個々人を他の人と区別するために,個人ごとにつけられた名をいう。人名には,個人の所属を明らかにするため氏族,家族,父親,居住地などの名が添加されるといったことがあり,また世界の各民族や地域によって,その社会・文化のあり方とかかわる多様性もみられるので,世界数地域における人名について説明する。
日本人の場合は,姓(苗字(みようじ))を冠し名(個人名)を付けてその人名とするので,〈姓名〉と呼ばれる。それは長い歴史を経て今日に至っているが,その著しい特色は,世界に類をみない複雑多様性である。日本人どうしの間でも,文字をみただけでは相手の名を正しく呼べないことが多い。名を書く場合,人名(個人名)と苗字にしばしば振り仮名をつけることを要請されるような民族は,日本人をおいては他に求められない。この複雑多様性を緩和するため,現在,人名に用いることのできるのは平仮名(変体仮名を除く),片仮名,常用漢字1945字,人名用漢字166字に限られているが,その漢字をどう読むかについては規定が存しない。したがって例えば,〈明子〉(アキコ,ハルコ,テルコ,トシコ,アキラコ,アキライコなどと読める)をどう読むかは,個人もしくは命名者の自由であって,個々の場合,それを的確に読むことは他人には至難である。この日本の人名にみる複雑多様性は,漢字が音読みされるだけでなく,さまざまに訓読みされ,さらに万葉読み,湯桶(ゆとう)読み,重箱読み,熟語読み(例えば,木綿(ゆう)子,毛人(えみし),春日(かすが),年魚(あゆ)などの類)され,かつ平仮名や片仮名が混用されることに由来している。はなはだしきに至っては,発音と関係のない漢字の助字をつける命名法(正矣(まさし),弘哉(ひろし),智也(さとし)など)や1字の下に送り仮名のように漢字をつける命名法(真人(まこと),綾也(あや),公美子(きみこ))もみられ,それらは日本の人名をますます錯綜したものとしている。
人名にみられるもう一つの特色は,複名の習俗である。これは1人が幾種類かの名を帯びる社会的な慣習である。日本では特に複名が多く,諱(いみな)(名乗(なのり))のほか,幼名(童名(わらわな)),通称,字(あざな),別号(候名(さぶらいな),芸名,源氏名,筆名,雅号,画号,俳号,狂名,等々),渾名(あだな),法名,戒名,諡(おくりな)等々が同一人に対して用いられることが多い。滝沢馬琴の公式の名は源興邦(おきくに)であるが,彼は本名のほか34の名をもっていたことで知られる。西郷隆盛についていえば,氏姓は平朝臣(たいらのあそん),家名は西郷,幼名は小吉,諱は隆盛,通称は吉之助,雅号は南洲である。現在,戸籍に登録できる名は一つであるが,さまざまな別号や異名をもつ人が少なくない。人名の上記のような特色は,日本の長い歴史とともに醸成されたものであり,現代の人名は紆余曲折を経た結果なのである。
大和時代の神名や貴人の名には,美称や尊称が付されるのが常であった。例えば,天鈿女(あめのうずめ)命の〈天〉は美称,〈命〉は尊称であって,実名は鈿女である。息長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)のうち〈息長〉は地名=氏名,〈姫〉と〈尊〉は尊称であって,実名は〈足姫〉または〈足売(たりめ)〉である。天国排開広庭天皇(あめのくにおしはらきひろにわのすめらみこと)(欽明天皇)のうち,〈天〉は美称,〈国排開〉は威力を示す尊称,〈天皇〉は尊号であって,実名は〈広庭〉である。これは奈良時代の高官であった中納言阿倍朝臣広庭と同名である。大和時代の人名は男女とも複雑で無定則的であるけれども,接尾語として彦(ひこ),比売(ひめ)(姫,媛,比咩),郎子(いらつこ),郎女(いらつめ),足(たり),比登(ひと),女(め),戸弁(とべ),麻呂,雄(お)(男),子(男女ともに),君(男女ともに)等が名に付される例が多かった。複雑,無定則的であるから後代に姿を消した名が少なくない。例えば,佐伯造於閭礙(さえきのみやつこおるけ),当麻蹶速(たきまのくえはや),小子部連鉏鈎(ちいさこべのむらじさひち),安斗連阿加布(あとのむらじあかふ),美濃国造神骨(かむぼね),安倍木事(ここと)(女),津臣傴僂(つのおみくつま),物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ),膳臣余磯(かしわでのおみあれし),石川錦織首許呂斯(にしきごりおひところし),物部連長真胆(ながまい),因幡国造宝頭(ほず)といった名がそれである。
