中居屋重兵衛(読み)なかいやじゅうべえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中居屋重兵衛」の意味・わかりやすい解説

中居屋重兵衛
なかいやじゅうべえ
(1820―1861)

幕末の横浜貿易商人。上野(こうずけ)国吾妻(あがつま)郡中居村(群馬県嬬恋(つまごい)村三原)出身。本姓黒岩撰之助(せんのすけ)。中居屋重兵衛は商号。家産の没落から江戸に出て書店和泉(いずみ)屋に寄寓(きぐう)するかたわら学者と交わって洋学、火薬製法などを学び、白根(しらね)産の硫黄(いおう)を扱って火薬を製し産をなしたという。安政(あんせい)開港にあたり、いち早く横浜に進出、本町四丁目に500坪近い店舗を開いて生糸、茶、石炭などの貿易に従事した。生糸取引の草分けといわれる。その終末は不詳であるが、尊王派を支援して幕府嫌疑を受け、財産も没収されたという。著書に『集要砲薬新書』(1855)がある。墓は嬬恋村と東京都文京区還国寺にある。

[山田武麿]

『萩原進著『中居屋重兵衛』(1978・有隣堂)』

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朝日日本歴史人物事典 「中居屋重兵衛」の解説

中居屋重兵衛

没年:文久1.8(1861)
生年:文政3(1820)
幕末の生糸輸出商人。幸右衛門の子。上野国(群馬県)吾妻郡中居村の出身。通称は撰之助。江戸に出て林鶴梁 の門に入る。和薬,絹,木綿の販売に従事する。その後上野国白根産硫黄を用いて火薬の製造に当たり産をなした。開港後横浜に出て店を出し,生糸を中心とする輸出貿易に売込商として参加し,上州絹を海外に広めた。幕府の生糸輸出制限令に違反したかどで捕らえられ牢死した。尊王家の出入りも多かった。<参考文献>佐々木杜太郎『開国の先覚者中居屋重兵衛』,荻原進『炎の生糸商中居屋重兵衛』

(武野要子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中居屋重兵衛」の解説

中居屋重兵衛 なかいや-じゅうべえ

1820-1861 幕末の貿易商。
文政3年3月生まれ。江戸で林鶴梁(かくりょう)にまなぶ。のち火薬製法などをおさめ,郷里上野(こうずけ)(群馬県)の白根山の硫黄(いおう)で火薬を製造して財産をきずく。安政6年横浜にうつり,上州生糸を輸出し巨利をえたが,幕府の生糸輸出制限令に違反し捕らえられ,文久元年8月2日獄死。42歳。尊攘(そんじょう)派を支援したといわれる。姓は黒岩。通称は撰之助。著作に「集要砲薬新書」。
【格言など】利を以て利と為さず,義を以て利と為す(信条)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の中居屋重兵衛の言及

【上野国】より

…糸価は維新までに約6倍に暴騰し,伝統の蚕糸業界はにわかに活況を呈した。いち早く横浜に進出する貿易商人も十指をこえたが,その先鞭をつけた中居屋重兵衛,のち業界に君臨した茂木惣兵衛などはその代表である。前橋藩も幕末から領内生糸の統制にのり出し,1869年(明治2)藩営直売所を横浜に設け,翌年洋式器械製糸所を前橋に開設した。…

※「中居屋重兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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