朝日日本歴史人物事典 「中村歌右衛門(3代)」の解説
中村歌右衛門(3代)
生年:安永7(1778)
江戸中期の歌舞伎役者兼作者。本名大関市兵衛。俳名芝翫。屋号加賀屋。作者名は金沢竜玉。幼名は中村福之助。初代歌右衛門の子。2代目はその門人中村東蔵が継いだが短期間で返名。福之助は子供芝居でその才能を示し,14歳の寛政3(1791)年に3代目歌右衛門を襲名,敵役として活躍した。「忠臣蔵」の定九郎,「五大力」の弥助,「隅田川」の法界坊などで高い評価を受けた。同12年より立役に転じ,先輩の美男役者2代目嵐吉三郎の人気に急迫した。声や背丈,容貌には恵まれなかったが,演技力は抜群で,所作事,実事また女形もよくし,時代物も世話物もこなした。芸域がきわめて広く,兼ねる役者と呼ばれた。 文化5(1808)年はじめて江戸下りして中村座に出演,江戸の名優3代目坂東三津五郎と競って劇界を沸かせ,江戸の人気を二分した。その後2回江戸下りし,三都を通じて最大の役者となる。文政4(1821)年吉三郎が没し,上方は歌右衛門の独り舞台となる。同年三津五郎が上坂,「廓文章」の夕霧,伊左衛門2役毎日替わりの競演など,多くの名舞台を残した。芸熱心で寝食を忘れて演技に工夫をこらし,創始した演技の型のうち後世に伝えられたものが多い。他に当たり役は「猿曵門出諷」の与次郎,「けいせい染分総」のたばこ切三吉,「木下蔭狭間合戦」の五右衛門,「一の谷嫩軍記」の熊谷など。また変化舞踊も得意とした。文政8年に一世一代(引退)の興行をしたがすぐに復帰。評判記の位付けは同10年に無類,天保3(1832)年に古今無類総芸頭と高位をきわめた。このころから病気がちとなり,同6年2代目芝翫に名前を譲って玉助と改名,3年後に没した。浜松歌国の協力を得て金沢竜玉の名で書いた台本はほとんどが旧作の補綴だが,派手で変化に富み観客にはうけた。熱心な贔屓連中を持っていたので,『芝翫節用百戯通』など歌右衛門関係の出版物は多い。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』,守随憲治『歌舞伎序説』
(松平進)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報