奈良時代になると,前代の名にみられた著しい多様性や無定則性はしだいに影をひそめ,平明化した。男性名では,接尾語の麻呂が優位を占め,郎子,彦,子(男性名としての)などは消え,または廃れた。麻呂を接尾語にもたない名の場合,2字の名(例えば,家守,広足,牛養(うしかい),川継,継縄(つぎただ),等々)が優勢となった。比登は人と記され,二文字名の一つに用いられた(例えば,旅人,東人(あずまびと),国人,祖(おや)人,等々)。男(雄)もわずかにみられるが(勝雄,諸男,刷雄など),これに対応する女性用の接尾語の女(売)(め)が圧倒的優位を保つのに対して,劣勢となった。こうして〈女(め)〉は〈麻呂〉と対応関係を結ぶに至った。奈良時代の女性名では,戸弁,姫,君は消失し,接尾語は〈女〉に統一される形勢となった。もっとも,上流社会では,故意に〈女〉字を省略した女性名もみられた(袁比良(おひら),諸姉(もろね),笠目,多理,広虫,等々)。注意に値するのは,百済系の〈余(あぐり)〉が用いられはじめたこと,愛称としての阿古(阿古売,阿古麻呂)が登場したことである。〈あぐり〉は,よほど日本人の趣好に投じたとみえ,女性名として現代に至るまで連綿として用いられている。また郎女の語は劣勢となり,奈良時代の末には影をひそめたが,他方,〈子〉字が女性名用の接尾語に採用される気運が生じた(宮子,弟兄子(おとえこ),若子,等々)。
平安時代になると,男性名の大部分は2字で構成されるに至った。麻呂は丸(まろ)に変わり,上流社会では幼名に用いられ,庶民の間では男性に多い名となった。嵯峨天皇は,賜姓源氏の皇子に融(とおる),信(まこと),弘(ひろむ),常(ときわ),寛(ひろし)のような一文字の名を与えたが,男性の一文字の名は,嵯峨源氏や仁明源氏の伝統となった。また同天皇は,親王や内親王の名に乳母の氏の名を採る慣例をやめ,親王には2個の佳字(秀良(ひでよし),忠良のような)を,内親王には×子型を賜った。また賜姓源氏の皇女を×姫と名づけた(潔(きよ)姫,全(また)姫,盈(みつ)姫など)。復興された×姫型の名は,さほど影響を及ぼさなかったが,×子型の名の方は,上昇気運にあった子型の女性名の流行に拍車を加えた。ただ庶民の間では,女型の女性名が依然として圧倒的であった。
平安時代中・後期の上流社会では,男性は幼名(童名)を帯び,元服に際して2字の実名(諱,名乗)をつけるのが恒例となった。紀貫之の幼名が阿古久曾であったことは知られているが,これはわざと汚い文字を用いた辟邪(へきじや)的な幼名である。このころから男性には,通称(呼名)がつけられた。元来これは,実名敬避の習俗を背景としているが,太郎,次郎,三郎など排行(はいこう)(年齢順の数による称呼)が古い型式の通称であった。平清盛の通称の〈平太〉は,平氏に生まれた一男の意味である。庶民は,2字の諱をもたず,幼名または通称だけで呼ばれることが多かった。武士などは,住地(荘園)を家名とし,家名と通称で呼ばれ,氏名と諱とは公式の場合に用いられた(熊谷次郎→平直実)。公式には,氏名+諱が,略式には家名+通称が呼ばれ,家名+諱は1871年(明治4)まで違法であった(例えば略式は西郷吉之助,公式には平朝臣隆盛となり,西郷隆盛は,1872年以後の戸籍名である)。
女性の諱は,×子型に統一されたが,これは裳着,宮仕え,叙位に際して命名されるのが常であった。女性の通称には,大い君,中の君,三の君(庶民の場合は,姉子,中(なかんの)子,三(さんの)子)があり,また×氏女(うじのによ)が広く用いられた。平安時代後期には,千寿女,万寿女,愛寿女,延寿女,福寿女のような佳名型の通称(時によっては実名)が多くみられたが,後代のセン,マン,アイ,エン,フクといった名は,それらに由来している。平安時代中期からは,内裏や院宮,貴紳に仕える女性たちは,候名で呼ばれるようになった。大納言,中納言,中将,少将,少納言,式部,伊勢などの類である。各地に現れた遊女,傀儡子(くぐつ),白拍子の名については,庶民と変わらぬ名を帯びる場合と独自の名を称する場合(例えば,香炉,力命(りきみよう),宮城,観童など)とがあった。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて上流社会の男性は,公家,武家とも,氏名+諱を公式の名とし,家名+通称を日常の名とした。通称には,排行名のほか百官名(幸嶋左衛門尉,難波刑部卿,朝山右馬大夫,足利木工助(もくのすけ),新田大炊助のような)が盛んに用いられた。
上流社会の女性名は,公式には子型の諱であったが,日常生活ではもっぱら通称が用いられた。叙位,任官の場合を別とすれば,普通には通称が用いられ,通称の本名化がみられた。鎌倉時代には,仏教的な通称(薬師女,千手女,如来女,毗沙(ひさ)女,金迦羅女,伊王女,夜沙(やさ)女,袈裟(けさ)女,等々)も数多くみられた。
この時代の法名で特記されるのは,重源が信徒に与えた阿弥陀仏号(阿弥号)である。これは男女の別はなく,〈×阿弥陀仏〉と称するのであるが,早くからその省略形の×阿弥,×阿が現れ,広く普及した(世阿弥,本阿弥,空阿の類)。
室町時代の男性名には,さほど大きな変化はなかったが,排行名・百官名が複合したり,他の文字が加わったりして,通称は複雑化した。排行名も,本来の源一郎,橘三,藤三郎等から変化した藤(藤原)吉(橘)郎,吉蔵,弥太郎,三郎兵衛,右衛門太郎のような名が普及した。百官名では,四等官部を落とした左衛門,右兵衛などのほか,大学,隼人(はやと),刑部(ぎようぶ),主税(ちから),弾正(だんじよう),采女(うねめ)のような通称もみられた。
上流社会における子型の諱は変わらなかったが,通称の方は,阿茶(あちや),阿茶々,伊茶,ちやち,あかか,あこゝ等の新しい名の導入によって幾分,面目を改めた。貴族,庶民の別なく,通称には女字の脱落と仮名書き化が相当進んだ(とら,かめ,わか,いちの類)。しかし一方では,千代女,若鶴女,松女といった旧型式の名もみられた。女性名の接頭詞としての〈お〉は,軽い敬称ないし愛称として南北朝時代に始まるが,室町時代において漸増した(御ふく女,お今,おあちや,御さこ,御伊茶,等々)。
