映画監督。代表作に傑作として名高い《東海道四谷怪談》(1959)があり,ほかにも《怪異宇都宮釣天井》(1956),《怪談累が淵》(1957),《地獄》(1960)など,怪談映画の秀作をいくつも撮っているため,一般には怪談映画の名手として知られる。しかし,約50年の監督歴における97本の作品は実に多種多彩である。出世作《東海の顔役》(1935)をはじめ,《伊太八縞》(1938),《若様侍捕物帳・謎の能面屋敷》(1950),《右門捕物帖・片眼の狼》《旗本退屈男・唐人街の鬼》(ともに1951),《八百万石に挑む男》(1961)など,時代劇がもっとも多いが,《エノケンの頑張り戦術》(1939),《エノケンのとび助冒険旅行》(1949)などのエノケン喜劇,《虞美人草》(1941),《夏目漱石の三四郎》(1955)などの文芸映画,《私刑(リンチ)》(1949)などの犯罪映画,《高原の駅よさようなら》(1951)などの歌謡メロドロマ,《思春の泉》(1953)などの青春映画,《“粘土のお面”より・かあちゃん》(1961)などの生活ドラマ,《妖艶毒婦伝・人斬りお勝》《さくら盃・義兄弟》(ともに1968)などのやくざ映画というふうに,その作品史は日本映画のあらゆるジャンルにわたっている。典型的なプログラム・ピクチャー(映画館の毎週のプログラムを埋めるために連続的につくられた映画)の監督であり,何でもみごとにこなした職人監督であった。神戸市の生れ。1929年マキノ映画の助監督になり,34年市川右太衛門プロから《弓矢八幡剣》で監督としてデビューしたあと,東宝,中華電影,新東宝,東映の各社を転々とした。この間の映画経験,人生経験の厚みが,映画づくりの職人芸のなかで人間の心の深奥を鋭くやさしく見つめる態度として,いずれの作品にも抒情的に,あるいはうら悲しいトーンになって現れているが,それが独自の美の形で一段と輝いた作品が,数々の怪談映画であるといえよう。1982年には《怪異談・生きてゐる小平次》をつくって,77歳の現役監督の若々しさを示したが,あたかも怪談映画の名手という世評に殉じるかのごとく,これが遺作となった。
執筆者:山根 貞男
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昭和期の映画監督
昭和・平成期の評論家
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…ただし両作品とも,現存するのは多くのギャグや芸の見せ場をカットされた短縮版で,とりわけ後者の〈釜いりの刑脱出〉のくだりの欠除は惜しい。むしろ,完全に残っている中川信夫監督の《エノケンの頑張り戦術》(1939)の,にせあんまエノケンと客の如月寛多のマッサージからレスリングもどきにエスカレートするどたばたを,長回しで撮ったしつっこいおかしさに舞台の味がうかがわれる。ほかに,長谷川一夫と共演したマキノ正博(雅弘)監督の《待って居た男》(1942)や,敗戦前後に作られた黒沢明監督の《虎の尾を踏む男達》(1952公開)などに,異色の役どころで好演。…
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[日本の怪奇映画]
日本の場合は,怪奇映画というよりも,被害者の怨念が,加害者(個人)やときにはその血縁者にとりつく〈怪談映画〉が主流を占め,同じたたりでも,のろわれた場所へ入りこんだ人々が恐怖を体験する欧米型(ロバート・ワイズ監督《たたり》1963,ジョン・ハフ監督《ヘルハウス》1973,など)とは対照的である。その〈怨念〉の伝統は,戦前の鈴木澄子,戦後の入江たか子主演の〈化猫〉映画から続いているが,そうした中から,溝口健二監督の《雨月物語》(1953),中川信夫監督の《東海道四谷怪談》(1959),《怪談牡丹灯籠》(1970,テレビ作品),加藤泰監督の《怪談お岩の亡霊》(1961)などが生まれた。とりわけ,中川信夫監督の《地獄》(1960)は,日本には珍しく心理的要素の濃い怪奇幻想劇である。…
※「中川信夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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