英語のMiddle Eastまたはフランス語のMoyen orientなどの地域概念に相応する訳語。東はアフガニスタン,イランから西はモロッコなど北アフリカの大西洋岸まで,北はトルコから南はアラビア半島全域ないしアフリカの角やスーダン,サハラ地域までを包含する地域を指す。その範囲は必ずしも一定しているわけではなく,拡張されたり収縮したりする。中東に含められたり,そこからはずされたりするのは,エリトリアからアフリカの角と呼ばれるジブチ,ソマリア,大西洋に面しモロッコより南の西サハラ,モーリタニアである。地中海上のキプロスは,ギリシアと深い関係をもつにもかかわらず中東に含められるが,他方マルタは,リビアとの関係を度外視することができないが,中東に含められることはほとんどない。
地域概念としての〈中東〉が独立に,かつ広く用いられるようになったのは,第2次世界大戦後のことである。それ以前には,19世紀に東方問題の展開の中で生み出された地域概念である〈近東Near East〉ないしは〈中近東Near and Middle East〉が頻用されていた。近東および中近東は,主として,オスマン帝国ならびにカージャール朝国家の領域を指し,したがってヨーロッパ的語法からすれば,〈トルコ帝国〉ならびに〈ペルシア〉にあたるものであった。それゆえ,近東あるいは中近東の範囲は,バルカン,アナトリア,歴史的シリア(シャーム),エジプト,ヒジャーズ,イラン高原などを包括していた。〈近東〉〈中近東〉は〈極東〉に対置される概念で,それぞれヨーロッパの側から見た〈東方〉の一区分であり,すでにイギリスの手に落ちたインド亜大陸をはさんでその両側に形成された列強間の利害の交錯する紛争地域として認識されたものであった。
これに対し,〈中東〉という地域概念における〈東〉は冷戦的東西対立などという場合のそれであり,中東は,資本主義・社会主義両体制間の競合地域として,あるいは社会主義への転化の〈危険〉をはらむ問題地域として,自らを〈西〉と考えるものの側で生み出した戦略論的地域設定であり,働きかけるべき対象地域の枠付けであるといえよう。ただし,外側から中東と規定された地域に属する人々の側でも,そのような枠付けに主体的に対抗しようとする意識をもこめて,自分たちの地域を中東(アラビア語ではシャルク・アルアウサトal-Sharq al-Awsaṭ)と呼ぶこともある。近東あるいは中近東と中東とがおのおの指示する範囲において大きなずれが見られるのは,中近東には含まれたバルカンが中東には含まれないで,中近東には含まれなかったマグリブとアラビア半島(ヒジャーズを除く)とが中東に含まれることである。
〈乾燥地域〉とか〈イスラム圏〉といった概括が,中東の風土や伝統の特徴を言いあてている面のあることは否定できないが,しかし面積において日本の40倍もの空間を占め,北海道からマレーシアまでの広がりに相当する南北の緯度差をもつ中東は,また世界の屋根パミール高原から標高-400mの死海の谷(ヨルダン地溝帯)にまで至る自然環境の多様性を呈しており,また社会や文化もイスラムという宗教によってだけ割り切れるような単純なものではない。確かにイスラムという宗教を生み出し,メッカとメディナ,すなわちハラマイン(二聖都)をもつ中東は,東南アジア,中国,中央アジア,インド亜大陸,アフリカ大陸,さらにバルカンの一部にまで広がるイスラム世界の中心ではあるが,そこには後述するように,ユダヤ教,キリスト教,さらにゾロアスター教など他の宗教に属する諸集団も存在している。また言語をはじめ文化の面でも著しい多様性が認められる。
現在の中東の二億数千万の住民を区分する場合に,重要な手がかりとされるものは言語生活である。この基準に従って,中東の人々の基幹的3文化要素は,(1)アラブ的,(2)イラン的,(3)トルコ的というように分けられる。(1)はアラビア語(セム語系)生活者,(2)はペルシア語(インド・ヨーロッパ語系)生活者,(3)はトルコ語(アルタイ語系)生活者によって担われているが,このような分類は国籍や人種・民族などと一致するものではない。また多重言語生活が展開し得ていることにより,上記の三つにも相互浸透的な局面があることが認められる。たとえば,イランでは(2)のうちに(1)や(3)の要素が包含されているし,アラブ湾岸諸国には(2)の要素も存在する。しかしあえておおづかみに色分けすれば,イラン,アフガニスタンは(2)を,トルコは(3)を代表し,その他の国々(アラブ諸国)は(1)に属するといってもよい。中東の人口において,アラブ対非アラブの比はほぼ3:2である。中東においてはこうして,言語が人々を結びつける基本的なきずなと考えられている。意味が共有されコミュニケーションの場が成立することに基づいて,人々の集団意識とアイデンティティとが形成される。それは同時に,国などの枠をとり払ったひとつの地域を自分の世界として実現することでもある。たとえば,エジプト人は,イラクやクウェートやアブ・ダビーにでも,アルジェリアやモロッコにでも,アラブとして自在に働きに出かけることができる。