安土桃山時代には,女字の脱落と仮名書き化が激しい勢いで進行した。豊臣秀吉の正妻は木下ねねであって,〈ね〉または〈ねい〉ではない。〈ねね〉という名は,鎌倉時代前期に早くもみられるが,この時分には珍しくない名となっていた。〈ね〉や〈ねい〉という女性名は,この時代の文献には検出されないが,〈ねね〉とその妹の〈やや〉とは,そのころにはありふれた女性名であった。しかしそれでは叙位の対象にならないから,彼女は公式の名を平朝臣寧子と定め,その名で従一位に叙されたのであった。
江戸時代の庶民の女性名は,ほとんど仮名書きであり,大部分が2文字である(はつ,せん,せい,かめ,とら,等々)。これらは,しばしば接頭語の〈御〉をつけて呼ばれた。現在,各地に残るおびただしい宗門人別改帳によって江戸時代の女性名は無数に知ることができる。
室町時代から江戸時代にかけて,庶民は家名を失い,名だけで呼ばれた。江戸時代において商人の場合には,屋号を名の上に冠したが(越後屋八郎右衛門,俵屋藤兵衛のように),家名を称するには許可が必要であった。徳川三百年の泰平にあって文運が隆昌するにつれて諱や通称のほかに,多種多様な異名が用いられたことは,滝沢馬琴に関連して前述したとおりである。遊女の源氏名などは,さまざまな《吉原細見》などから多数知ることができる。
1872年における壬申(じんしん)戸籍の制定によって日本人は苗字(氏名,家名または適宜に案出した名であれ)を一つ,名(諱,通称,幼名または適宜に案出した名であれ)を一つつけるよう定められた。伊藤俊輔(家名と通称)こと越智宿禰博文(氏名,姓(かばね),諱)は,苗字を伊藤,名を博文と登記したし,大隈八太郎(家名と通称)こと菅原朝臣重信は,登記名を大隈重信と定めた。こうして明治・大正時代の男性名には,諱系の名(大久保利通,西園寺公望,乃木希典,等々)と,通称系の名(尾崎徳太郎(紅葉),森林太郎(鷗外),岩崎弥太郎,児玉源太郎,夏目金之助(漱石),堀切善兵衛,等々)と二つの大潮流がみられた。それとともに注意されるのは,嵯峨源氏風の一字名が復興したことである。原健次郎は,71年7月,名を敬(たかし)と定めて登記し,大山岩次郎は,名を岩にちなんだ巌(いわお)と定めて届け出た。
明治・大正時代の女性名の多くは,江戸時代風の2音節(仮名2文字)であったが,公家・華族の×子型の名が明治30年代から非常な勢いで普及した。それとともに,公家・華族の女性の漢字を用いた名も流行した。特別な場合のほか,戸籍名の変更は認められなかったため,男女とも私名を用いる傾向が生じた。例えば,乃木希典夫人は,幼名をシチといい,壬申戸籍にはシヅと登記したが,日常は,志津,しづ子,静子と自署していた。与謝野(旧姓は鳳)しようは,私名を晶と書き,筆名は晶子(あきこ)と称した。仮名2文字の名を漢字の×子型の私名とした女性はおびただしい数に及んでいた。
昭和時代に入ると,男性名では,×衛門,×兵衛型がまず廃れ,ついで××郎型,×雄型の名が減少の路線をたどり,代わって漢字2文字,1文字を用いる名が盛行した。女性名では,×子型の名は,1945年を絶頂として減少しはじめ,大正時代に流行した×代型の名も廃れた。最近では,美,佳,紀,沙,理,真,麻,里,枝,明,等々を用いた2音節の女性名が流行している。漢字1字の名でも,例えば望を〈のぞむ〉と読めば男性名,〈のぞみ〉とすれば女性名となるような傾向があるし,また欧米の名に似た名(譲治,真理(まり),樹里(じゆり),等々)もふえたが,これは森鷗外が好んだ命名法であった。
現代における日本人の名は,他に例をみぬほど多種多様であるし(複名の習俗),記名法も複雑を極めているが,後者に関しては日本人どうしが困惑している実情である。
→氏名 →姓氏
執筆者:角田 文衛
人名を〈姓〉を先に〈名〉を後にする呼び方は,中国でも同じである。その〈姓〉が,中国の場合,ほとんど1字の〈単姓〉で,2字のいわゆる〈複姓〉は,例えば《百家姓(ひやつかせい)》の中でも20ばかり含まれているに過ぎない。その《百家姓》は全体として400ほどの姓を収めているが,それが中国の姓のすべてではないにしても,〈姓〉の種類が日本の今の〈姓〉の多さに遠く及ばないことは確かである。中国の姓はひじょうに古くから結婚に関する禁忌,すなわち〈同姓不婚〉〈同姓不娶〉を実行するための標識という役目をになってきた。近親結婚を避けるための経験的な禁忌だが,そのことと〈姓〉が比較的少ないこととはおそらく無関係でない。その方が全体の見通しをつけやすいからである。中国で例えば趙家にとついだ楊家の娘が夫の姓を自分の姓名に冠して,趙楊不偉と名のるやり方とともに,ことさらに趙を名のらず,生まれて名づけられたときの姓名そのまま楊不偉を名のりもするという習慣の裏にも,この〈同姓不婚〉という禁忌の意識が働いているのであろう。〈姓〉の文字が〈女偏〉であるのもそのためだとされているが,〈姓〉はもともと子どもがその母親の家で生まれる古代女系制の時代,その出自を示すために使われたという。