官僚となることはできず,したがって順当な致富の道(任官→役得→致富→地主)をもたない。学校よりの給費はあるが生活はきわめて苦しいのがむしろ普通で,塾の経営,住込みの家庭教師,内々で商店の書記,ときには胥吏にまで身をおとすものすらあったらしい。士大夫といえばすぐ経済的社会的な名士,特権を悪らつに利用して官吏と結託し人民を苦しめる土豪劣紳,を連想する。事実またそのような人物はけっして少なくなかった。そもそも彼らが税制上の特権を有していたということ自体,それだけ人民の負担に転嫁されたということであった(旧中国の税制は一県定額制)。地方人民の害虫として郷紳(すぐあとに述べる),生員,胥吏の三者をあげるのは定論であったといってよい。なかでも生員への糾弾はきびしかった。今日の研究は,しかし,生員が概して貧困であったことを明らかにしている。

 これまでのような,一筆抹消的論法では,中国における知識人の意味を見失うことになりはしないであろうか。ベトナムのある歴史家は,旧ベトナムにおける人民と密接に接触する読書士大夫たちと官僚士大夫たちについて,ピープルの儒教とマンダリンの儒教とを区別し,反フランス闘争などにおけるピープルの儒教の役割を強調したが,この区別は中国においても有用なのではないかと思われる。明代の民変(悪役人などへの人民の反抗的騒擾(そうじよう)事件)などの先頭に立ったのは多くは生員であった。民変は実は士変だ,という声のあったゆえんである。従来そのような現象を,いずれに腹に一物ある行動,と知らず知らず官僚-郷紳の立場から,皮肉な眼でながめるのが例であったのは,反省すべきではあるまいか。

挙人,進士は官僚となる。ただし,彼らはあくまで郷里に本宅をおいて税制上その他の特権を享有し,着々土地をふやして大地主となり,質屋その他に出資したりして富をふやす。退官後も特権が保証されて地方に大きな権勢をふるう。その特権,権勢の源泉は当人が官僚であったという事実であるから,その在官時代の辞令は大切な身分証明書であり,犯罪を犯した場合は官に没収される。知県・知府(知事)の最初の〈政務〉は彼らを表敬訪問することである。地方政治の実際は彼らの世論によってきまるとさえいわれる。これがいわゆる郷紳で,そのあくどい連中が土豪劣紳である。土豪劣紳は別として,普通の場合彼らは特権的地主としても慣習的に許容せられた範囲で行動し,慣習的に期待せられた義務を果たす。清朝初期の有名な学者・詩人の朱彝尊(しゆいそん)の乳母は朱氏が4歳のとき朱家を去って結婚したが,干ばつ,蝗害で大飢饉がおこり,たまたま夫も死んだので再び朱家に身を寄せた。ところが朱氏の家は,曾祖父には明朝の内閣大学士を出したほどの代々読書人の名家でありながら,しばしば食事にも事欠くほどの状態であったので,彼女はやがて流涕して辞去した。それから10年の間に5回嫁入りしたが,夫はいつも貧乏人であった。彼女はいつも嘆いた。〈十郎坊ちゃん(朱氏のこと)が早く金持ちになって下さらないかしら。そうすればもうこれ以上,こんな年寄りが嫁にゆかなくてもすむのに〉。郷紳には一族のみならず縁故者一同の熱い期待があつまる。それに答えるのは彼らのまず第一の義務であった。さらにその社会的地位に伴う義務として郷紳は,協議して恒常的もしくは臨時的な慈善事業,橋梁や堤防の修理・改築,争乱時における郷土防衛などの企画や遂行を指導・担当しなければならない。官は税金徴収と裁判など以外,例えば日本の諸藩のごとく殖産をすすめ指導するなどのことはほとんどなく,人民を完全に放っておいたので,〈官は民と疎,士は民と近し,民の官を信ずるは士を信ずるにしかず〉で,人民は郷紳の指導のもとに〈自治〉体制をとらざるをえなかったのである。旧中国がしばしば国家と社会の二重体制と呼ばれるのはこの点を指している。

 同じく士と呼ばれても,日本の徳川時代の武士が城下に集中的に居住せしめられ,上から下まで完全な俸禄生活者で,いったん俸禄を離れるとその日の生活にさえ窮する状態であったが,しかし自国(自藩)を富強にするために職務に精励した,のとは大きな相違である。またこのように郷党に本拠をかまえていることが,〈君臣は義合〉〈義が合しなければ去る〉という儒教の原則と見あうものであったことも指摘するまでもない。忠誠は命がけのものではない。〈君子篤恭にして天下平かなり〉(《中庸》)。郷党において身を修め家を斉(ととの)え,人民の指導者に任じていることで,天下国家の治平に十分貢献しているのである。ちなみに,19世紀前半(太平天国の大反乱以前)で生員,挙人,進士つまり狭義の士大夫の総数110万,前述のごとくその90%,98万が生員,挙人・進士は12万という数字があり,110万の当時の全人口4億に対する比率は0.27%,つまり1万人につき27人,12万のそれは0.025%,つまり10万人につき25人,日本の武士が一般人に対して10%であったのにくらべて,全くの桁ちがいといわねばならぬ。--なお,おことわりしておきたい。実際には買官によって生員相当,挙人・進士相当の地位や官職を手に入れるものも多く(売官),また武官志望者のためのあまり尊敬されぬ武科挙による武生員,武挙人,武進士もあった。上の記述や数字は,それらをすべてひっくるめていることに注意されたい。