7世紀以降イスラムの拡大とともに,まずイスラム化が進行し定着した地域が今日の中東にあたるが,イスラム化とともにコーランの言葉であるアラビア語が支配的となった(アラブ化)所がアラブ地域であり,イスラム化にかかわらずアラブ化しなかった所が非アラブ地域なのである。
イスラムは,預言者の系譜すなわち啓示の歴史の中に自らの位置を認め,ムスリムのコミュニティ(ウンマ)は他の宗教の諸コミュニティ(ミッラ)との間で平和・安全保障の契約関係をとり結ぶことによって共存しようとしたから,イスラムの拡大と優位が,むしろ他の宗教が生き続ける条件付けとなった。ウンマと諸ミッラの関係がイスラム国家の構造における基軸だったのである(ミッレト制)。イスラムが広く受容され,中東でムスリムが圧倒的多数を占めるようになってからも,他宗教の諸コミュニティは,アラブ化あるいはイラン化あるいはトルコ化を遂げつつも,自らの社会の伝統と自主性とをかなりの程度保持し続けることができた。それゆえ中東では,人間の社会的座標を測るひとつの重要な尺度としては,彼または彼女がいかなる宗教に帰属し,いかなる宗派コミュニティに帰属するかということがたえず問題とされることとなった。
今日,中東に存在する宗教・宗派は表のごとくである。表の中の十二イマーム派がイラン,イラク,アラブ湾岸諸国,南レバノン,ドルーズ派がレバノン,シリア,イスラエル,アラウィー派がシリア,ザイド派がイエメン,イバード派がオマーンに多く見られるように,宗派が特定の地域と結びついていることもある。人々の帰属意識において,宗派とは次元を異にするが,スーフィー教団(たとえばナクシュバンディー教団とか,メウレウィー教団とか,アフマディー教団など)への所属が問題となることもあり,またスンナ派にあっては,いかなる法学派(マズハブ)に従うかが問題になることもある。
中東には,ときにマイノリティ(少数民)と見られることもある多種のエスニック集団が存在する。それらは特定の地方においては決して少数者でなく,むしろ多数派であることもある。これらの集団は,歴史の中で,言語,宗教,習俗,出身地,生業,生活拠点または地域などを媒介として,外的な規制により,あるいはまた内的な結束により形成されてきたものである。たとえば,イラン,イラク,シリア,トルコ,旧ソ連などにまたがって存在するクルドや,マグリブ諸国の社会の中に包摂されているベルベルなどがそれである。アゼルバイジャン人(アーゼリー),クルド,アラブ,タジク,ウズベク,トルクメン,パシュトゥーン,バルーチ,アルメニア人など多様な集団をかかえるイランは,それゆえある種の多民族国家として眺めることもできる。シオニズム運動に伴ってパレスティナに成立したユダヤ人社会も,その内部に,出自や宗教的・文化的伝統に基づいて,アシュケナジム(ヨーロッパ系)とセファルディム(東洋系)の対立が生じている。前述のクルドやユダヤ人の例のみならず,キプロスのギリシア人,旧ソ連時代に共和国をもつとともに世界に散っているアルメニア人,イラン,アフガニスタンとパキスタンとにまたがって住むパシュトゥーンやバルーチ,南部スーダンが擁するブラック・アフリカ的で非アラブ的・非ムスリム的住民等々,中東のエスニック集団は中東の枠組みをも超え出るものなのである。
中東では,エスニック集団のみならず,一般に族的結合が強く呈示されることがある。サウジアラビアをはじめアラビア半島において,それは顕著であるが,イランでも,その近代史においてバフティヤーリー族やカシュガーイー族などの集団の活動が目だった。しかし,外側から一般に固定的な,あるいは運命的な〈部族〉として認識されている族的結合は,成員たちが特定の共通の先祖につらなると考える一種の子孫共同体であって,それは異なったレベルに拡張したり縮小したりする多重構成の家族の一階梯にすぎず,しかもそれは成員たちにとって,あるいは個人にとって自らの社会的あり方を選び取る主体的選択にかかわる事がらなのである。家族を縮小していけば個人に収斂し,拡張していけば〈アダムの子孫たち〉すなわち人類となる。家族はこの意味で個人と人類との間にあって可変的なものであり,またそのために,社会的統合の基礎なのである。1948年イスラエル国家成立に前後してはじまったパレスティナ人の離散の悲劇性は,単に国土からの追放という事態のみならず,家族の切断・解体にもよるものだったといわなければならない。しかし,今日パレスティナ人が再建しつつある家族は,国を超え出た規模のものであり,家族の結合の場は国家が占める地理的空間より広いものとなっている。