古代の姓として知られる姫,姜,嬀,嬴など,姓の字と同様〈女偏〉の文字が多いのはそのためだとされる。それに対して〈氏〉は,その〈姓〉の分化を示す。封ぜられた国,邑(まち),与えられた官,爵,先祖の字(あざな),諡(おくりな)など,さまざまのものが標識として〈氏〉を示す文字となりうる。したがって同じ〈氏〉であるものの分化が〈姓〉によって示されることもあるのである。《春秋左氏伝》隠公8年の条に〈天子徳を建て,生れに因りて以て姓を賜い,これに土(くに)を胙(むく)いて而してこれに氏を命(なづ)く〉というのは〈姓〉〈氏〉の別について述べたもので,〈氏〉はつまりややおくれる男系社会における地位身分の高下の標識に始まったと考えることができる。だから〈同姓不婚〉といっても,〈氏〉がそこにからむことによって,その〈姓〉は単純に今の〈姓〉ではない。〈氏〉が同じでも〈姓〉が異なれば婚姻は可能,〈氏〉が異なっても〈姓〉が同じであれば結婚は許されない。実際には清の顧炎武《日知録》巻二十三などにいう(〈姓〉〈氏族〉など)ように,秦・漢以後〈氏〉と〈姓〉とは混同して区別しにくくなってしまったため,今それぞれの家系を遠くさかのぼってこの禁忌を実行することはかなり困難なことである。なお,ひじょうに古くはいわゆる無名の庶民が〈名〉のみで,〈姓〉をも〈氏〉をももたなかったことは,江戸時代までの日本と同じで,歴史の登場人物でさえ,彼らがすべて〈姓〉〈氏〉をもって現れるのは,〈姓〉と〈氏〉の混同されるようになったとされる秦・漢以後のことだといってもよい。
〈姓名〉の〈名〉については,必ずしも中国にだけあるのではないが,少なくとも中国においてひじょうに顕著な実名敬避の習俗の存在が問題となる。つまり人の実名をそのままむき出しに呼ぶことの回避である。中国の〈名〉は古代にさかのぼるとほとんど一字名で2字のものはまれである。《春秋公羊(くよう)伝》の中に2ヵ所,二字名の人の名をことさらに一字名にして呼んだことを述べたところがある。例えば仲孫何忌を仲孫忌と呼ぶのである。なぜそう呼ばれたかを《公羊伝》は説明して〈二名を忌む〉からだという。二字名を非難の対象としているのであるが,それについての漢の何休の注釈は,名は1字の方が口にしにくく,また諱(い)みやすいからだといっている。一般に中国語は単音節語などと呼ばれ,古代の文献になるほど単音節の語の全体の中に占める割合はふえるのだが,事実は当時すでに単音節の語はおちつかず,2字の構成になりたがっているというのであろうか。いずれにしても漢代の人間が,実名敬避の問題として人名に1字のものが多いことを解釈しようとしていることは興味深いことである。そうして例えば漢王朝を奪(さんだつ)して〈新〉を名のった王莽(おうもう)が,匈奴との関連において漢民族の人間に二字名を名のることを禁止し,逆に匈奴に対しては一字名に改名することを奨励したことが《漢書》匈奴伝にみえている。
さてその実名の敬避について,唯一無二の真実の理由などというものを明らかにすることはおそらく不可能だが,少なくとも〈なれなれしさをきらう〉〈一歩はなれたつきあい〉というような気持がその根底にはあったであろう。ともかく人は他人に対し実名を呼ばず,もう一つの別の名,つまり字(あざな)を作ることで切り抜ける。成人して冠をつけられるようになると,父親がつけてくれた名のほかに,父,君,師以外の人がその人を呼ぶための名を別に作るのである。例えば孔子の弟子で孔子の信頼が最もあつかった顔回は,回が〈名〉で〈字〉を淵(えん)というため顔淵とも呼ばれるように,1字だけの〈字〉もあるようだが,〈字〉の場合は2字の方が圧倒的に多い。顔回も顔子淵と呼ばれることがあるのである。そうして顔回を〈名〉で呼ぶことのできる人間のひとり,師である孔子は,《論語》の中で彼をつねに〈回也〉と呼んでいる。回が〈回〉だけで出てくるのは,彼がみずから名のる〈回不敏なりといえども〉という個所だけである。他の弟子たちについても〈名〉にはつねに〈也〉が伴う。2字の構成が中国語の中でおちつきやすい傾向と無縁ではないであろうし,〈字〉がほとんどつねに2字であるとすれば,そのこととも関係があると考えていいかもしれない。日本の訓読ではこの〈也〉をわざわざ読んで,例えば〈回や〉というようにいう。なお,顔回の例もそうであったように,〈字〉は〈名〉と関連のある文字によって作られることが多かった。〈淵〉は川の水が渦をえがいて〈回〉り流れる深い場所なのである。
日本でよく使われる太郎,二郎といった呼称は,中国では少なくとも実名としてはないが,兄弟,といっても中国の場合は父方のいとこたちをも包括しての兄弟だが,そこで上の方,下の方,また中ほどくらいの見当を,伯,叔,仲などの文字を〈字〉の1字として使うことで表すことはある。欧陽修,字は永叔というのはその例で,この場合も修が〈ながし〉と訓ぜられる文字であるのを,〈永〉の字で受ける。欧陽永叔は宋人だが,実は六朝時代になると二字名はもうだんだんにふえてきていたのであって,現代にまでなると,二字名の方が完全に主流である。何休のさきほどの注にいうことが正しいとすれば,単名を2字の〈字〉で呼ぶことと,後代になるほど2字〈名〉がふえていくことと,根は同じ中国語の性質にかかわる問題でもあるというべきであろうか。