士大夫に対して庶民はどうか。まず農民。今日中国人口の80%は農民である。この率は歴史をさかのぼるほど高いであろう。農本主義の国であるから農民は定めし優遇せられたであろうと思われるかもしれないが,事実はそうでなかった。農は国の本,生業の正道である,ゆえに税金も農民から取るのが正道,商業など論ずるに足らず,という論理で,農民に対する税の方がはるかに重かった。小作人の地主への小作料が収穫のほぼ50%,地主・自作農は税を納めるが規定の税率はもっと低く,また安定した率であってそれだけならばそれほど問題はない。農民をくるしめ疲弊せしめたのは,むしろ官僚の恣意的な付加徴収つまり役得であった。窮迫の極,田畑の売り払いは頻繁となる。明・清のころ〈千年の田,八百の主(持主)〉という諺があったという。中国の農村は,とくに先進地域の南方では零細な土地が目まぐるしく売買されたらしい。地主というのも普通,かかる飛び飛びの零細な土地の買いあつめで,したがって小作人といっても,農奴制の目やすとされる経済外強制というものは多くの場合,あまり顕著でなかった。中世的な一円領主といったおもむきではなく,むしろ近世的な光景である。経済外強制がもしあるとすれば,それは国家に対してであった。このように見てくると,少なくとも明・清時代の小作人は,どう考えてもあまり農奴らしくない。国家に対して農奴とはいえるかも知れないが,普通の意味での,つまり領主・農奴的生産様式の時代が封建時代(中世)といわれる場合の農奴には当たらないと考えたほうが穏当であろう。下部構造の面からいっても,旧中国はどうもマルクス主義史学的な意味での封建制ではないように思われる。
小作制度 →地主
 中国の農民において最も注目をひくのは,その爆発力であろう。つまり農民反乱(起義という)の規模の大きさ,はげしさ,頻繁さである。むしろ旗を押したてて百姓一揆,というようなものではない。一王朝を倒すほどの大規模なものとなればまさしく〈農民戦争〉である。漢末の黄巾の乱,唐末の黄巣の乱,元末の朱元璋ら〈群雄〉の乱,明末の李自成の乱,清朝中期の白蓮教の乱太平天国も中国では農民戦争とされている。いずれも王朝の末期に爆発し直接に革命(一王朝を倒し別の王朝をたてること)しないまでも王朝の運命を決定した。朱元璋のごとく,ついに天子の座にのぼり,明王朝をひらいた者もいた(洪武帝)。農民起義→農民戦争は,その直接のきっかけはともかく,ほとんどが自然災害→飢饉を背景におこる。黄巾の乱や白蓮教の乱のごとく農民社会に広がっている秘密結社的宗教が中核となることが多い。明の太祖も明教という秘密宗教のメンバーであった。中国の農村にはこのような〈香を焚いて結盟し夜集まりて暁に散ずる〉秘密宗教結社が無数に存在していたのである(秘密結社)。その教義は〈真空家郷,無生父母〉というふうに仏教と道教との混合であるが,どちらの教団とも関係はなく,それぞれ独自の教名(聞香教,白陽教,八卦教などなど)を名のるが,それぞれのあいだには何の連絡もない。本来メシア主義的要素をふくむものが多いが,さりとて平時けっして反官憲的ではない。しかし官憲は神経をとがらせ,ことに白蓮教系統のものにはきびしかった。--かくて政府軍を相手に各地を転戦して歩くうちに何万,何十万とふくれあがり,その過程で生員,挙人のような知識分子も加わり,組織,綱領が明確となり,ついには政権奪取が目ざされる。しかし農民軍の意識は結局〈天子思想〉を抜け出ることができず,結局は王朝の再生産に終わるのであった。中国の歴史を〈一治一乱〉(孟子)の語で表現することが多いのは,要するにかかる繰りかえし現象を指している。

特権商人,なかでも塩商のこと。その官僚との癒着,文化的貢献,などについては周知のところであるから省略する(塩法)。ここでとくに指摘したいのは町のごく普通の商人,商店主たちの意外な一面のことである。専制政治下の一般商人といえば長いものには巻かれろの典型のように考えられているが,中国の場合,かならずしもそうでないらしい。それは〈罷市(ひし)〉(商売をやめる,の意より同盟閉店)という行動である。罷市は近代では例えば五・四運動,五・三〇運動,国民軍の北伐,人民解放軍の進撃の際など,学生や工場労働者のストライキに呼応して決行されたものが記憶に新しいが,実はこの罷市は古くから存在した。少なくとも明代以後は頻繁に存在した。それも民族の危機というほどの大規模な問題でなくとも,例えば地方官憲の理不尽な暴政に反抗して,郷紳の非人道的な横暴を黙視するに忍びないで,あるいは道理ある民変(民衆暴動)への同情ストとして,大都会でも小都会でも,商人はしばしば罷市を決行した。なかには,前任地で悪名さくさくたる県知事が転任してくるというので一斉に罷市し,県城(県庁所在都市)の城門を閉ざして一歩も入れず,ついに追いかえしてしまったという例さえある。もちろんなかには,名知事の離任を惜しんで罷市,などといううさん臭いのもないではないが,いずれにせよこのような一般商人の政治的(?)意思表示行動というものは,徳川時代にはあまり聞いたことがないように思う。罷市についての研究はほとんど見当たらないので詳しくは語りえないが,ともかく,中国の商人といえば,打算一点ばりでただお上の風向き次第というイメージであるのは再検討を要するのではあるまいか。
商業 →商人