以上の要約として,中東では,人々は言語・宗教の面をはじめ著しく多元的なアイデンティティ複合をかかえつつ,鋭く政治化された生き方を生きているといえよう。さまざまな社会的あり方の組合せの中から,状況に応じて人々は自らのあり方を選び分けるのである。人間としてのあり方にかかわるあまたの選択肢が人々の内面に埋め込まれている,といってもよい。第1次世界大戦を通じてオスマン帝国やカージャール朝国家が解体し,イギリス,フランスによって今日の中東の諸国体制の原型がつくられたことにより,現代中東の国家システムは外的にしつらえられた装置としての性格が強い。そのため,ある国家への帰属意識はしばしばアイデンティティ選択における消極的・受動的局面であることにもなる。レバノン国民であるよりはフェニキア人の子孫だということ(フェニキア主義),あるいはシリア人(シャームの人,シャーミー)だということが強調されたり,エジプト人(ミスリー)ではあっても上エジプトの人(サイーディー)としての生活感覚がより重視されたりする。アラブとしての立場(ウルーバ)に力点を置くアラブ民族主義やイスラム共同体(ウンマ)の結束と内的変革とを志向するイスラム主義などは,それぞれに中東の諸国体制を打破しようとする立場をあらわしている。中東の諸社会は,異なった担い手たちが築いたそれぞれに誇るべき輝かしい時代の累積する重層的過去を背負っているので,歴史認識がアイデンティティ選択の重要な動機付けともなれば,またその結果ともなる。現代政治における立場と態度の選択において,ヒッタイトの活動が,古代イランが,バビロンの栄華が,フェニキア人都市が,ファラオ時代が,ヘレニズムが,シリア語文化が,将軍ハンニバルが,メディナのウンマが,バグダードの繁栄が,サラーフ・アッディーン(サラディン)の栄光が,記念されるのである。中東においては固定的な民族分類などは不可能で,民族的立場の形成と獲得が交錯している。このような状況は,人類最古の諸文明を生み出し,また文明の十字路であり続けた中東が,歴史的に地域全体の特質として帯びてきた都市性に由来するものであり,中東の社会・文化が担っている都市的・商業的性格に注目すべきである。
中東の域内にグローバルな国際対立がもちこまれ,域内諸国の間で戦争が発生するだけでなく,宗派対立やエスニシティ問題など社会的・文化的紛争が激化するという中東問題の構造は,スエズ運河や石油に象徴されるこの地域の戦略的枢要性によってのみ説明されることではない。むしろ,この地域がそもそも人類意識をはぐくんだ普遍主義的諸宗教の土壌であり,エルサレムやメッカなど,それら諸宗教の聖地をかかえているということに注目すべきである。中東問題の世界化の根源は中東に発した諸宗教の普遍化にある。十字軍,東方問題,パレスティナ問題と連続してきた外側からの干渉も,そのゆえに起きた。そしてまた,このような地域であるからこそ,社会的平和と社会的連帯を希求する運動が,前述のような〈民族〉獲得への動的で劇的な過程を生じつつあるのである。経済社会開発,エネルギー,国際金融,軍事戦略,軍事技術,国際的労働力移動等々,多様な局面での中東問題の世界的性格が,そのためにますます熾烈なものとされた。
執筆者:板垣 雄三
奈良時代からイスラムに関する知識が日本に伝えられ,鎌倉時代には僧侶によるムスリムとの接触が中国で行われた記録がある。安土桃山時代には南蛮人の渡来に伴いムスリムとの接触があったものと思われるが,徳川時代中期までは,中国イスラムあるいは中国文献によるイスラムの知識が中心であった。西洋人を経由した知識は,たとえば新井白石の《西洋紀聞》にみられるが,鎖国政策の影響に加えキリシタンに対する関心が主要な時代であったので,白石の知識もキリスト教と並んでイスラムがあるという程度にすぎない。明治時代以前の事情については,小林元の《日本と回教圏の文化交流史》(1975)が詳しい。
明治初期に在ロンドンの外交官林董が東本願寺の島地黙雷に請われて英文文献をもとにして《馬哈黙伝(マホメット伝)》(1876)を刊行している。これは明治維新後に日本の宗教制度を見直す参考とする意味をもっていた。林はそれまでに見られなかったような詳しいイスラム成立期の知識を導入しただけでなく,キリスト教徒の著作に基づくイスラム理解に偏見のあることを恐れ,西洋人の手になるいくつかの著作を参照している。その翻訳紹介は,一神教としてのイスラムの特質,イスラム諸宗派の存在に触れている。