もちろん実名敬避の習俗は,それはそれとしての〈精神〉をもっているのであって,中国では〈爾汝(じじよ)の交〉,すなわち〈お前,あんた〉と,相手を代名詞で呼べる親しいつきあい,ということばがある。その点,日本も同じなのだが,いわゆる〈はばかりある〉相手に対しては代名詞では呼びかけず,その人の地位を示すことばとか,それとなく場所を示すことばで代用する。〈先生〉とか〈殿下〉とかいうのがこれにあたる。明らかに人を〈名〉で呼ばず,〈字〉で呼ぶという精神と共通する。例えば日本語では〈なんじ〉〈なれ〉の〈な〉が本来の二人称代名詞だったのであろうが,いまは普通〈お前〉とか〈君〉とか〈あなた〉とか方向や関係を本来示すべきことばで代名詞そのものを作り上げてしまっている。その日本人には中国のこの〈名字〉の習慣は理解しやすいはずである。
ところでこれまでのことを逆の方向からみると,父,君,師などの実名は,その裏返しとして強く回避しなければならない。〈嫌諱(けんき)〉といって,それらと発音が同じ文字をさえ口にしたりしないということもあった(諱(いみな))。文字に書くときも,正しい字体からわざと最終の1画を省いて書くということもあった。特に君主やそれに関係ある人々についての禁忌は,王朝,また同じ王朝でもその時期によって特に厳重であったこともある。ある版本の刊行時期がそれによって特定できることがあるのもそのためである。
なお古代の上流社会には,その人の死後,生前の業績への評価をこめて贈られる〈おくりな〉〈諡(し)〉があった。君主の諡は儀礼の担当官が奉り,臣下の諡は朝廷から賜った。例えば漢の高祖について《史記》は,その死直後の記事として,〈群臣皆曰(いわ)く,高祖は微細より起(た)ち,乱世を撥(おさ)めてこれを正しきに反(かえ)し,天下を平定して漢の太祖と為(な)る,功最も高し,と。尊号を上(たてまつ)って高皇帝と為す〉というのは天子の諡号である。朝廷から賜る諡号としては,〈文〉を尊ぶいわゆる〈右文〉の国柄で,例えば宋の朱熹(子)が〈諡して文と曰(い)〉われた(《宋史》)ように,諡号として〈文〉の字を許されることは,特に大きな名誉だとされた。朝廷と関係なく勝手に諡を贈る〈私諡(しし)〉も後漢ごろに始まり,一時大いに流行した。晋の陶潜,字は淵明が陶靖節とも呼ばれるのは顔延之の定めた私諡による。
執筆者:尾崎 雄二郎
朝鮮で今日のような中国式の姓が採用されるようになったのは三国時代であり,それも王族,貴族に限られていた。統一新羅を経て高麗時代に至って姓はしだいに一般化しはじめた。本貫ごとに氏族の族譜が編纂されるようになって,族譜の記載様式が整えられると,〈行列字〉が普及した。これは,同一世代の者が木火土金水の五行の順に従って1字を共有することによって一族内の世代の序列を明らかにする制度で,個人の固有名は残りの1字のみによって示される。命名は,かつては出生後100日目ぐらいに,祖父,父,漢文の見識のある親戚の者などが行い,行列字のほかに祖先や上世代者がすでに用いた字を避け,また字画数や音感を考慮のうえ選ばれる。こうした実名とは別に子どもの時期に日常用いる児名をつけることが多い。児名には福を授かるように,強く健やかに,また女児は従順に育つようにといった祈願をこめた名がつけられる。
日常生活では年長者の本名を呼ぶことはできるだけ避けなければならず,親族名称等を用いる。祖先や上世代の者の名を読むときには,そのまま読まずに〈字〉を挿入して,例えば〈英字哲字〉などというように読むのが礼にかなった。成人女性に対して本名を用いて呼ぶことも通常避けられ,既婚者であれば出身地の名を用い,例えば〈ソウル宅〉という宅号や,子どもの名を冠して〈英哲の母〉などと呼ぶことが多い。職場や学校でも親しい場合を除いて,韓国では,〈ミス金〉〈ミスター李〉といった呼び方が一般化しており,特に女性の場合に本名を避けることが多い。朝鮮民主主義人民共和国では,男女をとわず呼びかけの際には名の後に同志の意味の〈トンム〉という語をつけることが多い。また夫婦や恋人どうしの間では相手の名前を呼ばずに,〈あなた〉に相当することばとして〈タンシン〉〈ヨボ〉が南北をとわず用いられる。朝鮮においては同姓で本貫を同じくする者は不婚の原則があり,女性が結婚後も改姓しないのは中国と同じである。朝鮮の姓は朴,金,李などの代表的な姓を中心に,一字姓が全体の90%以上を占めるが,まれには南宮,鮮于,西門などの二字姓も存在する。全体の姓の数は,調査の時点によって異なるが,多くとも500をこえない。
執筆者:伊藤 亜人
東南アジアの諸民族は,さまざまな外来文明の影響を受けてきたが,人名のつけ方にもそのことが表れている。すなわち,ヒンドゥー教や仏教が栄えていた古代にはインド式の名前が王侯・貴族のあいだに流行したし,イスラム文化が浸透した後では,インドネシアを中心にイスラム式人名が普及した。また直接中国と境を接するベトナムでは,かつて漢字による姓名表記が一部の階層で行われたことがあったし,長らくスペインの植民地であったフィリピンでは,早くからキリスト教式の洗礼名が用いられていた。