中国の文化は,世界においてもきわだった独自性をもっている。例えば,世界の文明国中,ただ中国だけが表意文字の漢字を使用している。その形の複雑さのゆえに人民共和国では簡体字を制定し,ゆくゆくは拼音(ピンイン)化,つまりローマナイズすることを国是としていたが,最近ではその便利第一主義と口頭語のみを言語として文字を言語要素とみとめないヨーロッパ風言語観とが反省され,漢字全廃論は大幅に後退しているらしい。漢字がすべて表意的に用いられているわけでもない今日,中国の急務はむしろかな式文字の創出ではあるまいか。漢字を素材にした独特の芸術であるところの書法(日本でいう書道)のごときは,東アジア以外の人々にはなかなか理解できにくい芸術であろう。西洋人にわりあい理解しやすいのはおそらく絵画であろうが,しかしそれも中国画に独特なジャンルである水墨画山水画にいたっては(否,彩色画にあっても),単なる絵画の専門家と見られることを極度に嫌悪し,おおよそ描写そのことを心がけない文人画つまり士大夫画(もちろん,描写主義の絵画がないというのではない)というものはなかなかとっつきの悪いもののように聞いている。〈胸中の丘壑(きゆうがく)をえがく〉とか〈気韻生動〉とかいう精神は(胸中丘壑気韻),そう簡単には共感されるものではなかろう。というものは世界各国共通に存在するものではあるけれどもヨーロッパの場合,それは詩人という特殊な天分の文学者の仕事であるのに対して,中国では,少なくとも学問をしたほどの人はすべて原則として詩人なのであり,当人に財力さえあれば,作品は詩集として出版される。唐の詩の作者の数は約2000人,作品として今日残っているもの4万8000,宋では6800人,作品は唐の数倍に達するといわれる(唐詩宋詩)。その詩題も単に雄大な風景に接したとか,またとない感動をうたうとかのみでなく,行住坐臥,日常茶飯,すべてが詩の題材となるのである。吉川幸次郎がかつてアイザヤ・バーリンIsaiah Berlinにこのことを語った際,バーリンは,それでは大文学というものは現れにくいのではないかと疑い,吉川は,それは大文学ということの定義如何による,と答えたということである。種々の点で日本の和歌や俳句の場合と似ているが,ただ詩の場合は古典の教養をふまえた典故の使用という大きな条件がある点が異なる。詩ととは,士大夫の必須のたしなみであり,書法が水準以下であり,詩が人並みに作れて人と応酬できない士大夫というものは,ちょっと考えることができない。今日中国の最高指導者たち,毛沢東,朱徳,陳毅,董必武などがみな自己の詩集をももっているのは,この伝統であろう。文人風気と完全に切れていると思われる周恩来にすら有名な雨中嵐山の詩がある。

これらすべての背景となっているものは,いうまでもなく儒教である。儒教はしばしば中国の国教といわれるが,しかしキリスト教が欧米諸国の国教的地位を占めており,イスラム教がイスラム諸国の国教であるのとはおもむきが異なる。それは,その教義を絶えず説ききかせる聖職者をもたず,教徒がつねに信仰を確かめるための教会をもたず,礼拝の儀式も,官の主催する孔子廟の釈奠(せきてん)の祭りと児童の入塾の際の叩頭礼くらいのほか,ない。他教徒に対してそれを異端邪教として迫害,殺戮したこともないし,国家に対抗して教会として起ちあがり抗争を試みるということもなかった。そもそも自己の教えを宣(の)べ広めようという伝道の熱情というものをまったく欠いている。儒教的人間とは〈学ぶ者〉であって〈信ずる者〉ではない。中国文化は非宗教的文化,中国人は非宗教的,というのは誰がいい出したことかは知らないが,キリスト教やイスラム教,徳川以前の日本仏教などから見たならば,そのような印象を受けることは当然であろう。徹底して儒教主義に立つ科挙試験も,イスラム教徒が受験し,パスし,高官に至る例は,別に希有ではない。ともかく儒教が孔子以来,普通の意味での宗教的色彩というものをほとんど欠いているということは否定すべくもない。に対する儒教徒の感情には,確かにある意味で宗教的なものが認められるし,いわゆる宗廟の祭り(祖先祭祀)も宗教の一種といえないこともない。しかし宋学はそれを合理化することに力を注いできた。現代中国の代表的哲学者・哲学史家馮友蘭(ふうゆうらん)(北京大学)は宋学の伝統に立つことを明確に表明しつつ,人間の〈境界〉として自然境界,功利境界,道徳境界,天地境界の四者をあげ,哲学の使命は人間を最高の境界,天地(と合一する)境界,にみちびくことにあるとしているが,それは道徳境界よりも高次なものでありながら,しかも決定的にラショナルであくまで非宗教的なものであると力説している。ヨーロッパでも日本でも哲学の上には宗教という一層があり,哲学の窮極は宗教に通ずるというふうに説かれることが多いが,その点,馮友蘭の説ははなはだ異色というべきであろう。馮友蘭はコロンビア大学留学生の出身であり,欧米思想とキリスト教に対する理解は決して浅くないはずであるが,しかもその書の中でキリスト教をまるで迷信といわんばかりに論じているところがある。