明治前期には,岩倉使節団の一員である外務省の福地源一郎による《外国人立合裁判報告》(1873),司法省の箕作麟祥の《埃及(エジプト)法律書全》(1878),同じく長谷川喬の《埃及国立会裁判実況慣習取調報告書》(1887)。外務省の原敬の《埃及混合裁判》(1889)などのように,日本の条約改正の参考資料として行われた調査がある。これらはイスラムではなく,西欧列強の支配下にある中東イスラム世界の政治社会状況と法的地位(とくに領事裁判などを含むカピチュレーション)について調査したもので,法制調査もイスラム法ではなく,領事裁判制度や通商協定などに主たる関心が向けられている。吉田正春の《外務省御用掛吉田正春波斯(ペルシア)渡航一件》(1880。のちに《回疆探険波斯之旅》として1894年に刊行)は,イランからイラク地方にかけて行われた現状調査であり,表面上通商上の目的をもっていた。吉田には参謀本部の古川宣誉が同行し,この地域における帝政ロシアの南下政策に関心を寄せている。また近代史研究として,柴四郎(東海散士)の《埃及近世史》(1889)があり,当時としては基本的な英文文献によってまとめられ,西欧列強支配下のエジプト人から歴史的教訓を読み取り,被圧迫民族への共感を示している。
明治後期には,日本の台湾や朝鮮支配の参考資料として,イギリス,フランスの中東イスラム世界支配に関心をもつ一連の著作が現れた。台湾総督府の家永豊吉による《西亜細亜旅行記》(1900),加藤房蔵(扶桑)の《保護国経営之範埃及》(1905)などがそれである。日本の植民地統治とイギリス,フランスの植民地統治がそこでは主題となっている。
他方,明治期に海外に在住する日本人の中にイスラムに改宗する者が現れている。イスラムへの改宗の場合,中国や東南アジアにおけるムスリムとの接触が機縁となったばかりでなく,インド亜大陸やオスマン帝国のムスリムとの接触による場合も多く見られた。明治末に日本人として初めてメッカに入った(1909)山岡光太郎は,後に《世界の神秘境アラビア縦断記》(1912)を著した。また大正期には田中逸平がメッカ巡礼を行い(1924),その記録は後に《イスラム巡礼・白雲遊記》(1925)として刊行されている。明治期における日本人ムスリムの出現とメッカ巡礼は,日本におけるイスラム理解を深めたが,同時代に日本キリスト教徒が日本の思想・教育界に与えた影響に比べて,日本人の間でそれほど大きな影響力をもつにはいたらなかった。
大正期には,坂本健一の《コーラン経》(1920。セイルらの英訳本からの重訳),《ムハメッド伝》(1923)が刊行されている。この時期には,外交史研究,東西交渉史研究,言語研究などの分野でイスラム世界に関する研究が開始され,また同地域に関する官庁の調査も始められた。これらの背景としては,中東,インド亜大陸,東南アジアなどイスラム世界との人物交流が増加し,インド亜大陸からのムスリム商人やソ連から亡命したトルコ系ムスリムが日本において活動するようになったことがあげられる。日本で活動を始めたこれらの人々によって,まず神戸にモスクが建設され(1935),次いで日本人ムスリムらの協力をも得て東京にもモスクが建設されるにいたった(1938)。日本最初の公開のイスラム礼拝式は,すでに1922年東京でトルコ系ムスリムのイマームによって行われている。
1920年代末から30年代にかけて,トルコなどイスラム世界の諸国との親善を目的とする団体も現れるようになった。30年代後半から第2次世界大戦にかけて,イスラム文化協会,大日本回教協会,回教圏研究所,満鉄東亜経済調査局回教班,外務省調査部回教班などが設立され,イスラムに関する調査研究や啓蒙活動がきわめて活発に行われ,研究者のみならず,日本人ムスリム,実務家,軍人がこの活動に参加した。その結果,上記の諸団体によって《回教圏》(1938-44。回教圏研究所),《新亜細亜》,《回教事情》(1938-44。外務省調査部回教班),《回教世界》(1939-41。大日本回教協会)などの雑誌が刊行され,回教圏研究所の大久保幸次,小林元による《現代回教圏》(1936),東亜経済調査局にいた大川周明の《回教概論》(1942)など,啓蒙書・研究書の刊行も盛んになった。イスラムに関する着実な基礎研究や高等専門教育におけるアラビア語などの教育の開始(1939,大阪外大)も見られたが,全体として,華北および東南アジアへの軍事的進出の企てに伴い,それら地域のムスリム住民に対する工作を進めようとする政策関心に動かされていた面が強い。