他方,奥地辺境に住む少数民族のもとには,今日なお呪術やタブーを伴った原始的な命名慣行を見いだすことが少なくない。なかでも,ミャンマーやタイ北部の山地民族の一つであるアカ族の名づけ方は,ひときわユニークである。彼らは出生と同時に実名と俗名の二つの名前を与えられる。実名は代々,父の名の末尾を子の名の頭部に引き継いでいく,いわば〈しりとり式〉の名づけ方であり,大半のアカ族は,神話上の始祖スミオに始まって自分自身に至る,およそ40から50に及ぶ祖先の名を暗記している。ところがアカ族は,自他にかかわらず実名を口外することをタブーにしており,日常はもっぱら俗名で呼びあう。つまり,みだりに実名を口にすると,邪悪な精霊の攻撃目標にさらされると信じているわけである。これは,彼らが実名と本人とを,霊的次元で同一視していることにほかならない。旧中国や日本の上代でも〈実名敬避〉の風習があったとされているが,いずれにしても,この種の習俗の根底には,名前そのものを当人の霊的分身とみなす,アニミズムの観念が働いている。
さらにまた,出産の際に偶然起こった事件や自然現象を,その子どもの運勢に結びつけて吉凶を判断し,それを命名に反映させる例も,まま見受けられる。例えば,やはりタイ北部の山地民族の一派であるヤオ族の俗名は,通常〈老一,老二,老三……〉という出生順による単純な数詞で示されるが,子どもが生まれたときに,たまたま遠来の珍客があると,はなはだ縁起がよいこととして喜び,その客人に名づけ親になってもらったり,ときには名前そのものに〈客〉という漢字を数詞に代えて当てる風習がある。これは,外来者のもたらす福祉に期待する,いわゆる〈まれびと信仰〉に根ざすものにほかならない。さらにヤオ族のあいだでは,臍帯を首に巻きつけて生まれた子には〈首〉,腹部に巻きつけて生まれた子には〈帯〉という漢字を名前に用いることがある。これまた日本で,同様な現象に対して〈ケサ〉(僧侶の袈裟を意味する)とか〈マキ〉という訓読を含む名前を与えて,その子の息災な成長を呪的に念じる習俗に通じるものがある。
執筆者:竹村 卓二
アラブはその名前から,出身地,家柄,宗派,社会的地位,祖先の職業等がうかがえて興味深い。そこでまずアラブはどのような命名法によっているかであるが,彼らは父親の名に自分の名を連ねていく。その結果彼らの名前は,本人の名,父親の名,祖父の名,曾祖父の名と,限りなく父系の祖先をたどる系譜となるが,自分が遠く祖先にまでさかのぼりうる系図に連なることを誇りとし,そのことは社会的にも重んじられる。この命名法では姓に当たるものが入る余地はないのであるが,実際には何家の何某と家名があるようにみえるのは,一族の中で社会的地位や財を築いた者の名を子孫が尊重し,それを家名のように使うからである。女性も自分の父親の名,祖父の名と父系の祖先の名をたどり,結婚後もそのまま使っている。
新生児が誕生すると,7日目に一族が集まってスブウという祝事を行うが,名前はその日までにつけられ,出生届が出される。
どのような傾向が彼らの名前にみられるかというと,なんといっても宗教色の強いものが多い。アブド(崇める者,下僕)をアッラー(神)またはアッラーの99の形容辞のどれかと結びつけた名(例,アブド・アッラー)が多い。また預言者ムハンマド本人の名,およびその一族の名(例,最初の妻のハディージャ,娘婿で第4代カリフのアリー)にちなんだものがある。歴史上の英雄豪傑の名を取ったものも多く,例えばイスラムの剣といわれたハーリド・ブン・アルワリードにあやかったハーリドなどがある。
出身地を表している名には,タンターウィー(ナイル・デルタのタンター)などがあり,各地にまつられている聖者の名と結びつくものもある。職名が人名となっているもの(例,アッタール--薬種商,ハンマーミー--風呂屋)も少なくない。
アラブ人は実名のほかにシュフラshuhra(通り名),ラカブlaqab(尊称),クンヤkunya(添え名),ニスバnisba(由来名),ダルーdal`(愛称)などをよく使う。人名録などをみると実名とシュフラが併記されているが,ほかの同名の人間がいる場合はシュフラによって区別する。ラカブはニックネームまたは尊称の意で,家名としても使われ,そのままシュフラになることもある。クンヤは,アブー・ユースフ(ユースフの父親の意)のように長男の名を用いた名で,アブーという語がつくのが特徴である。ニスバはその人名の由来を示すもので,地名とか職業等と結びついたものである。ダルーは幼時の愛称で,ムハンマドをハマーダというたぐいのものである。アラブの名前にはイスラム教徒とコプト教徒とがはっきり判別されるものがある一方,意図的に判別しがたい名も使われ,また邪視に対する配慮から,男女の性別が判別しがたい名をつけることもあり,名前の背後にあるアラブ社会における宗教的対立など容易ならぬ事情を想起させるものがある。
イスラムの伝播とともに,アラブの人名は,イラン,トルコからインド,東南アジア,アフリカといったイスラム化した諸地域にも広くみられるようになった。これは,イスラムへの改宗に際してその証としてイスラム教徒としての名前を受けるためで,アラブの間で好まれたムハンマドやアリーといった名前がここでも多くみられる。ただ,言語によって若干の変化はみられ,ムハンマドは,現代トルコ語ではメフメトMehmet,現代ペルシア語ではモハンマドMoḥammadと記され,アブド・アッラー(アブド・アッラーフ)`Abd Allāhは,トルコやインドでは,しばしばアブドゥッラーAbdullāhと短縮される。