儒教の大きな特色はその政治主義である。それは儒教と並ぶ思潮である道家(老荘)の主張ときわめて明白な対照をなす。道家においては,国家天下を治めることは,人間最高の課題,道のエッセンスをもってすべき事業,ではない。それは要するに道の残余物,道の塵芥的な部分が適用さるべき分野にすぎない。〈道の真は以て身を修め,その緒余は以て国家を為(おさ)め,その土苴(どしよ)は以て天下を治める〉(荘子)。道家と儒家ではプロセスがいわば逆になっているのである。いかにみごとな詩であっても,国を憂え民を憂えるの情が流露していない作品は,第一流のものとは見なされないであろう。儒教の政治原理は徳である。徳は聖人の経典や先人の事跡,言語を読書して,の心を涵養し,すなわち正しい習俗を実践するところに養成される。儒教は政治主義であると同時に文化主義である。老荘のごとき反文化を理想とするものではない。儒教はしばしば礼(名教)の教えといわれ,礼は人間の自然を抑圧するもの,礼の外面性,ということがことさらに強調せられてきた。徳と礼とを掲げるところ,あるものは偽善のみといわれた。魯迅のいわゆる〈人間を食う名教〉である。毛沢東が人民を苦しめる四つの権力として挙げた政権,族権,神権,女性に対しての夫権も,要するに名教の名のもとに人民を圧迫したのである。たしかに礼・名教は郷紳士大夫の護符の役目を果たしたことは否定できない。キリストの言葉がことごとに領主たちに有利であったのと同様である。しかし儒教は一方において仁を説いており,仁が儒教のいわば魂であることは,儒教の発展とともにますます確認されていった。礼は仁の心に裏打ちされていないとき,単なる外面性に堕する。仁の心をやしない礼を正しい意味において実践する。そこに徳が形成せられる。徳を身につけたものが君子であり,君子が修己治人(己れを修め,人を治める)するところに儒教の真の姿がある。その修己治人の全過程を明確に示したものが,《大学》の〈修身,斉家,治国,平天下〉の4項目(くわしくは格物,致知,誠意,正心,修身,斉家,治国,平天下の8項目)である。その窮極において人間は〈天地の化育を賛け,天地と参になる〉(《中庸》),天地と並立して恥ずかしからぬものとなる,という。このように儒教を簡明に体系化したのは何といっても朱子の功績である。孫文は《大学》の4項目を〈外国の大政治家さえまだ見透していない最も体系的な政治哲学〉と誇っているが,必ずしも単なる自賛ではないと思われる。たしかにそこに見られるのは素朴で安易な連続観であり,道徳と政治との無差別,であろう。しかし,(1)その全過程中にヨーロッパ風の政治哲学では必ずしも重要視されているらしくない家庭(家族)というものが必須の一環として立てられていること,(2)国の上に天下を置き,平天下ではじめて全過程が完結すること,(3)8項目からさらに進んでいえば天地の化育を賛けることが窮極とされていること--ともかく,個人,家族,国家,世界という4項方式で政治を考えようとする試みは,今日やはり吟味に値するのではあるまいか。中国に対してつねにかぶせられる形容句は〈偉大なる文明の伝統〉ということであるが,しかも一方で儒教について何かプラス面を承認することをほとんど恥とするような風が,今日なお,みとめられる。その偉大さは,儒教の抑圧にもかかわらず,それに抗して発揮された人民の創意に基づく文明であったがゆえに偉大であったのか。政治的プロパガンダとしてならばともかく,多少とも冷静に考えるならば,それはあまりに説得性に欠けるであろう。数千年の伝統をもつ大文明が,ひとえに非条理なものに立脚していたと考えるのは,およそ常識に反する。われわれは今日,文明の原理としてのキリスト教やイスラム教を内面から,いわば〈同情〉をもって理解しようとする,それが客観的理解への第一歩であるとする。いまや,儒教に対してもそうすべき時期に来ているのではないか。そしてその場合,儒教もまた歴史的展開を経てきていること,したがって,今後展開さるべきものがまだまだ眠っているかも知れないこと,を忘れるべきではない。
中国思想

中国の家というとすぐ大家族,同一家計下での大共同生活と考えられる傾きがあるが,それはむしろ特殊な場合で,普通は両親,未婚の子供数人,それに祖父母が加わったくらい,が独立家計の家族をなしている。もちろん一村一部落全体が同姓などというのは珍しくないが,それもただ独立の家が集まって村を成しているというのみで,特別に団結力に富むというわけでもなく,何の変哲もないものらしい。ただ,中・上流の場合,旧中国での家族は〈一夫一婦多妾〉制でたちは同じ邸内に住むし,結婚した子供たちが父母や祖父母と同じ屋根の下もしくは同じ郭に住むことが多く,特殊なわずらわしさがある。妾は下流社会から買われることが多いが,決して日蔭者ではない。妻が男児をめぐまれない場合はすすんで妾をすすめるのが美談とされている。ただ妾は正夫人の統制には絶対に服従しなくてはならない。夫人も妾も必ず異姓の人でなくてはならない。ときには正夫人をなかなか娶らず,永らく妾のみの場合もある。有名な大学者で辛亥革命の革命家でもあった章炳麟(太炎)や,日本の陽明学者大塩平八郎(中斎)の場合がそれで,妾とはいうものの事実上,奥さんにほかならないのである。庶出の子も正夫人を生母と同様に尊敬しなくてはならない。科挙その他公式のことでは嫡出庶出を全然問題にしないから,庶出子でも正途(科挙を通過した官僚を正途出身という)によって大官となり名士となった者は数えきれない。子供の教育には,資力があれば家に家庭教師を賓客として寄宿させて行う。一族の貧困家庭の子供はそれに便乗させてもらうことが多い。しからざれば町や村の塾に通わせる。女子には教育を授けないのが原則であり,〈才なきことこそ女の徳〉という諺があったくらいであるが,実際は士大夫の家の夫人には教養ある婦人が珍しくない。父母の権威は大きく,その叱責に際しては子は相当大きくなってもしばしば地にひざまずき,むちを受ける。相続はもちろん長男が家をつぐ(祖先の祭祀をする義務・権利を継承する)が,財産は嫡出と庶出とを問わず男の兄弟全部に均等に分けられる(祭祀のための特別財産は別)。均分相続は上流・下流を問わずはなはだ厳格に,例外なく実行される。それゆえ,相当の名家でも財力を維持しつづけるのは代々の当主のよほどの努力,才覚が必要である。この制度が中国に資本主義のおこるのをさまたげたという説があるほどである。--もちろん,おじ,おば,いとこ,などの親族というものの存在すること,それが何かと家事に口を出すこと,日本と変りはない。普通,中国の大家族といっているものは,(1)前述のごとくそれぞれ家計を異にする近親が同居もしくは近接居住する風習を指すものであるらしいが,(2)しかし同時に指摘すべきは別に宗族というものがあるということである。つまり同一の祖先から分かれた諸家族(なかには相当遠隔地に住むものもいる)の結合組織で,その血縁系統を示す族譜,族約(祭祀の規則,貧困者救済,学資補助,一族に恥辱をもたらした者に対する制裁など)をもち,族長の主催によって定期に祖先祭祀を行い,親睦をはかる。宗族のうち誰かが出世した場合,一族の者から泣きつかれると,万難を排してその面倒を見ることは体面上当然の義務である。筆者はこの(2)の意味での大家族を過度に重く見ることには反対であるが,ともかく儒教には墨子の兼愛に反対して近きより遠きへという愛の差等性を強調する思想があること,それがネポティズムの根拠となっていることを知っておくべきである。康有為や孫文が〈天下を公となす〉(《礼記》)を強調したのは大いに意味があったのである。

