現在の経済的意志決定のための前提条件として、関連のある経済変数の将来値をまえもって想定すること。「期待」とも訳される。
J・M・ケインズ(『一般理論』)は、雇用量の基本的決定因は任意の雇用量からの産出高の売上金額についての生産者の予想であると主張した。生産者の予想は、短期予想と長期予想とに分けられる。短期予想とは、生産者が毎日生産過程を開始するときに抱く彼の生産物の価格についての予想である。この予想は、変化を予想すべき明確な理由がない限り最近の実績が継続するという仮定に基づいて形成される。資本財産業の場合には、生産者の短期予想は投資家としての他の生産者の長期予想に大きく依存する。
長期予想とは、生産者が彼の資本設備に対する追加として資本財を購入するときに抱く将来稼得可能な収益についての予想である。この予想は、心理的要因に依存するので、突然、大きく改訂されやすい。
ケインズによれば、資本の限界効率と利子率が等しくなるように投資の大きさが決まり、かくて総雇用量が決まるが、資本の限界効率は投資の将来収益についての長期予想に大きく依存している。さらに利子率は貨幣供給量と流動性選好によって決まるが、流動性選好は将来の利子率についての富保有者の予想と現在の利子率との相違に依存している。
J・R・ヒックス(『価値と資本』)は、将来時点での需給計画量と予想価格・予想利子率とを明示的に考慮することによって、静学的均衡理論を巧みに応用しながら動学的経済理論の第一歩としての一時的均衡理論を展開した。
すなわちヒックスは、予想価格に対する現在価格の影響度を表す概念として、商品Xの価格についての代表的経済主体の「予想の弾力性」を「Xの予想された将来価格の比例的上昇の、Xの現在価格の比例的上昇に対する比」と定義し、この価格予想の弾力性が1より小さい限り経済体系は安定的であるが、この弾力性が1以上の場合には経済体系は不安定になること、つまり経済体系は本来的かつ必然的に安定的であるとはいえないことを論証した。
他方、基本的な予想形成仮説は農産物の価格決定モデルに即して次々に登場してきた。
まず、エゼキール(エゼキエル)Mordecai Ezekiel(1899―1974)は、「代表的農家は来年の価格は今年の実際の価格と変わらないだろうと予想する」という仮説を採用した。この仮説は、現在価格が続くと考えるので「静学的予想仮説」とよばれる。この仮説のもとでモデルから得られる価格決定式は有名な「くもの巣定理」を与える。均衡の安定条件は「価格軸を水平線とする供給曲線の勾配(こうばい)の、需要曲線の勾配(絶対値)に対する比」が1より小さいことである。静学的均衡理論ではこの勾配比がどのような値であっても均衡は安定的であるが、「くもの巣定理」ではこの勾配比の値によっては均衡は安定的でなくなる。
次に、ナーラブMarc Leon Nerlove(1933―2024)は、「農家は毎年、翌年に支配すると予想する価格を当該年の価格についての予想誤差に比例して改訂する」という仮説を提唱し、これを「適応的予想仮説」とよんだ。この仮説は「予想価格は予想係数(比例定数)だけからなる関数をウェイトとした過去の価格の加重移動平均値として表される」という仮説と等価である。この仮説のもとでモデルから得られる価格決定式は、前記の勾配比が1より大きくても均衡は安定的でありうることを示す。安定性と両立する勾配比の値は予想係数が小さいほど大きくなる。
最後に、ミュースJohn Fraser Muth(1930―2005)は、「予想は、将来事象についての知性ある予測にほかならないから、本質的には、関連のある経済理論による予測と同じである」という仮説を提唱し、これを「合理的予想仮説」とよんだ。この仮説によれば、予想価格は価格決定モデルを解いて得られる来年の価格の数学的期待値に等しく、結局、事前的な均衡価格そのものとなる。事後的な均衡価格は供給量の実際値に依存する。前期の勾配比がどのような値であっても、この均衡は安定的である。(書籍版 1988年)
[加藤寛孝]
『J・M・ケインズ著、塩野谷祐一訳『ケインズ全集7 雇用・利子および貨幣の一般理論』(1983・東洋経済新報社)』▽『J・R・ヒックス著、安井琢磨・熊谷尚夫訳『価値と資本』(1951・岩波書店)』▽『M. Ezekiel“The Cobweb Theorem”, Quarterly Journal of Economics (February, 1938)』▽『M. Nerlove“Adaptive Expectations and Cobweb Phenomena”, Quarterly Journal of Economics (May, 1958)』▽『J. F. Muth“Rational Expectations and the Theory of Price Movements”, Econometrica (July, 1961)』