執筆者:奴田原 睦明
現在,西洋の人名は基本的にはクリスチャン・ネーム(洗礼名。ファースト・ネームともいう)とファミリー・ネームから成り立っている。古くインド・ヨーロッパ語では,デーバ(デーバ神)とダッタ(与えられた者)から〈デーバダッタ〉と名づけるように,人名は2要素から合成された。ギリシアの人名もミトラダテス(ミトラに与えられた者),テオドロス(神の賜物),イシドロス(イシス神の賜物)のように同じ型である。
ローマ人の命名法がこれとかなり異なるのはエトルリア人の影響とされる。ローマ時代には20ほどの個人名(プラエノメンpraenomen)と族名(ノメン・ゲンティイnomen gentii)の組合せに元来はあだ名であるコグノメンcognomenを加えた。キケロMarcus Tullius Ciceroではマルクスが個人名,トゥリウスが族名,キケロがコグノメンである。キケロとは豆の意味であばた面のあだ名が姓となったと考えられる。個人的あだ名,おくり名(アグノメンagnomen)はこの後に添えられる。スキピオPublius Cornelius Scipioはハンニバルとアフリカで戦ったことからアフリカヌスというアグノメンがつけられ,小アジアに遠征した弟ルキウスLucius Cornelius Scipioにはアシアティクスというアグノメンが贈られた。しかし戸籍上ではプラエノメンと族名の後に父の名を示すのでスキピオ・アフリカヌスもPublius Cornelius,filius Publiiとなってスキピオもアフリカヌスも消えてしまう。このローマ方式は3世紀末からのキリスト教の普及で崩れていく。特に5世紀末のフランク族の改宗からクリスチャン・ネームのみとなり族名もコグノメンもなくなった。洗礼名は何でもよかったが,異教的名は避けられ,Renatus(生まれ変わった),Gregorius(見張る人),Benedictus(祝福された)などの名がみえる。異教の神の名で残ったものにはIsidorus,Martinus(軍神マルスの)があるが,それぞれ4,5世紀の聖人の名として伝わったのである。
ゲルマン系の名も2要素から成っており,Hrodobertho(>Robert,輝く栄光),Bernhardo(>Bernard,強い熊),Gerhardo(>Gerard,強き剣),Frideriko(>Frederic,豊かな平和)のごとくであったが,8世紀から9世紀にかけて聖人にあやかるクリスチャン・ネームがふえていった。新教徒は聖人崇拝をせず,したがって聖書か,聖書と関係の深い,初代教父の名を選んだ。10世紀には同じクリスチャン・ネームを区別するための姓(ファミリー・ネーム)に当たるものがつけられるようになる。〈誰々の息〉(北欧のsen,英語のson,Mac,Fitz(<フランス語のFils)という言い方(Andersen,Thompson,Mendelssohn,McArthur,Fitzgerard,Tennysonなど))や出身地(Chrétien de Troyes,John of Salisburyなど),あだ名が姓となっていった。職業名も16世紀には姓になった。ティントレット(染物屋),マサッチョ(大きなトマス<Tomasaccio),チョーサー(長靴を履かせる者),ベーコン(<古フランス語のbacon,豚)などである。貴族は所領地の名で呼ばれ,vonとかdeの後に所領地名をつけたものが姓に当たるが,これは当然のことながら所領地が変われば姓も変わるという具合になる。このようにヨーロッパでは16世紀以後姓名が定まっていったが,ユダヤ人には姓が禁じられていた。ドイツでは領主が姓を彼らに売ったが区別を容易にするため植物名と金属名とに限った。ローゼンタール(バラの谷),アインシュタイン(石ころ)などである。フランスでユダヤ人に姓を認めたのはナポレオンで1808年のことであった。スペインでは個人のクリスチャン・ネームに父方の姓をつけたあと母方の姓もつける。二つの姓の間の&に当たるyは省略されることが多い。ホセ・オルテガ・イ・ガセットJosé Ortega y Gasset,パブロ・ルイス・イ・ピカソPablo Ruiz y Picassoでは最後に来るのは母方の姓である。スペイン女性は結婚するとクリスチャン・ネームのあとに父方の姓をつけてからdeを置いて夫の姓をつける。
カナダや日本では個人名は自由につけられるが,フランスでは自由・平等・博愛をモットーとしたフランス革命期に自由化したところ〈貴族撲滅(モールトーザリストクラト)〉〈ビリヤード〉など予期せぬ名が現れたため,1797年に暦にある聖人と古代史の人物名に限った。現在も個人名に使える名のリストが役所に備えられているが,これになくともアンリエット,ジュリエットのように慣習的に認められている人名もある。
執筆者:松原 秀一