たとえば,さきにわれわれは士大夫のモットーは〈己を修め人を治める〉ことであり,官僚には治者の意識のみあって人民のサーバントという意識はなかったといったが,実は,韓愈とつねに併称される唐の柳宗元は早くすでに次のごとくいいきっている。およそ官吏たる者の職は何であるか。〈けだし民の役(民に使役される者)である。民を役する者であるのみではない〉。民が租税を出し〈吏ヲ傭(もち)イテ平ヲ我ニ司ラシム〉,人民の間に不公正が存在しないように官吏を傭(やと)ってその仕事に当たらせているのである。報酬を受けながら仕事を怠る者は,盗みをはたらいているのと同然である。人民が怒り罰しないのは,単に現実の勢力関係によることにすぎない。〈勢ハ同ジカラザルモ理ハ同ジキナリ。吾ガ民ヲ如何ンセン〉。これが孟子の〈民を尊しとなす〉(民ヲ尊シトナス,社稷コレニ次グ,君ハ軽シトナス),の直系であることはいうまでもない。儒教のうちには元来ラジカルな人民主義的伝統があったのである。もちろん孟子にはまた〈大人の事あり,小人の事あり,或る者は心を労し或る者は力を労す。心を労する者は人を治め,力を労する者は人に治めらる。人に治められる者は人を養い,人を治める者は人に養わる。これ天下の通義なり〉という有名な一節があって,まさしく士大夫存在の根拠づけを行っているのであるが,同時にまた人民のための政治をいたるところに主張し,人民をしいたげる天子は天子ではない,誅殺されても仕方がないという(いわゆる〈革命〉)。かかる《孟子》が朱子によって四書の一つに指定され,さらに科挙試験が朱子学を指定学説として以来,《孟子》は士大夫の必読書として言々句々暗記するまでに読まれたのである。明の太祖のごとく拒否反応を示した者もありはしたがそれも一時のことで,君主専制体制というものは,まことに大らかなものであった。おそらく偉大な文明,偉大な思想体系には,相反するものを同時に含んでいるようなところがあるのであろう。わが中江兆民は〈此の(民権自由の)理や漢土に在りても孟軻,柳宗元はやく之を覰破(しよは)せり,欧米の専有に非ざる也〉といい,ルソー,柳宗元を併称しているし,兆民の弟子幸徳秋水ははっきり社会主義者となったのちにも,仏教よりも神道よりも,とりわけ耶蘇教よりも〈予は儒教を好む〉と明言し,かつ自分を社会主義に導いてくれた書物の第一に《孟子》を挙げている。《孟子》の人民主義は君主をみとめているので真の人民主義ではない,民本主義にすぎないという説があるが,納得できない。奴隷制の上に立つアテナイの体制を人は民主主義とよんでいるではないか。

儒教における人民主義のことを述べたが,しかし現実にはそれはぜんぜん実現されなかった。儒教政治では人間を,君・臣・民の3層に区分するうち,儒教の主体的実践が要求されるのは君臣の2層のみであって,民は圏外に置かれていた。官僚(もしくは準官僚)であるということが,〈国の教え〉においても優先したのであり,圧倒的多数を占める人民はただ治められるのみで,人を治めることを説く儒教においては主体ではありえなかった。その最も端的な証拠は年に1度官営でとり行われる孔子のまつり釈奠の礼に参列できるのは生員以上であって,一般人民は参列を許されなかったことである。黄帝が仕立て屋の守護神であり,魯班が大工の守護神であるのと同じ意味で,孔子は士大夫の守護神にすぎないといった人があるが,けっして荒唐の説ではない。清末改革運動のリーダーたる康有為が散砂のごとき中国人民を〈国民〉につくり変えようとして,そのためには,ヨーロッパ列強におけるキリスト教のごとき宗教が必要であると孔教を提唱したとき,彼が痛憤したのは,儒教がこれまで人民を疎外してきたという事実であった。もちろん儒教の側としては弁解の余地はあった。士大夫と民との間には,けっして日本の武士と百姓町人との間におけるごとき生れによる限界があるわけではなく,志を立てて聖賢の書を読み科挙の試験にパスさえすれば何びとといえども士となり臣となることができるたてまえだからである。しかしながら最も遺憾とせざるをえないのは,儒教国家が経典の教えに反して,一般人民の教育に何ら力を尽くさなかったことである。およそ世界の教えのうち,儒教ほど教育を重視したものはあるまい。キリスト教の人間像が信仰者であったとすれば,儒教のそれは〈学者〉,学ぶ者であった。周の盛時,〈王宮,国都より閭巷(りよこう)に至るまで学校あらざることなく,人生まれて八歳なれば王公以下庶民の子弟に至るまで皆小学に入り,十五歳なれば大学に入る〉のが聖人の制度であった。しかるに歴代王朝のしたことといえば,庶民教育のためにはせいぜい義学,社学という公立学校に補助金を出すことくらい,それすら実際にはほとんどなされなかったらしい。

儒教の教理が発展の結果到達したもう一つの成果をあげてみよう。それは仁説である。仁はもともと〈人を愛する〉ことであったが,やがて宋学では〈天地の生生〉の徳の人間における発現とされ,〈万物一体の仁〉が唱えられるにいたった。王守仁(陽明)はいう,井戸に落ちようとする赤ん坊に対する惻隠の情,哀鳴する鳥獣に対する忍びざるの心,草木の枯折に対する憐憫,瓦石の破壊に対する愛惜の情,すべて人間生れつきの〈一体の仁〉の発現である,瓦石ともともと一体なるものでなくて,どうしてあのような愛惜の情がおこりえようか。もちろん,その本意が人間社会における仁の実現の要求にあったことは疑いないが,しかもまた天地の生生の徳の実現たる仁の徳が,生物はもとより無生物にまで及ぶものと主張せられていることは,十分に今日的な意味を有すると思われるのである。筆者は儒教哲学の人類への貢献の最大なものの一つとして,この〈天地万物一体の仁〉の思想をあげたいと思う。

