中島来章(読み)なかじま・らいしょう

朝日日本歴史人物事典 「中島来章」の解説

中島来章

没年:明治4.7.15(1871.8.30)
生年:寛政8(1796)
幕末・明治初期の画家近江国(滋賀県)大津の人。字は子慶。号は鶴江堂,神通堂,春分斎など。初め渡辺南岳に画を学び,のちに円山応瑞弟子となった。幕末期最大の円山派画家となり,門下より幸野楳嶺を生んだ。代表作に安政の御所造営の時御常御殿御小座敷上の間に描いた「蘆辺に鶴図」や「大原女・鶏図衝立」(大阪市立美術館蔵)がある。76歳で没し,京都の光縁寺に葬られた。<参考文献>土居次義『近世日本絵画の研究』,京都市美術館『京都画壇』

(河野元昭)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中島来章」の解説

中島来章 なかじま-らいしょう

1796-1871 江戸後期-明治時代の画家。
寛政8年生まれ。渡辺南岳(なんがく)にまなび,のち円山応瑞(おうずい)の門にはいる。幕末の円山派の大家で,山水・人物・花鳥画をよくした。横山清暉(せいき),岸連山,塩川文麟(ぶんりん)とともに平安四名家と称された。門下に幸野楳嶺(ばいれい)ら。明治4年7月15日死去。76歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。字(あざな)は子慶。別号に〓(「冬」の右に「鳥」)江,通神堂,春分斎。

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世界大百科事典(旧版)内の中島来章の言及

【円山四条派】より

… 円山四条派は以後も命脈を保ち,近代日本画の確立に大きな役割を果たした。幕末期活躍した画家に円山派の中島来章(1796‐1871)と四条派の塩川文麟(1808‐77)があり,前者の門に川端玉章が現れ,両者に学んだ幸野楳嶺(ばいれい)(1844‐95)は創作とともに教育に力を尽くし,その門から菊池芳文(1862‐1918),三宅呉嶠(ごきよう)(1864‐1919),竹内栖鳳,谷口香嶠(こうきよう)(1864‐1915)ら逸材が輩出した。円山派の森寛斎(1814‐94)や鈴木百年(1825‐91)・松年(1849‐1918)父子も幕末明治期京都画壇の大家として活躍した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」