第2次世界大戦後の一時的な中断があったものの,イスラム世界との外交関係,人物交流,経済関係は1950年代から回復された。60年代には,対中東諸国貿易が1950年代に比べて大幅に拡大し,同時に日本産業のエネルギー資源として石油が中心的地位を確立し,中東に産出する石油の重要性が増大した。73年の第4次中東戦争において,アラブ諸国がとった石油戦略は,いわゆる〈石油危機〉をひきおこし,これを契機に日本と中東諸国の関係は飛躍的に重要性を加えた。75年には日本の対アラブ貿易は,輸出で44億ドル,輸入で114億ドルとなり,さらに80年には輸出で130億ドル,輸入で400億ドルに上昇した。日本の総輸出入に占めるシェアはそれぞれ10%,27%となった。貿易は輸出入ともに湾岸諸国に集中している。また日本の経済協力がアルジェリア,エジプト,シリア,モロッコ,ヨルダンなどを中心に大幅に増大してきた。石油輸入と製造業製品輸出の方式が確立し,またオイル・ダラーの対日投資も急速に増大しはじめている。
外交関係では国連などの場を通じて対アラブ接近が行われ,政府高官の往来もしだいに多くなっている。経済外交からトータルな外交への転換が図られており,パレスティナ問題も外交上の重要度を加えてきた。
イスラム研究も,欧米の文献など間接的資料に大きく依存していた時代は過ぎ去って,ムスリムなどの手になる現地語資料に基づいて行われるようになった。研究・調査機関も,戦前からの東洋文庫,人文科学研究所(京都大学),東洋文化研究所(東京大学)に加え,日本オリエント学会,中東調査会,アジア経済研究所,日本イスラム協会,アジア・アフリカ言語文化研究所(東京外国語大学),中東経済研究所などが設立され,多彩な活動をつづけている。また日本国内のムスリム諸団体の活動も活発化してきた。しかし日本が中東や東南アジアとの経済関係を決定的に強め,そのためそれら地域のムスリムたちが日本に深い関心を寄せている。にもかかわらず,日本人のイスラムに対する一般的関心は,1970年代末,とくにイラン革命を経て,イスラムの理解なしには経済関係の維持も危ういということが明らかになったところで,ようやく高まり始めたといわねばならない。
執筆者:中岡 三益
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(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
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ヨーロッパよりも東方Eastの世界を、ヨーロッパからの距離感に基づいて三区分した地域概念の一つで、近東Near East、極東Far Eastと対(つい)をなす。元来は、旧オスマン帝国領を意味する近東と、イギリスの植民地であったインド半島との中間地帯を漠然とさす概念であった。しかしその範囲は時代とともに変化し、今日では一般に、東はアフガニスタンから、イラン、トルコ、メソポタミア、アラビア半島、レバノン、イスラエル、エジプト、スーダンなどを経て、西はマグレブ諸国にまで至る、西アジア・北アフリカ一帯を広くさす概念として用いられる。その範囲が広がった最大の理由は、第二次世界大戦時の連合国軍の中東での作戦区域の拡大にあり、ときには西アフリカのモーリタニアまでが中東の概念に含まれるのはそのためである。
中東と近東とは互いに接触し、その境界も場所によってはあいまいであるが、中東の概念が拡大して近東の範囲に及ぶにつれ、中近東という呼称も一般化してきた。第二次大戦後、近東の一角であったバルカン半島の大半が社会主義圏に組み入れられ、近東から切り離されたことにより、中近東の概念は今日では中東と同義語とみなされる。
[末尾至行]
…資本主義の工業化は,かくて都市を核とし,都市を確固とした基盤として,その〈戦略〉を展開することが可能となった。【喜安 朗】
【中東】
乾燥地帯に属する中東の都市は,水を得る必要から,むらの場合と同じく大河の流域や平原のオアシスに存在する。ティグリス川やナイル川は灌漑水や飲料水を供給するだけではなく,交通路としても重要な役割を果たしてきた。…
※「中東」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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