儒教国家としての中国の非常に顕著な特徴は,力もしくは武的なものへの徹底的蔑視である。これはおそらく中国史を貫いて変わることのない特徴であった。政治の原理は力によって圧伏することではなく,徳によって化することである。壮大な理想としては王道主義(覇道)。もちろん現実には軍隊を動かすことは絶えずあった。隋・唐の高句麗遠征,清朝の回部遠征のごとき,侵略といわれてもしかたのないものである。けれども,軍人は文官に対してはつねに一段低いものとせられ,また〈武人は義理を知らず〉というのはほぼ定論であった。義理は,すなわち道義,節操のことである。バートランド・ラッセルはいう,〈徴兵を免れる為にみずから己の肉体を傷つけた青年を詩人が英雄扱いにしたような例は,他のいかなる国にも見られまい〉と。白楽天〈新豊の折臂翁〉の詩を指して言ったのである。

 もっとも,徳の強調,力の蔑視,にはもう一つの面があった。力といえば肉体労働も力である。孟子のいわゆる〈心を労する〉と〈力を労する〉との区別,つまり精神労働と肉体労働の区別,において明白なような労働の蔑視も,読書人社会の現実においては,要するに徳の優越の思想に帰着せしめてよいように思われる。かのばかばかしく長く伸ばした指の爪という士大夫独特の風俗は,まさにこのことを誇示していたのである。法律も徳の反対物としていやしめられる--といって悪ければ,やむをえないもの,政治の補助手段として,しぶしぶ承認されるにすぎない。中国の法律は古くから罪刑法定主義の立場をとって恣意を排しており,ことに明律・清律となると非常に詳備したものであった。〈はじめのころ中国にやって来た西洋人は,中国の裁判によい印象を抱いていた。中国の法律体系が西洋にくらべて遅れるようになったのは,18,19世紀,近代西洋が法律や刑罰の改革を行ってから後のことである〉(フェアバンク)。人を治める官僚としては法律の知識は当然要求されるはずであるが,〈読書万巻,律を読まず〉(蘇軾の詩の一句)というのが,平均的士大夫の心意気であったことは疑いない。そのような実務は,私的な顧問たる幕客にまかせておけばよいことであり,幕客はまた現場で先輩について学んでいったのである。ヨーロッパ中世の大学で,神学部とならんで法学部が早くから設けられていわば看板学部となっていたらしいのとは,大いにちがう。
中国法

儒教が意識的に非宗教的であろうとした教えであることはすでにいったが,しかし,では儒教が最も重視する祖先祭祀は宗教ではないのか。また,国内いたるところの県城に見られた城隍廟,郷賢祠(郷土の偉人たちをまつる)の類はどうか。鬼神(日本語でいうカミ)は陰陽二気の最高の活動形態(鬼神は二気の良能)といえばたしかに合理的な考え方であるが,〈丘(孔子の自称)の禱るや久し〉,儒教の徒はなぜそれに祈るのか。--儒教以外で見ると,もっと明白である。多くの壮麗な仏教の寺院と僧侶,道教の道観と道士,また農民戦争の項でふれた道教仏教混合の民間の無数の秘密結社的宗教(寺というものを持たないで教主や信徒の家にこっそり集まっておつとめをする),孔子,老子,釈迦をいっしょにまつる三教堂。関帝廟にひざまずいて現世利益を哀求する老若男女,山車(だし)がくり出したり芝居がかかったりして盛大をきわめる廟会(びようえ)(縁日)。中国社会はむしろ宗教的現象で満ち満ちていたといってよい。儒教主義官僚の厳格な者はしばしば淫祠邪教の整理を断行したが,すぐまた息をふきかえす。キリスト教徒たちは低級な偶像崇拝,迷信と軽蔑するが,中国にはおよそ宗教戦争とか異端迫害,魔女狩りというきちがいじみたものは存在しなかった。多くの問題の存在することはみとめるが,それはむしろ解決を民衆の教育水準の向上にまつべきもののように思われる。そして,中国における宗教の特徴として,仏教では大乗仏教をとり入れ,その哲学的大展開をなしとげたこと(既述),一方またこれら悟りの宗教と対照的な祈りの宗教,心情の宗教,民衆的宗教として浄土教を生み出したこと,宋以後はほとんど禅と浄土教のみといってよい状態になったこと,しかし一般に僧侶は無学であまり尊敬は受けなかったこと,清末に改革革命運動の志士たちの間に仏学が,心力を強調し衆生救済を説く教えとして,また西洋哲学に対抗しうる組織的な哲学(たとえば唯識)として復興したこと,などを指摘したい。道教研究は戦後急激に開拓されてきた分野で,もちろん道士の専門的修行や儀式などもあるが,むしろ注目したいのは《太上感応篇》などの説く道教的立場よりの倫理説である。徳目など全般に儒教の影響下にあるのは当然であるが,善行悪行を数量化してプラス・マイナスの点数として毎日記録点検して,善にうつることに努めるという功過格の思想は本来道教のものであったという。民衆の内的自己鍛練のための方法として最も重視すべきもので,たとえば商人などをただむき出しの利欲でのみ行動するものと考えるのは早計であろう。そのほか,科学史の方面では,道士の練丹術のための化学実験がとくに注目され,彼らの発見したのが黒色火薬であったこと,そのプロセス,などが確認されたりしている。
道教

