丹鶴城跡(読み)たんかくじようあと

日本歴史地名大系 「丹鶴城跡」の解説

丹鶴城跡
たんかくじようあと

[現在地名]新宮市新宮

熊野速玉くまのはやたま大社東方、蓬莱ほうらい山西隣にある丘陵丹鶴山に位置し、熊野川が北麓を東流し天然の掘割を形成。丹鶴城の名は築城以前この地にあった丹鶴山東仙とうせん寺の山号に由来するといい(続風土記)、この地に源為義の女丹鶴姫と弟の新宮十郎行家が成長した熊野別当別邸があったと伝える。新宮城とも、またこの城から東に熊野灘を一望できることから沖見おきみ城ともよばれた。

慶長六年(一六〇一)藩主浅野幸長の次男浅野忠吉が新宮に入って直ちに築城に着手、まず当地にあった東仙寺と宗応そうおう寺を他所に移して縄張りを始め(続風土記)、慶長末年までには一応完成したが、元和元年(一六一五)の一国一城令で城は取壊された。その後再建が許可され、同四年忠吉は再び縄張りを始め(熊野年代記)、翌五年に城はほぼ完成したと考えられている。元和年間の新宮城図(広島県三原市立図書館蔵)によると、本丸天守丸・二の丸・二の段丸・出丸などからなり、城門六、櫓門五、二層櫓四、単層櫓九を備え、各郭には多聞や塀がめぐらされていた。天守は本丸の西にあって、九間四方の大天守三間と四間の小天守が付設された複合式天守であった。また熊野川に面して水手門が設けられていた。しかし浅野忠吉は城の完成を目前にしながら元和五年安芸に移ったため、築城工事は代わって新宮を領した和歌山藩付家老水野重仲に継承され、寛永一〇年(一六三三)その子重良が増築(熊野年代記)、寛文七年(一六六七)三代城主重上の代にようやく完成した(新宮市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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