スラブ諸国のうち,ポーランド,チェコスロバキアなどカトリックを国教としてきた国の人名の構成は西ヨーロッパの場合と特に顕著な違いがないので,ここでは東方正教文化圏に属する国々のうち,人名に特徴のあるロシアを中心に述べる。ロシア人の人名は三つの部分,すなわち名imya,父称otchestvo,姓familiyaから成る。
名は,異教時代には東スラブ語起源のものと,ワリャーギの進出の影響でスカンジナビア起源のものがあった。前者は-slav,-mir,-volodなどに終わるものが多く,後者はOleg,Gleb,Igor'など対応のゲルマン語形(それぞれHelgi,Guđleifr,Ingvar)を有するものである。10世紀末のキリスト教受容によって,教会暦に現れる聖者の名がクリスチャン・ネームとしてギリシア語および教会スラブ語の形で用いられはじめた。しかし世俗名と称すべきものもクリスチャン・ネームとならんで用いられた。クリスチャン・ネームはその聖人の祝日と結びつく聖名祝日の習慣をもたらした。女性の名は父称の形成に用いられないから,普通名詞などからも比較的自由に作られる。その場合の聖名祝日は本人が選ぶことになっている。なお名は多数の愛称形を派生させ,日常生活では名の愛称形がよく用いられる。またゲルマン諸語とは異なり,名がそのままの形で姓に転用されることはない。
父称はインド・ヨーロッパ語族にみられるパトロニミックスpatronymicsの一形態であるが,これは父親の名から〈……の息子/娘〉の意味を形づくるものである。ロシア語の父称は,父親の名に所有形容詞の接辞-ov/-evを付加し,さらに接辞-ichを付して作られる(男子の場合)。父称は16世紀のモスクワ大公国で上層階級の特権として用いられはじめ,17世紀末には一般に社会的地位のある人間に対するていねいな呼びかけとなった。現在では名と父称の組合せ(例,Ivan Ivanovich,Tat'yana Nikolaevna)が呼びかけとして用いられる。
ロシア人の姓の多くは名から作られる。すなわち名に所有形容詞の接辞-ov/-ev,-inを付したもので,起源からは父称と同じである。また女性の姓は,上記の接辞にさらに語尾-aを付したもので,複数形もまた別の語尾をとる。姓は16世紀中ごろから貴族の一部で使用されはじめた。それは父称だけでは父親との関係しか明示しえず,家系を誇るのに不都合があったからである。したがって姓は祖父の名から作られるのが一般であった。姓は17世紀には有力な商人も用いるようになったが,農民が姓をもつのは1861年の農奴解放ののちである。貴族のなかには所領の地名から姓を作る場合もあり,その際,-skiiに終わる形容詞形が姓となった。このようにロシア人の姓は文法上の変化を行うのが原則だが,おもにドイツ語から入ったユダヤ系の姓は,男性の姓の場合のみ格変化を行い,-ko,-enkoに終わるウクライナ系の姓は現在では原則として不変化である。アルメニア,グルジア,トルコ系の姓は,ロシア語の語尾を付してロシア語化することが多い。だが,ロシアが多民族国家であるため,ロシア語の姓はきわめて変化に富んでいる。
なお,フィン・ウゴル語族に属するハンガリー人は,東アジアの国々と同じく姓,名の順で名を名のる。例えばカーダール・ヤーノシュKádár Jánosの場合カーダールが姓,ヤーノシュが名である。ハンガリー人の名は洗礼名に限られるので,数が少ない。姓は,名に接尾辞-iを付して作られることもある。
執筆者:森安 達也
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…瀬戸内海の海上交通の要地に位置する塩飽諸島や小豆島などは幕初から天領であったが,生駒氏改易後は新たに満濃池の普請費用を確保するため那珂郡の3ヵ村(2290石余)が天領となった(これを池御領(いけごりよう)という)。塩飽では豊臣秀吉より島の構成員たる人名(にんみよう)に島の石高(1250石)が与えられ,以来人名の中の有力者である年寄の合議によって島の政治が行われ,1797年(寛政9)には年寄が政務を執る勤番所(きんばんしよ)が建てられた(現在,復元・保存されている)。西廻海運の発達によって中世に水軍として活躍した塩飽では廻船業が発展し,幕府の城米輸送船として大いに栄えたが,近世後期には衰えた。…
…秀次の朱印状をうけ,関ヶ原の戦後の1600年(慶長5)9月には徳川家康より,30年(寛永7)8月には秀忠から同様の朱印状をうけ,幕府の御用船方として領地を安堵された。この650人を大名・小名に対して人名(にんみよう)とよぶ。 人名は各種の幕府の船役・水主役をつとめる代りに1250石の土地の領知権と周辺海域の漁業権などを認められていた。…
…江戸時代,讃岐塩飽(しわく)諸島(丸亀市)にみられた人名の制度。人名とは1590年(天正18),豊臣秀吉から検地高1250石の領知を認められた塩飽島中船方650人のことで,その数は本島の泊,笠島浦をはじめ塩飽諸島の20の浦々に90から7の範囲で配分されていた。…
※「人名」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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