本稿の冒頭に中国的なものに対する誤解の例をあげておいたが,いまひとつ,これは誤解といってしまってよいかどうか一抹の疑いは残るが,有名なジョゼフ・ニーダムが紹介している話がある。J.B.ビュアリ《進歩の観念》(1920)には,古代ヨーロッパ人には全然知られていなかった火薬印刷羅針盤を発明したという理由で〈古代人〉に対して〈近代人〉をうまく擁護したルネサンス期のひとたちの議論を評価している個所があるが,これらの発明が実は中国人のものだという脚注すら見当たらない,と。ニーダムはまたいう,〈,印刷術,羅針盤,火薬がなかったら,どうして西洋における封建制度から資本主義への変化が可能であったろうか〉。紙,印刷術,羅針盤,火薬が中国人の四大発明といわれるものであることは,いうまでもない。にもかかわらず,中国では科学が発達しなかったというのが,つい最近までほとんど定説であった。その定説を打破したのは戦後,藪内清,ニーダムの精力的な活動の結果である。かくて,問題は次のごとく立てられるべきであったのである。ヨーロッパに対して一歩もひけをとるものでなかったことが今日しっかり証明されている中国の科学文明は,なぜ近代科学を生み出すことができなかったのか,と。--個々の科学的技術的進歩の成果については省略するとして,今は上の〈なぜ〉の問題を考えてみたい。普通その原因として,(1)中国が極東に偏在して匹敵するほどの強国,文明国を周囲にもたず,したがってそれからの摂取ということもなく,中国が伝統の中に眠りこんでしまっていたこと,(2)儒学一本槍の科挙の試験に人材が殺到したこと,(3)専制主義のもとでは,天子がヨーロッパ科学の吸収を禁止したとあってはいかんともしがたかったこと,(4)元の世界帝国のもとで中国科学文明が高潮に達したあとをうけた明代が,学問衰退の時代であったこと,などなど。(1)(2)(3)については異論はない。しかし(4)については筆者は異なる見解をもっている。それは,明の学問が衰退して空疎だというのは清の考証学の立場からいったことであって,けっして妥当な認定ではないということである。それは考証学者が哲学(代表的には陽明学)や哲学と同時存在的に盛行した実用学を学問でないと非難しているにすぎない。しかし一面またある意味では妥当である。そして,まさに空疎で衰退であったことが,今日の科学史家もみとめている明末における科学書の輩出という事態を招いたのである。明代後期という時代はある現代の学者が,諸子百家の百家争鳴時代の再来,と評したような自由主義の時代であった。通俗歴史書,通俗百科全書,文学鑑賞読本……のような清朝の学者の顔をしかめさせるような書物,李贄(りし)の奔放過激な評論集などがにぎにぎしく出版され,大歓迎をうけていた。現に科学史家も承認しているように,薬物学の李時珍《本草綱目》,生産技術百科全書たる宋応星《天工開物》,探検地理学の徐宏祖《徐霞客遊記》,造園学の計成《園冶(えんや)》,軍事学の戚継光《紀効新書》,茅元儀《武備志》のごとき,実際的研究の書もこの時代に続出しているのである。それらはすべて清朝の学者の仕事のような精密な古典研究ではない。清朝にはみることのできないような型の書物である。古典を引用しても,すこぶるあらっぽい。いいかげんなところでちょん切って意味不明にしたりしている。その背景に商工業の発展を考えることも,ヨーロッパ耶蘇会士たちのもちこんだ西欧科学の刺激を考えることもできるであろう。要するに中国科学を衰退せしめたのは,文字の獄に象徴されるような清朝の士大夫弾圧政策に萎縮して,ただひたすら高度に精密にして科学的な古典研究の一路に逃げこんでしまった清朝の学者の責任,彼らの格物致知放棄の責任,であったのである。筆者の中国論は,この指摘をもってしめくくることにしたい。
中国科学
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国」の意味・わかりやすい解説

中国
ちゅうごく
China

正式名称 中華人民共和国 Zhonghua Renmin Gongheguo。
面積 957万2900km2(台湾,ホンコン特別行政区マカオ特別行政区などを除く)。
人口 14億1668万7000(2021推計)。
首都 ペキン(北京)直轄市

アジア大陸の東部にある国。中国共産党が指導する社会主義国。東は太平洋北西部の縁海に接し,西はアジア大陸中部のパミール高原に及ぶ。また北はロシアのシベリア,南は東南アジアのベトナムやミャンマーに接する。22省,5自治区と,ペキン直轄市,テンチン(天津)直轄市シャンハイ(上海)直轄市チョンチン(重慶)直轄市の 4直轄市に分かれる。タイワン(台湾)中国国民党政府の統治下にある。地形は標高によって三つに区分できる。最も高いのは南西部を占めるチベット高原で,平均標高は 4000mをこえる。次いで標高 1000~2000mの高原,盆地,山地がある。北西部のタリム(塔里木)盆地ジュンガル(準噶爾)盆地,北部を東西に延びる内モンゴル(蒙古)高原,中部に南北に並ぶホワントー(黄土)高原チンリン(秦嶺)山地ユンクイ(雲貴)高原である。スーチョワン(四川)盆地はこの中部山間にあるが,標高 300~600mである。その東に平均標高 500m以下の山地,丘陵と,標高 200m以下の平原がある。北からトンペイ(東北)平原ホワン(黄)河の沖積地を中心とするホワペイ(華北)平原チャン(長)江中・下流平原,トンナン(東南)丘陵で,海岸には大小の三角州が連なっている。年平均気温は熱帯のハイナン(海南)島では 25℃,亜寒帯のヘイロンチヤン(黒竜江)省では-5℃である。年降水量は南部の沿海では 1500mmをこえるが,内陸のタリム盆地では 50mm以下である。冬季は南北の温度差が大きいが,季節風が卓越しているために夏季は全般に高温となり,降水も夏季に多い。チンリン山地とホワイ(淮)河を結ぶ線は 1月の平均気温が 0℃で,中国の植生を南北に分ける。以北はコムギを中心とする畑作地域で,以南は水稲を中心とし,二期作や二毛作が普及している。内モンゴル高原とチベット高原は牧畜を主産業とし,ジュンガル盆地とタリム盆地では牧畜と灌漑農業が行なわれる。地下資源の開発と工業化も進み,多くの省に重工業都市や総合工業都市が生まれ,旧来の鉱山や新しく開発された鉱山を中心に新興工業都市も建設された。また各県,各郷政府ごとに,農業の発展を支える小型工場や農畜産物の加工工場の建設が進んだ。1978年に打ち出された改革と開放政策のもと,近代化と外資の導入がはかられ,近年ではコンピュータや電気機器,衣服,化学などの工業が盛ん(→社会主義市場経済論)。2010年には国内総生産 GDPが日本を上回り,アメリカ合衆国に次ぐ世界第2位の経済大国となった。定期航空路が全省都を結ぶ。住民は 90%以上を占める漢民族と 50以上の少数民族からなる。モンゴル族,ホイ(回)族,チベット族,ウイグル族,チワン(壮)族の自治区があるほか,各省にも少数民族の自治州や自治県が設けられる。仏教,キリスト教,イスラム教のほか,民間宗教や伝統信仰の信者がいるが,無宗教も多い。(→中国史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「中国」の解説

