京極高知(読み)きょうごくたかとも

改訂新版 世界大百科事典 「京極高知」の意味・わかりやすい解説

京極高知 (きょうごくたかとも)
生没年:1572-1622(元亀3-元和8)

江戸初期の武将。丹後宮津藩主。近江国小谷で生まれる。豊臣秀吉に仕え,1591年(天正19)近江国蒲生郡で5000石を与えられる。93年(文禄2)外舅毛利秀頼の遺領6万石を継ぎ,信濃飯田城主となる。関ヶ原の戦には東軍に属し,岐阜城攻めに活躍。戦後,丹後国宮津城を与えられ,12万3200石を領した。大坂冬夏の両陣にも参陣し軍功をあげた。キリシタン大名洗礼名ジョアン
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朝日日本歴史人物事典 「京極高知」の解説

京極高知

没年元和8.8.12(1622.9.17)
生年元亀3(1572)
安土桃山・江戸時代前期の大名。高吉の第2子,高次の弟。天正19(1591)年に近江国(滋賀県)蒲生郡内に5000石を豊臣秀吉から与えられる。以降,信濃国(長野県)飯田城主となり,秀吉の死後徳川家康にくみした。関ケ原の戦の功により丹後国(京都府)12万石を与えられ,のちに宮津城主となる。兄高次と共に京極家再興に尽力し,宮津藩京極家の祖となった。なお母マリア(浅井氏)は熱心なキリシタンで,高知は特にその影響を受け,信仰が篤かった。

(宇野日出生)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「京極高知」の解説

京極高知 きょうごく-たかとも

1572-1622 織豊-江戸時代前期の大名。
元亀(げんき)3年生まれ。京極高吉(たかよし)の次男。豊臣秀吉につかえ,信濃(しなの)(長野県)飯田城主となる。関ケ原の戦いでは徳川家康にしたがい,慶長5年丹後(京都府)宮津藩主京極家初代。12万3000石。キリシタン大名としても知られる。洗礼名はジョアン。元和(げんな)8年8月12日死去。51歳。

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世界大百科事典(旧版)内の京極高知の言及

【飯田[市]】より

…近衛家領郡戸(ごうど)(郊戸)庄飯田郷の一部を占め,地頭坂西氏が居館を構えた。武田,織田,徳川氏の進出に伴う戦国の動乱の中で伊那郡支配の中心となり,1590年(天正18)以後,毛利秀頼,京極高知の治世に10万石に見合う城地,城下町が整備された。天竜川の西方,南に支流松川を望む段丘上に位置し,南北に伊那街道が通じる。…

【京極氏】より

…鎌倉時代以来の武家。宇多源氏の近江佐々木氏の流れ。佐々木信綱の三男泰綱は京都六角東洞院に住して六角氏を称し近江国守護となり,四男氏信は京極高辻に住して京極氏を称した。京極氏は5代佐々木高氏(道誉)によって南北朝・室町期の隆盛の基が築かれた。高氏は元弘・建武の騒乱で足利尊氏の最も忠実な武将として活躍し,重用されてその勢いは惣領家六角氏をしのいだ。高氏の功により歴代室町幕府評定衆に列し,侍所所司の家格(四職)を得,孫高詮の後は飛驒・出雲・隠岐3国の守護職を相伝した。…

【丹後国】より

…これより2年前藤孝・忠興父子は宮津に入って,浜に新城を築いていた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後忠興は豊前中津へ転封し,京極高知が入封して田辺城に入った。高知は02年丹後5郡292ヵ村の検地を行い,その総高は12万3175石(慶長検地郷村帳)であった。…

※「京極高知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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