中野武営(読み)なかのぶえい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中野武営」の意味・わかりやすい解説

中野武営
なかのぶえい
(1848―1918)

明治・大正期の実業家、政治家。弘化(こうか)5年1月3日、高松藩士の子として生まれる。名は「たけなか」とも読む。農商務省の権少(ごんしょう)書記官時代、河野敏鎌(こうのとがま)の知遇を得、明治十四年の政変では大隈重信(おおくましげのぶ)に従って、河野小野梓(あずさ)らとともに野に下り、立憲改進党創立参画した。1890年(明治23)の第1回総選挙より衆議院議員に連続8回当選し、また、1914年(大正3)には東京市会議長となり市会郭清に努めた。この間、東京株式取引所理事長、関西鉄道社長、日清(にっしん)生命社長などを歴任し、渋沢栄一(えいいち)の後継者として1905年より1916年まで東京商業会議所会頭となり、営業税反対運動の中心となるなど実業界に貢献した。大正7年10月8日没。

[佐藤能丸]

『薄田貞敬編『中野武営翁の七十年』(1934・中野武営伝記編纂会)』『石井裕晶著『中野武営と商業会議所――もうひとつの近代日本政治経済史』(2004・ミュージアム図書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「中野武営」の意味・わかりやすい解説

中野武営 (なかのぶえい)
生没年:1848-1918(嘉永1-大正7)

明治,大正期の実業家,政治家。高松藩士の子として生まれ,藩校講道館に学ぶ。1872年(明治5)香川県の官吏となり,のち農商務省権少書記官となる。明治14年の政変(1881)では大隈重信,河野敏鎌らとともに辞職し,改進党創立に尽力する。1890年の第1議会以来衆議院議員に当選8回。この間,東京株式取引所副頭取,理事長,次いで関西鉄道会社社長など各種会社と関連し,1905年,渋沢栄一の後を受けて東京商業会議所会頭となる。また,第1次護憲運動を支持し,三悪税(織物消費税通行税,営業税)のうちの営業税撤廃運動を推進した。14年東京市会議員,ついで議長に推された。17年東洋製鉄会社を設立し,社長となった。
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朝日日本歴史人物事典 「中野武営」の解説

中野武営

没年:大正7.10.8(1918)
生年:嘉永1.1.3(1848.2.7)
明治大正期の政治家,実業家。随郷と号す。高松藩士中野可一の長男として高松城下に出生。藩校講道館に学び,維新後農商務省権少書記官などを勤めたが,明治14年政変で下野。修進社系を代表する人物として立憲改進党創立(1882)に参画。また愛媛県会議員に当選,議長となって香川県再置運動に尽力した。議会開設後は第1回総選挙以降衆院議員当選8回,改進党,進歩党,憲政本党に所属したが,のちには戊申倶楽部など小会派に在籍。政党人としてよりも関西鉄道会社社長や東京商業会議所会頭などを務めた実業家として著名。東洋拓殖株式会社設立委員にもなった。

(村瀬信一)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中野武営」の解説

中野武営 なかの-ぶえい

1848-1918 明治-大正時代の政治家,実業家。
弘化(こうか)5年1月3日生まれ。農商務省権(ごんの)少書記官となる。明治十四年の政変で退官。15年立憲改進党の創立にくわわる。愛媛県会議長をへて,第1回総選挙で衆議院議員(当選8回)。東京株式取引所理事長,関西鉄道社長,東京商業会議所会頭などをつとめる。のち東京市会議長。大正7年10月8日死去。71歳。讃岐(さぬき)(香川県)出身。号は随郷。

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