中国(ちゅうごく)
Zhongguo

中国とは世界の中央を意味する。中華,中原,中土などとともに古代に漢族がみずからの居住地に与えた美称であり,その周辺を取り巻く非漢族の居住地と区別する概念として用いられた。当初その実態的範囲は黄河中・下流域に限られていたが,後世,漢族の居住世界が広がるにつれて歴代王朝の支配が及ぶ地域全体をさすようになった。現在は中華人民共和国の国名の略称,もしくは台湾を含めた地域全体を意味する用語,さらにはあるまとまった世界といった抽象概念として使われることが多い。実態的な中国,すなわち中華人民共和国は面積ではロシア,カナダに次ぐ世界第3位,ほぼヨーロッパ大陸の広さに相当し,その多様な自然環境に育まれた豊かな資源は,早期に築かれた高度文明のさらなる発展を促してきた。今日確認できる最初の王朝は殷(いん)(前16世紀頃)であり,秦漢帝国の古代統一国家をへて,その後あまたの王朝が興亡を繰り返した。そして18世紀には清朝のもとに政治的にも経済的にも最も繁栄した時代を迎え,名実ともに東アジアにおける中心となった。19世紀後半,アヘン戦争による敗北,それに続く半植民地化を強いられた中国は現実との矛盾を認識することが容易ではなく,近代化の改革に失敗したため,20世紀に入るとさらに劣悪な状況に追い込まれた。しかし1949年,中国共産党の指導のもとに再び統一を実現し,「中国」を回復した。現在の中国は外モンゴル(現在のモンゴル国)を除いてほぼ清朝の領土を継承している。ところで日本で中国を呼ぶ場合,王朝名以外では「から」「もろこし」などを用いたが,江戸末期より「支那(しな)」を使い出し,日清戦争後それを一種の蔑称として用いるようになった。「支那」は一説によればChin(秦)の転訛が語源とされるが,中国では本来使われなかった称号であったため,日中関係の悪化に伴い日本がそう呼ぶことに中国は強く反発した。

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普及版 字通 「中国」の読み・字形・画数・意味

【中国】ちゆうごく

国都のうち。また、中つ国。外国に対していう。〔書、梓材〕先王めてを用ひ、~庶丕(おほ)いに享(う)く。皇天に中國の民と、厥(そ)の疆土とを先王に付したまへり。

字通「中」の項目を見る

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百科事典マイペディア 「中国」の意味・わかりやすい解説

中国【ちゅうごく】

アジア大陸東部を占める地域で,現在の中華人民共和国に至るまでの国家の通称。夏・華・華夏・中華・中州・中朝・中原などの別称をもつ。歴史的には黄河中・下流域に興り,漢族の伸展に伴い拡大した文化地域全体をさす。西域諸国,インド,ヨーロッパなどでは,セリカ,シン,チン,キタイ,カタイ,チナ,シナなど,日本では〈から〉〈もろこし〉〈支那〉などと呼ばれた。世界最古の文明発祥地の一つ。→中華思想
→関連項目セレス

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世界大百科事典(旧版)内の中国の言及

【国】より

…次に〈国〉の成立について述べる。
[成立]
 中国の《漢書》《後漢書》《魏志》などは原始村落が地域的にまとまった政治集団を,例えば対馬国,末盧国などのように〈国〉と称した。そして有力な首長がさらにいくつかの〈国〉を統属したのが,邪馬台国配下の政治連合をはじめとする各地のいわゆる地域政権であった。…

【中国象棋】より

…室内遊戯の一種。インドから伝わり,漢代には3人でさす形式のものもあったが,遅くとも13世紀には現在の中国象棋の型が完成した。敵味方32枚の駒を使用する。…

【リヒトホーフェン】より

…カールスルーエの貴族の家柄に生まれる。当初は地質学者としてアルプスやカルパチ山脈の地質調査に従事していたが,1860年より中国を中心とした東アジアの調査に参加,その成果を《中国》全5巻(1877‐1912)の大著にあらわした。帰国後,ボン大学(1877‐83),ライプチヒ大学(1883‐86),ベルリン大学(1886‐1905)の地理学講座を主催し,近代地理学の発展に大きな影響を与えた。…

【夏】より

…中国古代の王朝名。始祖禹は黄帝の子孫といわれ,帝舜のとき,中国を襲った大洪水を,13年かけて治めることに成功し,舜から帝位を譲られ,夏后と称した。…

【夏】より

…中国,五胡十六国の一つ。407‐431年。…

【大航海時代】より

…1480年ころにはギニア海岸のエルミナに城が建設され,黄金,象牙,奴隷貿易の拠点となった。 81年ころジェノバ人コロンブスがポルトガルの宮廷に現れ,西回りで中国や黄金の国ジパングに到達できると主張し,自らその航海を実行したいと提案した。ジョアン2世は彼の提案を現実性なしとして却下したが,のちにマルコ・ポーロの《東方見聞録》を読んでコロンブスの提案を再評価し,彼をスペインから呼び戻そうとした。…

【中華思想】より

…中国人が古くから持ち続けてきた民族的自負の思想。黄河の中流域で農耕を営んでいた漢民族は,その文化が発達した西周ごろから,四隣の遊牧的な異民族に対して,しだいに優越意識をいだくようになった。…

※「中国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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